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CIGAR×SUGAR 3

 アマミヤという日本人は、実に不思議で、どうにも面白い人間だった。  そのことにニールが気付いたのは、会って二日目、初めて部屋に入れた日の事だ。  自分から声を掛けてきたくせに、どうも腰が引けていた。その割にキスには甘い息を洩らす。とろりと舌を絡めた後の潤んだ瞳は快感に溺れ、濡れた唇を見ているだけでまた貪りたくなる。  女性とは違う。アメリカ人男性の骨格とも違う。不思議な細さは心地よく手に馴染み、抱き寄せると足が絡んだ。  そんな甘いキスをする癖に、一度離すと距離を取る。  まあ、いきなり心を許されたり口説かれたりしても困るので構わないのだが、それにしても猫みたいな男だ。そう思うと、急に部屋に居る事が自然に感じた。  会話のテンポも速い。慣れない英語の割に頑張っている。小気味いい会話は思いのほか気持ちのいいものだった。  そう言えば最近は客としか会話をしていない。もしくは口を開けば嫌味を言うタイミングを待っている同僚共か、売上目標をひたすらつりあげてくる上司くらいだ。  久しぶりに気を許してしまったかもしれない。思いのほか仕事の愚痴を洩らす男が哀れになったのかもしれない。何にしてもニールは三日ぶりに料理をした。  作ることが苦手なのではない。一人で作って食べるという行為が面倒くさいだけだ。そこに誰かが居れば、その誰かと喋っているうちにサンドイッチくらいは作れる。  ライ麦パンにチーズとパストラミをたっぷり挟んだルーベンサンドに、トマト味のクラムチャウダーを添えて出すと、アマミヤの猫のような目は驚愕に見開かれていた。  思い出すと少し小気味良い。  甘い顔で微笑むあの男が、きらきらした少年のような瞳で見上げてきた瞬間は、どうにもたまらないものがあった。駄目男の餌付けにハマる女の気持ちが、わからなくもない。  特別うまくもない食事を、アマミヤは奇麗に平らげた。その顔を見ていたらつい、驚かせたくなって久しぶりに翌朝スーパーに顔を出してしまった。  缶詰が材料のクラムチャウダーと、冷凍庫に残っていたパンとパストラミで感動していた男は、適当に作ったニールのミートボールにやはり目を見開いて、そして「ずるい」と呟いた。 「……料理出来るんじゃないですか。出来るならしたら良い」  まったくその通りだが、やはり一人では面倒くさい。アンタが居るからまあ作ってもいいと思える、というようなことを言うと、机に崩れ落ちて照れていた。  日本人は感情がわかりにくい、という話を聞くが、きっとあれは嘘だ。こんなにわかりやすい人間を、ニールは他に知らない。  酔狂なノリだけで始まった『煙草代わり』の関係は、どうしてか不思議に良好に進んでいた。  アマミヤが家に居る間は、ニールは煙草を吸わない。  口が寂しくなり手が勝手に煙草を探すと、それをくわえる前にアマミヤの口を塞いだ。  濃厚なキスを思い返している間はニコチンの摂取も減るらしい、ということにも気がついた。比較的少ない時間を喫煙室で過ごし、今日も数人の女性と一人の男性から契約を取りつけ、金を絞り取る書類にサインをさせ、あとの手続きは事務方に任せ、早足にタイムカードを切った。  元々時間外労働をする質でもなかったが、ここ一週間は特に退勤する時間が早い。  定時と同時に颯爽とコートを羽織るニールを眺める同僚達の間に、『ニコチンモンスターはついに恋をしたに違いない』という噂が立っていることを昨日知った。  どこの誰かは知らないが、きっと夜九時上がりの女だ。もしくはストア店員だ。彼女のハートを射止める為に、ニール・ノーマンは血相を変えて会社のドアをまたぐのだろう。  ――…そんな噂を知った時、不快に思うよりも皆暇なのだなと感心してしまった。  噂の真偽はどうあれ、そんな他人の事情を妄想し口を動かしている時間があるのならば、一人でも多くの顧客を取り、そして書類を片づけた方が良いだろうに。  実際は女性に会いに行っているわけではなく、閉店間際のスーパーに駆け込んでいる。そして売れ残りの野菜と肉と魚を物色し、適当に料理をし、アパート向かいの薬局店員の男を迎えに行く。  さて適当なレシピは一通り試してしまった。特別好きでも得意でもない料理のレパートリーなどたかが知れている。ミートボール、クラムチャウダー、シチュー、サンドイッチ、ベイクドポテト、ポーク&ビーンズ。  普段は週末に作るか否かというラインナップだ。さりとてわざわざ本を買ったりレシピを調べたりする程のものでもない。  早足でマフラーを巻きながら手袋を嵌め、すれ違う同業者とおざなりな挨拶を交わしながらエントランスまで来た時、後ろから声がかかった。  その甲高い声を耳にしたニールは、もう少し早く歩いていたら、と瞬時に後悔した。舌打ちを隠さずに勢いつけてターンすると、受付の向こうから優雅に歩いてくる女性が見えた。  タイトなツーピースのスーツに、長身が映える。ヒールのせいで視線はニールとほとんど変わらないように見えた。いつ見ても圧迫感がある女だ、と思うが言わない。ニールがカリテス社に入る前からの顔見知りであっても、一応上司である。  重い瞼にぼってりとアイシャドウを乗せた女は、厚い唇で魅惑的に笑う。 「ちょっと、そんなに急いで何処に行くのよ稼ぎ頭。たまには上司の接待とかしてみてはどうなの? 媚を売ることも出世には大切じゃない?」 「……どうも、ミス・メイスン。忠告嬉しいよ。でも残念ながら出世には興味ないんで。帰って良い?」 「まー冷たい部下だこと。お姉さまにチクってやろうかしら」 「どうぞ。笑って流されるのが落ちだと思うけど。俺が失業しようが億万長者になろうがあの人はずっとにこにこ笑ってると思うよ」 「……反論できないわ。どうしましょう」  ワザとらしくシナを作るミス・メイスンの笑顔は大雑把で、派手な化粧が良く映える。嫌いな顔ではない。ただメイスンの方が年下はお呼びでないという性格だったので、姉の友人という立場の彼女と過ちをおかしたことはなかった。  カリテス社NY支店のボスである彼女は、今やキャリアウーマンの憧れの的だ。メイスン女史に気に入られていることも、他の同僚がニールをやっかむ理由の一つだった。  仕事上で特別贔屓をしてくる事は無い。むしろ厳しいくらいで、ニールの売上目標だけが異常に高い数値設定をされている。  その数値を優に上回る売り上げをすでに出しているニールも怪物なのだが、本人は煙草をゆっくり吸える環境と金があれば、後はもうどうでも良かった。 「で、用事はアフターのお誘いだけ? 仕事の話じゃないなら帰る」 「本当に愛想が無いわね……それでよくブラックメンをやってられるわ」 「俺はサングラスしてUFOを追いかけまわしたりしない。販売スタッフの制服を黒スーツ指定にしたのはアンタだって聞いたけど?」 「男も女も黒が似合う人が一番美しいわ。ネクタイも黒。スーツも黒。それに映える肌の白さが美しいのよ。美はいつだってモノクロだもの。あなたもその制服お似合いよ」 「そりゃどうも。で、用件は」 「せっかちさんねぇ。仕事中はあんなに根気よくお客様を口説くくせに。……用件は言付け。お姉さまからよ、来週のご予定どうするの、電話くれないんだもの、ですって。さっさと電話してあげて、にこにこ女が一度涙を流し出すと止まらないのよ」  そういえばそんな伝言が留守電に入っていたような気がする。うっかり、アマミヤの乱入で生活が慌ただしくなり忘れていた。  すぐに電話する、と言い捨てて踵を返そうとしてからはたと思い立ち、ニールは首だけで振りむいた。 「あんたんち、昨日の夕飯何?」  メイスン女史はシングルマザーで、家に帰るときちんと家事もこなすらしい。その話を思い出した。いきなり夕飯のメニューを聞かれた女上司は、珍しく目を見開いて、バチバチと音がしそうな程瞬きを繰り返す。 「フィットチーネアルフレッドだけど」 「高カロリーだな……あー……生クリームとバターと、チーズ、だっけか」 「そうよ。え、あなたが作るの? まあ、簡単だけど……噂の意中の彼女はお料理出来ない子?」 「意中でも彼女でもないけど料理は出来ないな。参考になった。チーズ買って帰る」  否定したところで噂は止まらないだろうし、実際問題どうでもいい。それで仕事がし辛くなるわけでもない。現状ほとんど同僚と会話をしないニールにはどうでもいいことだ。  パスタはそこまで好きでもないが、たまに食べるくらいならば飽きもしないだろう。最初に生クリームを鍋に入れるのか、それともバターか。手順が怪しいけれど、まあ、なんとかなる。腹に入れば結局一緒だし、あの奇麗な顔の割に料理ができないらしい日本人は、案外なんでも喜んで口にした。  電車を降りて歩きながら姉に電話を入れ、連絡をよこさないことへの小言を頂戴し、なだめ、来週末にレストランの予約を入れられた。また、魚料理を食べながらにこにこと笑う姉の話をぼんやりと聞かなくてはいけない。  母は酒乱だった。父は他の女の元に逃げた。そんな家庭環境では、祖父母と歳の離れた姉が親代わりだった。  姉の事は好きだと思う。それでもどうも、恋愛小説で財を成した姉の話は非凡で、不思議で、時折わけがわからなくて、笑うべきなのかどうなのかわからない時がある。良くも悪くも世間からずれている人だった。  愛しているが苦手だ。好きだが面倒くさい。そんな肉親に対する独特の感情を久方ぶりに思い出しつつ、最近すっかり通い慣れたS&Cストアのドアを潜った。  いつもの胸の大きなラテン系女性が、白い歯を見せて笑う。外は寒いし中で待つようにと言われたので、大人しく店内で彼を待つようになった。アマミヤがどういう説明をしているのか知らないが、店員達は概ねにこやかにニールを迎えた。  ふと違和感を覚え、じろじろと彼女を観察してしまう。その違和感の正体に気がついたのは、店内に流れる陽気なゴスペルの題名を思い出した時だった。 「ああ。……クリスマスか」  彼女の豊かな黒髪は、今日はまとめられておらず、頭の上には赤と白のサンタ帽が乗っている。  思わず零したニールに対し、大きな口で彼女は笑う。 「もう聖なる日まで二週間よ、ミスター。それにしても気が早いとは思うけど、本社の命令なの! 飴先生もいつもの白衣にサンタ帽子よ」 「……飴先生?」 「ミスターアマミヤの新しい呼び名よ。日本でのあだ名を教えてもらったの」  外国人が何を考えているかわからない、とニールの部屋で零していた割に、随分と仲良くしているらしい。  にこにこと笑う胸の大きな彼女はいつも親切で、ニールが来店するとちらちらと視線を送ってくる。きっと時間と場所を告げるだけでベッドの上に招待できるだろうが、生憎とニールの予定はその『先生』の方に押さえられている。  ああそうか、もうクリスマス前なのか。そんな事にも気がつかなかった。姉との食事の日に、クリスマスプレゼントも持参しなければいけない。  頭の痛い事実に気が付き、やはり断ればよかったと後悔しているうちに、目の端に赤い帽子が映った。細身の体に白衣が似合う。成程、言われてみれば病院勤めや研究室のプロフェッサーかドクターという風貌でもある。  店の奥から出てきたアマミヤは似合わないサンタ帽子をかぶったまま、レジ横に立つニールを見つけると些かホッとしたように表情を崩した。  その微妙な変化に気がつかないふりをして、手を上げる。 「……驚く程似合わないな、ドクター・キャンディ?」 「…………自覚しています。そのあだ名はダイアナから聞きました? もう、だから、私の名前はキャンディではなくてレインの方だって言ってるのに、みんな面白がって……」 「仲良さそうでいいじゃないか先生。いいな、俺もそう呼ぼう。アマミヤっていうのはどうも、口がうまく回らない。今日は残業? 先に帰る?」 「いえ、もう上がります。すいませんコートを取ってくるのでもう少し、」 「あの、アマミヤ先生……っ」  アマミヤの声を遮るように、控え目な女の声が聞こえた。  彼の後ろから追いかけるように現れた女性は、まだ学生のバイトかもしれない。幼さの残る、少々肉付きがいいピンクのルージュの少女だった。  美人の部類だが如何せん化粧が合って無い。ルージュもシャドウもチークも、もっと薄く引いた方がいい。ごてごてしたメイクが似合うのは、もっと歳を取った美人だけだ。  ニールがそんな分析をしている間に彼女はアマミヤに追いつき、彼の白衣の裾を引っ張った。 「先生、あの、これから時間ある? わたし、ちょっとレジでわかんないことあって……」 「あー……すいません、人を待たせていますので、ちょっと今日は――…明日の昼間なら大丈夫なんですけど。明日はお仕事じゃないですよね?」 「……じゃあ、明後日の夜は」 「夜は無理なんですよ。帰って片づけなきゃいけない書類が山ほどある」  嘘だな、とニールは思う。大概アマミヤは日付の変わる直前までニールの部屋に居る。驚くほどアパートが近いらしく、あまり治安や時間を気にせずにだらだらと過ごすことが多い。仕事に追われているのは事実だろうが、とても自宅で作業しているとは思えない。  成程どうやら、アマミヤはこの少女に猛アタックを受けているらしい。  それがわかると、ニールの指は自然と小さなリズムを刻みだした。これは、煙草が吸いたくなる時の兆候だ。そして煙草が吸いたくなるということは、自分は苛立っているということだ。  どうにかこうにか理由をつけて少女を振りほどいたアマミヤは、数分後に飴色のコートを羽織ってサンタの帽子を脱いで出てきた。  連れだって店を出る。外の寒さに反射的に首を竦め、白い息を吐いて空を見た。 「すいません、お待たせしました」 「本当に。……正直走って帰りたいくらいだ」 「え。今日は何かお急ぎの用事でも……? あ、私お邪魔ですか?」 「違う。一刻も早く煙草が吸いたい」  そう囁く際に、ほんの一瞬唇を指で撫でる。瞬間、ふわりと赤くなる顔に満足して、ニールは早足に自宅を目指した。  恋も愛も面倒だ。そんなものはご免こうむる。じゃあこの苛立ちは何だと訊かれたら思い当たるものはひとつしかなく、その答えにどうやって反論しようかと、そればかりを考えた。

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