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第11話

 有賀は案外メンタルが弱い。  それは今村の長話をキャンセルできず、打ちのめされていたことからもわかっていたが、思っていた以上に打たれ弱いということを、桜介はこの数時間で実感した。  鳥翅を訪れ、カウンター席に落ちついてから一時間。ただ項垂れ自己嫌悪に打ちひしがれる有賀を、叱りつつ諭しつつ最終的に励ますのは、桜介とアゲハの大変な仕事だった。  大いに酔っぱらった日に来店したことがあるらしい鳥翅の店内も、その主であるアゲハの事も桜介はうろ覚えだった。  きちんと挨拶してみれば、非常に個性的な外見と性格の美人だ。なぜこのインパクトのある人間を忘れていたのかと疑問にも思ったが、答えは簡単だ。不思議な魅力を持つアゲハよりも、煙草片手に酒を傾ける有賀の方が、桜介にとっては好みだっただけだ。  有賀の飲んでいた酒の記憶はあるのに、目の前のマスターを覚えていないのは、きっとそういうことだろう。  最終的には励ますのも面倒になり、なぜ自分がアゲハを覚えていないのかという一連の考察を教えてやると、有賀は一瞬で正気に戻って赤くなってテーブルに倒れた。パニックになっている時や鬱になっている時の有賀を元に戻すには、この方法が一番だと気が付いた。  普段は自分の方ががつがつと攻めてくるくせに、反撃されると駄目らしい。 「要するに、アルは愛される覚悟がないんですよね」 「はー。なんか、わかるかも。自己評価ひっくいっすよね。多少見た目がいいとか、仕事できるとか、そういうのって他人から見た一定の評価を口にしてるだけって感じで」 「そうそう。さすがサクラさん。よく見てらっしゃる」 「キミたちねぇ、本人を目の前にして、やめてくれないかなーもう。いじめだよ、いじめ」  突っ伏したままの有賀が弱々しく反論しても、涼しい顔のアゲハに効果がある筈もない。  この人に逆らうのはやめよう、と、早くも桜介は決意する程だった。 「愛してますでしょ充分に。ストーカー被害の後始末を全部買って出てる友人に対していじめとは心外ですね」 「……大変申し訳ないです……この恩は、本当に、返します」 「返さなくていいから自分を大事になさい。へこむくらいなら本気出して反撃なさい。私もサクラさんも、貴方が助けてと言えば躊躇などしないんですよ。言わないからね、しゃしゃり出るのもどうかと思ってしまうんです。ねえ、サクラさん」 「ん? あー、うん、そうかな。そうかも。有賀さんってどうでもいいことでたすけてって言うけど、ほんとにしんどい時我慢しそう」 「まったくもってその通りですよ。アルは我慢しすぎる。言いなさい。頼りなさい。今回は少しおおごとになってしまいましたが、良い薬です。良かったですね、怪我など無くて」  まさにその通りで、有賀はテーブルに沈むばかりだった。  桜介は薄めのモスコミュールを舐めながら、暫くまた有賀を励まし、アゲハと今後の話を詰め、連絡先を交換し、二人揃って早めの時間に鳥翅を出た。  結局、桜介の部屋も有賀の部屋と同じく大変な惨状になっていた。  むしろ、有賀よりも酷い状態だったかもしれない。スワンハイツは体液系で、例えるなら変態の愛情表現と言った有様だったが、桜介の部屋の方は完全に気が狂っている人間の嫌がらせ以外の何者でもなかった。  ベッドや食器を精液と思われるもので汚されるのも精神的に来るが、部屋中を血液で塗りたくられるのも中々の体験だ。  匂いからして汚物系も混ざっていたと思う。スプラッタが苦手な方でなくて良かった。気持ち悪いし胸糞悪いことには変わらないが、とりあえず卒倒して救急車を呼ばれるという事態だけは回避できた。  直前のアゲハの電話で、もしかしたら貴方の家も被害にあっているかもしれない、と、言われてはいたし、覚悟はあった。  桜介の映った写真を使っていたことから、それは充分に考えられる。半信半疑ではあったが、まさかそこまでの悪意を向けられるとは思っておらず、正直笑いが出た。  有賀が消沈している分、桜介は自我を保てたのかもしれない。  とりあえずアゲハにもう一度連絡を取り、鳥翅に向かった。そこで手配をしてもらい、同じようにどうにか掃除とドアノブの交換はして貰うことになった。どちらの大家にも、鍵が壊れたから交換したという言付けは桜介の方からしておけばいい。近所づきあいをしていて、尚且つ頼れる工務店の青年を貫いてきて良かったと思う。  ぼんやりと歩く有賀を支える様に、アゲハが取ってくれたホテルを目指した。  なんでもアゲハと懇意にしている組合の経営するホテルで、セキュリティは万全らしい。詳しくは聞きたくない話だったのでさらりと流したが、あの人にはやはり逆らわないようにしようと決意を固めた。 「有賀さんさ、なんでそんなに豆腐メンタルなの。この前俺の悩み相談した時は、すっごい理路整然と怒ってたじゃん」  ツインの部屋に上がって、上着を脱いでようやく落ち着いた桜介は、ベッドに座る有賀の向かいに腰掛ける。  生憎と禁煙ルームだった為、煙草でも吸って落ち着けというわけにもいかない。ため息をつく有賀は、煙草の事など忘れているようにも見えた。 「なんかねぇ、うん、なんでだろうね。サクラちゃんの件は、ほら、相手もわかってるし、もうどう考えても理不尽じゃない。けどさ、僕のストーカーさんって、いまいちこう、何がしたのかわかんないし。怒るのも面倒でさ。……まあ、その結果放置したらこうなったんだけど」  その理論も、気持ちもわからなくはない。わからなくはないが、もう少し自分に優しくなってもいいのに、と桜介は思う。 「あー、まあ、確かに怒って反撃したら解決してたかって言ったら、わっかんないけど。つか、有賀さん別に悪くないんだからもうちょっと被害者然としてていいでしょ」 「でも放置したのは僕だよ。面倒がらずにさ、ちゃんと対処してたら良かったんだよね。結局、全部たらればなんだけどさ。あーもう。こんなことがなければサクラちゃんと一緒の部屋でお泊りなんて最高のイベントだったのに、と思うと、涙が出るよ」 「元気じゃねーかばーか。もうじゃあ、一緒にお泊り楽しむくらいの余裕、見せたらどうっすかね」 「……不謹慎ってアゲハに怒られませんか」 「言わなきゃわかんないと思いますね」  できるだけさらりと答えると、下に落ちていた有賀の視線が、目の前の桜介に戻ってくる。 「サクラちゃんは怒らないの」 「別に。俺、有賀さんがため息ついてるより、どうでもいい事言いながら口説いてくる方が好き」 「…………シャワー浴びて心切り替えてくる……」 「ん。いってら」  分かっているのか分かっていないのか、ぼんやりとした口調で立ち上がり、有賀は浴室に消えた。  有賀を見送って、桜介は息を吐く。  早く、元の柔らかい有賀に戻ってほしいのは本心だったが、それにしても妙な流れに持って行ってしまった。 「……サービスしすぎた、か……?」  それでも、桜介の言葉に嘘はない。悩んでいても仕方ない。とりあえず状況が落ち着くまではどうしようもない。そんなことで胃を痛めるくらいなら、まだ俗世の空気に浸るほうが良い。  そもそもアゲハは、桜介にだけ『部屋はダブルじゃなくていいの?』と囁いた。目線だけで抗議すると、気分転換は大事だからと笑われた。そんなアゲハが、怒るわけがない。彼もまた、いつもの有賀に戻ってほしいと願っている一人だろう。  べつに、致そうとかそういうことは考えていない。流石にそれはない。ゴムもないしローションもない。  二人で一夜を過ごすというのは初めてではないし、抱き込まれて寝た時も我慢できた。隣に横になる男を襲う程、桜介の性欲は盛んでもない。  ただ、少しくらいは甘くしてもいいと思う。  自分の部屋も被害にあったし、どれだけのものが無事かわからないが、ふらふらになっている呆然自失状態の有賀を眺めているのは中々辛い。自分が甘くなって、有賀がそれに便乗してくれるならその方が良い。  シャワーの音を聞きながら、言い訳のようにそんな事を考えていた桜介だが、やがてタオルを頭にかぶり、ざっくりと襟元が空いたシャツと細身のパンツだけで出てきた有賀を見て、早くも自分で吹っ掛けた言葉を後悔した。  忘れていた。  有賀が相当自分の好みの外見をしていた事を、すっかり忘れていた。 「……バスローブ、着ないんだ?」  動揺を隠そうとどうでもいい事を訊いてみるが、少し声が上ずってしまう。  くそ、たかが湯上りで。そう毒づくが、素直な本能は有賀を無視してくれない。 「んー。あれね、僕、すっごい似合っちゃうんだよねぇ。なんか、現代小説のお洒落主人公みたいな気分になって、おもしろくなっちゃうから、着ない主義になりました」 「お、おう。斬新な理由っすね」 「サクラちゃんは着てもいいよ。バスローブより浴衣が似合いそうだけど。浴衣、フロントに言えば貸してもらえるとか言ってたっけ? 持ってきてもらう? 僕はインドア作業だからまあ、今日着てた服でも気にならないけど、サクラちゃんは着替え欲しいでしょ」 「あー。そうっすね」  適当に返事しながら、さっさと浴室に逃げても、どうも落ち着かない。  少し熱めのお湯を浴び、汗と共に邪念も洗い流そうとしたが、思考がすっきりとしたのは叩きつける水の音を聞いていたときだけだ。しかし、濡れた髪も恐らく乾かしただろうし、纏わりつく湿気も無くなった頃合いだろう。  そう思い、身体を拭いてコンビニで買った下着をつけて戻った桜介を待っていたのは、ノートパソコンを開いて作業に没頭する有賀の姿だった。  髪の毛は完璧に乾いていたし、纏っていた色気のある湿り気もない。ただし、奇麗な王子様然とした顔にはスクエア型のグラックフレームの眼鏡が乗っていた。 「あ。おかえりサクラちゃん。浴衣、ソレね」 「…………有賀さんて、コンタクトだっけ」 「うん? うん。コンタクトだね。裸眼だとけっこうぼんやりしちゃうんだよね。生活できないこともないんだけど、仕事するにはちょっとね」  もそもそと浴衣を身につけつつも、桜介は有賀の方を伺ってしまう。  別に桜介は眼鏡が特別好きというわけではない。今までもそんな趣向があるとは感じたことはない。せいぜい遊んでそうな甘い顔のイケメンが好きだという自覚しかない。  たぶん、それが有賀に似合い過ぎていたのがよくなかった。軽そうなプラスチックフレームは流行りの安価フレームだろうが、弦の部分だけ少し紫色が差してあり、それがまた似合う。  きゅっと帯を締めた桜介は、もそりと空いている方のベッドに上がる。有賀はすぐにパソコンを終了させて閉じたが、眼鏡はそのままだった。  暫く大人しく観察していた桜介だったが、ついに耐える事を諦めて有賀の隣に移った。  その突然の行動に驚いたらしく、有賀は背中に寄り掛かる桜介を振り返り見る。 「どうしたのサクラちゃん。なにか変なものでも食べ、あ、お腹すいた?」 「ばか」 「え。なにが」 「眼鏡ずるい。すんげーずるい。最悪。なんだそれ。ずるい」 「ええと、褒められてる? 貶されてる?」 「欲情してる」 「……わぁ。どうしよう、嬉しいね。サクラちゃん眼鏡萌え属性?」 「じゃ、無い筈なんだけど、なんでかな。有賀さんだからかな」  ぼそりと呟いた言葉に、有賀が動揺したのが背中越しに伝わった。わかっていて言ったが、少しだけ心が痛いし、痒い。 「サクラちゃんてさ、時々うわぁって感じの言葉を突っ込んでくるよね。それ、うっかり本気にしちゃいそうになるから、よくないよまったく。僕ね、結構キミに恋しちゃってるんですからね」 「知ってる。だから別に、翻弄して楽しんでるとかそういうんじゃないし、結構本心だよ。だから、あー……まあ、なんていうか、そういうことっていうか」 「……あのね。ホテルで二人、湯上りほかほかで浴衣の想い人が背中にぴたってくっついてるこの状況ね、僕は言い訳できるけど、サクラちゃんは自業自得って怒られちゃうんじゃないかな」 「言わなきゃばれない」  暫く沈黙が続いた。はやく動いてくれないと、正気に戻ってしまう。  じりじりと、言いすぎた感が襲い、背中から退くタイミングを探し始めた時、有賀のため息が聞こえてきた。  呆れられただろうか。若干不安になり体を離そうとしたところを急に抱きしめられる。 「うぐ」 「あーもう。……馬鹿は、どっちだろうね」  観念したように笑われて、有賀の困ったような静かな笑い方が好きだと思った。

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