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第1話

 雨の日は苦手だ。  ざあざあと耳に煩い音を左手で塞ぎ、右耳にあてた携帯の声を拾うことに集中する。  湿気でどうにも空気が重い。息苦しい程の雨を感じながら、溜息を呑み込むと電話越しに柔らかい声が笑った気配がした。  淡々とした、抑揚のない低めの声なのに、息を洩らす音に妙に感情が籠る人だ。雰囲気がある、というのはきっと、こういう人の事をいうのだろうなぁと思う時がある。恐らく、惚れた欲目もあるのだけれど。  桜の季節に出会ってころりと落とされた恋人との付き合いも、もう一年と少し過ぎた。いい加減慣れてもよさそうなものなのに、桜介は有賀の少し甘すぎる言葉と空気に一々絆されてしまう。  今だって雨が嫌だと子供のような愚痴を零す桜介に、電話の向こうで甘く笑われ、ほんの少し体温が上がった。秋口の思い出したような肌寒さを一瞬忘れてしまう。 「……なんだよ。だって俺これから帰んなきゃいけないんだよ。この雨の中をだよ、そら愚痴の一つも出るって話じゃんか」 『愚痴はいいんだけどね。サクラちゃん、この前は雨の日もわりと悪くないなぁなんて言いながらぐだぐだしてたじゃないの』 「ばっか、アレは有賀さんちだったからですー。そりゃ有賀さんとだらだらいちゃいちゃしてたらさ、そんなん灼熱の砂漠だってロマンティックになっちゃうでしょーが」 『砂漠……砂漠は、うーん、暑いのはちょっと嫌かな。僕はわりと、雨の日は好きだけどね。確かにサクラちゃんが居てくれたらもう、雨とか晴れとかどうでもよくなるけどね。今日はそのまま帰るの?』  あーあー全然止まないどうしようか、と、空を睨んだまま桜介は頷く。 「んー。そうしようかなって。なんかさぁ、久しぶりにお客さんに振りまわされて残業してめっちゃぐったりしてるし雨だし鬱だし明日も朝から仕事だし、ホントは有賀さんちに行ってだらだらしてうまい飯食いたいけどさ。……今日は帰って風呂入って寝るよ。明日は夕方そっち行く」 『うん、了解しました。気をつけてね、雨だし。もうすっかり暗いしさ。明日食べたいものがあったら連絡して。僕は多分半休だから。……多分』 「うはは、あっやしいなぁー有賀さんのその『多分』って! そう言って先週も残業してたじゃん。つーか今だって職場っしょ?」 『何でばれたの……』 「さっき後ろで雪見さんの声聞こえた。たまにはゆっくり俺のお世話してよ。時間のかかる料理リクエストしちゃるよ」  時間のかかる料理といえば何だろうか。煮込み料理を思い浮かべながら、とりあえず今日の空腹を満たす為にコンビニに寄ることを忘れないようにしよう、と思う。  本当は商店街の総菜屋の方が美味しいのだけれど、この時間にはもう閉まってしまっている。美味しい夕飯は明日に期待することにして、車のキーを回した。  里倉工務店の古いバンはマニュアル車だ。ギアを変えるごとに若干車が揺れる気がするが、里倉と共に『きっと気のせいだ』と誤魔化している。先月車検をどうにか通ったばかりだ。オートマを買い替えるにはまだ早い。  少々けたたましい音と共にエンジンがかかる。普段はご近所に申し訳なく思う古い車のエンジン音も、この激しい雨の中では気にする必要もない。  名残惜しいが、仕事中に邪魔ばかりするわけにはいかない。有賀の声は心地よく、言葉も柔らかくその上彼は頭が良い。楽しくそして適度に痒い会話は、どちらかが切らなければ延々と続いてしまう。  じゃあ明日ね、と口にする前に、ふと頭の中に何かが引っかかった。何か言わなければと思っていた事があった。 「あ。……思い出した。旅行。やっぱうち法事入っててさ、実家帰んなきゃだから来月無理だって話し忘れてた」 『あー……うん、わかった。そしたら年末……うーん年末、僕の仕事がどうなってるかちょっとわかんないんだよね』 「まあ、明日詰めよ。近場でもいいけど、どうせなら遠くまで足を延ばしてのんびりしたいし。電車でいくなら年末ちょっとしんどいかもしんないしなー。でも旅行は行きたいからどうにか休み作ってどうにかして行こ」 『はい、わかりました。僕も行きたい。ゆっくり何も考えずにサクラちゃんとだらだら、――ちょっとシナくん邪魔しないでよ僕の喫煙タイムみたいなものだよ。さっきシナくん煙草吸ってたじゃないのいいじゃない僕だって休憩させてください』  電話の途中でスタッフに邪魔されているらしい様子に、思わず桜介も笑い声を上げる。  有賀が愛されている雰囲気が伺えて、気持ちが明るくなる。好きな人が好かれるのは嬉しい。雨の憂鬱が、また少し晴れる。 「はいはい、有賀さんちのみんなに悪いからもう切るわ。そんで帰って寝て明日食いたいもん考える。じゃあまた明日。……俺のうだうだタイムに付き合ってくれてあんがと」 『こちらこそ。大変素敵な息抜きでした。気をつけてね、雨凄いから』 「んー。がんばる。なんか最近ブレーキの効きが怪しいんだけど、まー車検通ったし平気っしょ」 『……里倉さんに、社用車買い変えませんか、って話しておくよ』  苦い声の有賀に、また桜介は笑ってから通話を切った。  雨は相変わらずフロントガラスを叩いている。雨足が弱くなる気配はないし、息を吸い込むだけで満ちる湿気も相変わらずだ。  それでも桜介の気持ちが軽いのは、やはり有賀のせいだろう。  特別明るい人ではない。むしろ時々驚くほどネガティブで、うだうだと自己反省を繰り返しながら頭を撫でてなどとすり寄ってきたりもする。それでも彼の存在とその声はやはり、桜介を軽やかにする。  明日何を作ってもらおうか、という問題に加え、旅行先は何処にしようか、と頭を巡らす。  ちょっと遠いところでぼんやりしたい、と言いだしたのは最近まともな休みが無い有賀の方で、有賀の家と職場の行き来くらいしかしてないことに思い当たった桜介も、二つ返事で賛同したのは数日前の事だ。  去年の夏前に岐阜に行ったのが最初で最後の遠出だったのではないか。夏の終わりに海に出たけれど、旅行という程のものでもない。こまめに美術館や映画には出かけていても、日帰りの日程ばかりだった。  桜介は昔から一人で遠出する事が好きだった。自然の景色も建築物も観光名所も比較的好きだ。一人だって楽しいのだから、連れが居ればもっと有意義な旅になるに違いない。 「……車買おうかなぁ……」  携帯をポケットにしまい、ワイパーを動かし、ゆっくりとクラッチにかけた足を動かしギアを入れた。雨の中動き出した車の中で、桜介は一人呟く。  バイクは持っているが、二人乗りで遠出は少し辛い。旅行はレンタカーか電車か迷っている。今回はレンタルするにしても、今後車は必要になるような気がする。  今までは、バイクがあればどうにでもなると思っていた。過去に恋人がいた時も、特別車が必要だと思った事は無い。ただ、免許がない有賀と今後生活していくことを考えると、やはり自家用車が必要な場面が出てくる。  すっかり、生活を共にして行く気になっている自分に、時々呆れるし、不安に思うこともある。言葉にしてはっきりと伝えたことはないし、伝えられたことはないが、恐らく桜介も有賀も、将来というものを考え始めていた。  一緒に生きていくのだと思う。自分は、その覚悟を決め始めている。  けれど最初から異性と結婚できない指向の桜介はまだしも、結婚して家庭を持つこともできる有賀に、それを伝えるのはまだ早いのではないか。そう思うと、どうも、言葉にする勇気が沸かない。  相手が自分でいいのか、なんて今更な事で悩みはしない。桜介は有賀と居て幸せだと胸を張って言えるし、有賀も幸せだとはっきりと伝えてくれる。世間には大きな声で言えなくても、最高の恋人だ。手を取り合って生きていくのはこの人だ、とお互いに思っている事はわかる。  結婚はしないのか? と聞かれる度に頭に浮かぶのは有賀だ。  三十歳も過ぎればそういう話にもなる。馴染みのお節介な主婦たちや、商店街の面々も、挨拶がわりに結婚相手は居ないのかと声をかけてくる。もう彼らに対して縁がないんだよと笑うことに罪悪感はないが、流石に両親にそれとなく訊かれた時は胸が痛んだ。  先日、法事の連絡を受けた時に、ついうっかり旅行に行こうと思っていた事を洩らしてしまった。妙な間の後、電話口の母親に『旅行に行くような恋人できたの?』と訊かれた時、桜介は息を飲む音を聞かれなかっただろうか。  嘘をつこうか迷ったのは一瞬だ。結局誤魔化しの言葉を呑み込んで、できるだけ明るい声で『そうだよ』と笑った。笑えた筈だ。  母親がどう思ったのかはわからない。元々静かな人で、少しだけぼんやりしている。コンロの火をつけっぱなしで家が燃えそうになった時も、あららと零しただけだった。それに対して、うっかりさんだなと笑った父親も、やはり少しのんびりした人なのだろう。  とても良い人達だ。時々、大丈夫かなちゃんと老後平気なのかなと心配になる事もあるが、大らかで優しくて正しい。素晴らしい両親だと思うからこそ、一人息子として辛くなる時がある。  家庭というものを持てない。女性と結婚して、子供を授かる事が出来ない。孫の顔というものが、どういうものか、身近にいる里倉夫妻を見て居ればわかる。自分が思っている以上に、世間は子供を求めている。  それでも桜介は、有賀の手を離すことができない。出会った奇跡に時折感謝する恋人を、手放すことなんて、できない。  いつか有賀の人生を巻き込む覚悟を決めた時に、両親にもカミングアウトできればと思う。優しい人達だから、怒鳴ったりはしないかもしれない。でも、きっと心を痛めるだろう。ずっと嘘をついていた事に、泣いてしまうかもしれない。  有賀の声で少し浮上した気分が、また雨の中のように息苦しくなる。  どうしようもないことだし、いつかどうにかしなければいけないことだと知っている。それでもまだ覚悟はできなくて、うだうだと先延ばしにしている自分に溜息が出た。  有賀に、きちんと相談しよう。いい加減、この先自分たちがどうしたいのかということも話しておくべきだ。  車を買う前に、二人で暮らせるアパートを探した方がいいのではないかとも思ったが、如何せん有賀がスワンハイツをやたらと気に入ってしまっている。  桜介にしてみればただの古いアパートでしかないのだが、『サクラちゃんと出会って、初めて好きですって言ったところだもの』などと甘い声で微笑まれてしまうと、もう何も言い返せない。ボロアパートが急に、思い出の場所になってしまう。  正直なところ、桜介は有賀と一緒に住みたい。  好きだという恋愛感情に、じんわりと、愛情が混ざりはじめている。一緒に居ると安心する。隣に居てほしいと思う。けれどスワンハイツは流石に、男二人で住むには狭すぎる。  車かアパートか。旅行の日取りは年末か年明けか。明日の夕飯は春巻きかブイヤベースか。そんな重いような軽いような、取りとめのない事を考えつつ、交差点に差し掛かった時だった。  前を走っていた車が急にブレーキを踏んだ。赤く光ったブレーキランプに驚き、反射でブレーキを踏む。  充分な車間距離はあった。けれど、雨が降っていた。地面は濡れ、タイヤが水を噛む。  あ、と思った時にはスリップした車が目の前に迫り、避けようと反射で切ったハンドルのせいで車体が滑った。  ――これが、桜介の最後の記憶だった。

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