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第4話
「本当に、どうも、わざわざすいません」
今村に借りた自転車で駆け付けた有賀に、アパート前に所在なさげに立っていた夫妻は丁寧に頭を下げた。
久しぶりに本気で自転車を漕いだ。太股が早くも痛い。
今村夫人用の自転車は有賀には少し低すぎて、結局途中から学生のように立ち漕ぎをしたのも響いているのだろう。
サクラのバイクの横に自転車を止めて、少し乱れた息のまま、同じように頭を下げた。コンタクトが入らなくて、適当に掴んできた眼鏡が落ちそうになる。
「いえ、あの……こちらこそ、お待たせして、すいません」
「お恥ずかしいことです。桜介が病院に搬送されたと聞いて、とにかく慌ててしまって……先ほど、病院の方に言われて初めて、私たちは桜介の部屋の鍵を忘れてきた事に気がついて」
三浦勝彦と名乗った父親は、少し背が低いもの静かそうな男性だった。四角い眼鏡が、表情を柔らかくしている。
その横に寄り添う清美夫人はふらふらと頼りない足取りをしていたが、夫と同じく丁寧に有賀に頭を下げた。
「里倉さんにお伺いしたら、有賀さんが、鍵をお持ちだということで……お呼び立てして、申し訳ない」
「いえ。あ、すいません、これが桜介さんの部屋の鍵です。僕が持っているよりも、御両親が保管して居た方がいいかと思いますので、お預けしていきますので、」
「あ、いや、有賀さんもぜひ、一緒に居ていただけると……」
「……え?」
「いや実はお恥ずかしい話ですが、あまり桜介の部屋に入った事が無くて。着替えや貴重品がどこにあるのかも、私たちはわからないんです」
そう言われてしまえば、帰るわけにもいかない。合鍵を持っているくらい親しい友人なら、確かに着替えの場所くらいは知っていると判断されて当然だろう。
本当は恋人だということを隠している有賀としては、どうも心苦しい。だが、予定があるのでと逃げるわけにもいかない。
きちんと話す機会かもしれない。有賀一人で勝手に決めて良い話ではないが、個人的には腹を括る覚悟は決めようと思った。
震える手がばれないように気をつけながら、部屋の鍵をあけた。
いつものサクラの部屋だ。時折、勝手に入って勝手に料理をするため、主が居ない部屋にも慣れてはいる。
ただ、彼は今、病院に居る。その事実を思い出す度に、頭がぐらりと振れそうになる。
先に入るべきか迷ったが、狭い玄関では夫妻に先を譲ることはできず、仕方なく有賀から先に靴を脱いだ。慌ててサンダルをひっかけてきたので、裸足だ。ひんやりとしたフローリングの感触が空寂しい。
スリッパを出した方がいいのか。そんなことまでするのはおこがましいのか。スリッパの位置は、普通の友人は知っているものなのか。
洗濯も掃除も、時間があれば有賀がこなす場合もある。スリッパの位置からクローゼットの中の靴下の場所まで、有賀は知っている。
どうでもいい事で迷っている間に、夫婦は玄関に靴を揃え、お邪魔しますと頭を下げた。自分の息子の部屋なのに、礼儀正しい人達なのだろう。
狭いキッチンを見渡し、夫妻は少し立ちつくす。コンロに置きっぱなしの鍋と、干しっぱなしのタオルが、いつも通り過ぎて有賀には辛かった。
「昨日は、桜介の病室にかけつけて下さり、ありがとうございました」
急に声をかけられ、頭を下げられ、言葉を失ったのは有賀だ。
玄関先に立ったまま、驚いて息を飲む。何と返したら適切か考えているうちに、勝彦は頭を上げて、静かな視線で有賀を見上げた。
「実は先ほど、看護師さんの呼びかけに桜介が少しだけ反応しました。どうやら、なんとか意識が戻りそうです」
「…………ほんと、ですか。――良かった」
良かった。
他に、言葉が出てこない。
サクラちゃんは帰ってくる。サクラちゃんは死なない。今のところ、の話でしかないことは一応理解しているが、それでも、足の力が抜けてしゃがみこんでしまった。
「外傷の治療と、あとは、脳にどれほどのダメージが残っているのか分からないとのことで、入院がどの程度長引くのかもまだわからないとの事でしたが。有賀さんに、きちんとお伝えしようと思いまして、御足労いただいたということもあります」
「……僕に」
「桜介と、お付き合いしていただいているのではありませんか?」
しゃがんだまま見上げた視線を外せなかった。心臓の音が一瞬凪いだような気がする。その後煩いくらいに耳に響いて、のどが渇くような感覚を覚えた。
ああ、これは緊張だ。
手が震えるような気がする。指先がぴりぴりとする。耳が痛い程の沈黙があった。それも、一瞬だったかもしれない。
迷ったのは一瞬で、考えるよりも声が出た。
「――はい。そうです」
掠れる声は震えていたかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
怖くて、視線を落としてしまった自分の不甲斐なさに涙が出そうになり、そして崩れ落ちる夫人を目のあたりにして、逃げ出したくなった。
顔を覆う夫人の背中を優しく撫でながら、勝彦は長い息を吐く。
それは溜息のようでもあり、怒りのようでもあり、悲しみのようでもあった。
有賀には、彼の感情を想像できる程の人生経験が無い。子供が居ない自分には、どう頑張っても理解などできない。
殴られるだろうか。泣かれるだろうか。それだけならば、まだいい。今後桜介とは一切連絡を取るなと言われたら、そしてそれを実行されたら、自分はどうしたらいいだろう。
サクラは今、病院に居る。このまま面会を拒否されてしまえば、もう、会うこともできないのではないか。
嘘を吐く度胸が無く、軽率に肯定してしまった。けれど、その判断はサクラにとっても有賀にとっても、最適なものではなかったのではないか。
ぐるぐると、頭の中を言葉が回る。息が重く、急に胃が重くなったように感じた。
伏せた顔を、上げることができない。
情けない。誰に何を言われようと、サクラの事を手放す気なんてないのに、今はただ、言葉が怖い。
それでもどうにか覚悟を決めて、泣いて叫んで頭を下げてでも自分の言葉を聞いてもらおうと顔を上げると、そこにあった光景に思わず息をのんだ。
崩れ落ちた夫人の横で、勝彦が床に頭をつけていた。
「申し訳ございません」
「…………え?」
何を言われたのかわからなくて、間抜けな声が出た。
何故自分は謝られているのか分からない。謝るのは、有賀の方では無いか。息子さんの恋人が、自分のような同性であることに謝罪することはあっても、謝られる由縁はない。
訳が分からずに冷たい玄関先に座り込んだまま、茫然とした後にハッと気が付き、頭を上げてもらうように慌てて言葉を連ねる。
「あの、三浦さん、ええと……どうして、こうなっているのか、僕はちょっとよくわからないんですが、とりあえず立って……頭を、あげて、せめて、あっちの部屋の方に……奥さんも、冷えてしまうから、」
僕が言うのもなんですけど、と言うのは皮肉すぎるかと思って飲みこんだ。
有賀の催促に、漸く頭と腰を上げた三浦夫妻は、寄り添うようによろよろと奥のサクラの部屋に移動する。
サクラの部屋は、特別シンプルというわけでもないし、雑多というわけでもない。車の雑誌が隅に積み上げられ、ベッドの上には少々乱雑に脱ぎっぱなしになっているティーシャツが転がっている。
軽くテーブルの上を片付けて、二つしかない座布団を並べて敷いて彼らに座るように促した。素直に従ってくれた夫妻だったが、テーブル向かいに有賀が座ると、またしても二人は頭を下げた。
「本当に。本当に、申し訳ございません」
「待って。ええと、待ってください。……なんで僕は、三浦さんに謝罪されているのかわからない」
理解も想像もできず、仕方なく直接的な表現で訊いてしまった。
ただでさえ色々な事があって感情が現状に追いつかない。脳味噌は振りまわされてばかりで、朝から全く使いものにならない。
涙を滲ませた三浦夫妻は、鼻水をすすりながら尚も頭を下げた。雑誌の上に転がっていたティッシュボックスを手繰り寄せ、テーブルの横に置き、有賀は彼らの言葉を待った。
「桜介が、同性愛者であることは、薄々と感づいていました」
話だしたのは、勝彦の方だった。静かで、ゆっくりとした声だった。
「同じ家に生活する家族でしたし、親でしたから……まあ、なんとなく察するものもありました。けれど、本人に確認したことはありません。それに、妻も私も、各々そうではないかと気がついていながらも、桜介が隠していることを良いことに、夫婦でその問題について確認し合うこともしませんでした。私たちが真剣にその事に対面したのは、昨日――有賀さんに会ってからでした」
家族に次いで、駆けつけてきた息子と同じ年頃の男性。そのあまりにも動転した状態を目の当たりにして、夫妻は気がついてしまったのだという。
彼が、息子の恋人だ。息子が事故に合ったと聞きつけて、血相を変えて、息を切らして駆けつけてくれる人間は、この男性なのだ。
その事実は少なからず夫妻を打ちのめした。
薄々感づいていたとは言え、こんな形で息子の性的指向を確認することになるとは思いもよらなかったのだろう。
その息子は、事故に巻き込まれて目を覚まさない。そんな状態でも、今を逃すともう、一生向き合えないと判断した夫妻は、息子の恋人の事を話しあったそうだ。
そして出た答えが、まずは謝ることだったのかと思うと、有賀は息をすることも辛くなった。
「貴方には、貴方の人生があった筈だ。桜介の人生に巻き込んでしまった事を、まずは、お詫びします。……そして、感謝します」
「……僕は」
だめだ、泣きそうだ。何を言っても声が震えてしまいそうで、大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「僕は、感謝されるようなことも、謝罪されるようなことも、何もしていません。ただ、彼の事が、とても好きなだけです」
血の繋がりも、戸籍の繋がりもない。まだ出会って一年少ししか経っていない。過ごした時間は圧倒的に少ない。
それでも、好きだという感情だけで彼の無事を祈ることを、悪いことだとは思わない。
暫くの沈黙の後、口を開いたのは夫人だった。
「いままで……ああ、もしかしたら、恋人ができたのかな、と思う時は、あったんです。でも、あの子は私達にはそう言う事は言わなかった。隠すのがうまい子で……隠した方が、きっと良いと思っていたんですね。私は桜介の好意に甘えて、知らない振りをしてきた」
震える声で、絞り出すように声は零れる。
「でもね、この前電話した時に、初めて恋人がいるということを言ったから……ああ、そろそろ、覚悟を決めなきゃなと思っていたんです。ついに私達は、男性の恋人とお話しなきゃいけないんだって」
真摯な夫人の告白を、有賀は言葉を浴びる思いで聞いた。溢れだす言葉を、つまんでつまんで、どうにか並べるような拙い言葉だった。
これが彼女の本心だということがわかるから、聞いているのも怖く、辛かった。それでも、耳をふさぐわけにはいかない。
「私はね、とても嫌で、とても怖かったんです。だって、自分の息子が男性とお付き合いしているなんて……テレビでは、そういうニュースをやったりしているけれど、想像なんてできなくて、このまま桜介が嘘をつきとおしてくれたらいいのになんて、そんな、いろんな人に呆れられてしまいそうな事ばかりを考えていました。今も、正直よくわかりません。気持ち悪いとは思わないけれど、良い事なのかとか、悪い事なのかとか……本当に、わらかなくてまだ茫然としていて。でもね、有賀さん、私ね、そんな私の感情とか世間とかそんなものは後回しにしても、これだけは言いたいの」
夫人は、一度言葉を切って有賀を見た。疲れ切った小さな中年女性だった。
きっと微笑めば少女のようなのだろう。その顔は憔悴しきっていて、感情が抜けたように哀れにも見える。ただ、言葉にもう迷いはない。
夫人の言葉を待つ勝彦も、同じ思いだというように真っ直ぐ有賀を見つめていた。
「桜介の隣に居てあげてください。目を覚ました時に、あの子の手を握ってあげるべきなのは、きっと貴方だから」
この言葉を言う為に、この人達はどれだけの時間悩み、そしてどんな思いで有賀をこの部屋に招いたのだろう。
この決意の為に、どれだけ泣いたのだろう。
それは有賀にはわからないし、想像もできない時間と感情だ。
涙をのみ込み、そしてその決意に感謝した。
サクラの両親が、サクラの事を一人の人間として大切にしてくれる人で良かった。自分たちの関係が許されたわけではないのは理解している。今は非常事態だから、彼らは自分達の感情よりも、息子の容体と回復を優先させたのだろう。
分かっている。理解している。それでも、サクラの隣に居てほしいと言われた事が、こんなにも嬉しい。
ありがとうございますと言うのはおかしいと思う。すみませんと言うのはもっとおかしい。適切な言葉を探しているうちに涙がぼろりと零れて、夫人の為に置いた筈のティッシュボックスを使う羽目になった。
有賀につられて夫人も泣きだしてしまい、全員が落ち着くまでに随分と時間がかかった。
どうにか三者三様落ち着いてから、そうだ着替えを詰めなければと本来の目的を奥方が思い出し、少し笑いながら一緒に準備をした。
旅行に行った時の鞄を見つけ、適当に下着とシャツとタオルを詰め込む。ハンコや通帳類の貴重品は、ベッドサイドのテーブルの引き出しの中だ。
準備をしながら、夫人と少し話した。どう接して良いのかわからないらしく、及び腰だったが、有賀は彼女がぽつぽつと語る幼いサクラのエピソードを興味深く聞いた。
目を見てくれないのは仕方ない。これから、きちんと話し合わなくてはいけないのだから、まずは、別れろと言われなかったのが奇跡だと思うことにした。
病院には先に行ってもらうことにした。有賀は自転車を今村に返さなくてはいけなかったし、適当な部屋着に眼鏡をひっかけた状態だ。
別にお洒落をしていく気もないが、せめて着替えてから行きたい。こんなぼろぼろぼ状態では、本当に目を覚ましたサクラに呆れられてしまうだろう。
二人をタクシーに押し込んでから、友人達にサクラの容体を伝える。一刻も早くスワンハイツに帰って着替えたいのだが、サドルの低い自転車は足に力が入らず、結局半分くらいは押して歩いた。
歩いている途中で、一度、足を止めて深呼吸をした。
サクラちゃん、目を覚ましたって。
……言い聞かせるように、小さく呟いて、こんなに泣いたら目が本当に溶けちゃうなと、少し苦笑した。
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