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第3話

 朝から、三度も電話が鳴った。  そのうち二度は里倉からの連絡で、残りのひとつは椎葉からの『出勤したら絶交します』という電話だった。  身内が倒れたわけではない。サクラは恋人であって、家族ではない。  さすがに恋人が事故にあったからといって、会社を休むわけにはいかないと反論した有賀は、至極まっとうだったと自分では思う。  実際、病院で付き添っているわけでもない。泣き崩れた有賀の事を、親族がどう思ったかはわからない。周りを見る余裕などなかった。  家族が付き添っている中、ずかずかと踏み込むわけにはいかない。  どうすることもできない有賀は、里倉からの連絡を待ちながら日常をこなすしかない。  目が腫れて痛かったし、泣きすぎて頭が痛い。朝目が覚めて、顔を洗おうと洗面台の前に立っただけで、サクラの歯ブラシを見つけてまた泣いた。  淡々と生きてきた。ぼんやりと、このまま一生仕事に時間を削られて生きていくものだと思っていた。それなのに隣に彼がいないだけでこんなにも涙が出る。  確かにこんな状態では仕事にならないかもしれないし、ジャマなだけかもしれないが、一応事務所の主として出勤する準備をしていた。それなのに椎葉は、いつもの調子できっぱりはっきりと、出勤したら絶交しますと言い切った。  思い出すと少し、笑ってしまう。辞めますとか殴りますとかじゃないところがいい。そうか僕は今日出勤したらしーばちゃんに無視されちゃうのか、それは仕事にならないなと思って笑った。 「いいですか、笑う所じゃないです本気です。ちなみに、事務所一同絶交します。完全無視を決行します。それが嫌ならおとなしく病院と自室を往復なさっていてください。は? 仕事? んなもん家でもできるだろういいかこっちはどうにかするから一週間くらい出てくるな。使う使う詐欺してる有給を使え」  言うだけ言って有賀の返事を待たずに、椎葉の通話は切れてしまった。  なんだか妙に既視感があり、なんだろうなぁと歯を磨きながらぼんやり考えた。あ、と思ったのはずいぶんと後の事で、今日は本当に思考が働いてないと実感する。  出勤したら絶交するから一週間くらい休みなさい一応うちには有給っていう制度もあるんだよ、と言ったのは随分前の自分だった。確か、椎葉の奥方のつわりが酷く、体調を崩していた時の話だ。  珈琲を飲みながらまた少し泣きそうになって、テーブルに額をつけて深呼吸をした。  ぐるぐると、いろんな事を考えてしまう。  考えても仕方のないことだ。サクラの容態は、今のところまだ検査の段階だ。それも、里倉伝いからの情報しかない。  すっかりぬるくなった珈琲を嘗めて、一度、大きく息を吸ってはいた時、チャイムが鳴った。  スワンハイツのチャイムは、何度直してもうまく鳴らない。その上定期的に壊れるものだから、呪いかなんかじゃねーの、と毎度直すサクラが苦笑いしていた。  緩慢な動作で時計を見る。まだ、というか、もう、と言うべきか。時刻は午前十時だった。  こんな時間に有賀の元を訪れる人間はほとんどいない。  首を傾げながらドアをあけると、そこには黒髪を結い上げた見慣れた男が立っていた。 「うわぁ……アゲハだ」  何も考えずに口から出た言葉に、笑うでもなく呆れるでもなく、目を細めた美人は少しばかり低めの声を出した。 「なんですかそのなんとも言い難い反応は。喜ぶか驚くか分かりやすく表現なさい」 「充分びっくりしているよ。僕は午前中に、君の顔をみたことがない」 「奇遇ですね、私も午前中の世界を久しぶりに拝見いたしましたよ。早起きで目が開かない。朝から歩いて非常に健康的な気分を味わっています。全くもって献身的で驚いていますよ自分でも。さあ、その献身的な客を立ちっぱなしにしておくのも、どうかと思いますけどねぇ」 「……お客さんならお客さんらしくしなよ。散歩の途中に寄ったみたいな顔してたから、僕の狭い城に入れて良いものか悩んでた」 「午前中に散歩するだなんて酔狂なこと誰がするものですか。――ああ、まあ、思ったよりはマトモですね。今ごろ涙で溶けているかと思いましたよ」  やはり、事情を知って尋ねてきたらしい。  靴を丁寧に揃える既知の友人を眺めながら、誰に聞いたのか問えば、倉科だと答えが返ってきた。 「昨日お店に来てくださいまして。随分と心配してらっしゃいましたよ」 「ああ、そうだシナくんにも連絡してあげなきゃ……でも僕、そこまで詳しくサクラちゃんの容体把握してないんだよね……」 「サクラさんの事もですが。アルの事も大変気にかけていました」 「……僕?」 「ふらふらだったそうじゃないですか。アルが仕事の徹夜以外でふらふらだなんてそれは異常事態です。暫く前でしたら、ついに行きずりの女子にでも捕まって妊娠騒ぎにでもなったのかと思ったところですが」 「…………僕をなんだと思ってるの」 「人生適度に遊んでいるタラシだと思っていましたよ。貴方が、サクラさんに会うまではね」  温くなった珈琲を淹れなおすついでにと、来客用のマグカップに珈琲を注いだ。さっきまで有賀の枕となっていたローテーブルの向こう側に、何も言わずにアゲハが座る。  必要以上の遠慮はしないところが好きだと思うし、こちらも気を使わなくて済むから楽だ。言葉で謙遜し合うのは、疲れている時にはとても消耗する。  いただきます、と頭を下げてから、アゲハは熱い珈琲に口をつけた。 「誰かと喋っていた方が、気が紛れるでしょう。貴方は、一人だと吐くまで考えてしまうんじゃないかと。まあ、これは倉科さんのお言葉ですが非常に同感だと思いましたので、お仕事の彼に代わって馳せ参じましたのでどうぞ、お気づかいなく。少し煩い観葉植物か何かだと思っていただければ結構ですよ」 「かなり煩い、の間違いじゃないかな……ええと、いや、うん。嬉しいです。ありがとう。世界が僕に優しくて涙が出るし、僕なんかに優しくなくていいからサクラちゃんに僕の分の運を回してよって思うよ……」 「まあ、そうですね、その気持ちはわからなくもない。私も身近な人間を亡くしていますが――、私の寿命を差し出してもいいから、どうか殺さないでと世界に祈ったものです」  亡くす、という単語に息を飲む。有賀の反応を見て、アゲハは少しだけ眉を寄せた。 「サクラさんの容体は、よろしくないんですか?」  アゲハはいつも、言葉を濁さない。それがアゲハなりの気づかいだと知っているから、有賀はどうにか息を吸った。 「僕は、又聞きでしかないんだけど。里倉さんから聞いた話だと、一応脳の中の出血は無いって。だから、頭の手術の必要はない。ただ肺が傷ついてるみたいで気胸の症状があるってことと、あと、肋骨と鎖骨が折れてるとかヒビが入ってるとか。……あとはやっぱり、意識が戻らない」 「手術の必要がないなら、あとは目を覚ませば良いだけということでしょうかね」 「どうかな。頭を打ってた場合って、結構、何が起こるかわかんないんだって言ってたよ。ダメージがわかりにくいんだって」 「出血もないし、手術の必要もないのに、このまま目を覚まさない可能性も?」 「あるみたいだね。人間って、ほんと脆いんだなって、思ったらもう祈るしかできなくて、本当に、僕の寿命をあげていいから、目を覚ましてくれないと困る」  まだ、やりたいこともある。明日死ぬと言われたら絶望するくらいには、自分の命に未練もある。けれど、サクラが生きてくれるならば、それを差し出したって構わないと思う。  何もできないのがもどかしい。  せめて手を握っていたい。けれど、今はそれも叶わなくて、ただ一人で泣くことしかできない。  アゲハが居てくれて良かったと思う。本当に一人だったら、電話の音に怯えながら、ただただ泣いて溶けてしまいそうだった。 「サクラちゃんが、帰ってこなかったらどうしよう」  思わず、不安が言葉になって零れる。泣いても泣いても、涙が溢れる。  今朝あけたティッシュボックスが、もう軽い。目の下がひりひりして、痛い。それでも涙は止まらなくて、突っ伏したローテーブルが涙を吸った。 「私は。……貴方が、誰かの為に、そんなに泣くだなんて、思ってもいませんでした」  アゲハの淡々とした声が届く。そのいつも通りの声色が心地良い。 「あー……そう、かな。そうかも。僕は、格好つけで、ずっとふわふわ生きてきたから。しーばちゃんも、ゆきちゃんも、事務所のみんなも好きだけど、結構ちゃんと他人だと思ってるかもしれない。なんだろうな……なんでこんなに、サクラちゃんが居ないだけで、ダメなんだろう」 「そういうものですよ。恋愛なんて言葉、私は痒くて苦手ですけれどね。誰かが隣に居ないと生きていけない人生なんて、不完全で良いじゃないですか」  早く、貴方の隣にサクラさんが戻ってくるといいですね。そう言ったアゲハが少しだけ微笑んでいたような気配がして、また鼻の奥が痛くなってティッシュの箱を開けた。  涙を拭って、鼻をかんだ時、有賀の携帯が鳴った。思わずびくりと肩を揺らしてしまい、息が止まり、慌てて画面を確認する。  里倉ではない。椎葉でもない。知らない番号に首をひねりながらも、クライアントかもしれないとアゲハに断って通話ボタンを押した。 「はい、有賀です」  少しだけ鼻声で名乗った有賀の耳に届いたのは、聞き慣れない男性の声で、彼はゆっくりと名乗り有賀の呼吸をまた止めた。  今日、四度目の着信は、三浦夫妻からの電話だった。

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