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浦和澪『酷白 -kokuhaku-』

 琴也(ことや)が堪え切れずに詰襟に手をかけると、鈴真(すずま)は文字通り鈴のような声を上げた。  恐怖ではない。劣情だ。鈴真の被虐的な視線の奥に仄暗い劣情を見出したのは、わんわんと蝉が鳴き喚く、暑い夏の夜だった。  あの日偶然目にした光景を琴也は今でも忘れることができない。ただひとりの幼馴染の知らない一面が目蓋の裏に焼き付いて離れないのだ。 「琴也、僕をきつく縛って……っ」  自ら学生服を脱ぎ去った鈴真はうつ伏せになりながら琴也に言った。  鈴真の背には目を背けたくなるような痛々しい傷痕が残っている。煙草を押しつけられたような焼き痕や、何度も爪を立てられたような引っ掻き痕。  これらはすべて鈴真が自らつけたものだ。      ◇  あの夏の夜。当時十六歳の琴也は二歳年下の幼馴染である鈴真の自宅を訪ねた。  鈴真の祖父は地元でも名のある実業家であり、彼の自宅は誰が見ても一目で裕福な家庭だとわかる造りをしていた。  家同士が近くであったため、琴也は幼少時から自然と鈴真と遊んでいた。物心ついた頃から琴也にとって鈴真は自分の弟のような存在であり、唯一無二の友人であった。  ふたりの関係は小学校に上がっても、中学校に上がっても持続していたが、琴也にはひとつ懸念があった。それは鈴真から発せられる視線である。  思春期を迎え周囲が色気づき始めた頃。当然琴也も意中の相手ができ、彼女を振り向かせようと馬鹿らしい努力をしていた頃。鈴真から発せられる視線が熱を帯び始めたのだ。  鈴真は幼い頃から少女のような可憐な容姿をしていたが、中学校に上がってもなお女生徒によく間違えられていた。声変わりも遅かった。一度も陽に当たったことがないかのように病的な蒼白い肌に映える真っ赤な唇が魅力的だった。  容姿も家柄も良い鈴真は当然注目の的だったが、そのほとんどが彼に取り入ろうとする不届き者ばかりであった。女々しいという理由でいじめの標的にもなった。  鈴真は常に孤独だったが、琴也の隣にいるときは、常に笑っていた。 「琴也、僕は君に告白したいことがあるんだ」  ソーダ味のアイスキャンディーを食べながら鈴真が言った。  うだるような暑さの下でも鈴真は汗ひとつ掻かなかった。そればかりか真夏だというのに長袖シャツを身に着け、第一ボタンすらきっちりと留めていた。腕まくりをする鈴真の姿は全く想像ができないが、思い起こせば琴也は彼が積極的に素肌を見せようとしないことに気がついた。  鈴真の告白とはそのことなのだろうか。それにしても、琴也にとってはあまり面白くない話だ。 「告白って、俺に秘密にしていたことでもあるのかい?」  琴也は口を尖らせた。かれこれ十年近く付き合いがあるのに、鈴真が秘密を抱えていたことが面白くなかった。 「話してみろよ、鈴真。俺に話してみろ」 「でもこれを言ったら、琴也は僕を嫌いになるかもしれない」 「嫌いになんかなるものか」  鈴真のことを嫌う日なんか一日だって来やしない。 「もし今この瞬間、俺に告白しないなら、そのアイスキャンディーを取り上げてしまうかもしれないぞ」 「酷いこと言わないでよ。たまにしか食べられない貴重なご褒美なのに」  厳格な家庭で育った鈴真は買い食いが禁止されていた。時折琴也は鈴真の家族の目を盗みながらこうして彼の好物である甘味を買い与えていた。なぜだか鈴真には甘くなってしまう。  傍にいて当たり前な存在なだけに、琴也は鈴真が求めるものすべてに応えようと、幼い頃から思っていた。 「ねえ、琴也聞いてる?」 「ん? ああ、聞いているよ」 「本当に? 信じられないなあ」 「本当だってば。ほら、鈴真のほうこそしっかりしろよ。垂れているぞ」 「ええ? ああ、本当だ」  陽射しに照らされたアイスキャンディーはゆるゆると溶け始めていた。木の持ち手に流れ落ちる甘い汁を、鈴真は器用に舐め取った。 「さすがに暑いなあ」 「袖を捲ってみたらどうだい?」 「ううん、ここじゃなあ……」  琴也の予想はおおかた当たっていたようだ。渋る鈴真を見て、琴也は少し意地悪をしてみたくなった。 「俺に告白したいんだろう?」  琴也は人好きのする顔で言った。鈴真が断れないと知りながら。 「それじゃあ、告白しよう。琴也、僕はもう君の傍にいられないかもしれないんだ」 「……それはどういう意味だい? 地元を離れるってことかい?」  琴也がそう問うと、鈴真は首を横に振った。 「琴也。君の傍を離れなければならないんだ。僕は君の隣にいられない。相応しくないんだ」 「お前の隠し事に俺が関係あるのか?」 「はっきり言うよ。僕は君のことが好きなんだ。だからこそ、傍にいられない」 「なんだそれ。酷い告白だな」  琴也は鈴真の告白を本気と捉えることなく冗談だと思いこんでいた。笑いながら話を流した琴也を、どういう顔で鈴真が見ていたのかは知る由もなかった。  鈴真が琴也の前に現れなくなったのは数日後のことだった。  そしてあの夏の夜。琴也は鈴真の自宅の庭に忍びこんだ。  琴也に酷い告白をしてから鈴真は学校を休みがちになり、何日も連絡が取れない日々が続いた。心配になった琴也は何度も鈴真の自宅を尋ねたが、門前払いを喰らう始末だった。  琴也は生垣のわずかな隙間をくぐって敷地内に潜りこんだ。鈴真から教わった秘密の抜け道だ。  鈴真の部屋は屋敷の一番奥に設えられた離れにあった。箱入り息子である鈴真は過剰なまでに手厚く育てられてきたが、琴也から見れば、彼は鳥籠に囚われた小鳥同然であった。鳥籠の中の自由しか知らない可哀想な少年だ。  離れにはぼんやりと明かりが灯っていた。妖しい光に誘われる蛾のように、琴也もまた引き寄せられていった。ゆらゆらと不安定に揺れる光源は蝋燭だろうか。近づくにつれ、琴也の鼻は噎せ返るような匂いを嗅ぎ取った。香炉でも焚いているのだろうか。  清純な鈴真と淫靡な香りが結びつかず、一瞬琴也は忍びこむ家を間違えたのではないかと思ったほどだ。 「鈴真……鈴真、いるのか?」  琴也は鈴真を呼んだ。離れから返答はなかったが、何かがごとりと落ちる音が聞こえた。やはり鈴真は中にいる。そう確信した琴也は離れの小窓から室内の様子をうかがった。 「す……鈴真…………」  幾本もの蝋燭に囲まれた鈴真は、生まれたままの姿で板張りの床に転がっていた。  しかしその口は朱い布で猿轡をされ、両手足は毛羽立たせた麻縄で雁字搦めに縛られていた。さらに鈴真の臀部には凶悪な性器を模した玩具が挿入されていた。  琴也は絶句した。この目で見ているはずなのに、窓の向こうの受け入れがたい現実に理解が追いつかなかった。 「鈴真! 鈴真!」  琴也は大声で叫んだ。鈴真の危機を放ってはおけなかった。  だが琴也がいくら呼びかけても、当の鈴真はおろか彼の家族らの反応もなかった。しびれを切らした琴也は離れの入り口に回り、強く引き戸を叩いた。 「鈴真! おい、聞こえているだろう、返事をしろ!」  反応は変わらなかった。これだけ騒ぎ立てているのに、まるで琴也など存在しないかのように辺りは静寂を保ったままだった。  警察を呼ぶべきだと思ったが、鈴真の家族――特に父親に知られてしまうと今後鈴真との接触を完全に断たれてしまいそうで、琴也は自分ひとりで解決するしかないと決意した。  だが幾度も引き戸を叩き、鈴真を呼び、堅牢な戸をこじ開けようと奮闘するも、結果は変わらなかった。諦め切れない琴也は小窓に戻り、中の様子をうかがった。  再び垣間見た鈴真の姿に、琴也は背筋を震わせた。 「……鈴真?」  後ろ手に縛られ、四つん這いになり、高く尻を持ち上げた鈴真は琴也と目が合うと、物欲しそうに腰を動かした。  蠱惑的な眼差しの鈴真に、この場で異常なのは彼自身だと琴也は悟った。  ――まさか、この状況を愉しんでいるのか?  琴也が視線で問うと、鈴真は身を震わせた。  そして眼を潤ませ、あからさまに琴也を誘った。発情期の猫のように身体をくゆらせる鈴真の姿は、正直見ていられなかった。  ――彼は鈴真ではない。  そう自分に言い聞かせながら、琴也は一歩、また一歩と離れから足を遠ざけていった。  秘密の抜け道まで辿り着いた頃、沈黙を守っていた離れに人影が現れた。  鈴真の父親だ。  琴也は間一髪のところで鈴真の父親との接触を逃れることができた。  鈴真の父親は琴也と入れ違うように離れに近づき、そして琴也が何度こじ開けようとしても開かなかった離れの扉を開け、中に入っていった。  琴也はその場に留まり、しばらく待ってみたが、ふたりが出てくることはなかった。      ◇ 「お願い、琴也……僕をきつく縛って……」  自ら裸になり目の前で縛られることを懇願する幼馴染の姿は、今の琴也にとって目の毒だった。  鈴真の秘密を知った後、知らず知らずのうちに彼との接触を避けようとした琴也だったが、今度は鈴真のほうから琴也に頻繁に接触するようになっていた。  一度は琴也を遠ざけようとしていた鈴真の心境を真逆に変化させたのは、やはりあの夜の出来事がきっかけだったのだろう。  鈴真は琴也が見ていたことを承知で、あのような態度を取ったのだ。 「お願い……」 「鈴真、俺にはできない」 「僕のこと抱きたいって思っているくせに」  琴也の消極的な反応を感じ取ったのか、鈴真は尻の割れ目に指を這わせ、視覚的に琴也を煽った。 「本当は僕を抱きたくて抱きたくてしょうがないんでしょう? 僕のこと、女の子を見るような目で見ていたもんね」 「頼むから……」 「どうして? 琴也のここは、こんなにも高ぶっているのに」  制服の上から性器を鷲掴みにされ、琴也は思わずたじろいだ。  男同士だといえ、幼い頃から親しい間柄だといえ、鈴真から性的対象と思われることに、琴也は抵抗があった。  だが鈴真からの誘いを遠ざけているうちに、琴也は鈴真が自分に求めるものに気づき始めた。  あくまで鈴真が求めるものは自らを痛めつける存在だ。鈴真は痛みを与えられることに快楽を見出していた。察するに、きっかけは彼の父親だろう。  しかしいつの間にか自らを痛めつけることに、鈴真は慣れ切ってしまっていた。自分自身を傷つけることには、やはり限界がある。  そして鈴真は辿り着いてしまったのだ。  琴也という、自分を最も理解し、最も大切に傷つけてくれる存在に。 「さあ、琴也。僕を縛って」  何が鈴真をそうさせたのか、琴也には理解できない。  だが鈴真は琴也の感情が遠のいていくごとに、あろうことか他人から見える部位を故意に傷つけ始めたのだ。  引っ掻き痕や切り痕までは見て見ぬふりができた。薄情だと思われるだろうが、鈴真が琴也の気を引くための自傷行為だということが、すぐにわかったからだ。  しかし数時間前――鈴真が美しい顔に青痣を作って琴也の前に現れたとき、逃れられない運命を琴也は悟った。  鈴真に導かれるまま、琴也は彼と共にあの離れの中に入っていった。季節は冬に近づいていたが、離れの中は独特の熱気が漂っていた。  実際に見たことはないが、離れの中を一言で言い表すとしたら、さしずめ拷問部屋だ。  縄や鎖がいたるところでとぐろを巻いており、壁には枷や鞭が芸術品のように飾られ、板張りの床には蝋が溶けたような跡も残っていた。  どうしてあの夏の夜、離れの異常性に気づかなかったのだろう。当然鈴真を見ていたからだ。  琴也を離れに連れこんだ鈴真は、手始めに香炉を炊いた。劇物は鼻よりも先に琴也の脳を焼いた。気分が高揚していき、性的欲求が高められていくのを感じた。  だが琴也はかすかに残った理性で一線を越えないように踏ん張った。言うまでもなく、相手が鈴真だからである。  鈴真は琴也の態度を焦らしていると思ったらしく、しばし放心した後、唐突にけらけらと笑い始めた。 「ああ、可笑しい。君はどうしてそんなに悲しそうな顔をするんだい? 苦しい思いをするのは僕のほうだっていうのに」 「鈴真、頼むから……俺をその気にさせないでくれ」 「嫌だ」  鈴真はむくりと起き上がり、おもむろに琴也の制服を乱し始めた。  下履きの合わせ目を開けられ、琴也の肢体に見合った性器を取り出され、それを鈴真の小ぶりな口でしゃぶられた。琴也にとって口淫は未知の快感だった。  汚いだろうに、鈴真は襞の間まで丹念に舌を這わせ、すべてを喰らいつくすように琴也を愛でた。  鈴真の口腔内に白液を吐き出す頃には、琴也の理性は崩壊していた。  琴也は鈴真の髪が抜けてしまうほどに強く掴み、彼の頭部を何度も自らの股間に押し当てた。  鈴真の首は人形のようにがくがくと揺れ、今にももぎれてしまいそうだった。  それほどまでに華奢な肉体を琴也は執拗に貪っていった。きっとこの異常な空間のせいだと自らを騙しながら。  鈴真の胎内に自らを収めた瞬間、琴也は深い罪悪感を抱いた。  異常な室内を支配する邪悪な縄で首を括ってしまいたいほどの後悔だった。      ◇ 「――血を調べてみたんだ。俺とお前の」  鈴真の家族を不幸が襲ってから四半世紀近く経った。 「遅すぎると思うかい? すまない、鈴真。ことさらお前に関しては奥手になってしまうんだ」  五年ほど前から琴也は鈴真の墓参りのために年に一度地元に帰郷していた。  鈴真が生きていたら今年で四十になっていた。  鈴真の死をきっかけに琴也の人生は暗く沈んでいった。噂が噂を呼び、男色家と罵られ始めた日々にすっかり疲弊していった琴也は家族と共に地元を離れ、田舎町でひっそりと暮らしていた。  両親が立て続けにこの世を去り、琴也は天涯孤独になった。鈴真以外誰とも関係を結ぶことなく、琴也は歳を取っていった。  寂寥感を抱き始めたのは、可笑しな話になるが、鈴真が夢に現れ始めたことがきっかけだった。  もう一度鈴真を傍に感じたい。そう考えることは自然の流れだろう。  だが鈴真との思い出を掘り下げていくうちに、知ってはならない真実まで辿り着いてしまったのだ。  ――琴也、僕は君に告白したいことがあるんだ。 「鈴真。お前の告白の意味がようやく理解できた。確かに酷い告白だ」  墓石に花を手向けると、鈴真をより近くに感じ取ることができる。  鈴真はあの時すでに真実に辿り着いていたのだろうか。  知っていてなお、禁忌を犯す悦びに浸っていたのだろうか。 「俺たちはどうしたら正しく愛し合えたんだろうなあ」  その答えを独りで探す琴也に寄り添う者は、誰もいなかった。

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