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第7話
「お疲れ様でしたー」
いつものトートバッグを引っ提げて、まだ慣れないバックルームの扉を出てレジに声かけて、自動ドアの外に出る。
どうにか受かったコンビニバイトは予想してたけどやっぱり深夜番メインで、日によっては夜が明ける様をレジから眺めることになる。まあ、二十代フリーター男の使い道なんかそんなもんだろう。
随分前にコンビニバイトは経験したことはあれど、やっぱり新しい仕事ってやつはなかなかに大変というか、どうしても疲労する。
特別悪い人だとも思えない店長と社員とパートさんと、いやに馴れ馴れしい年下バイトとコミュ障っぽい年上バイトに挟まれて、ちょっとやっていけるか不安だけどでも働かないと生きていけない。世の中は、残念ながらそういうシステムになっちゃってる。
仕事探すにしても今金がないっていうのは非常に不利だ。
とりあえず贅沢しなけりゃフリーターでも生活はできる。そんなことして生きて結局何がしたいのオレはって、思わなくもないけれど、とりあえず働いている間はネガティビアンはなりを潜めてくれたし、動けば動いた分腹は減ったし眠くもなった。
健全な労働は健全な食欲と睡眠欲を伴うものである。マル。
まあ、そんなことを考えながら、廃棄のサンドイッチを少々いただいてきたわけだ。
ここんところ、ポテトサラダ味しか食ってない。もう体がポテトサラダになるかもしれない、と思う。その原因が先日の撮影の日、倉科青年が無造作に投げてくれたコンビニ産ポテトサラダサンドイッチにあるということは自覚済みだった。
いや。いやいや惚れてない。惚れてはない、んですけれども。
でもほら、世の中のお付き合いは恋愛だけじゃない。男女の友情が一応存在しているわけだし、オレが男の友人作ったっておかしくはないわけだ。分類的にはタマコさんも男だし。
だって倉科クンやっさしいのだものーあんなのそら、チラチラしちゃうって話です。
背も高い、顔は地味っていうかちょっと怖い感じに覇気がないけど一応ちゃんと笑ってくれるし、声もだらっとしてるけど別に怒ってる感じはしない。普段からフラットって感じ。きっと死ぬほどびっくりしたときも叫んだりはしないんだろうなって思う。
色の抜けたピンクの髪も、最初はおしゃれっていうよりすんげーなぁアレ、という気分で見てたけど。今は街中でシュシュの女子を見るたびに、倉科クンのピンク髪に似合うかどうかとか考えちゃう。
ストライプは似合う。ドットはちょっとかわいすぎるかも。でも花柄は結構おもしろそうだから、ぜひ試してもらいたい。
そんなことを考えてると、普段は下を向いている視線も他人の姿を追うために自然と上がる。
相変わらず何のために生きてるのオレってば精神は、隙を見てはこちらに手を伸ばしてくる。死ねばいいのにって笑う声は耳の奥から離れない。でも、どうにか働いている。動いてる。食ってる。寝てる。
とりあえず、それだけでも上々じゃないのって思うことにした。人間求めすぎるとよろしくないに決まってる。
これはもう完全に言い訳だって知ってるんだけど、思いつめてグルグルした後に人生断つよりマシかなぁと思うわけで、世の中のまっとうな方は是非ともオレのこの後回し理論には目をつぶっていただきたいと思うわけだった。
最近はネガティブさんが心の扉をノックするたびに、倉科クンの唇と舌のことを思い出すようにしている。まあ、これもどうなんだって話なんですけど。
(…………だって、気持ちよかったんだーもの)
いつも通りの早足で歩きながら、別に死にたいとも思ってないのにぼんやりまた舌のことを思い出した。
カヤさんに命令されてノリだけでちゅーした。若造の癖に、そこそこうまくて、まあ、超絶気持ちいい溶けてしんじゃうってほどの技巧もなかったけど、とにかく舌が薄いのに長くて最高に好きだった。
キスが好きっていうか。舌が好き。
へにょへにょになって凭れかかりながらそんな感想を素直に告げちゃったら、倉科クンはさほどイヤそうでもない感じで苦笑いしてくれた気配がした。恥ずかしくて流石に顔は見ていないわけですけれども。
ああ、あと、腰を支える手の感じも好きだった。でかくて細くてかっこいい手で、腕からのラインが最高にきれいだった。あの手で身体をなぞられる妄想を開始しそうになって慌てて頭を振って追い払った。
いやいや。だから。
……恋はしたくないのだもの。
(ぜったい望みないじゃん。うっかりほだされてくれたってさー、面倒なだけじゃん)
倉科クンは優しい良い人だ。オレがゲイだって知ってても、結構フラットに接してくれる。友人になれるならばそれに越したことはない。
わざわざ恋に落ちて、玉砕してさよならするのは嫌だ。
恋に引っ張り込んで、いつかやっぱり女の子が良いですとか、あんたじゃなかったとか、もう飽きましたとか、愛が重いんですとか、そんな辛い言葉の数々を叩きつけられるのも嫌だ。もう、嫌だ。そういうの、嫌だ。
あーだめだめ、また泣きそう。
頭を振るとちょっと気持ち悪くなっちゃうから、立ち止まって息を吸った。深呼吸。ゆっくりと吐く。……つもりだったのに、息を吸い込んでから飲み屋の路地の向こうに見えた男の姿に、動揺しすぎてむせてしまった。
心臓がどくりと鳴った。
胃が、きゅっと縮まるような。内臓全部からサァっと血が落ちるような。喉の奥が冷えるような。目の奥から脳味噌全部がぐわんと揺れるような。吐き気がこみ上げるような。
ああ、やだ、なんであんたこんなとこにいるの。
夜道で会うならオレは断然、ピンクの髪のカメラマン見習いが良いのに。何食わぬ顔で、そっと立ち去りたくても足が動いてくれない。
でも、流石に向こうがきっと無視してくれるはずだ。一か月も前に振ったゲイのことなんか、嫌な思い出でしかないだろうし、ほら、だって隣にきれいな女子がいる。あの人はきっと雨の日に告げられた婚約者とやらだ。いつも連れてたキャバのおねーちゃん達とは明らかに系統が違うもの。ごてごてしてない。胸元もあいてない。普通のワンピースだもの。
やだどうしようおれってば吐きそうあはは。
なんて、もちろん、笑える余裕なんかなくて。
こっちに来ませんように。オレに気がつきませんように。そのまま通りすぎますように。
そればっかりを願ったままガタガタと病気みたいに震えながら前だけを見ていた。
ださいね。女々しいね、馬鹿かな。でも、泣きそうだ、どうしようもない。
だって耳にこびりついている。かわいいと言ったその声で、もう要らないと言われた。好きだよと言ったその声で、飽きたんだよねと言われた。トキがいればそれでいいと言ったその声で、結婚することになったからゲイと付き合ってるとかばれるのは困るんだと言われた。
あ、やばい泣く。吐く。
そう思った瞬間、息を吸い込むことができて、同時に足も動いた。
前も見ずに踵を返し、必死に走った。心臓が痛い。息が辛い。でも逃げたい。一刻も早く誰もいないところに行きたい。そんでたぶん死ねないから吐きたい。
そう思って、とにかく走った。
あの男がオレに気がついたかどうかなんか知らないけど、とにかく逃げた。
ただ遠くから見ただけでコノザマって、どういうことなのって。自分でも思う。
でもだめだ全部頭の中に蘇って内臓持ってかれるくらいしんどい。痛い。辛い。痛いのは嫌だ、辛いのは嫌だ。立ち向かって結果しぬならオレは逃げたい。
がむしゃらに走って息ができないほど走ってバイト先のコンビニも通り過ぎて、駅も通り過ぎてでも止まれなくて、血管に酸素回ってない感じがしてきて頭真っ白になってきてやばい倒れる、と思ってやっと足がもつれて止まった。
気がつけば駅裏で、人通りも少ない道の歩道に倒れ込むように膝をつく。ずるずる、崩れ落ちる。ほとんど四つん這いで息をして、こんなにあほみたいに走ったのって高校以来かもって思ったら高校の時の記憶もフラッシュバックしてちょっと本気で涙がぼたぼた零れ落ちた。
だめ、これ、よろしくない。全然、生きていける気がしない。
タマコさんでもカヤちゃんでもいい。誰かに全力で大丈夫だよって背中さすってもらわないと冗談抜きで駅でマグロになっちゃいそうで、こっからタマコさんのお店ってどう行くんだっけって、やっと立ち上がってふらふら、歩いてたら記憶に新しい店の看板が跳び込んできた。
なんだっけ。どこできいたんだっけ、と記憶を辿って、あっ、と思い出す。
そうだほら、倉科クンが言ってた店だ。カメラマンアシスタントだけじゃ食っていけないから深夜にバイトしてるって言ってた店だ。確かレンタルDVDショップで、二十四時間営業の。
どんだけ走ったかわからないけど案外オレのバイト先に近いらしい。
そういえば駅の裏にあるって言ってたような、気がしないでもない。あやふやなのはその話をしてたとき、すっかり運転しながら煙草を吸う仕草に目を取られていたからだ。
まだ過去の男を見て泣きそうになるくらい引きずってるくせに、そうやって別の男にホイホイと見惚れちゃう。そんな自分が気持ち悪すぎてまた涙が出た。
ふらっふらな足でどうにか歩いて、無心でDVDショップに入った。
レジにいるのは背の低いおっさんで、倉科クンじゃない。チェーン店だったし、この店舗じゃないのかもしれない。今日は休みかもしれない。そうは思ったけどそのまま店の中に入って、一番奥のアダルトコーナー前でひょろ長いピンク髪の男を見つけた時は、もうあんまり思考できるようなまともな状態じゃなかった。
声が出なかった。ひゅって、喉が鳴るだけで、しかも痛い。
だからふらふらしたまま、なんかDVDケースみたいなのいっぱい持った倉科クンの背中に無言でドンっと抱きついた。それが、もう、精一杯。
「……っひ!? え、ちょ……え、トキチカさんっ?」
「………………っ、くら、しな、く……っ、は、……う、………」
「え。なんで泣いて、ちょ、大丈夫ですかっていうか全然大丈夫じゃないじゃないっすか、どうしたの……!」
ぼろぼろと涙とまらない状態のオレをひきはがしはせずに、そのまま人気のないアダルトコーナーの中に引っ張って行かれた。
手に持っていたケースの束を乱暴に棚に投げて、倉科クンはぐるっとオレに向き合ってくれる。オレは抱きついたままなので、正面から首元に顔を埋めた。
倉科クンは吸ってなくても煙草の匂いがした。
あの人も煙草吸ってたけど、香水の匂いのほうがきつくて、こんな匂いじゃなかった。
「えーと。一応訊きますけど、どうしたんですか」
「しにそう。……やばい。生きてて良いよ、って、言って」
「ん!? ん、うん、ああ、ええと、急に何メンヘラってんのかわっかんないんすけど、死んだら困りますよ。おれ、まだトキチカさんの写真撮らせてもらってないし、この前その話し忘れたなーどうやってコンタクトとるかなーって思ってたところだし、カルナバルの複製もらう許可も取り忘れたし。おれが困りますんで、死なないでください」
淡々と、結構早口で捲し立ててくれる倉科クンはやっぱり壮絶に優しいと思った。
優しい上に、その言葉を聞いてどうにか心を元に戻そうと必死になっているオレの肩口をつかんでちょっとだけ引きはがすと、そのまま強引にちゅーしてきた。
二回目だ。キスするの。
結構乱暴に舌入れられて、息吸われて、さっき走ったばっかりだからしんどくてぜえはあしながらもう無理って背中叩いたら離してくれたけど。
「……なに、え、いきなり、どうし……」
「いや。目の焦点ぜんっぜん合ってなかったから。相当パニックであわあわしてんだなーと思って。……正気に戻りました?」
「戻った、けど、違う意味で、パニックしそうなんで、やめてちょうだいもうほんと……」
じわじわと赤くなっていく頬を自分でも感じてしまって視線が下に落ちる。
そしたら腰を抱かれる形で抱き合っていることにも気がついて、慌てて一歩後ろに下がった。濡れた頬を袖で拭いて、そのまま顔隠してうっわーってうずくまる。
「……ゴメンナサイ……動揺していたとはいえ、オレってば会って間もない男子の仕事中に後ろから突然の襲撃をかましてそのうえメンヘラやっほーしてしまいましたユルシテクダサイっていうか忘れてクダサイでも大変助かりました言ってほしい言葉をアリガトウゴザイマス……」
「イーエ。別に、本心っていうか、まあ、ほんとのことなんで。随分遅い時間にご来店ですね、仕事帰りっすかね?」
「うん、そーね、そんな感じ」
「じゃああと十分そこらへんで時間つぶしててください。おれもう上がりなんで、ついでに飯でも付き合ってもらえるとありがたいんですけど」
「え」
「あ、だめ?」
「い、や、だめ、と、いう、……ことは、」
「じゃあ決まり」
目を細めるようにふわっと優しく笑う瞬間を、真っ向から見てしまって。
ビデオ屋のアダルトコーナーで、盛大に赤面してしまった。どうしようこのまま出て行ったら女子諸君の裸にあてられた童貞くんみたいじゃないのって思うくらい。耳まで熱くて、本当にさっきとは別の動揺が襲ってきた。
おかしい。死にそうだ吐きそうだ泣きそうだって思ってたのに。振られた雨の日も、今日も、いつも助けてくれるのは倉科クンだ。
カヤちゃんが言ってた、「おうじさま」って単語がグルグルする。
おうじさまかどうかはわっかんないけど。さっきの笑顔が頭から離れなくて、ホラーコーナー前で赤面したまま立ち尽くしてしまったのは、事実だった。
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