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第3話

 どうも嫌な事は一気に押し寄せる傾向にあるらしい。  朝から上の階の住人の容赦ない足音で起こされ、その上回線工事の見積もりに出かけた先では、大手電器メーカーの広告を出されおたくちょっと高くないかと絡まれた。  勤続十年と言えど、工務店の作業価格を決めているのは社長であり上司である里倉だ。他の店の方が安いと言われても、ではそちらに頼んだらいかがでしょうとしか言えない。  きちんと作業工程を確認し、ぎりぎりまで詰めた値段は、これ以上下げられない。  確かに量販店などに比べれば、個人経営の店は相場が違うのかもしれない。それでも『電話一本ですぐかけつけます』という開店からの信条を胸に、毎日走りまわっている里倉電器工務店の評判は悪くはない筈だった。  とりあえずこれ以上安くはできないと思うが、検討して再度連絡する、という旨を嫌味にならない程度の笑顔で伝え、やっと遅い昼食を取ろうとしたところで携帯が鳴った。  電話の主は、夕方から飲み会だとはしゃいでいた雇い主だった。今村さんのところのアパートで水道がイカれたから今から走れと言う。水道はウチの管轄ではない、などという言い分は、この辺の住人には効かない。  給湯器を直しに行った筈なのに、ついでにトイレの水づまりの相談をされたりする。年配の人間が多いこの界隈では、何かしらを直しにきてくれる人間は、とにかく万能だと思われていた。  今村さんのところというのは、おそらくスワンハイツのどこかの部屋の事だろう。  外観からひどく年季の入ったアパートで、しょっちゅうコンロがガスが電燈がとお呼びがかかる物件だった。  比較的おせっかいな部類に入る今村夫人は、町内会の催しでも中心に居る場合が多く、桜介も個人的にお世話になる場合が多い。まあ、もし自分がどうにもできない場合は、専門業者に投げてしまおう。今日はこれを最後の仕事にしていいと里倉には言われていたから、気は楽な方だった。  スワンハイツの二階の端の部屋の前で今村夫人と佇む、見覚えのある男を見るまでは。  嫌な事は一気に押し寄せる。それはこの男に会った時もそうだったことを思い出していた。 「あれ、やだお知り合いだった?」  ぎこちなく固まってしまったお互いを見てどう思ったのか、何も知らない今村が明るく声をかけてくる。先に我に返ったのは向かいの男、有賀の方で、桜介が気持ちを整理している間に当たり障りない笑顔を浮かべた。 「ええ、ちょっとした顔見知りで……あまり親しくはないんですが、見覚えがあるので驚きました。この辺の方だったんですね」  わざと親しげにかけてくる声は固く、上ずって聞こえて耳に痒い。 「ああ、うん、そうなんですこの辺の方なんです、ええと、今村さん、後は俺やっとくんで帰っちゃって大丈夫っすよ。寒いでしょ? 終わったら声かけるんで」 「あらそう? 大丈夫? でもお友達なら私なんか邪魔よねぇ。じゃあ、あとはよろしくねサクラちゃん。請求とか、電話でもいいから。有賀さんも何かあったら、遠慮せずにどんどん言ってね」  それでも暫くは名残惜しそうに、様々な事柄を言い付けながら、今村はスワンハイツの裏にある自宅へと戻っていった。  冷や汗で背中が冷たい。どうにか最近は平穏を取り戻した胃も、しくしくと痛みだす。  それでも仕事を放り出すわけにはいかない。意を決して有賀の方を見やると、何故か彼はうずくまる様にぐったりとしていた。 「ちょ、どうしたんすか……!」 「いや、もう、ほんと、御夫人、話が長くてね……ちょっとね、泣きそうだった。眠いし。仕事明けだって五回くらいさりげなくアピールしたんだけど。すごいねぇ、なんかもう、聞いてないんだよねぇ」 「お、おう」  なよなよと肩を落とす有賀を上から眺め、桜介は困惑する。  有賀にとっては桜介の存在よりも、今し方帰っていった大家のインパクトの方が強かったらしい。  ベッドの中の姿と、朝の気だるげで気障な姿しか覚えていない桜介は、目の前でオバサンに打ちのめされているイケメンが本当に自分の知っている男かどうか、自信が無くなってくる程だ。  とりあえず、慰めるように声をかけるしかない。 「ご愁傷さま……今村さん、ほら、メンズ好きだから」 「あー。びしばし伝わって来たね。そうだろうね。とても気に入られた予感がするし大変怖い。あ、ごめんどうぞ中入ってください。昨日来たばかりで何もないから、汚くはないと思うよ。水溜まり以外はね」 「……入居二日目で水道管破裂?」 「ねぇ、本当に。別に怒っちゃいないけどさ、管理不届き悪いと思ってるなら、住人をいたわってほしいよ。本当に五回は言ったんだよ。眠いって。休みが無いって。そしたらね、お仕事忙しそうでかっこいいって、もー、別に自慢じゃないからって思って、ほんと、……助かった。キミが来てくれなきゃ泣いてたかもしれない」 「どんだけ打ちのめされてんすか」 「ああいう下町タイプって、僕の周りにあんまりいないんだよ。悪気がないから最高に面倒くさいったらない」  寒い寒いとうわごとのように呟きながら、玄関を締めた有賀は両腕を摩る。一応雑巾はかけたらしい床はまだ湿っていて、長時間外で話しこんでいた有賀には優しくない室温だった。  クーラーすらついていない木造アパートには、小さなハロゲンストーブがちょこんと鎮座している。  電源を捻るとオレンジの暖かい光がともる。  更にニットのカーディガンを羽織った有賀を待つでもなく、桜介はキッチンの水道管の見分を始めた。  顔を見た時は、自分の不運っぷりに桜介の方が泣きそうだったというのに、有賀が近所のオバサン相手に怖い泣くと愚痴ばかり言うものだから、なんとなくどん底気分はどこかに飛んで行ったような気がした。  確かに今村は、大家として見れば強烈かもしれない。時々会って挨拶をするくらいなら気の良いオバサン程度だが、ほぼ初対面でこれだけ振りまわされれば、現代的な若者は辛いだろう。  それでも本人に対して最後まで笑顔を見せていた有賀は、案外きちんとした社会人なのかもしれない。  なんとなく、自由業のようなイメージを抱いていた。  顔のいい男はちやほやされるせいで考え方が甘い、というのが、桜介が付きあって来た男たちの傾向で、これは偏見に大いに影響している。下町めいた電器工務店でちまちまと働いてきた桜介には、彼らの遊興の考え方はわからない。  そう言えば有賀も、先日はオートロックのマンションに居た筈だ。  越してきたという話だし、あのマンションは引き払ったのだろうか。関係ない事と思いつつも、いかにもお洒落な企業男子然としている有賀と、オンボロアパートとのギャップが目について仕方が無い。 「……直る? ていうか、そもそもキミ、電器工務店の人じゃなかった?」  ひょいと後ろから覗かれて、思わず過剰に反応してしまう。びくりと肩を揺らした桜介をどう思ったのかはわからないが、有賀は退く気配もなく、かなりの至近距離で質問の答えを待っている。  近いっての馬鹿かホモか。ホモじゃないくせに。  そう思いながらも、何食わぬ声を心がけた。 「電器工務店ですけど。まあ、この辺の人達って『とりあえず家具直してくれる人』っていうのでひとくくりにしてくるから、多少はなんでもできるようになったっつーか。このタイプなら交換部品詰んであった気がするんで、即直せるし。ちゃんとした水道工事系の業者とは値段とか変わっちゃうかもなんですけど、うちがやっちゃっていいんです?」 「あーいいよいいよ。だって今からお水のトラブル業者さん呼ぶのって、今村さんにもキミにも悪いし、手間だし、僕は眠いし、だからもうなんでもいい。やっちゃってください」 「はぁ、じゃあ、まあ、やっちゃいますけど。あの」 「うん?」 「……近くないっすかね」 「近いねぇ。多分いまキミが振りかえったら、うっかりちゅーできちゃうくらいは近いかな」  いけしゃあしゃあと言い放つ有賀の声に、眩暈を起こしそうになる。  いくら酒を飲んで過ちを犯した反省はあるとはいえ、有賀自体に嫌悪感があるわけではない。見た目だけなら完璧に好みの男だ。  だからこそ警戒心が沸くのだが、理性とは裏腹に、本能が鼓動を早め始める。 「部品を取りに行きたいんですけども、退いてもらっていいですかね」 「うーん。それはちょっと勿体ないかなって思ってさ」 「ちょっと何言ってるかわかんないっすね」 「だって一回離れたらまた警戒しちゃうでしょ、サクラちゃん。あ、サクラちゃんって呼んでもいいかな? あだ名? 名字?」 「……あだ名。三浦桜介。桜に介でオウスケだからサクラちゃん」 「へぇ。かっこいい名前だ。あだ名もかわいい。ねえサクラちゃん」 「なんすかね」 「この前の事は僕も一切忘れたことにします。何も覚えていません。だから今出会ったってことにして、仕切り直してさ。僕とお友達になりませんか」 「…………」 「イヤ? 駄目?」  肩の後ろで、覗きこんだ男が小首を傾げる気配がする。  端正な甘い顔の割に、表情が動かない男だ。その柔らかい無表情のまま、こくんと首を傾げた様を想像して、正面から見て居なくてよかったと思った。多分、一瞬で落とされる。 「さーくーらーちゃん」 「いや、と、いう……わけではないけれど。何で俺なんすか。……ゲイが珍しい?」 「そういうわけじゃないよ。知り合いに居ない事もないし。僕自身もはっきりとヘテロですとは言い難いと思うし。そういうのは関係なくてね、そうだね、うーん……サクラちゃんの骨っぽい手と声の抑揚が好きだなーと思ってね」  手が好き、というのは友達になる理由なのだろうか。どちらかと言えば恋の理由に近いような気がして、また桜介を動揺させる。 「あのね、純情な三十路男を手玉に取らないでもらえますかね。最近そういうの言われてないから耳が痒い」 「痒いの好きなくせに」 「……忘れるって言った」 「はいはいごめんごめん。今の無しね。だって興味があるんだよ。最近まともな人間との出会いってなくてねー……言葉と意思が思う様に通じて、言葉のレスポンスが早い人って、なかなか貴重かなーと思いまして」 「あー。まあ、それは、わからないでもない、っすけど。でも保留」 「えー。なんで。いいじゃないお友達」 「アンタすぐ手出して来そうだから」 「失敬な。こんなにジェントルなのに」 「ジェントルはパーソナルスペースを大事にする筈です。ほら退いて。直してやんねーぞ水道管」 「それは困る。せっかく見つけたアパートを、入居二日目で手放したくない」  芝居じみた声を残して、有賀の気配が去っていく。  自然と緊張していた力が抜け、わかりやすく息を吐くと、失礼だねという声が降って来た。  いきなり背後に詰めよって来たお前は失礼じゃないのかと言い返したいが、仕事が進まないので飲み込んだ。  いくらでも言葉のラリーが続く相手は、確かに久しぶりだ。相性がいいか悪いかといえば、確実に良い方だろう。ただ、どうしてもいきなり信用して笑い合える関係にもっていけるかと言えば、それは難しいだろうと思った。  有賀と会った日の夜に聞いた、女の声が耳から離れずふとした瞬間によみがえる。 『ゲイだというのは本当ですか』  カミングアウトしていない桜介の情報を、どこで知ったのか。彼女の夫である友人も、桜介の趣向は知らない筈だ。  彼が結婚してからの三年、家族ぐるみの付き合いがあった事も無く、時々飲み会で顔を合わせるくらいのものだった。調べようと思えば出てくる情報かもしれないが、そもそも大して近所に住んでいるわけでもない自分の性的指向など、なぜ彼女が知ろうと思ったのかわからない。  誰かに、耳打ちされたのか。  その可能性を考える度に、過去付きあった男たちの顔が浮かび、桜介の胃をきりきりと痛ませた。  別に、酷い暴力を受けたとか、精神的屈辱を受けたとか、そんなことはない。  ただ、皆ことごとく、桜介には合わなかった。楽しかった時もあるにはあるが、最終的には疲れたという思いしか残らなかった。  恋がしたいとは思う。  でも今このタイミングでなくてもいい。というか、今は控えたい。  だから有賀には警戒しながら接したい、と心に誓う。  たぶん、良い人だ。思っていたより礼儀をわきまえているし、ユーモアもあるらしい。オバサン相手に打ちのめされる駄目なところも、かわいいと思えなくもない。言葉の選び方は独特だが奇麗だし、頭がいいのだろうなということもわかる。  ころりと恋に落ちてもおかしくない相手だからこそ、今はしっかり見極めたい。  そんな桜介の誓いを知らない当の有賀は、眠そうなあくびの後にそう言えば、とぼんやりとした言葉を続けた。 「シューマイ作ろうと思って材料買ってあるんだけど、専門外の水道修理お礼に、食べていく?」 「え、いや、い……」  いらない、と言いかけた途端、昼食を取り逃していたことを思い出した。  シューマイが別段好物なわけではない。ただ、この男の手料理というものにわいた興味と食欲が、先の否定を打ち消した。 「……いただきます」 「うん。じゃあ作りましょう」 「胃袋から懐柔してく作戦か」 「あー、ね? そうだね、それもいいかな。サクラちゃん何が好き?」 「とんこつラーメンと焼きとり」 「……それは多分食べに行った方がおいしい奴だ」  少し悔しそうに眉を寄せる顔も返答も悪くはなくて、思わず笑いが零れてしまった。  まあ、時々喋る分には、害はないだろう。  シューマイに、懐柔されたわけではないのだけれども。名刺くらいは置いて帰ってやるかと思う程には手懐けられていることを、桜介は自覚していなかった。

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