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第4話
「いやだ、気持ち悪い。鼻歌なんか歌ってどうしたんです。春でも来なさった?」
見慣れた店の、座り慣れたいつもの席で、何も言わずとも出てきた薄く濁ったギムレットを舐めて初めて、有賀は自分から歌が零れていた事に気がついた。
それでも知らん顔でもう一口、甘酸っぱく濃厚な酒を含んでから笑う。微々たる表情の変化だが、彼をよく知る人間からしてみれば気味の悪くなるような頬笑みだ。
バー『鳥翅』は、小さな繁華街の端にひっそりと構える。同性指向の人間が集まる場所として一部では需要があるが、ただなんとなくそのような傾向がある人間が利用することが多いというだけで、本格的な出会いの場というわけでもない。
カウンター内に立つ男の中世的な物腰や、彼の友人たちがよく集まる所為でそういう指向の人間が増えただけだろう。
件の人は、マスターと呼ばれる事を嫌うため、常連達は皆彼の事を『アゲハ』と通称で呼ぶ。
流行っているのか廃れているのか、いまいち判断に苦しむ客足しかないが、有賀はこの店が気に入っていた。
「まあ、春はもうすぐそこだけどねぇ。桜ももうすぐ咲くみたいなニュース、どのチャンネルでもやってるし」
「そういうこと言ってるんじゃありませんよ。アルが上機嫌だなんて仕事の納品明けくらいじゃないですか。納期明けたって鼻歌なんか聞いたこと無い。現金でも降って来たんです?」
「酷い言い草だねまったく、何なの。アゲハの中で僕は一体どんな守銭奴なの」
「他に興味がありそうなものなんてありましたかね。ああ、お酒と煙草は中毒でしょうけど」
有賀が煙草ケースを出したタイミングで、目の前に灰皿が出される。この気持ち悪いくらいの気遣いと歯に衣着せぬ物言いがが恋しくなると、有賀の足は鳥翅に向いた。
いつからやっているのかあまり詳しくは知らない。数年前にふらりと立ち寄ったこの店をすっかり気に入った有賀は、勝手に通い詰めて、勝手に常連の筆頭となった。
今では週に一回はカウンターの奥に陣取り、アゲハに時々構われながら酒を飲んで帰る。
店内はごく普通の落ち着いたバーといった具合なのに、アゲハは常にサテンの美しい中華デザインの服を着こんでいた。
長く伸ばした髪は肩口でひと括りにされ、左の胸に垂らされている。本人が大陸の出身なのかどうか訊いた事はないしあまり興味もない。どうにも後ろめたい組織の人間のお気に入りだという話もあるが、それも確認したことはない。
有賀の中でのアゲハは、いつも穏やかな笑顔でずかずかと言葉の暴力をふるう、素敵な友人だ。一般的な男とはかけ離れた身形も、奇麗な男は長髪でも許せるというくらいの認識しかない。
虫も殺さぬ頬笑みを湛えながら、アゲハはばっさりとした物言いをする。
それも、有賀が気に入っているところだ。そうでなければ自分の名前を愛称で呼ばせたりはしない。アゲハが呼びかける『アル』という発音も心地よい。
サクラよりもきちんと高い声だ。ラ行の発音が、アゲハは特にきもちいい。
サクラの声は滑らかな音よりも、濁音の方が響く。『アリガサン』と呼びかける声が好きで、わざと返事をしないでいたらすぐにバレてしまったけれど。呆れたようにため息をつく様も面白かったので問題はない。
「いい加減気持ち悪いので、種明かしして欲しいのですけれど。本当に春?」
「春じゃないけど。トモダチ候補ができてね」
笑顔が深まる有賀とは逆に、思わずといった風に真顔になったアゲハは、かなりの時間沈黙した後に恐る恐る口を開いた。
「…………笑うところでしょうかね、今の」
「大真面目だよ。一か月前くらいに、アゲハも見たでしょ。べろべろに酔っぱらってちょっと可哀想な笑顔で慰めてっておねだりしてきた人。珍しく僕がお持ち帰りした人」
「ああ……そうだ、いましたね、いました。あのあと特に音沙汰もなかったですし、アルも何も言わないので、一晩で終わったものと思っていたのですけれど。え、なんですか彼、仲良くなっちゃったんですか?」
「なってない。ものすごく警戒されてる。一昨日もね、危うくひざ蹴りを頂戴するところだった。まだ会って三回……いや最初はカウントしない約束だから、二回目なのにね? 久しぶりに結構一生懸命避けたね、ちょっと変な筋肉痛い」
「全然友達じゃないじゃないですか」
「うん。だから候補って言ったじゃないの」
「……詳しくは知りませんが、仲良くなれる要素が全く見えてこないのがいっそ恐ろしいです。貴方、どMでした?」
「うーん、別に痛くしたいと思わないから性的趣向はノーマルだと思ってるよ。それは置いといて、サクラちゃんの話していい?」
他に喋る人がいないんだよね、と前置きした有賀は、引っ越し二日目で水道管が破裂し水浸しになるも、その時修理に来てくれた電器工務店の青年が件のサクラだった話を掻い摘んで説明し、その上でいかにサクラがツボにハマったかを丁寧に、アゲハがうんざりする程の饒舌さで説明した。
時折挟まれるアゲハの呆れたような溜息も視線も、すべて奇麗にスルーした。なんだかんだ言っても、アゲハが有賀に甘い事は、どちらも了解していた。
「成程。ご本人の記憶があまりないので、声だの手だの口の大きさだの想像するしかありませんが、貴方が他人に興味をもつと大変迷惑な人間だということは把握しました」
「一途で素敵じゃない?」
「どの口がと返しておきましょう。そこまで惚気ておいて恋ではないと?」
「うーん、そうだね。今のところわからないな。セックスしてくださいって言われたら、喜んでお供するけど、それは無いだろうしね。なにはともあれ、結構本気で仲良くなりたいと思ってるよ」
「何がアルをそこまで惹きつけるんでしょうねー。個人的にご本人にお会いしたいくらいです。……ああ、引っ越しと言えば、その後今のお家はご無事なんです?」
「…………あー」
ぼかした言い方が何を示しているか察して、有賀の口が急に重くなった。
正直、アゲハに言われるまで半分くらい忘れていた。そもそもサクラに再会できたのはスワンハイツに引っ越したからだが、何故引っ越しをせざるを得なかったか、その原因を忘れてはいけない。
勿論普段は必ず頭の隅に置いている。それでもたまに飲みに来た時と、サクラの事を話している時くらいは忘れていたかった。
二杯目のギムレットに口を付けながら、露骨に無表情に戻る有賀に対して、アゲハが笑う。
「これでも中々に心配しているんですよ。そうでなければ、貸し物件サイトに載っていない信頼できるアパートを紹介したりなんかしませんよ。ちょっと、思った以上にオンボロだったみたいで、それは申し訳ないですけれど」
「いや、それはもう、いいんだけどね。サクラちゃんに会えたのも、ひとえにアパートがボロかったおかげだしね? 感謝してる。本当に。まあ、リアルな話、結構危ない話だと思うわけだし」
「自覚があるのは良い事ですよ。嫌ですからね、私、友人がストーカーに刺されて入院、とか……嫌な話でしょうけれど、早く決着付けないことにはいつまでも逃げ回ることになりますよ」
「やだね、正論。まったくその通りで何の反論もできないんだけどね、うん。どうにかそっと諦めてくれないもんかな」
ぼそりと呟いた有賀の願いを、アゲハはきっぱりと切り捨てる。
「無理でしょう。自宅侵入常習犯のストーカーなんてガチな奴ですよ。貴方が刺されるか向こうが逮捕されるかの二択だと言っているでしょう」
「……面倒くさい」
「まあ、言うに事欠いて」
実際、有賀はアゲハに感謝していた。
有賀は見た目も悪くなく、それなりの知名度と財産を持っている。選民意識持ちのエリート社長や貴族とまではいかないが、一部では憧れの的となることもあった。
尚且つ、あまり他人に優しくない性格だという自覚があった。わざわざ荒波を立てる発言をする程馬鹿ではないが、如何せん表情が動かない。すましてお高くとまっているいけすかない奴だ、と影で噂されることも知っている。強烈に好かれることも、強烈に恨まれ嫌われることも、思えば少なくない。
その中には思いあまって行きすぎた行動を取る者も、少なからずいた。
大概は行きすぎたファン行為か、嫌がらせ止まりで発覚する。その都度、本人とはっきり縁を切るか、こじれた場合は弁護士に相談した。その話合いは面倒で、壮絶で、大変気分が悪い言い分ばかりで、暫くは煙草と空気を吸う以外は何もしたくなくなる場合もあった。
対人関係に疲れ果てて、もうどうにでもなれ、と思っていた時期と、今回のストーカー被害の時期が重なってしまった。
対策を取るのも面倒で、更に大きなメディアに取り上げられる仕事が入っていた為、暫く放置してしまったのが原因かもしれない。
最初は好意だったと思われる、送り主がわからない贈り物が異常に増えた。
それは捨てるだけで良かったが、そのうち贈られてくるものに体液がつくようになる。この辺りから、流石に警察に届けた方がいいのかと思ってはいたが、先日、ついにマンションに不法侵入された。
その日の部屋の壮絶な状態を思い出しただけで、吐き気がする。
今まさに行為が行われていたと言わんばかりの荒れたベッドの上は、生々しい精液が飛び散り、流石の有賀もその足で洗面所に駆けこんだ。
帰宅する間際に飲んだ珈琲が喉を逆流し、最高に気持ち悪かった。
その数日前にサクラと一夜を共にし、男の体液も女性とあまり変わらないなと思っていたが、それは大きな間違いらしい。
よくよく考えれば、好意がない女性の体液も、あまり歓迎されるものではない。バレンタインの手作りチョコに唾液が入っていたという類の噂話も、気持ち悪い事をするものだと思いながら聞き流していたことを思いだす。
男だろうが女だろうが、許せるものは許せるし、生理的に受けつけないものは受け付けない。
吐いたその足でマンションを後にした有賀は、名前も有名だがその分値段も張るホテルの、出来るだけ高い部屋を取った。値段の分だけセキュリティは確実だと安心できた。
部屋の片づけを自分でするつもりはなかった。どう思われようと構わないと思い、クリーニングサービスを入れた。翌々日顔を出した自室はすっかり消毒されたようにキレイだったが、勿論そこで寝る気はおきない。
ホテル暮らしを続けているわけにもいかない。事務所持ちとはいえ、そこまで裕福でもない。
これはもう引っ越すしかないだろうかとアゲハに相談したところ、とりあえずのアパートを紹介してもらった、という経緯だ。
セキュリティなどという言葉とは無縁に思えるスワンハイツだが、これが入居してみると案外馬鹿にしたものではなかった。
ビル街やマンション街とは違い、人通りの多い住宅地の目立つ場所にあり、商店街も近い為常に誰かの目に止まる。壁は薄く、隣のテレビの音も聞こえる程だ。流石に、と思い事情を話した隣人のサラリーマンには、何かあったら叫んでください、すぐにかけつけますと言われた。防音完備の現代マンションでは考えられない、下町らしい防犯意識が定着している。
新しいマンションを探すまでの借り住まいのつもりが、案外このままここにいても構わないのではないか、とすら思える程、有賀はあの1Kアパートを気に入っていた。ただ自宅作業をするために運び入れたパソコン類が、夏場に火を噴きそうで怖い。
何にしても、このままストーカー男が有賀を諦めてくれて、尚且つスワンハイツにクーラーでもつけてしまえば平和に過ごせるのではないか。
更に言うならばサクラともう少し仲良くなりたいが、邪険にされながら言葉の応酬を楽しむのも悪くはないので、それは保留にしておいてもいい。
「まあ、私の方でも心当たりを調べて頂いてますし、少しアルの身の回りも見て頂いてますけど。いまいちヒットしないんですよねぇ、犯人。男性だってことは、間違いない筈なんですけれど」
「そうだねぇ、大変頭が狂ってる男性だろうねぇ。女性だったらもう理解できない範疇でいっちゃってる人になるけど、まあ、男性かな。猛烈に愛されてて泣きたくなるよ」
「犯人に心当たりがありすぎるっていうのも、どうかと思いますけど」
「本当だよね、まったく、ちょっと前の僕に言ってやりたいねぇ。笑顔で流しとけば大概うまくいくんだから、とりあえず笑う練習しとけば良かったのに、ね?」
「笑顔ふりまき過ぎるのもどうかと思いますけどね。その笑顔に寄ってくるおバカさんが犯人だっていう線も濃厚ですからね」
「まったく僕にどうしろって言うの」
「さあね。結婚でもしたらいかが?」
話を適当に切り上げて、新しく入って来た客にオペラを作るアゲハを眺めながら、ぼんやりと思いを巡らした。
(結婚ねぇ)
特に興味がない話題だな、と思う。
二十八にもなれば、周りが騒ぎだすが、比較的淡泊でストイックな雰囲気が幸いしてか、見合いを勧められたりしたことはない。それでも同世代は続々と籍を入れて行く歳ではある。
そういえばサクラも三十路だと言っていたが、もっと若いかと思っていたので実は驚いた。言われてみれば有賀が好きなサクラの大きな手は、骨と血管が浮き、それなりの年齢を表しているかもしれない。
サクラは、結婚はしないだろう。
性的指向を隠すのがうまかったから、たとえパートナーを見つけてもカミングアウトして籍を入れたりするタイプではない筈だ。それでもきっとサクラと一緒に居られる人間は幸せだと思う。
なんだかんだいっても、呼べば来て、電化製品を直してくれる。
名前を呼ぶとちょっと嫌そうな顔をして、なれなれしくすんなと怒る。それがかわいいと思って手を出すと叩き落される。痛いと笑うと気持ち悪いと更に追撃される。それもいい。会話がとても気持ちいい。
結局、サクラの話になってしまう。ストーカー問題を軽視しているわけではないけれど、今は春らしくうきうきしていたいのだ。
そう思って、甘い酒を舐めた勘定を済ませ、夜風に当たりながら帰路についた。
アパートから、鳥翅は近くもないが電車を使う距離でもない。早めに切り上げた為、まだ寝鎮まるような時間でもない。
人通りの多い道を選んで歩き、まだつぼみの桜を眺めながら、近場の桜並木ポイントを押さえつつ帰宅し、さあシャワーでも浴びるかと、給湯器の電源を入れた。
……筈だが、つかない。
何度押しても、光る筈のボタンは暗いままだ。
「……いや、ねー、うん。そりゃ毎日会ったって僕は別に構わないけど。そろそろウザいってほんとに怒られちゃわないかなぁ……」
そう思いつつも、つい手は電話発信ボタンを押していた。
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