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第6話
二十代になると一年が早い、というのは本当だと有賀は思う。
特に二十五歳からの一年は、学生時代の一か月程ではないのかと錯覚するほど颯爽と過ぎ去っていく。
朝起きて、出社して、襲い来る作業と顧客に対応して、後輩と事務の相談に乗り指示をして、気がつけば日が暮れている。
ひとりでじっくりやりたい作業は家に持ち帰り、煙草と洋楽と酒を片手にまた没頭する。
気が付くと日付が変わっている。寝て起きたらまた朝で一日のくり返しだ。
時々思い出したように入る休みも、午前中は寝て過ごし、午後は掃除をして後は黙々と料理をして潰してしまう。時々鳥翅に顔を出す。これが有賀の人生のサイクルの基本だった。
例えストーカーに家を追われても、潰れそうなアパートに越してきても、駆け抜けて行く季節は足をゆるめてくれたりはしない。
気がつけばスワンハイツの敷地の桜も、満開と呼べる状態になっていた。
もうすこし咲きかけの頃に写真を取ろうと思っていたのに、うっかり時期を逃してしまったことを悔やむ。最近はとにかく仕事が重なり、サクラに連絡を取る暇もなかった。
三度目の家電故障ヘルプを求めた日から、何日経っただろう。翌々日くらいには手羽先の蜂蜜煮で、その数日後には桜鯛のアクアパッツァでサクラを釣ることに成功した。
相変わらず野良ネコのように警戒している雰囲気は伝わってくるが、一度部屋に上げてしまうと、思いもよらず近くに居たりもする。
大概は無意識らしく、サクラ自身で距離の近さに思い当たると不自然なぎこちなさで一歩離れる。その一連の動作がどうにも面白いので、いつも気が付かないふりをしながらしっかりと観察していた。
空豆も出始めた筈だし、一回殻のまま焼いてみたい。山菜の時期も来る。筍も煮詰めてみたいし混ぜご飯も面白そうだ。春鰹も良い。食べたい。というか食べさせたい。
そんなことを思ってはいたが一向に休みが取れず、休みがないということは料理に没頭する間もなく、サクラに声をかける理由も他に思い浮かばず、ただ仕事をこなしているうちに桜が散りそうな程季節が進んでしまった。
そういえば鳥翅にも顔を出していない。買い置きの酒も無くなった。
久しぶりに連休が取れた有賀は、とりあえず酒と食材を買いこみ、連休前日の夜のうちにサクラに電話をかけた。
サクラはいつも少しの間のあと、心なしか低めの声で応じる。
近状報告などするべきか迷ったが、仕事以外外出もしていないことに気が付き、とりあえず用件を伝えることにした。
ごくシンプルに『久しぶりの休みなので花見でもしながらご飯食べませんか』と告げると、案外あっさりと了解が取れ、サクラの仕事上がりに有賀の家に集合という運びになった。
集合と言っても、出かける予定はない。
有賀の部屋の窓からも、ささやかだが桜の花は拝めた為、少々手荒だがそれで花見と言い張るつもりだった。
午前中にゆっくりと起きて、洗濯と掃除を終わらせて、もう一度買い出しに行って足りない材料を揃える。別段料理に詳しいわけではなく、ただ食べたいものをその都度作るだけなのでレシピの幅は狭い。買い出し前にあれもこれもとレシピを探索していたら、それだけで一時間もかかってしまった。
ただ、その時間も楽しいと思えるので、休日とは不思議なものだ。仕事の調べ物とはわけがちがう。
筍の下拵えをなんとなく適当に終わらせて、空豆を茹でて、しらすをねぎと敢えて、カツオを切って薬味と一緒に冷蔵庫に放り込む。海老のしんじょうが作ってみたくなって、フードプロセッサーを探したが見当たらない。仕方がないので薬味用のすり鉢と格闘した。
男二人とはいえ、少し、やり過ぎたかもしれない。
有賀が我に返る頃には、味はともかく見た目は完璧に美しい料理の数々がローテーブルに並んでいた。
料理と酒を並べ、見降ろした有賀は思わずへなりとしゃがみこむ。
「……やりすぎたし、はりきりすぎたし。なんかね、もー。あー……」
気が付かなかった。いつも通りに日々のストレスを発散する手順を踏んでいる気でいた。だがしかしこれは明らかにやり過ぎだし、品目を見ても見栄をはりすぎだ。
どうやら自分は浮かれているらしい。
そう気が付いてどうにも、居たたまれない気分が襲って来た。
とりあえず落ち着いて自分を取り戻そうと、取り出した煙草に火をつける。
深く息をして、吐く。白い煙はゆっくりと肺を満たし、巡り、吐く息と共に濁って消えた。
先程から何度か確認している腕時計は、もうすぐ五時を指し示す。
金曜の夜は、サクラの雇い主である里倉が定時退社を勧めるらしい。これは優しさ半分、自分が飲みに行きたい欲半分なのだとサクラは言っていたが、里倉に対する発言はどれも信頼と仲の良さから出る愚痴のようなものだと感じた。
サクラの仕事は終わっただろうか。と、多めに作った吸い物を温め直そうか迷っていた時、尻ポケットに入れっぱなしだった携帯端末が鳴った。
普段気が付かないと困るので、なかなかの音量で鳴る設定にしてある。
思わず飛びのきそうになり、そのまま慌てて通話ボタンを押したため一回切りそうになり、煙草も落としそうになった。
「……はい。ハイ、はい、有賀です」
『っあー……サクラです、あのー。お疲れ様です』
「お疲れさま。僕は今日休みだけどね。仕事終わった?」
『終わった、ん、です、けど、あの、……なんて謝ったらいいか、もう、ほんとごめんなさい』
「うん?」
電話口で突然謝罪された有賀は、煙草をくわえ直してとりあえずそのまま床に座った。
「……うん、よくわかんないけどとりあえずどうしたの。今日都合悪くなった?」
『都合は、良いんです。あのね、……おやっさんに飲みに誘われちゃって、』
「うん。金曜だしね。断れなくてそっちに行く流れ?」
『いやそうじゃなくて、ああもう、半分ぐらいそうなんだけど、俺今日花見ですって言ったらどこだって言うからスワンハイツって言ったら、おやっさん今村さんに話つけちゃって、今日スワンハイツ駐車場で花見大会開催決定しちまった……』
「…………あー。思ったより、なかなかな、話だった。それあれだね、僕もサクラちゃんもそっちに参加な流れだね」
『殴ってくれて構わない』
「殴らないよ、まったく、いきなり謝るから何かと思うでしょうに。別にそれくらい、とは思ってないけど、そんな謝罪されまくるほど僕は人見知りでも人嫌いでもないよ」
どのくらいの人数が集まるのかと問うと、今村夫人とご近所さんと里倉夫妻で五、六人は確定しているということだ。
たいして広くない駐車場での花見だ。数十人単位の宴会になるわけでもないだろう。
酒も料理も夫人方が用意するだろうし、どうせ二人で食べきれない量を生産してしまった後だ。これは良い機会なのかもしれない。サクラと二人でだらだらと食事をする時間はまた別にとるとして、たまには宴会気分を味わうのも悪くない、と気分を切り替えた。
二人きりではない分、サクラも楽しく飲んでくれるかもしれない。
どうも最初に会った時の泥酔具合と、その後の痴態を猛省しているらしく、有賀の部屋に上がってもサクラは酒類に口をつけることはなかった。そんなサクラも今日は、無理やりにでも飲まされるに違いない。
それはそれで悪くない。と、電話をもらった時点ではそう思っていたのだが。
(……わぁ)
サクラの謝罪電話の一時間後にはすでに、スワンハイツの駐車場はものの見事に清く正しい宴会場と化していた。
あれよあれよと運び込まれるシートや総菜や酒は、本格的な宴会仕様だ。
保存が効きそうなもの以外を選び、料理部隊の御夫人方に献上したところ、有賀は一気に花見会場のアイドルになった。両手に花どころか、花の中の虫のようだ。
ストイックな風貌と低めの声で人を寄せ付けないイメージの美男子が、これよかったら食べてください、と、手作りの海老しんじょうを出せば興味の的になるのはわかりきっていたことだった。
それでもまさか、取り囲まれるとは思っていなかった有賀は、半ば絶望的な気分で相槌を垂れ流しつつレシピの紹介をしつつ、目の端でサクラを探したりしつつ時間を浪費していた。
親父連中が持ちこんだ酒がうまいことだけが救いだ。
結構な自信作だった空豆入りのオープンオムレツの皿が空いたのは確認した。だが、それをサクラが口にしたかどうかはわからない。
数人の御夫人で脇を固められている有賀と同じく、サクラもまた飲兵衛の男たちにがっちりと脇を取られ酒を勧められていた。特に嫌がっている様子も無く、心底楽しそうに笑っている様も伺える。
ただ、時々ちらりとこちらを伺う瞬間だけは、とても情けない顔をしていた。
どうやら一応この状況の心配はしてくれているらしい。それとも先程電話を受けたときと同じように、ひたすら申し訳ないと思っているのか。別に有賀はどちらでもいいし特に怒ってもいないし、これはこれで面白くないことはないので問題はないのだが、それをサクラに伝えに行く術が無い。
酒の席はなかなか、思う様にいかない。
甘みの少ない飲みやすい冷酒を注がれるままに飲み、ふわりと酔いが回って来た頃、御夫人たちは家の仕事があるのか、ぽつぽつと帰りだした。散々騒いで気が晴れたのかもしれない。
やっと花を見上げる余裕が出てきた有賀は、しばし静かに酒を持ったまま桜を眺めた。
ライトアップとはいかないが、隣の街灯がそれなりに美しく花の群れを照らし出す。圧巻という程の大木ではない。それでも、夜空に浮かぶ淡い色の花は奇麗だ。
ふと笑い声が耳に入り、その主を探して目が動く。
酒の入った紙コップを持って笑うのは、サクラだった。
なるほど、大声を上げて笑う時は、こういう声と顔なのか。
笑うと目尻に少しだけ皺が入り、それが子供っぽくもあり、年相応にも見えた。大きく開いた口から、白い歯がちらりと見える。
唇は薄い方だと思う。口角の上がり方は男にしては急で、女の子みたいに笑うなと思った。そう言えば有賀には、こんな風にけらけらと笑うサクラの記憶はない。
最初に出会った日、サクラはふわふわと曖昧にずっと笑っていた気がするけれど、それほど興味があるものでもなかったのでぼんやりとしか覚えていない。
今日、有賀を取り囲んだ夫人達が楽しそうだったことは覚えていても、口紅の色までは覚えていない。多分、それと同じことだ。
目は一重だとか、瞳はそんなに大きくは無いとか、耳がすこし大きいとか、首の筋が奇麗とか、そんな観察をしていたらサクラと目が合って思わず噎せた。
その様子を笑われ、ダイレクトに笑顔を見てしまう。
今更どうしてサクラの観察なんかしていたのか、その答えがぼんやりわかりかけた時だった為、かなり本気で狼狽した。
ちょっと、一回出直そう。
そう思いよろよろと立ちあがると、近くまで這って来たサクラが下から見上げてくる。なんとなくかわいいと表現してしまいがちだが、足の開き方は豪快だし、仕草は完全に男前な青年だ。
それでも、ちょこんとしゃがみこむサクラはかわいい。
「どうしたんすか?」
「いやちょっと、……酔ったから。何か、さますもの、飲んでこようかなって」
「お茶ならそこらへんにあったけど。有賀さんザルっぽいけど、確かに顔とか赤いような気がしなくもないっすね。ダイジョブ?」
「冷蔵庫にオレンジジュースあるから、ちょっと、いってくるね?」
思った以上に動揺していたらしく、立ち上がったらくらりと揺れた。とっさにサクラに支えられ、ごめんねありがとうと言っても離して貰えず、二人で階段を登った。
「……鍵開いてんすけど」
「んー。だってすぐそこで宴会だし、ばたばた戻ったり開けたり閉めたりしてたら面倒になってさー、いいかなって思ってね。ありがとうサクラちゃん、日本酒っておいしいけどくらくらしちゃうねー」
「その割には足元しっかりしてんじゃないっすか。有賀さんやっぱザルでしょ」
「そうでもないよ。ほら、ふっらふら」
律儀に扉を締めたサクラに覆いかぶさるように凭れかかっても、案外嫌がられずに、これだから酔っぱらいは、と苦笑された気配がした。
なんとなく、面白いし喋っていて楽しいし、友達になってくれないかなと思っていた。
再会のインパクトも『これは縁かな?』と思わせた。実際身体の相性もよかった記憶もある。別に、気に入ったから仲良くなりたいと思っていただけだが、流れでセックスしても構わないくらいの気分だった。
気に入ったから。反応が気持ちいいから。縁が面白かったから。
だから、仲良くなれたらいいなと思っていた筈なのに。
ああそうか。
ああどうしよう。
(あー。……そっか)
急に納得して、目の前のサクラの体を、そっと甘く抱きしめた。
サクラの首筋が熱いのは、酔っているせいだ。だが有賀の熱は、おそらく別の原因も重なる。
「ねー、サクラちゃん、ちょっと相談があるんだけど、」
「ん? んー、ものによっては検討しますね」
「ふは。サクラちゃん検討するの、好きだよねぇ」
「……仕事柄? 逃げる時は、これが一番当たり障りないし」
「逃げてるのか、そうかー」
「言葉遊びが半分だよ。で、相談って何すか?」
「うん、あのね、告白したら困る?」
言葉と共に、急にサクラの体が硬直する。
その反応すら愛おしい。頭がおかしくなってしまったのかもしれない、と、有賀は内心ひっそり首を傾げた。
自覚したら死ぬほど愛しくて馬鹿みたいにほしくなった。
恋なんてしない方がいいかもしれないなぁ、と、落ちたその日に苦笑した。
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