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第5話

 ぼんやりした視界の中で、最初に認識したのは有賀だったことを覚えていた。  どこだろう、という疑問はあまり浮かばなかった。今思えば、相当朦朧としていたのだろう。  動きにくさに眉を顰めた記憶はあるが、それがギブスで、所々の骨にヒビが入っているといった説明が理解できたのは、目を覚まして三日ほど経った時だったらしい。その間の記憶はずっとあやふやだ。  桜介はただ、気が付いたら病院に寝転がっていて、隣に居た有賀が泣きそうな顔で笑ったことしか覚えていない。  なんで有賀さんとうちの親が一緒にいるんだろう、と思ったような気がする。すべてぼんやりしていて、夢の中のように支離滅裂とした記憶だった。  現実はゆっくりと桜介に戻ってきた。  病院になぜ入院しているのか、ということをやっときちんと把握した朝、謝罪しようと思った両親はすでに実家に帰ってしまっていた。 「容体も安定したし、なんかぽやぽやしてたけど意識も結構はっきりしてたし、結局骨を折ってる以外に命にかかわる何かもないからって言って、一回帰ったよ。また週末になったら来るって話だけど、清美さんだけじゃないかな? 入院の手続きの書類とか、ハンコとか保証人とか必要だろうから、ちょくちょく顔を出すんじゃない?」  器用に梨の皮を剥きながら、有賀はいつもの澄ました顔で桜介のベッド脇の椅子に腰かけていた。先ほどまで里倉が座り、その直前には倉科が座っていた椅子だ。  命に危険はないと言っても、肋骨と鎖骨と左腕にヒビが入っている。その上軽度の気胸の症状があるとかで、どうにも息をするのが辛い。  意識がはっきりしてくると、痛みや辛さもしっかりと脳が把握するらしい。げっそりとした顔で横になる桜介だが、皆が一様に生きてて良かったと泣くものだから、この痛みもどうにか耐えようと思えた。  せっかく助かった命に、ケチをつけるわけにはいかない。息が苦しくても、薬が切れて全身が痛んでも、切った額のせいで左目が開かなくて不自由でも、まあ、生きているから仕方ないと思うことにした。  ほとんど記憶にないが、だいぶ凄惨な事故だったようだ。幸い死人は出ていない。  警察が何度か話を聞きに来たが、桜介が覚えているのは前の車のブレーキランプだけで、逆に何があったのか説明してもらったくらいだった。  前方不注意の信号無視で侵入してきた車に驚き、前方の車がブレーキを踏みスリップした。それに巻き込まれたのが桜介の車と、そしてあと二台程間に合わずにガードレールと中央分離帯に突っ込んだらしい。  事故後のバンの写真を見せてもらった時は、流石に言葉を失ったし、皆一様によく生きてたと泣いたことにも納得した。  前方が潰れた無残な車に乗っていたのが里倉だったなら、間違いなくこれは死んだと思って崩れ落ちる。  いろんな人に心配をかけた。迷惑をかけた。  けれど、とりあえず生きていてよかった。死んだら、謝ることもできない。感謝することもできない。  特に毎日することもないものだから、そんなことばかり考えると言うと、剥いた梨を齧りながら有賀は笑う。 「言葉に重みがあるよね、ほんと。人間ってどうしても、自分だけは大丈夫って思っちゃうんだよねぇ。僕が事故にあうわけない。僕の恋人が病気になるわけない。ましてや死ぬはずがないって、あれ、なんでかねぇ。いざそういうことが起こるとダメだね、パニックになって、茫然としちゃう」 「あー……なんか、そうだなー俺多分今回一番迷惑かけて一番死ぬほど謝んなきゃいけないの、絶対有賀さんだよなー……仕事休んでるんでしょ?」 「うん。でもまあ仕事は休んだって言うか休まされましたので、別にいいんじゃないの。家でちょこちょこやってるし。僕は社員一同に絶交されたくないし」 「いいよなぁ有賀さんとこって、なんかこう、毎日過酷な筈なのに和むよなぁなんだよ絶交しますってかわいいだろそれ。もうさ、いろんな人に迷惑かけてほのぼのしてる場合じゃないんだけど、ちょっとうふふって思っちゃったよ。あー……かわいい。生きてて良かった。あと梨俺も食べたい」 「ダメ。食べて良いのか聞いてからね。多分大丈夫だとは思うけどまだおかゆでしょサクラちゃん」 「亮悟の見舞い品が有賀さんに食われていく……」 「むしろ社長が食べてくださいって言ってたじゃないの。退院したら梨狩りにでも行けばいいよ。僕、果物狩りって行った事ないんだよね。結構果物食べる方だから、いつか行きたいんだけど、そういえば機会がなかったな」  うまく骨がくっつく目途が立ち、肺の傷が塞がれば退院はそう遠くない事らしい。ただ、日常生活がすぐに送れるようになるわけではないだろう。仕事に復帰し、生活が元に戻るまでには時間もかかるだろうし、少し長い療養になるだろうから、すぐには纏まった休暇は取れない筈だ。  来年かなぁと呟く桜介に、そうだねぇと有賀は返す。  いつも通りのぼんやりとした有賀の声に、桜介は痛み以外の感情を胸に抱いていた。  先ほど、里倉が見舞いに来た際に、有賀は席を外してくれた。  ぼんやりとした記憶の中で、両親と有賀が一緒に居た事は覚えているが、どうしてそうなったのかは実はあまり分かっていない。説明されたのかもしれないが覚えていない。今更聞くのもどうか思い、なんとなく、本人には聞けずに居た。  ねえ有賀さん、俺の病室になんて名乗って入って来たの、なんて聞けない。  だから少し卑怯だと思ったが、桜介は里倉に事故後の説明を求めた。里倉は、どういう話が三浦夫妻と有賀の間にあったかはわからないと断りを入れ、有賀から『恋人だってばれました』と言われたことだけは確かだと告げた。  ああ、やっぱりそうか、と思う。  ふんわりとしか覚えてないが、有賀はいつも通り桜介に甘かったし、両親は一歩遠くで見守っている様な雰囲気だった。友人だという認識だったならば、桜介の隣にいるのは両親である筈だし、有賀も一歩引く筈だ。  その遠慮がなかったということは、両親と有賀の間で何かがあったのだろう。  その話もしなきゃなぁと思う。けれど、今は事故からようやく意識が復帰したばかりで、身体も痛いし息も辛い。喋る事はどうにかできるが億劫だ。相手が有賀でなければ、できることなら黙っていたい。  有賀もそれをわかっているらしく、比較的ぼんやりと隣で桜介を眺める時間が多かった。  退院しても、今まで以上にべったりとくっついて来そうだ。心配をかけた自分が悪いのだけれど、そんな風に離れることに不安を抱かせてしまうことに申し訳なさを感じる。  自分だって有賀が倒れて意識が無い、死ぬかもしれないと言われたら、世界が終わるような絶望に襲われるだろう。それは想像でしかないが、実際に有賀はその体験をしたはずだ。  桜介が目を覚ました時、有賀は眼鏡だった。  今更そういえば眼鏡だったねと何気なく口にしたら、泣きすぎてコンタクトが入らなかったと言われて言葉を失った。そんな風に泣かせてしまった事を、どう謝ったらいいのかわからなくて、ごめんと言ってキスをしてもらった。  そろそろ腹を決めようと思っていた。それが、こんなに急に形になるとは思っていなかった。隣に居てほしいのはこの人だと思っていたけれど、本当に隣に居ないとダメなんだなぁと実感する。 「俺さー……ぼんやーり目を覚ました時に、有賀さんが居て、なんか、自分がどうなってんのかとかそういうの全部後回しにしちゃって、とりあえず安心しちゃったんだよね」  ふんわりしたガーゼのような記憶を思いだし、梨の後片付けをしている有賀に話しかける。  二切れだけ残して冷蔵庫に入れた有賀は、手を洗ってから首を傾げた。さらりと金色の髪の毛が落ちて、ふわりと笑う。いつもの有賀の頬笑みに安心する。 「嬉しいね、それ。一生懸命神さまに祈った甲斐があったね?」 「いやなんか、もしかしたらここが地獄でも天国でも、とりあえず有賀さん一緒だからいいや、みたいな……」 「あれ、僕も巻き込まれて殺されちゃった」 「いいじゃん。俺、すんごい不謹慎だけど、有賀さん一緒なら死んでてもまあいいかって、思っちゃったんだよ」  助かった命にそんな軽々しいこと言えないけど。そう笑うと、急に有賀が押し黙る。  やはり少し不謹慎だっただろうか、と不安になる。しかし有賀は、とても静かな声でちょっといいかなと首を傾げた。 「ちょっとだけ、個人的に大事な話をしようと思うんだけど。……横になったまま聞く? 身体起こす?」 「なにそれこええ。有賀さんが改まるって、ホント怖いからやめてよ。大概それ俺の人生も一緒に巻き込まれるやつだって知ってんだから。……起こすからちょっと手伝って」  横になって居た方が圧倒的に楽だと知っていても、そんな前置きをされては寝たまま話を聞く勇気もない。  有賀の思考回路は突拍子もなくて、時々桜介の理解の範疇を超える。こんな風にふわふわと梨を剥いて二人で笑いあっていても、やっぱりこれからの事を考えたら別れようと思う、などと言わない保証はない。  多分、無いとは思うけれど。そういう重い決断は、一人でしない人だとは思うけれど。  そわそわしてきて、怖くなってきた。無理に笑おうとしたら、縫った額の傷がひきつれたようで顔に痛みが走る。  覚悟を決めるまでの時間は、多分桜介の方が早かった。  じっと見つめていると、息を吸って吐いた有賀が、意を決したように桜介の自由な右手を握った。目が覚めた時、有賀が握ってくれていた右手だ。  ゆっくりと愛おしむように、体温が触れる。  微熱が続く桜介には、体温の低い有賀の手はいつもよりももっと冷たく感じる。それなのに暖かく愛おしいのは、彼の事を、とても大切に思っているからだろう。 「あのね」  まつ毛長いな。かわいいな。かっこいいな。好きだな。そんなとりとめのない事を考えながら、桜介は有賀の言葉を待った。 「僕と、結婚してくれませんか」  そして、そのまま言葉を全て忘れてしまった。  本当に真っ白になった。理解できなくて、冗談だよねと茶化すことも忘れて、息をすることも忘れた。  その後に声を出そうとして一度噎せて、肺の痛みに泣いて背中をさすられてから、息を整え終わった頃にまた有賀は口を開いた。 「僕は別に、家庭っていうものを作ろうとか思って無いし、繋がりなんか無くても世界で一番大切なのはサクラちゃんだしって、思ってたんだけどね。でも、今回サクラちゃんがこんなことになってね、病院に駆けつけてから気がついたんだよ。そうだ僕、サクラちゃんの家族じゃないんだって」  有賀の視線は穏やかで、けれど、桜介から一瞬も外れない。 「僕は、サクラちゃんの家族になりたい。君に何かあった時に、一番にかけつける権利を僕にください」  目が熱い。鼻の奥が痛い。息がうまくできない。有賀の顔が、滲む。  ああ、泣いてるんだ。だからこんなに、目が痛いんだ。前が見えないんだ。  桜介がそう実感した時、暖かい液体がぼろりと頬を伝った。

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