16 / 21
CIGAR×SUGAR×KISS 1
はじめまして、と屈んで笑顔を作った雨宮に、緑色のぬいぐるみを抱えた少女は首をすくめたように見えた。
雨宮の腰ほどの身長しかない。彼女と視線を合わせるのは難しく、屈んだ腰をそのまま落としてしゃがんでみたが、ブロンドの少女が警戒を解く様子はない。
元々子供はあまり得意ではない。嫌いというほどではないが、どう声をかけていいのかわからないから苦手だと思う。雨宮自身、大人の些細な一言に心を閉ざす内気な子供だった。そのためか、彼ら小さい生き物に話しかける言葉は慎重になってしまい、結果ぎこちなく間が空く。
そうでなくても少女は特殊な状態で、リラックスとはほど遠いだろう。自分の緊張のせいもあるだろうが、まあ仕方ないかと苦笑いを飲み込み、ばたばたと歩き回る恋人が近づく気配に振り返った。
「大丈夫。確認した。それも持ってきた。平気だって言ってるだろ、なあ、二十一世紀のNYだぞ? 原始時代でもなければジュラシックパークでもない。なにか必要なものがあれば自分たちでどうにかできるから、落ち着けよ。引っ越しを手伝ったのは俺だろ。家の中のものも把握してる。だからいいか、もう一回言うぞ、落ち着け」
全く落ち着いていないような口調で、何度も落ち着けと繰り返すのがおかしいが、笑ってはいけない。
しゃがんだままの雨宮と少女に気がつくと、ニールはにこりともせずにヘイと声を上げた。
「エイミー、おまえの母さんが離れて十分でホームシックだ。ちょっと、私は平気よって言ってやれ。『だいじょうぶ心配ないから引っ越しがんばれ』って、ほら」
そんなことをいつもの滔々とした早口で紡ぎ、耳に当てていた携帯を少女の口元にかざす。三度ほど瞬きし、ニールを見上げたエイミーは、緑色のぬいぐるみをよりいっそう抱きしめ、可憐な声を出した。
「……ママ、だいじょうぶ。おひっこしがんばって」
「ほらみろ、六歳児の方が優秀だ。何か無くても定期的に連絡するから作業に専念しろ。あと姉さんに釘には触るなって言っといて。DIYに向かない自覚がないらしいからな」
じゃあな気をつけて、と一方的にニールは電話を切ったらしい。さすがに苦笑していると、隣に座り込んだニールが盛大なため息をついた。
「過干渉もいいところだ。メイスンも姉も、子供三人が留守番してるとでも思っているらしい」
「仕方ないよ、いつまで経っても弟は弟だし。僕の妹も君と同い年くらいだけど、やっぱり大人っていうより妹っていうカテゴリで見ちゃうから」
「それにしても男二人がついているっていうのに、全く安心感がないのはどうなんだ。俺は二十六で、センセイは――三十歳か? まあ、世間一般から見たらひょろ長くて頼りないかもしれないが、それなりに人生経験はある筈だろ。ハリケーンや闘牛相手じゃあちょっとどうにもならないかもしれないけどな、一軒家の中で子供の面倒を見るくらい、どうにかなるさ」
なあそうだろう? とエイミーの抱える人形の鼻の頭を長い指先ではじく。緑色の目の大きなぬいぐるみは、どうやらカメレオンがモチーフになっているらしい。ニールがくるりと丸まったその尻尾をつまむと、エイミーはより一層困った様にぬいぐるみを抱きしめた。
ニールはエイミーに会うのは初めてではないらしいが、特別仲良く遊ぶような仲でもないらしい。大人の男二人に囲まれ、緊張しない方が稀だろう。
泣きだしてしまわないかと心配しつつも、自分がリラックスしないと余計に彼女は緊張してしまうのではないかと思った雨宮は隣の恋人に向けて表情を崩した。
「僕が役に立つといいけど。料理もできないし、ベビーシッターの経験もないし、体力なんてニールの半分くらいしかないんじゃない?」
「まかせろ、俺も割合非力な方だよ。煙草に肺活量搾り取られてる。センセイはそこに居るだけで俺のテンションがあがるから、息して存在してるだけでいいんだよ。……せっかくの連休を、こんな郊外の一軒家に引きこもる事に使わせて、申し訳ないけど」
「僕は、そこに君が居ればどこだって楽しいから。それにこの家すごくきれいで広いし、別荘に来たみたいでわりと楽しい」
ニールは交通の便が悪いと愚痴るが、クロエ・ノーマンが先月購入した家は広く、足を踏み入れるのも申し訳ないような佇まいだった。
NY市街からの交通の便は確かに悪い。地下鉄とバスの乗り継ぎが悪く、結局歩いた方が早いが、それも一時間ほどかかる。
ガレージに車はあったが、クロエは運転できないらしい。幸いスーパーマーケットは近場にあったので、飢えることだけはないとニールが言っていたのを思い出した。
恋人であるニール・ノーマンから『連休の予定を変更させてほしい』と連絡があったのは一週間前の事だった。
年明けに店舗移動が決まった雨宮は、念願のS&CストアNY支店に配属されていた。これでカリテスのワシントン支店を作らなくていい、と安堵の息を吐いたのはニールではなく、その上司のメイスンだったという。
今までで一番ネックだった距離の問題がなくなると、次は休日の問題がでてくる。しかし鬼のように売り上げを伸ばすニールは比較的希望休に融通が利くらしく、雨宮の休みに合わせて連休をとることもできた。
真冬の引っ越しは辛くとも、恋人と一緒にいる時間が増えるという魅力を思えば、寒さなどどうでもいいことだ。
冬が過ぎ、春の前にクロエもNY郊外に引っ越しを終え、暖かい季節が何事もなく訪れた。
観光シーズンの為か、街もざわつく季節だ。さすがに週末に連休は取れないが、隙をみて平日に三連休を取ったのは、旅行にでも行こうかとニールが誘ったからだった。
去年はビーチだったから、今年は少し涼しいところに行ってもいい。いっそカナダのひまわり畑はどうだと、旅行ガイドを広げながら計画を練るだけでも雨宮は十分に幸せだった。ホテルも旅行もキャンセルになってしまった今も、残念だとは思えど、誰かを恨むような気持ちはない。
ひまわり畑はまた夏にでも行けばいい。なにより、ニールが必要とされているならそれを優先させたいし、彼の助けができるならば猫の手程でも尽力したい。大真面目にその本心を告げる雨宮に、ニールが珍しくソファーに崩れ落ちる程照れていたのが可愛かった。
二泊三日の二人きりの旅行が、二泊三日の子守に変わってすまないとニールは頭を下げる。雨宮は本当にそこにニールが居れば大概の事はどうでもいいので、本心から『気にしていない』と繰り返した。
「困ってるメイスンさんを置いて出かけるなんて嫌だよ。旅先で気になって仕方ない。遊びに行くからちょっと預かってて、みたいな話だったらそりゃ別だけど……だって、警察も来たんでしょ?」
「自宅侵入かまされてるからな。ただ、なにも盗られてないし、怪我もないし、特別な被害もないから警察だって巡回程度しか協力しちゃくれない。だからと言ってすぐさま引っ越す、って選択した女史もどうかと思うけど」
ニールの働くカリテス社NY支店の責任者であるミス・メイスンの自宅に、不審者が侵入した事件は当人とノーマン姉弟しか知らない。
強固なセキュリティを突破したのは窃盗のプロでも何でもない。接触禁止令を出されているミス・メイスンの元夫だという話だ。
雨宮は詳しくは聞いていないので、彼女の事情を知らない。ただ、ミス・メイスンは一度侵入されたマンションを即座に捨て、新しい住居にすぐさま引っ越すことを決めた。
その間の娘の子守り兼ボディガードを、ニールと雨宮は請け負ったのだった。メイスンとクロエは引っ越し作業をこなし、その間、ニールと雨宮はクロエ・ノーマンの新居でエイミーと過ごすことになる。
確かに、自分一人ならまだしも、六歳のエイミーが一緒ならば不安要素のある家に住み続けるのは難しい事だろう。ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめたままのエイミーを見やり、かわいいけど静かな子だなと雨宮は思った。
先ほど挨拶したメイスンに似ているのは、柔らかなブロンドと奇麗な形の瞳くらいだ。その他はとても対象的な親子に見える。
ミス・メイスンははきはきとしていて、いかにもキャリアウーマンといった印象だった。大変な状況だろうに、雨宮にもにこやかに握手を求め、心から感謝してくれた。ニールが恐れるのが良く分かる。きっちりとしていて、強い女性だ。
そしてその娘のアメリア・メイスンことエイミーは、可憐で小さな声で喋る、少し内気な女の子という印象だった。
その少女は今、所在なさげに玄関に佇んだままだ。
「なんとなく予想していたがろくな食材がない。そもそも調理器具が地味に足りない。姉はスーパーのデリで生きてる人種だからな……いや、まあ、俺だって人のこと言えたもんじゃないんだけど」
明日は買い出ししないと、と呟き、ニールは立ち上がった。広い玄関に立つと、映画のワンシーンのように様になる。
「エイミー、玄関に突っ立ったまんまじゃその蛇が風邪ひくぞ。センセイも、せめてソファーで自己紹介の続きをしたらいいと思う」
「……おっしゃるとおり。あとこの子はたぶん、蛇じゃなくてカメレオンだと思うよ」
そうだよね、と首を傾げた雨宮に、エイミーは首を縦に何度も振った。
床を見つめていた瞳が、初めて雨宮を見た瞬間だった。
「カメレオンと蛇って何が違うんだ」
「何がって……あー、種類? かな。僕もあんまり詳しくないけど。サイとカバくらいは違うんじゃないかな」
「サイとカバって別の生き物なの?」
「別の生き物だと思うよ。いや別の生き物です。……ニール、たまに変な事知らないよね? 基本的に博識なのに」
「世界の情勢や歴史は顧客獲得のトークにも発展するけど、サイとカバの違いはサプリメントの販売に関係ないだろ。流石にそこからうちの商品の素晴らしさをアピールする能力は俺にはないよ」
「言ってることは、わからなくもないけど。たぶんカメレオンは蛇じゃないよ」
雨宮の言葉を受け、広いリビングに移動したニールは『そうなの?』
と首を傾げた。
ニールはあまり表情を変えずに喋るが、些細な仕草が少々派手でかわいい、と雨宮は内心だけで悶える事がよくある。大真面目に首を傾げる年下の恋人はとても可愛い。
雨宮の心中など知らず、ニールは忙しなく家の中を見分しながら蛇とカメレオンの話を続けていた。
「どっちも緑の爬虫類じゃないのか?」
「……いやたしかに大きくわけたらそうだけど……」
「カメレオンって、あれか、舌が長いやつ」
「そうそう。それで、保護色? っていうのかな。身体の色を、周りに合わせて変える事が出来るっていうのが有名な特徴じゃないかな。僕も特別詳しいわけじゃないけど」
「ふーん。エイミー、カメレオンすきなのか?」
ソファーの端に座ったエイミーの前に屈みこんだニールが首を傾げると、エイミーは隣に座った雨宮を見上げた。
どうやら、彼女はニールよりも雨宮の方が話しやすいと判断したらしい。
「カメレオンすき?」
優しく聞こえるように注意しながら微笑むと、エイミーがほんの少しだけ照れたように笑った。
「……すき」
「何かそういうキャラクター流行ってるのかな? 似たようなキャラクターをセサミストリートで見たような気がしないでもないけど、あれはカエルだっけ。エイミー、カメレオンの本物、見た事ある?」
「ない……。ママが、ヘビとか嫌いなの」
「あー……それじゃ、駄目だね。爬虫類駄目な人って、ほんと無理っていうもんね……」
雨宮が視線を動かすと、食器の整理をしていたらしいニールと目が合う。片眉を上げた恋人は、不服そうに唸った。
「……別に嫌いじゃない。好んで近づこうとは思わないだけだ」
「ワニにわりと引いてたよね?」
「思った以上にでかかったんだよ。駄目なんだよスプラッタ系モンスター。ジョーズとか、アナコンダとか、映画館に近づきたくもない。手のひらサイズの緑の生き物くらいなら遠くから眺められる。何、ブロンクス動物園にでも行く? たしかあそこは爬虫類館もあった筈だけど」
「エイミー、本物のカメレオン見たい?」
雨宮が声をかけるとエイミーは瞳を輝かせて頷いた。とりあえず懐柔方法は見つけたようだ。不安そうな少女がやっと笑顔になった事に安心する雨宮とは対照的に、ニールは微妙な表情だった。
ニールが、あまり爬虫類を得意としていないことは知っている。申し訳ないとは思いつつも、彼が譲ってくれる事を知っている雨宮は甘えるように微笑んだ。
「なんだかんだで世界人類に優しいよね、ニール。ありがとう、すき」
「俺も好きだよちくしょう。言っとくけどな俺が優しいのは世界に対してじゃなくてセンセイと身の周りの数人にだけだ。後でミス・メイスンに外出していいか許可取っとくよ。まあ、平気だろ。別荘風の一軒家だって、三日も引きこもっていたら腐っちまう」
なんでフライ返しはあるのにフライパンがないんだ、と喚いたニールの優しさを知っているから、雨宮は怯えたように彼を目で追う少女に微笑みかけた。
「……ニールは口はちょっと悪いけど、良い人だよ。だいじょうぶ。カメレオン、動物園にいるといいね」
控え目に頷くエイミーの可憐さに、自然と雨宮は柔らかい気持ちになった。
ともだちにシェアしよう!