3 / 4

紫翠ほのか『アンティークジュエリー』

 その店は、繁華街からすこしはずれた場所にひっそりと佇んでいた。  どっしりしたビルの一階にある、アンティークジュエリーを扱う店である。ショーウインドウにはシンプルながらも趣のある宝飾品が並べられていた。  アンティークと呼ばれるものにも家具や絨毯、果てはレース飾りまでいろいろある。  そのひとつであるジュエリーは、かなりの人気を誇っている。自ら身につける者から投資目的で買う者までじつに様々だ。  好んで収集する者がいることもあり、価格は高騰気味で、かなり高価な品も少なくない。  店はすこし古めかしい造りで、通りすがりの者が気軽に入るには、どこか重々しく拒むような雰囲気があった。まるで店に来る客を選んでいるかのように。  午後おそく、冬の陽が傾いて沈みかける時間になって、一人の男性がその店の扉の前に立った。  まだ若いようだが、見ただけで高級品とわかる立派なカシミヤのコートを着ている。靴はその光沢からコードヴァンであろうか。  意志の強そうな表情をしているが、世間では優男と言われそうな風貌であった。 「いらっしゃいませ、葉山さま」  店の前に立った男に気づいて中から素早く扉を開けたのは、黒いスーツ姿の女性であった。真っ赤な口紅の似合う美女は、その男性に丁寧にお辞儀をした。  葉山と呼ばれた青年は、コートを脱いでその女性のとなりに立っていた黒服に預けた。  カシミヤのコートの中に着ていたのは、ネイビーと黒の光沢のあるチェック生地のスーツである。遊び慣れた男という出で立ちだった。 「バイヤーがロンドンに買い付けに行ったとか。新しいものを見せてもらおうかな」 「承知いたしました。どうぞこちらへ」  黒スーツの美女に促され、彼は堂々とした歩き方でラウンジの中を横切っていく。  豪奢なシャンデリア、ゴブラン織りのソファカバー、それらの向こうにいくつかガラスのショーケースが並べられていた。  すでに幾人かの客が品定めをしているようだが、ケース同士は離れているので、お互いを気にせずにすむ空気感があった。  ひとつのショーケースの前に、青年がひとり立っていた。彼はうやうやしく頭をさげて葉山に歓迎の意を示した。 「お待ちしておりました、葉山さま」  ととのった顔立ちと、しなやかな体躯の青年である。淡い茶色のウエーブヘア、白いドレスシャツと黒いスラックス、人目を惹く外見なのにどこか控えめな雰囲気を持っていた。 「八代(やしろ)くん、ひさしぶりだね」  黒いスーツの美女がショーケースの前のソファを手前に引くと、葉山と呼ばれた男はそこにどっかりと腰をおろした。若いが堂々としたふるまいである。  美女がお辞儀をして去っていくと、八代と呼ばれた青年はほんのりと魅惑的な笑みを浮かべた。 「今日お越しになると伺っておりましたので……。葉山さまがお好きでいらっしゃるエドワーディアンのジュエリーがいくつか入っております」 「見せてもらおう」 「承知いたしました。こちらなど、いかがでしょう」  白い手袋をつけた手でショーケースからベルベットのジュエリーケースを取り出す。そこには二つの品が乗せられていた。臙脂色のベルベットに銀白色のジュエリーはとても映える。 「ネックレスとバングル……お揃いの品でございます」  優美な曲線デザインでできたそれらは、ダイヤが小さいながらもふんだんにあしらわれており、店内の照明に映えてキラキラと輝いていた。 「ほほう……。なかなか見事なカットのダイヤだ」 「ローズカットのダイヤは、現代の精巧なカットには及びませんが……いい光りかたをすると思います。この時代の技術もなかなかのものです」 「ミル打ちも……ふむ。細かいし丁寧だ」 「さすがですね、葉山さま。お目が高い」 「ダイヤだけで豪華さを出していないところがいいね」  差し出されたルーペで商品を観察しながら、葉山はためいきを漏らした。 「気に入った。これは買わせてもらおう」  そう言って、満足げに商品をベルベットケースの上に戻した。値札にはかなりの金額が書かれていたが、それは気にならないようだ。  八代という青年がそれをうやうやしく持ち上げ、 「ありがとうございます。ではお包みさせていただきますので」  そう言って歩き出すと、店のさらに奥にあるドアの前に立った。 「しばらくお待ちくださいませ」 「ああ」  八代はそのドアの向こう側へと吸いこまれていった。 「お待たせいたしました。商品のご用意が出来ましたので、どうぞこちらへ」  さきほどの黒いスーツの女性が、ソファに座っている葉山に声をかける。 「おお!」  彼は待ちかねたと言わんばかりに勢いよく立ちあがり、彼女のあとについていった。 「どうぞごゆっくり」  促されてドアの奥の部屋に踏み入る。中はゆうに二十帖はあるかという広さだった。  ドアからすこし離れたところに八代が艶然と立っていた。  全裸である。  一糸まとわぬ……と言っても間違いではない。衣服の類いはまったく身につけていなかった。  彼のデコルテと手首には、葉山が買い上げたダイヤのネックレスとバングルが煌めいていた。 「さすがだ……。よく似合っているではないか」 「ありがとうございます」  八代は裸体を恥じらうふうもなく、にこやかに答える。 「君のその白くなめらかな肌に、エドワーディアンのアンティークはとても映える。ああ……」 「……」 「本当なら、ここにも何かアクセサリーを飾ってやりたいところだ……」  葉山はそう言って八代の下半身へと手を伸ばし、髪と同じ淡い茶色の毛の間のペニスをそっと撫でた。 「……っ、葉山さま」  その部屋には大きな天蓋付きのベッドが備えつけられていた。優美なレースに覆われたベッドはキングサイズで、枕もふたつ置かれている。 「おや、すこし大きくなったな」 「あの……」 「どうせなら僕が部屋に入る段階でもっと興奮していてほしいけどね。つれないことだ」 「申しわけございません」 「……そう、つれなくても仕方ないか。君は商品だからな」 「……」 「アンティークジュエリーを売る店員であり、自分自身が商品でもある……。ただしジュエリーと違って買えるのは一晩だけだが」  葉山はそっと八代の肩を抱いた。白いレースのカーテンをかきわけ、大きなベッドの上に彼を横たえる。 「葉山さま……いえ陽紀(はるき)さまでしたね」 「……琉衣(るい)。僕の名前を呼んでくれるのかい?」  八代琉衣はそっと微笑んだ。 「もちろんです。あなたのお名前ですから……陽紀さま」  この店はアンティークジュエリーを扱っているが、裏では顧客相手に店員を売る商売もしていた。  ジュエリーだけの顧客がほとんどであるが、ごく一部、金に糸目をつけない上顧客だけが、こうやって奥の部屋で気に入りの店員と寝ることができる。  もちろん単に場所を提供しているだけではない。  調度品や寝具は最高のものであり、食事も酒も客好みのものが用意され、高級ホテル以上のもてなしをうけることができる店なのだ。  ジュエリーの価格はそれも込みの価格であった。ジュエリー単体でもそれなりの価格にはなるが、一泊して店員とのセックス込みとあれば、かなりの金額が上乗せされる。  それでもポンと出せるだけの上顧客のひとりが、この葉山であった。  彼は二年前に初めてこの店で八代琉衣を見て以来、三ヶ月に一度はこの店を訪れていた。 「……ああ。いけません」 「嫌がるな。しゃぶって欲しいと言ってくれ」 「ダメです。わたしがしてさしあげなくては……あっ」  身体を起こそうとする琉衣をふたたび押したおすと、陽紀は困ったような表情になった。 「君が一流の男娼だということはわかっている。しかし……いやだからこそ、僕は君を恋人のように抱きたいんだ」  高価なジュエリーを身につけたままの美しい青年と、高級な服を脱ぎやや筋肉質な裸体をさらす青年が、大きな寝台のうえで絡みあっている。  二人の間をさえぎるものは、今は、ない。 「あ……陽紀さま……。おねがいです……わたしのものを……」 「君のものを……?」  琉衣のペニスはかたく反りかえり、透明な先走りを滴らせていた。時間にしてもう十分以上、陽紀はじっと琉衣のペニスを観察し、袋の部分をじっくりと指で撫でながらもペニスには触れずにいた。 「ここ……こうやって袋から裏筋にかけて……ふふ。君はここがとても弱いね」 「あ……っ」 「……そら、言わないとずっとここしか触れないよ?」  ピクンとふるえるペニスから滴るものが、琉衣の下腹部にあふれてくる。  たまりかねたように、琉衣は頬を赤くそめながら、 「……ああ。どうか……わたしのものを、しゃぶってください」  そう口にした。 「いい子だ」  陽紀はそう言うと、琉衣のペニスの裏筋を下から上までねっとりと舐めあげた。 「ひっ……」  ビクンと腰が跳ねる。 「は……はやく、しゃぶって……」 「ふふ、いいよ」 「あーっ!」  口に含まれたのがよほど気持ち良かったのか、琉衣はそのまま腰を前後に動かした。  陽紀はその腰の動きにあわせて、塗れた音をたててフェラチオを続ける。慣れていた。 「……ダメです、もう達してしまいます。ああ……っ」  琉衣の息が荒くなる。足の指がせわしなく曲げられたり伸ばされたりをくり返している。  そしてその表情は、売り場にいたときの端正な佇まいからは想像できないほどに淫らなものになっていた。  ダイヤをいくつもちりばめたネックレスよりも、その表情のほうが見た者の目を奪う。 「い、いく……っ」  押し殺したような声がして、下腹部が震えた。 「……はあっ、ああ……」  陽紀はごくりと喉を鳴らしながら精液を飲み干した。そのままペニスを口から離さず、後から押し出されるようにあふれてくる精液まであまさずに口で受けとめた。 「……いい。君の出したものはぜんぶ飲むよ」 「あ……陽紀さま。いけません……」  琉衣はあわててタオルを差し出そうとする。だが陽紀はおかしそうに笑いながら、手で制止した。 「もう飲んでしまったよ」 「……」 「そんな顔をしないでくれ。まるで僕が君をいじめてるようだぞ」 「も、もうしわけ……」  陽紀は琉衣のしなやかな髪に指をからめ、抱きしめる。 「ほら、またすぐそうやって謝ろうとする」 「……」 「恋人なら、もっと飲んで……くらいは言ってほしいね」    ベッドサイドのテーブルには、いくつか閨房に使う道具が備えられていた。  ローションは人肌程度に温めた状態で用意されていて、使う者が冷たさを感じることがないよう配慮もされていた。 「ここで用意してくれるローションはいい」 「……んっ」 「あたたかいと気持ちいいだろう? 君のここ、もうとろとろだ」 「あああ……」  仰向けになり腰の下に枕を入れられた琉衣のアナルには、指が三本も挿入されていた。  多めにローションが使われたのか、濡れた音がやけに大きく響く。  陽紀は、指を単純に出し入れするのではなく、撫でるように左右に動かしていた。 「あ……そこ、きもちいいです……。もっと……」 「君のおねだり、たまらないよ」 「ダ……ダメです……やめないで……っ」 「琉衣、ほらもっとおねだりをして」  青年の端正な顔にほんのりと赤みがさしていた。照れや恥じらいではなく、興奮による紅潮だろうか。 「陽紀さま……あなたのものを……ください」 「……琉衣」 「はやく……わたしのなかに……」  髪と同じようにすこし淡い色の瞳が、せつなげに陽紀を見た。 「……」  陽紀は生唾を飲み込み、琉衣の足を大きく広げてそこを観察した。 「ああ……見ないで」 「いいよ、お待ちかねだね。ヒクヒクしてる。……さ、僕のを入れてあげよう」  そう言うやいなや、陽紀はかたく勃起したペニスをそこにグイッと押しこんだ。  濡れた音とともにそれはゆっくりと中へ飲み込まれていった。 「っ……! あーっ」 「……ああ、琉衣。君とひとつになれた……」  陽紀は陶酔の表情でそう言いながら、ゆっくりと腰を前後にうごかした。  動きに合わせて琉衣の背中や腰がびくりと震える。 「相変わらず……君のなかはとても熱くて……。僕のことしめつけてくる」 「陽紀さま……ああ、もっと……もっとください」 「ふう……。気持ちいいよ……琉衣」  抑えた動きに焦れたのか、琉衣が陽紀の腰に足を回して自分のほうへ引きよせる。 「もっと動いて……。もっと……お願いです」 「いいとも……。たくさん感じてくれるかい」 「はい……っ」 「ああ……かわいい琉衣。君を……僕だけのものにしたい」  陽紀の動きに合わせて、琉衣の首すじや胸など、肌にあちこち赤みがさしてくる。 「きれいなピンク色になってきたよ」 「ダメ……止まらないで……あっ。そこ……ああっ……とても気持ちいい……っ」  琉衣が手を伸ばして、陽紀の腕を引っ張った。陽紀は琉衣に覆いかぶさり、そのまま彼を抱きしめる。そうして腰を強く突き上げた。 「あっ……もう……あ……っ」 「……そら、いっしょに……!」 「ひ……ああっ!」  琉衣の首筋や胸にかけてピンク色に染まり、身体がたまりかねたように大きくふるえた。  同時に、陽紀もまた下半身をふるわせて達した。 「……あ」 「ふう……」  息をつきながら、陽紀は琉衣の首筋をそっと撫でた。 「セックスフラッシュ……だね。男でもこんなにキレイに出るものとは」 「……はあ……はあ」 「君は本当に最高だ」 「陽紀さま」 「好きだよ」 「は、はい。ありがとう……ございます」  そのままぐったりと力の抜けた身体がふたつ、ベッドの上で荒い息を吐いていた。  しばらくして、琉衣がわずかに身じろいだ。 「……だめ」 「?」 「もう後始末をしようと思ってるだろう……?」 「はい」  琉衣はまだすこし余韻をひきずったような気だるげな表情だった。そんな状態なのに、彼はあくまで男娼としての務めを果たそうとしているらしい。 「もう少し……このままでいてくれるかい?」 「陽紀さま……」 「……恋人同士ならセックスが終わったあとも、じっとくっついていたくならないかな? そんなに急いで離れたら寂しいじゃないか」 「あ……申しわけございませ……」 「ごめん。困らせたいわけじゃないんだ」 「……陽紀さま」 「君は一流の男娼だから、僕に甘えて夢を見せてくれている……それはわかっているよ」 「……」 「だからこそ、最後まで夢を……見させて欲しい」 「……」  琉衣はそっと両腕を葉山の身体にまわした。陽紀も琉衣の身体をつよく抱きしめた。 「何度も君を抱いたけど、わからないね」 「……?」 「どこまでが商売の顔で、どこからが君自身なのか……」 「陽紀さま」 「だから止められないんだけどね、ここへきて君を抱くことを」  琉衣が首をふった。身につけたアンティークの首飾りがかすかな音をたてた。 「……今お目にかけているすべてがわたしです」 「……」 「あなたがどうお感じになろうと、これがわたしなのです」 「琉衣」  すこし色の薄い眸に、いつになく強い光が宿っていた。  陽紀はしばらくその眸をじっと見て、ふっと微笑んだ。 「……ますます、いいね」  琉衣の乱れた髪をそっと整えるように撫でつけながら、陽紀はその耳元そして首元へとそっとやわらかく口づけた。  いつも自信にあふれている陽紀の表情がすこしばかり翳る。琉衣からは見えないところで。 「君もよくわかってると思うけど、ここへくる客だって明日が必ず保証されているわけじゃない」 「……陽紀さま」 「ある日ばったりと足が途絶え、もう二度と来なくなる。そういう客も少なくないはずだ」  陽紀は身体を起こすと、ダイヤのバングルがはめられた琉衣の右手をそっと手に取り、その手の甲にも口づけた。 「……それは我々も同じでございます。このような商売ですから、明日には店ごとここからいなくなっていることもあるでしょう」 「……」  思いがけない言葉に、陽紀はまじまじと琉衣を見た。いつになく琉衣の表情は真面目だった。 「ですから、すべてをお見せしたいのです。陽紀さまがわたしのことを覚えていてくださるのなら……それで充分に嬉しく思います」  それが本心なのだろうか。それともこれも男娼としてのもてなしなのか。  陽紀は逡巡した。だが心の真実を見ることなどできるわけがない。 (たとえそれが本心でなくてもいい、今ここにこうやっている時間こそが真実なのだ)  彼はそう思いなおした 「ああ……琉衣。君を僕のものにしたい」 「はい……陽紀さまのものにしてくださいませ」 「一晩だけとは言わず……ずっとだ」 「……陽紀さま」  ふたりはそのままじっとお互いを見つめあっていた。  言葉では語れない、言葉にならない、そんな想いが張りつめているようだった。  ややあって、ベッドサイドの電話が呼び出し音を一度だけ鳴らした。  琉衣が陽紀のほほに手を伸ばした。 「お風呂はいかがでしょうか、陽紀さま。このままではお身体が冷えます」 「風呂できみをかわいがっても?」 「……えっ。そ、それは……陽紀さまの……お好きなように」 「そう、じゃあ入ろうか」 「その間にお食事の用意もととのえさせておきます」 「いつもながら、行き届いた店だ。感心する」 「陽紀さまにお楽しみいただければ、とても嬉しく思います」  琉衣はゆっくりと身体を起こしてベッドからおりると、天蓋のレースをそっとたぐり寄せ、タッセルでまとめた。  首元と手首のジュエリーをはずし、ベッドサイドのジュエリーケースにそっとしまう。  いつもなら事務的に終えるはずの作業なのに、彼はそこに名残惜しさのようなものを感じた。  これは商品なのだ。そして陽紀に買われたものだ。自分と違って、これは明日には綺麗な包装紙に包まれて、去っていくのだろう。陽紀と共に。  ふとわいた自分の気持ちをふりはらうように、琉衣は陽紀に向かってにこやかに笑いかけた。 「さあ、こちらへどうぞ」  まだ情事の余韻を残した身体の二人は、そのまま浴室へと消えていった。  一流ホテル並の豪奢な朝食のあとで陽紀が店を去ってから、一年が過ぎた。  いつもなら三ヶ月ほどで来ていた陽紀がもう一年も来ない。琉衣はいつかはそんな日が来るのだろうとぼんやり思ってはいたが、現実になると消せない喪失感を感じるのだった。 (また来るよ)  そう言って手をふった去りぎわの笑顔が忘れられない。  客の少ない午前中の店内、ガラスケースを磨きながら、琉衣は自分自身に動揺していた。  陽紀が言ったように、急に店を訪れなくなった客も少なくはない。その代わりにまた新しい客がやってくる。ここではそんなふうに時間が流れていく。  琉衣はあれからも何人かの男に抱かれた。それなのにただ一人の男がいつまでも記憶から消えないのはなぜだろう。  ガラスケースに水滴が落ちた。  白い布でそれを拭き取る。  また水滴が落ちた。  布で拭き取った。 「すいません、マネージャー。すこし席をはずします」  ショーケース内のジュエリーの状態をチェックしていた黒いスーツの美女が、ルーペを置いて顔を上げた。 「琉衣くん、休憩ね。了解」  洗面所で自分の顔を見れば、たしかに涙が流れていた。  誰のためのなんのための涙か、そんなことは琉衣自身もよくわかっていた。 (陽紀さま……)  あの日、朝別れる前に陽紀が琉衣に渡したものがある。  それは彼が買ったネックレスとバングルだった。 (このような高価なもの、いけません) (客に物をもらっちゃいけないとは言われてないだろう?) (ですが……陽紀さま) (僕よりは君のほうが似合うだろう? これは君にあげるために買ったんだ。もらっておいてくれ。記念に) (記念?) (君と恋人になれた記念……かな) 「ううっ……」  視界がぼやけて鏡が見えなくなった。  こんな気持ちになるくらいなら、もっとちゃんと想いを伝えれば良かったのに。  相手が客だから自分が男娼だからと、踏みとどまっていた自分が悔しかった。  そして今はただ陽紀に会いたいと思った。 (恋なんてするんじゃなかった……!)  しかも、もう二度と会えない男に。 (ネックレスもバングルも、あなたの代わりにはならないんです……!)  しばらく涙は止まらず、琉衣はずっと嗚咽をこらえていた。売り物だから腫れた目で持ち場に戻るわけにはいかないのに、涙はあとからあとから溢れてくるのだった。

ともだちにシェアしよう!