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第2話
『サクラが事故った』
耳に飛び込んできた言葉の意味が理解できず、有賀は暫く息をすることを忘れた。
電話口の里倉は、噛んで含めるように、静かに言葉を繋げる。
『何がどうなって誰が悪いんだが全くわかんねえが、どうやら玉突き事故に巻き込まれちまったらしい。頭を打って意識がないっつー連絡が来た。今から脳内に出血がないか検査するって話だ。有賀ちゃんいいか、これからおれは病院に行く。大丈夫か?』
「……はい。はい、聞いてます。聞こえてます。大丈夫、です」
『まあ、大丈夫じゃねーだろうな、おれも家内が居たからどうにかこらえたよ。今家か? 職場か?』
「まだ、事務所です」
『名刺の住所だな。三十分でそっちに着くから一緒に来い。病院行くぞ』
はい、と返事をしたか定かではない。
気がつくと電話は切れていて、やたらと部屋の中が静かだなと思った。
雨の音が聞こえる。サクラが憂鬱だと笑った雨の音だ。
まだ残っていた倉科と雪見が、仕事の手を休め何事かと伺っている事に気がついた。
椎葉は奥方の具合が悪いということで、今日は早退している。その分の埋め合わせをこなしているうちに、ずいぶんと遅くなってしまった。まだまだ半人前の雪見と、年末からバイトで入ってくれている倉科青年では猫の手程度の助けにしかならない。
それでも今日、誰かが居てくれて良かったと思う。
電話を持ったまま、息を吸って吐いた。何が起こったのか、まだ、理解できていない。
まるで他人事のように、雨の音だけが鮮明に聞こえる。
「……ごめん、僕、帰らなきゃいけなくなった。あの、あー……もういいや、みんな帰ろう。後は明日……うん。ええと、明日ももしかしたら僕居ないかもしれないけど、とりあえずしーばちゃんに後で、連絡しておくから、」
「え、ちょっと、社長落ち着いてくださいどうしたんすか。なんか、ただならぬ感じでしたけど、なんかこう、身内に不幸的なもんですか……?」
咥えていた煙草を消しながら、倉科が眉を寄せる。派手な髪色のチャラついた外見の青年だが、有賀などよりも数倍しっかりしているし落ち着いていると思う。
その為か歳の離れたサクラとも兄弟のように仲睦まじくつるんでおり、その度に有賀は嫉妬のような羨ましいような微笑ましいような、絶妙な気分に襲われた。
どうでも良い事を考えてしまうのは、まだ、頭がパニックしているからだ。倉科と一緒に笑うサクラを思い出し、先ほどの里倉の電話を思い出す。
「サクラちゃんが、事故ったって」
言葉にするとたったそれだけの文章なのに、心臓が冷えた。
「……え、は? ちょ……マジで?」
「うん。今から里倉さんが迎えに来るから、僕は病院に行ってくる。雪ちゃん、施錠お願い。僕今ちょっと、うまく鍵閉められる自信ない。シナくんは、ええと……」
「社長、ちょっとあの、わかりますけど、落ち着いてください。桜介さん事故ったって、ちょっと前に電話してませんでした?」
「してた。その後、車で事故に巻き込まれたって。意識が、戻って無いんだって。……ねえ、頭打って、意識が戻らないって、ちょっと、もしかして、まずい、のかな?」
死んじゃうのかな、とは、口に出せなかった。思わず滲んだ涙も言葉と一緒にどうにか押しこめる。
声をかけるタイミングを逃したらしい雪見を差し置き、有賀の肩を掴んだのは倉科だった。掴まれた肩が痛くて、思考が現実に戻ってくる。
しっかりと有賀の目を見た倉科は、少し高い位置から噛んで含めるように声を出した。
「施錠は雪ちゃん先輩がやります。おれは椎葉さんに連絡取ります。社長はもういいからさっさとジャケット着て財布とケータイ持って、病院行ってください」
「…………だめだ、僕、多分泣く」
「泣いていいから桜介さんの隣に居てあげてください。アンタが居ないで、誰が桜介さんの隣に居んの。ほら支度しろ」
サクラと仲のいい倉科も、ショックだろうに、有賀の背中を叩いてくれる。年下の青年の気づかいに涙が出そうになり、雪見の潤んだ瞳を見てまた泣きそうになった。
泣いている場合ではないし、泣くような事態なのかもわからない。
とりあえずは病院に行かないと何も始まらない。現実味がないまま、荷物をまとめて事務所を飛び出し、里倉の自家用車に乗った。
何度かサクラが里倉から借りていた普通車だ。有賀がこの車に乗る時、いつも運転席にいたのはサクラだった。
真っ赤な目の里倉はすでに一度泣いたらしい。後部座席には夫人も乗っていた。
挨拶もそこそこに、車は雨の中を走り出す。三人とも言葉は少なかった。口を開いても、不安しか出てこない事を知っていた。少なくとも、事故で死んだ、と報告されるよりは絶対に良いということだけはわかっていた。
雨の日は嫌いだと笑っていた声が、耳に残っている。
人の記憶の中で、最初に忘れて行くのは音の記憶だときいたことがある。このままサクラが戻って来なかったら、サクラのあの声も、有賀の中から消えてしまうのだろうか。
そんな事を考えただけでももう駄目で、鼻の奥が痛くなった。こめかみが痛いのは、涙を我慢しているからだ。息を吸って、吐くだけでぼろりと暖かい水がこぼれそうになる。
夜の病院は、煌々と明るく眩しい。緊急外来口から入る里倉の後に続き、廊下を歩いているうちにふと、思い当たることがあった。
茫然と止まる思考と同じく、足も止まる。
足を止めた有賀に、最初に気がついたのは里倉夫人だ。二人が追いかけない事に気がついて、里倉も足を止めて振り返る。
他に誰も無い廊下の真ん中だった。院内は思ったよりも静かではない。緊急外来口が近いせいか、騒がしく動き回る看護師と医者の気配がする。ナースステーションの電話のコールが聞こえる。
「どうした有賀ちゃん。大丈夫か」
「…………あの、僕、………………家族じゃないんだって、気がついた」
「……………」
「どうしよう。僕、サクラちゃんの家族じゃないんだ……」
どうしよう、ともう一度呟くと息が震えた。
恋人だけれど、それは社会的に公にできない関係だ。もし自分が女性なら、堂々と恋人ですと名乗って病室に乗り込んだだろう。
里倉は良い。本当の親のように毎日共に過ごし、十年も一緒に仕事をしている家族同然の上司だ。奥方も、もう、息子のようにサクラに接している。
けれど自分は何と言って彼の隣に座ればいいのだろう。
恋人です、と言って、病室に入れてもらえるのだろうか?
足を止めたままの有賀の前に、気がつけば里倉が立っていた。背の低い老人は、有賀を見上げてしっかり目を見る。先ほどの倉科のように、しっかりと視線を合わせる。
「なぁ、有賀ちゃん、おれだってよ、こんな事言いたくねぇけどよ。……サクラがこのまま死んだらどうすんだ。あの時顔見ときゃあって後悔したって、時間はもどんねーんだぞ」
行くぞ、と手を引かれた。しっかりとした、力強い老人の手だった。サクラがいつも尊敬し、一生あの人には敵わないと零す、器用で強い手だ。
そっと、伸びてきて有賀のひじに添えられたのは、里倉夫人の暖かい手だ。
二人に支えられるように、有賀はナースステーションの前を通った。何かの本で読んだ事がある。緊急性のある患者は、何があっても良いようにナースステーションに一番近い部屋が宛がわれるらしい。
ステーション前の部屋の入り口には、中年の男性が立っていた。扉の無い部屋には、椅子に腰かけた女性が見える。恐らく、サクラの両親であろう。
この辺に住んでいるわけではないと言う事は聞いていた。サクラの実家がどれほど遠いのかは知らない。そんなことも知らない事に心が折れそうになりながらも、へこんでいる場合ではない事を思い知った。
どうしよう、などと思っていた事は全てどうでも良くなった。
病室のベッドの上で、目を閉じて荒い呼吸をするサクラを目にしたら、もう、どうでもよくなった。
「…………っ、……」
息が震えて声が出ない。何かを言わなきゃと思うのに、頭がうまく働かない。
かろうじて、里倉夫妻と三浦夫妻が挨拶をしていることはわかった。そちらの方は? という問いかけも、どうにか耳が拾った。感情が表に出にくい体質で良かったと思う。感情豊かな表情を持ちあわせて居たら、友人だなんて言えない程泣きそうな事がばれていた筈だった。
「……親しく、している者です」
里倉さんと偶然、一緒に居たものですから。御迷惑かと思ったんですが、どうしてもと、僕がお願いして。……そんな言葉は全てどこかに飛んで行ってしまった。
息をしている。けれど、苦しそうだ。
目はしっかりと閉じていて、左目の方はガーゼが固定されていて、顔の半分近くが見えない。ベッドわきに手が固定されている。
口には、テレビドラマでよく見るような酸素用らしきマスクが固定されていた。
脳の出血の検査をする、と言った。出血、ときいて連想した単語はくも膜下出血だ。
有賀は病気にも怪我にも詳しくない。身内はまだ健全だし、祖父母は物心つく前に亡くなった。他にも脳内の出血の怪我はあるのかもしれない。わからない。わからないから、知りたいのに、今自分はそれを聞く権利を持っていない。
ああ、どうしよう。――サクラちゃんが、死んだらどうしよう。
耐えられずに膝が折れた。部屋に入ることもできず、廊下の真ん中で袖口に涙を吸わせた。背中をさするのが、里倉の手かそれともその夫人の手かもわからない。
人前で、こんなにみっともなく泣いたのは生まれて初めてだった。
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