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CIGAR×SUGAR 4

 ニールはヘビースモーカーだということ以外は、ほとんど完璧な人間ではないか、と、雨宮は結論づけた。  本人は俳優の様なハンサムではないと言い張るが、白人の顔の区別があまりつかない雨宮には十分美丈夫に見える。立っていても座っていても目立つ猫背も、完璧すぎないアクセントになって嫌いではない。  会話に必要な知識も、配慮も心得ている。愛想は無いが不快ではない。笑わないだけであって、侮辱され、理不尽な言葉を投げつけられることもなかった。態度だけならきわめて紳士的だと思う。これも、本人は否定するだろうが。  かの有名な高級美容サプリメント会社でもトップクラスの営業成績だと小耳に挟んだ。勿論、年収もとんでもない額なのだろう。  一人だと作るのが面倒だと言っていたニールは、雨宮が夜訪問するようになってからは料理をするようになった。二人分の材料を消費しているわけだし申し訳ないからとドル札を渡そうとすると、大して変わらないし煙草を控えている分浮いたから、と、突き返された。  結果、雨宮は愚痴を言える相手と時間と毎日の夕飯を、キスと引き換えにほとんど無料で手に入れてしまった。  ただこのキスが、非常に頭を悩ませる原因でもあった。  ニールのキスはうまい。今まで出会ったどの男よりうまい。そして煙草代わりのキスはニールの部屋に居る間、ほとんど常にしていると言っていい程頻繁で、ほぼ五分おきに雨宮は唇を奪われる。  頭の芯まで蕩けるようなキスは、身体の奥の快感までじわりと引き出す。そのまま押し倒されて組み敷かれたい。腰を支える骨ばった手で煽られ、弄られ、そしてのぼりつめ溜まった欲を吐きだしたい。  その欲望に耐えられなくなり、何度か危うく抱いてと迫りそうになった。その度にささやかな理性が、彼はゲイではないし抱いてはくれない人だと頭の奥で身体を押しとどめた。  ニールはゲイではない。キスは、煙草の代わりでしかない。  口を合わせること自体は楽しんでいるような気配があるが、それ以上を求められることも、口説かれることもない。  ストレスのはけ口にセックスを求めるには、ニールはあまりにも出来た人間すぎた。折角友人のように付き合ってくれているのだから、無茶な要求をして愛想を尽かされては困る。  そうは思うものの、やはり身体は熱を求めてしまう。自重しなかった乱雑な性生活のツケが、まさかアメリカまで来て回ってくるとは思わなかった。  ついに昨日は淫らな夢で目覚めるという、中学生のような事態になってしまった。  その夢の中で雨宮の身体を激しく抱いていたのはやはりニールで、しなやかな肉体に組み敷かれ貫かれ、甘い声を上げる夢は実際の雨宮の身体も興奮させてしまった。  目が覚めた後どうがんばってもその興奮は収まらず、久しぶりに朝から自慰をした。夢の後味を頼りにニールの指を妄想し、あの低い甘い声を耳に吹き込まれる妄想は、至極甘美だ。ものの数分で手の中に放ち、暫く羞恥と興奮で動けなかった。  その罰があたったのか。新しく取ったバイトのフリーターは喋ってばかりで、もう一人の女子大生は雨宮に構ってほしくて仕方ないらしく小さなミスで何度も呼ばれ、いい加減辟易した。  どんなに約束の十時が待ち遠しかったことか。  雨宮の適当な言い訳を、ニールはさぞ面白おかしく聞いていたことだろう。どんな風にからかわれるのか、と多少覚悟していたが、部屋に入って玄関先でキスを堪能した後も、ニールは特に彼女の事について言及してこなかった。  別に、雨宮とニールは付き合っているわけではない。友人かと言えばそうでもないし、個々の恋愛事情などどうでもいい話ではあるのかもしれない。  雨宮はニールがダイアナと軽く挨拶を交わすだけで、どうにももやもやしてしまうのに。良い男が、女性に持って行かれてしまうのは悔しい。  ダイアナは比較的話が通じるスタッフだが、彼女がニールと付き合い始めてしまっては、自分は誰と食事をしたらいいのだろう。暖房だけが暖かい部屋で、冷たい食事を取る日常には、もう戻れそうにないのに。  昨日の夢を思い出しながら、ネクタイをほどく指を見つめつついつものようにコートを椅子にかけ、一応『手伝いますか?』とお伺いを立てながら、そんなことを考えていたのだけれど。 「あー……そうだな、じゃあ、サラダ作る?」  返って来た言葉に、胸のもやもやや夢の興奮どころではなくなった。  今までは雨宮が声を掛けても、邪魔だからそこにいろと言われるだけだった。それでも待っている時間も手持無沙汰で、時折ニールにキスをされる以外は本当に暇だった。何か出来る事があるのなら手伝いたい。……ただ、『できることがあるのならば』という話だ。 「……自慢じゃないですが私、料理に関しては本気で不器用ですよ?」 「察してるよ。これだけ適当な俺の飯に感動してる男が、シェフ並の一品を作りだしたらこっちだって困る。サラダなんか切って皿に乗せるだけだし、まあ、手さえ切らなければなんとかなるんじゃない?」 「手さえ、切らなければ……」  実はそれも怪しい、とは言えず、神妙な面持ちで雨宮はシャツの袖のボタンを外して腕まくりをした。ニールはすでに着替えていて、いつもの深いグレーのざっくりしたセーターを、同じように腕までまくっていた。  白人の肌はシミが目立つ。特に紫外線に弱いので、ニールの腕はかなり黒ずみ変色している部分もあったが、そんなことよりも骨ばった指が目に入り、緊張と共におかしな興奮もぶり返す。  ただでさえ不安な包丁使いが、より一層不安になる。  パスタの袋を開けてお湯を沸かしているニールの横で、とりあえず手を洗い硬直していると、アボカドと卵とトマトを渡された。 「鳥肉は昨日茹でて残っているやつを使えば良いし、ベーコンを焼くのは面倒だからコンビーフにする。センセイがやることは、卵を茹でて切って、アボカドを剥いて切って、トマトを切って並べてあとはドレッシング作って上からぶちまける。これでコブサラダもどきの出来あがりだ。ほら、簡単」 「……アボカドって、これ、どうやって切るんです……?」 「あー……そっからか。オーケー、種抜くまでは俺がやる」  テキパキとパスタを茹でつつ、同じ鍋に卵を入れつつ、呆れた声のニールにアボカドを取り上げられる。魔法のように器用にぐるりと切れ目を入れられ、そのまま身を回され、アボカドは真っ二つになった。  奇麗にはがれた種を見て、思わず感嘆の声を上げてしまう。 「すごい。アボカドの種って、こんなに奇麗に剥離するんですね」 「後は皮をむいて切ればいい。こっちが皿。なんとなくそれぞれ材料を縦に並べてくれたらいい。できる?」 「……がんばる」  心もとない返事だということは理解してくれたらしい。  珍しく苦笑のような表情を返され、そちらが気になったが、大人しくナイフに集中する。  お湯の中にパスタを投入したニールは、手際良く別の鍋に生クリームを入れて火をつけた。煙草を咥えたら、最高に絵になるだろう。そう思ったタイミングで、思い出したようにキスをされ、つるりと丸いアボカドが落ちそうになる。 「あの、料理中は、危な……だめ、ほら、滑って刺したらどうする、」 「じゃあ煙草吸って良い?」 「……だめ。わかりました、する前にするって言ってください、そしたら包丁を置きます」 「安全第一だな。確かに俺も料理中にうっかり刺されたくは無いけど。……じゃあ、キスしていい?」 「………………」  これはこれでいけない。低い、甘い声でそんな風に訊かれてしまうと、口説かれているような気分になる。  思わずとろんとした気分で目を閉じてしまい、手が濡れていたせいで背中をかき抱くこともできず、舌が触れる濃厚なキスなのにお互い手は宙に浮いたままだった。  恋人がキッチンでするキスみたいだ。  そう思うと、胸がぐっと詰まる。急に泣きたいような気分になって、何度も舌を求めてしまった。 「ふ…………っ、……ん、ぁ…………きょう、ちょっと、ええと………ん、ふ……シナモン……?」 「あたり。ヒントミントのシナモンタブレット。煙草の匂いは?」 「……します。でも、シナモンの方が強い、かも。減煙、成功してます?」 「多分ね。少なくとも買う量は半分になった。優秀な煙草の代わりが居るから」  下唇を舐められて、もう一度舌を絡める。ぎゅっと抱きつきたかったが、手がアボカドまみれだった。  キスの後は、何事もなかったかの様にニールは鍋にバターを溶かし始める。どきどきして、動揺しているのは雨宮だけなのだろう。それも悔しいが、今のところこの男のポーカーフェイスを崩せる手札など持っていなかった。  こっくりとした濃厚な匂いが部屋に漂う。いつの間にかフィットチーネは茹であがり、チーズを削っていたニールが、控え目に雨宮に声を掛けた。 「あー……センセイ、手伝おうか?」 「いいえ。一人で出来ます……たぶん」 「卵の殻を剥くのに五分かかってるけど」 「不器用なんです……! もう、先に食べててください。ていうかもう切らなくていいんじゃないですか? 胃に入れば一緒でしょう!」 「食っちまえばそりゃ一緒だけど、流石に卵一個丸呑みは出来ないだろう……だから俺がやるって」 「だいじょうぶ、っあ!?」 「あ」  やっと殻を剥いた茹で卵にナイフを入れようとした瞬間、卵が滑って跳ね上がり、そのまま排水溝にすぽん、と入ってしまった。 「…………」 「…………あ、洗えば、たぶん食べれる……」 「…………………、ふ……っ」  絶望的な気分で卵を救済しようとした時、隣の男が噴き出した。  そして耐えきれないというように肩を震わせて笑う。シンクに手を付いて笑う様が信じられず、包丁を持ったまま雨宮は茫然としてしまった。 「もう、勘弁、してくれ、アハハ、あんた、どんだけ不器用……っあー、もう、腹が痛い、勘弁……」 「……そんなに笑うことでもないでしょう。ちょっとそのー、卵が、ええと、排水溝にうっかりホールインワンしただけ……」 「やめてくれ……! 笑い死ぬ!」  そんなことで死んでもらっては困るし、その死因は恐らくニールには一番似つかわしくない。  慣れない男の爆笑にどういう顔をしていいかわからなかった雨宮も、流石にここまで笑われては不本意だ。拗ねたような気持ちになって、卵を水洗いしながらもう一度切ろうとしてまた滑って今度は指を切りそうになり、ニールの笑いをまた誘ってしまった。 「……わざとやってる?」 「至って真面目です。真剣です。笑いを取るよりも卵を切りたい」 「センセイは、あれだな。セクシーかと思っていたら大間違いだったな。多分、あんたは自分が思ってるよりキュートだ」  そんな事を言われてしまうと余計に手が滑る。どういう返答をしていいのか困っているうちに、笑い疲れたらしいニールの手が背後から重なった。  思わず小さく息を飲む。ナイフの上から重ねられた手が、冷たく、雨宮の手を包む。 「多分、刃の入れ方が悪い。上から垂直に切ろうとするから滑るんだ。引くようにしたら切れるんじゃない? こういう感じ」  手を添えられたまま、すっとナイフが手前に引かれる。力を入れずにそのまま卵は真っ二つに切れる。けれど雨宮は、切れた卵のことよりも、にぎられた手と、肩の後ろから囁く男の存在の方に意識を持っていかれていた。  かわいい、という言葉が頭の中をぐるぐるとする。キュートという単語には、道化的な意味はあっただろうか。そのまま直訳して『かわいい』という意味で取っていいのだろうか。もしかして特別なスラングか何かで間抜けとかそういう意味があるのではないか。  そんなことを考えてしまってもう駄目だ。  本当にこの男に可愛いなどと言われたのだとしたら、もう後ろは振りむけない。それなのにニールはその低い甘い声で、後ろから囁く。 「……センセイ、キスしていい?」  反射的に駄目だと答えそうになったのは、理性と本能の警告だったと思う。  けれどそれは言葉にはならず、ナイフに添えた手を絡めたまま、狭いキッチンで何度目かわからないキスをした。

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