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CIGAR×SUGAR 8

 外は大雪だった。  と言っても、うっすらと積もる程度だ。東北出身の雨宮からしてみれば、こんなもので交通網がダウンする東京が信じられないと毎年思う。  寒さに襟を立て、恐る恐る歩く人々はニューヨーカーではない。皆、自分と同じ日本人だった。  東京に帰って来てから三週間がたった。慌ただしく、そして急過ぎる帰国だった。  まずクリスマスに母が倒れたと一報が入った。すでに父が亡くなっている雨宮の実家には、母と妹しか居ない。慌てて会社に連絡を取り、どうにか数日の休みを貰って帰国してみれば、倒れたと言っても軽い胃潰瘍だったらしい。手術も簡単なもので、入院も一週間程だった。  たかが胃潰瘍って言うけど、倒れた時は大変だったんだから。そう言う妹の言葉ももっともだとは思うが、血相変えて帰国するほどの事だったのか。慌てすぎていて、ニールに連絡も取っていない。  タイミングが悪いことに、クリスマス前から彼は出張でNYに居なかった。  一週間後には戻れる気がするがそのまま姉と新年を祝わなくてはいけないかもしれない、と零していたし、年末はまだしも年始には帰国する予定だった雨宮は、正月明けまでは会えない事を覚悟していた。  しかしまさか、そのままアメリカに戻れない事態になるとは思ってもいなかった。  母の容体を確認し、ついでに報告がてら本社に顔をだすと、懐かしい面々が迎えてくれた。お世話になりっぱなしの先輩やバイヤーは、向こうは何かと大変だっただろうと気を使ってくれ、そして口々に帰ってこれて良かったなと言う。  自分はまだ所属はNY店のマネージャーの筈だが、と、頭を捻りながら部長に面会すると、もうNYには代わりのものが行ったから明日からは東京の店舗を手伝ってくれと言われた。  流石にこれには雨宮の口が開いた。何を言われているのかわからず、暫くアホ面を晒してしまった後に、最初に口を付いて出たのは『荷物』の一言だった。 「荷物……あの、私の家具とか、その、生活用品はまだNYに……」 「ああ、うん、それは後で向こうに行った子がまとめて送ってくれる算段だから。通帳とか貴重品は今回全部持って帰ってきてるだろうし。すごく急で申し訳ないけど、急にスタッフが三人辞めちゃってね……S&Cの方には新入社員をやったから。あっちも新事業で大変だけど、ほら、ウチの本業は立花薬局の方だしさ」 「新入社員……」 「登録販売持ってるのがごそっと辞めちゃって、人事がてんてこ舞いなんだよ……振りまわして申し訳ないと思うけど、こっちが落ち着いたらまたゆっくりと海外で活躍してもらうことになると思うから」  本当に勝手な言い分だと思う。しかし、販売業で生きて行こうと思えば、急な移転はどうしようもないことだった。仕事的にはもうどうしようもないし、特別やりかけのこともない。新しいスタッフの教育が非常に中途半端だが、一番仕事が早かったダイアナがどうにかしてくれると信じるしかない。  問題なのは私生活、ニールの方だった。  週末にレストランで食事をし、そしてそのままベッドを共にした。その後も、彼は次の日からも今までどおりの態度で雨宮に接してくれた。  夜十時に迎えに来る男は、相変わらず寒そうに歩き、適当な料理を作り、そしてキスをする。思いもよらず変わったことは、ほんの少し甘い会話と戯れが増えたことだ。  恋人のようだ、と胸を高鳴らせたのは数日で、その後彼は出張に、そして自分はあれよあれよと言う間に帰国し、アメリカに戻る予定すらない。  せめて二連休があればどうにか会いに行けるのだけれど、新しく配属された店は思っていた以上に人手が居らず、前任者が適当に作ったシフトも滅茶苦茶だった。結果、年末年始の慌ただしい期間を、ほとんど無休で働いた。  一度、カリテス社NY支店に電話をしてみた。受付の女性はとても気持ちのいい爽やかな英語で対応してくれたが、結局言づてを頼むことしかできなかった。個人情報のやり取りはできないだろうな、ということは電話する前から予想していた。  急な帰国になったことと、一月中にはどうにかそちらに一度行くことを伝えてみたが、きちんと本人に伝わっているかはわからない。おかしなストーカーの戯言だと思われていないと良い。  ぱらぱらと降る硝子向こうの雪を眺めながら、雨宮はレジで溜息をついた。もう、この冬何度目の溜息かわからない。 「もー雨先生結局帰って来てからも溜息ばっかりじゃないですか~憂鬱は伝染するんですよ~辛気臭いからやめてくださいよ~」  そんな勝手な事を言うのはヘルプで入っている柴草だった。  バイトとパートが揃って連休申請をしてしまったせいで、人が居なかった。販売業でこうも連休を取られると中々辛い。それはもう、前任の店長の技量の無さだろう。  そして雨宮の休みが潰れる度に、アメリカにはいつ行けるのと不安になる。 「辛気臭いってきみ失礼じゃないかな……たまには僕だって溜息付きたくなるときだってね……」 「向こう行ってからずっとじゃないですかー。あんなにNY嫌がってたのに、今度は日本の何が嫌なんです? まあ確かにこの店舗のパートさんクソですけどー、雨先生が来てからは、ちょっとはまともになったらしいですよ? いやーイケメン効果ってすごいですね。イケメンは品性も正す」 「まともな人間は遊園地行くからって五連休取ったりしないよ……まあ、家族旅行なら仕方ないけど、バイトの子はアイドルのイベントで大阪、もう一人のパートさんは雪が酷くて出勤できないって、もう、長靴履いて歩いて来いって話じゃない」 「わお、今日の雨先生毒舌っすねーイイヨイイヨわたしそういうの嫌いジャナイデスヨー。もっと雨先生はねー吐きだしたらいいんですよーなんでもかんでもため込みすぎー」  そういえばNYに居る時は、定期的にニールに愚痴を吐きだしていた。  彼は思いのほか聞き上手で、そして仕事に対して案外まっとうだった。だから話しやすい。ニールの淡々とした合いの手は気持ちよく、彼が料理をしている間に雨宮は滔々と喋ってしまった。  会いたい。いや、会いたいというより会わなくてはいけない。どうしてさっさと連絡先を交換しなかったのだろう。今頃は雨宮の事を忘れたとは言わずとも、もう興味をなくしているかもしれない。  会ってどういう話をするつもりなのか、これからどういう関係を望むのか、まだうまく整理できていない。それでも、このまま終わりにしたくはないということだけは確かだった。  昨日ぼんやり週刊誌を眺めていた際、クロエ・ノーマンの新作インタビューが目に入った。あまり美人ではないが、ふっくらとした頬と柔らかな赤毛と、ニールによく似た目元の女性だった。  その髪の毛をまとめるカトレアモチーフの髪留めは、クリスマス前にニールと一緒に選んだものだ。あの後きちんとプレゼントは渡せたらしい。一緒にモールを巡った時の事を考えると、また溜息が出てしまう。  左手を見やれば、そこにはニールに貰った腕時計がある。  些か不釣り合いなこの皮ベルトの時計が視界に入る度に、ぶっきらぼうなのに甘い言葉を囁く男を思い出して息が詰まった。 「いやーしかし寒いですね。みんなすっごい厚着。雨先生出身山形でしたっけ? 雪すごいんでしょーねーそういや雨先生って寒さには強いですよねー夏はぐったりしてる割に。冬のコートってもこもこしててあんまりお洒落じゃないですよねー」 「雪国じゃあお洒落なんか気にしてる環境じゃないよ。みんなダウンジャケットに長靴」 「うへー、絶対無理! でもロングコートのおにーさんとか見るとちょっと勘違いっぽくて笑っちゃう。やっぱりああいうのはーこう、すらっとした外人さんがシックに着こなすのが良いんですよねー。あ、ほらほら先生ああいうの! わたしの理想さんがいますよねえねえ!」  煩いよお客さんが引いた時間だからって私語は慎みなさいと注意しようとして、ドアの方を向いたまま雨宮は固まった。  颯爽と自動ドアを潜った男は、いつも通りの早足でレジの前まで来ると、薄い色のサングラスを取って手に持った旅行バッグをドン、とレジ上に置いた。乱れた赤毛に雪が絡みついている。 「……知ってるか。飛行機って奴は全面禁煙なんだ。できればロスに行くのも飛行機なんざ遠慮したいっていうのに、日本までは十三時間! 気が狂いそうだ!」  記憶のままの男は相変わらず見た目よりも滔々と喋る。低く甘い声が紡ぐのは、勿論英語だ。驚いて声が出ないまま固まった雨宮の横で、先ほどまで無邪気にはしゃいでいた柴草も何事かと固まっている。  それはそうだろう。柴草から見れば、黒のロングコートにサングラスの背の高い外人男性に、雨宮が絡まれているようにしか見えない筈だ。 「おまけに寒い。四季の国じゃなかったのか。観光ガイドの日本の写真は緑と赤ばっかりだったぞ、あれは詐欺だな。地面がびしゃびしゃで靴なんかもう歩く度に音がする。これなら凍ったNYの街の方がマシだな」 「……ニール、あの、」 「心配するな、別に文句言いに来たわけじゃない。伝言聞いたよ。アンタが約束を間違えたり期待だけ持たせて振りまわす奴じゃないってことは知ってるけどな、個人的に言い忘れた事があったから来ただけだ。俺が来た方が早そうだったし。有給ってやつを初めて使った。同僚からも経理からも何故か感謝されたのは解せないが」  一方的に喋るニールの言葉が、半分も理解できない。  とにかく雨宮は混乱していて、言葉を選ぶこともできない。まさかもうアメリカに来る必要はないという言付けではないだろう。わざわざここまで来て、それこそ十三時間の禁煙をしてまで伝えることではない。ニールは、興味のない人間に時間を使う人ではない。  さりとて唐突に現れた彼がバカンスに来たとも思えず、ただ先の言葉を待った。他に客はいない。隣に息を飲む柴草が居たが、英語がわからないと豪語している彼女はニールが何をまくしたてているのかわからないだろう。 「言い忘れた、こと、って」  やっとそれだけ声が出た。うっかり日本語で喋ってしまいそうだったが、どうにか英語に変換した。  ゆるい暖房が効いた店内で、赤毛のハンサムな白人男性は、にこりとも笑いもせずに雨宮の目を見た。 「言わなかった俺が悪い。だから言いに来た。好きだ。アンタは?」  好き、の一言がうまく日本語にできなくて、聞き間違いかと思った。思ったが、隣の柴草がニールと雨宮を交互に見て頬を染めていたので、恐らく聞き間違いではない。  アイラブユーくらいは柴草にもわかったらしい。  暫く固まっていた雨宮だが、やっとカウンター越しにする話ではないということに気がついた。  レジを出てニールの肘を掴むと、柴草にちょっと一人で回してと声を掛けてから、そのままバックルームに彼を連れ込む。  そういえば、最初に会った時もバックルームに連れ込んだ。彼の抱える商品が、あまりにもひどいラインナップだったから。好みの男の食生活が許せなくて衝動で手を引いた。  今は、羞恥で頭がおかしくなりそうだということしかわからない。  暖房が入らないバックルームは寒く、段ボールで溢れている。雨宮は台車の上にへなへなと座り込み、そして顔を覆った。指先が冷たい。寒さと緊張と、浮足立った気持ちで感覚がない。 「……腰が抜けそうだ……あなたはいつも急に言葉をぶつけてくるから」 「性分だよ。回りくどいのも嫌いじゃないけど、言葉遊びしてる余裕ないだろ。一刻も早く口説いて、一刻も早くキスしたいじゃないか」 「私が断るという可能性は?」 「受付のエヴァ嬢がにこやかに伝言に付け加えてくれたよ。『アマミヤさんという方はとても必死で切羽詰まった様子でしたよ。早く連絡して差し上げたらいかが?』だってさ。これが社内に蔓延してニール・ノーマンの恋人は実は外人の男だった説が今一番ホットな話題だ。まあ、別に間違ってないから構わないけどな。上司にだけは知り合いの令嬢と結婚してもらうつもりだったのにって見当違いな小言を食らった」 「ああ……あの、なんだかその、すいません……もうどうしていいかわからなくて」 「別に、嬉しかったから良い。面倒だって思わなかった時点で、俺の方も参ってるってことだろ。……なぁ、俺は別に言葉の出し惜しみはしない主義だし、恥ずかしいから一度しか言わないとかそんなアホみたいな焦らし方はしない。何度だって言わせてもらうよ。……好きだよ。返事は?」  わかっている癖に、しゃがみ込んだニールはまた同じ言葉を繰り返す。同じ目線になったハンサムは、普段は絶対に見せないような、どろどろに甘やかすような恋人の顔だった。 「……本当?」 「何が。好きってこと?」 「違う。その、何度だって言うってところ」 「本当。ただしその後の台詞も込みだ。もう一度言う?」 「うん」 「……アンタのことが好きだ。十三時間禁煙して日本に押しかけるくらいにね。なぁ、アンタは?」  すきです、という言葉は震えて声になったか怪しかったが、何にしても言い終わる前にニールの唇に塞がれてしまった。  後でどうやって柴草に言い訳をしようか、考え始めていたのに、キスに夢中になって途中からどうでもよくなった。  ニールのキスは、相変わらず煙草とミントの匂いがした。  冷たい舌に甘えながら、ただ目の前の男の事だけを思った。 「……夢かもしれない」 「それは、信じられないくらい幸せっていう解釈でOK?」 「相違ないです。……好きな人に、好きだと言われるのがこんなに幸せな事だなんて、すっかり忘れていた」 「それは俺もだ」  笑いを零すニールとまたキスをして、今日は絶対に残業をしないと心に誓った。 →CIGAR×SUGAR×VINEGAR

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