1 / 21

第1話

「人生で三本の指に入る程最悪な気分だよ!」  不機嫌さを隠さない大声に、待合室に居た数人の観光客が視線を寄越した気配がした。  一人一人睨んでやるような元気はとうにない。そんなものは昨日、アメリカにおいてきた。  正直喋る事すら億劫だったが、気安い友人兼同僚からの電話はこれが最後かもしれない。そう思えば、ため込んでいた罵詈雑言は口からすらすらと出ていく。 「僕の二十六年の屑みたいな人生は褒められたもんじゃないけどそれでも上々だった筈なんだ。それがどうだ、どう考えたってどん底じゃない! 一晩こえだめみたいな馬小屋に閉じ込められた時も、バイト先で知らない人に刺された時も僕の人生はなんて最悪な出来事ばかりなんだと思ったけどそれに匹敵するよ、ねぇマイキー僕の気持がわかる?」  賢明な電話先の友人は決して『わかるよ』とは言わず、小さく溜息をついただけだった。 マイキーは強面のドレッドヘアの黒人で、社内で一番つるんでいる男だった。さすが、こちらの性格をわかっている。話し出したら止まらないという事を、いやという程思い知っているのだろう。  無駄な言葉を挟まないマイキーが聞いている事を知っているから、ただひたすらに言葉を紡ぐ。  テレビすらない駅の待合室に響くのは自分の声だけだったが、そんなもの知るかと思った。  英語はすっかり世界共通の言語のようにふるまっているが、他の国からしてみれば所詮は外国語だ。単語を聞き取れたとしても、マシンガンのように繰り出される言葉の洪水を正確に理解できるのは、同じアメリカ人でも難しいに違いない。 「まったくほんととんでもないよ! そりゃ僕はどこにでも行くって言ったけどまさかこんなど田舎に飛ばされるなんて誰が想像する? 空港から何時間電車に揺られたと思ってるのさ。すごい! 何もない! 大自然と余所余所しい態度のスウェーデン人以外は何もね!」 『なぁ、SJ、ほんと、最悪な気分だってのはわかるよ……俺だって同じ境遇なら精神病院の門を叩いているかもしれない。ひどい話だってことは、誰が考えたって明らかさ』 「ああ、そうだろうとも僕はただ粛々と毎日元気に仕事をしていただけなのに、濡れ衣のスキャンダルで局は大荒れ降板に次ぐ降板にスポンサーの大半はひどい言葉を叩きつけて金を持って逃げていった。ワオ、すごい、まるで映画の冒頭だ! きっとこれから悲劇のヒーロー、スタンリー・ジャックマンは『スピーカー・ジャック』のマークが印刷されたマスクをかぶって空を飛んで剣をぶっぱなすのさ。さもなきゃ地味に黒幕殺害計画を実行だ。ヒーロー映画は好きだけど僕は改造される悲劇のヒーローになるのもサスペンスの復讐者になるのもまっぴらだよ。新作映画の紹介をするのが本来の商売なのに!」 『落ち付けって、SJ。頼む、ほんとに、まずは息を吸え』 「吸ってる! 吸わなきゃ喋れないでしょ!」 『深呼吸しろっつってんだ』  端末から聞こえる声はほとほと困っている様子で、流石のSJも言葉を一度呑み込んだ。  SJは子供ではない。自分がこの後に及んで駄々をこねているということは承知しているし、この件に関して電話向こうの同僚は大変尽力してくれた。申し訳ないしありがたい。しかし、ありがたい気持ちよりも今は人生どん底な気分が勝ってしまう。  冷たいベンチに尻を落ち着け、まったく落ち着かない気分でSJはカツカツとベンチの縁を爪で叩く。  落ち着かない気分の時の癖は、子供の頃から直らない。もう二十代も後半だというのに、いつまでも少年時代から成長したという実感はなかった。  落ち着かないし、とにかくうるさい。  SJの評判はたいていがこの有様で、自分でもまったくその通りだと思う。  落ち着きたいとは思う。  けれど、目の前にスクープが転がっていたら、食事中だろうがデート中だろうが飛びついてしまう。後先なんて考えられない。おもしろい話題は最高だ。経験値と知識になり、さらには仕事のネタになる。  静かにしたいとも思う。  もちろん一人の時まで諾々と喋っているわけではないし、喋る言葉がなければ黙っている。それなのにいつだってSJの言葉が途切れないのは、溢れる言葉が体の中に収まりきらないからだった。  NYを拠点として活動する弱小ローカルテレビチャンネル『NICY』のディレクター件キャスター件諸々すべての仕事をカバーする係のSJは、要するに喋っていないと落ちつかない、ただの仕事馬鹿だった。  顔は多分悪くはない。俳優の様な美形ではないが、愛嬌があると言われる。昔からモテないわけではない。ただし歴代の恋人達は人としてあまり静かではないSJに愛想を尽かすのも早く、一カ月以上誰かと付き合った事はなかった。  SJ自身、誰かに心を奪われるという事が無かった為かもしれない。  いつだって彼の意識は最新のニュースや驚くべきハプニングを追いかける事に向けられていて、恋人の誕生日のプレゼントを選ぶ作業は二の次だった。  孤独だとは思わない。  友人は数える程しかいない。恋人は続かない。家族は離れて久しくもう顔も覚えていない。それでもSJには、毎日腕からこぼれ落ちる程の仕事があった。  それが今は、一つもない。  仕事を奪われた孤独な二十六歳は、ただひたすらに自分の現状を憂い、その湖の底の様などんよりとした暗い感情を電話口に叩きつける。  こんなことをしていてはせっかく気遣ってくれた遠い故郷の友人すら無くしてしまう――。そうは思っても言葉を飲みこめる器量がない。 「深呼吸なんかして空気を深々吸ってどうなるのさ、結局僕の血液がスウェーデンの酸素を取り込むだけさ、現状は何も変わらない。僕は今、生まれてこの方訪れた事もないスウェーデンに居る。それも首都ストックホルムじゃないもっともっとずっと馬鹿みたいに田舎だ。昨日はNYのアパートで眠りについたのに! いやスウェーデンっていうのは知ってたよ、でもまさかこんなバスも走ってなさそうなど田舎だなんて! ねえこれネット繋がってるの? 正直携帯電話だって繋がるか怪しいもんだよ、そうさ憂鬱な世界といじわるばかりな運命は僕を孤独で囲い込んで窒息死させる気なんだ!」 『だから、息をしろって言ってんだSJ。お前は孤独に埋もれる前に、自分の言葉に埋もれて死ぬぞ』 「大丈夫、湧きあがる感情がなけりゃ言葉だって枯渇するさ。情報がなければ感情は生まれないよマイキー。ほんとにきみにこの素晴らしい自然しかない風景を見せたいよ。すごい。空が青い。素晴らしい。何もない。ご老人とご婦人しかいない。多分あとは家畜ばっかりだ。こんなとこで僕は何を思って何を喋れっていうの?」 『何も考えずにバカンスだと思って今まで費やせなかった時間を趣味にでも使えよ。元ハリウッドスターと同居だろ? 異国の地で友人を作るのも悪くない。彼もサリヴァンの罠にはめられた仲間だろう。知られざる俳優引退の事実でも探ったらニュースにでもなるんじゃないか?』 「……なんて素敵なスパイ作戦。うきうきしちゃう。この映画のタイトルは何にする? そうだな、僕はスパイ映画もサスペンス映画も詳しくないから暇なこの機会にたっぷり映画の勉強をしておこうと思うよネットが繋がればの話だけどね!」  少ない荷物の中にはノートパソコンも入っているが、ネット環境がなければただのデジタル日記帳にすぎない。暇つぶしにゲームをする趣味もない。本は重いので置いてきた。  まさか、これから半年程ステイする場所が、DVDストアもないような田舎だとは思っていなかった。  このままUターンをしてアメリカに帰りたい。  けれど、それを実行に移した場合、今度はどんな嫌がらせが待ち受けているのか想像もできない。  やっと軌道に乗ってきたローカルテレビチャンネルの顔であるSJが、まったく身に覚えのないスキャンダル報道で会社ごと株を落とし、表舞台から一時的に引退する羽目になったのは先週のことで、毎日続く大小様々な嫌がらせから逃れる為に、ついにアメリカを発つことになってしまった。  SJを窮地に追いやったのは現在絶賛NICYを買収協議中の大手映画会社のイーグル・レーベルだった。代表取締役は禿げた初老のライアン・サリヴァン。思い浮かべただけで吐気がするし乾いた笑いが出そうになる。  いっそ未開の地の取材にでも時間を費やし第二のコロンブスを目指すべきか、と冗談半分に考えていたSJをスウェーデンに送り出したのは、愛すべきNICYの同僚達だった。  何も考えずにしばらく雲隠れして、英気を養って帰ってこい。そんな風に言われてしまえば、勢いで命を無駄にすることもできない。  頭は悪くない筈なのに、どうにも言葉が先に出る。喧嘩には向いていないし和解にも向いていない。落ちついて深呼吸をしろ、というのは長年一緒に働いてきたマイキーの口癖になっていたが、SJがそれに素直に従ったことはなかった。  何処にも就職出来ずに仲間内数人で立ち上げたローカルテレビ局は、最初は散々な経営状態だった。  まるで大学生のサークルだ、と自分達でも思っていた。それでも次第に仕事を覚え、メディアを知り、人脈を作り、吸収した知識を武器に口とアイディアでのし上がって来た。  最近は顔も定着してきた筈だった。街を歩けばSJだと指をさされる。その度におどけた表情で手を振り『あんまり僕の事を悪く言うと今夜のニュースのトップにするよ!』とジョークを返す事も多くなった。  これからだった。これから、やりたい事が山ほどあった。喋りたい事も山ほどある。今だって、どんどん構想は広がっていく。  それなのに全てを無くしかけて、今自分は北欧の田舎のベンチに一人腰かけている。  全く、笑えもしない。こんなに鬱々とした言葉ばかりを羅列するのは、本当に学生時代に馬小屋に閉じ込められた一晩以来の事かもしれない。 『……なぁ、お願いだ。こっちはどうにか、俺達もがんばる。サリヴァンのいいようにはさせない』  耳に当てた携帯機器から聞こえてくる声は悲痛で、真面目で、泣きたくなるほど真剣だ。 『ナスチャの方も頑張ってくれてる。お前の心が折れたら、みんなの心も折れる。誰が引っ張って来たんだ? NICYの代表取締役はお前じゃないが、実質はお前の会社じゃないか、SJ。俺達のスピーカー・ジャックのその煩い口が閉じられたらおしまいだ。がんばれなんて言わないさ、ただ、長い休暇だと思って適当に生きてくれたらそれでいい』 「何、僕が死ぬって? 馬鹿な事言わないでほしいね死ぬなら故郷に帰って見事派手に散りたいよ。僕の命はライアン・サリヴァンの薄汚い罠でついに果てましたってね!」 『それが怖いって言ってんだ、落ちつけ。今日くらいは大人しく深呼吸してくれよSJ。さあ、吸って。吐いて。田舎を楽しめ。同居人もいい奴かもしれないぞ』  これからSJが過ごすことになる農場には、すでに一人居候がいる。元ハリウッドスターの男性のことは、生憎とウィキペディア以上の知識はない。 「それはどうかな。僕は生憎一本も彼の映画を見てはないけど、気難しそうな美形は大概そのまま気難しくて面倒くさい男だよ」  初めてかもしれない深呼吸をして、ため息にも似た息を深く吐きだした時、目の前に男が立っている事に気が付いた。  喋っている事に夢中で、人の気配に無頓着だった。  SJの荷物を無言で持った男に、何をするんだと声を荒げる事はしなかった。映画は一本も見ていないSJだったが、記憶力はいい。何しろ昨日画像検索で見たばかりだし、新作映画の紹介は何度も経験してきた。  映画のCMやインタビュー映像でいやという程見た男の顔は、サングラスをかけていても見間違える事はなかった。  記憶の中よりも髪の毛が随分と長い。ゆるく括った髪はブロンドで、サングラスの奥の瞳はおそらくブルーグレーだ。  ハロルド・ビースレイ。  思わず口から出ていたらしく、電話口のマイキーからは怪訝な声が、そして目前の美形は眉を寄せ端整な顔を曇らせた。 『なんだって? SJ、深呼吸は――』 「したよマイキー。お迎え来ちゃったみたいだから切るよ、縁があったらまた電話して。電波があったら僕からも電話するよ、オヤスミダーリン。……そんで、ええと、はじめましてハニー?」  そっと息を吸い、意図的に軽くしたテンションでにっこりと笑顔を作る。しかし、目の前の男から返ってくるのは冷たい響きの声だ。 「そのあだ名は好きじゃないな。……安直だし、似合わない」 「そうかな、悪くないと思うけどね。Beeが蜂でハリーがhoneyになったわけでしょ? 嫌いじゃないなそのセンス」 「あんたはスピーカー・ジャックってあだ名を気に入ってそうだな」 「気に入ってるとも! うちのスタジオで喋りまくる前から僕のあだ名はずっとスピーカー・ジャックさ。死ぬまでに僕は世界中のスピーカーをジャックしてやるんだ。改めてよろしく、ハリー。ワオ、テレビ画面のまんまだ」  随分と背の高い男を見上げ、右手を差し出したSJに、ハリーは曇らせた顔のまま背中を向けた。その先には、古い軽トラックが控えている。どうやら、彼はわざわざ迎えに来てくれたらしい。  手持無沙汰になった右手を愁うでもなく、まあこんなもんかとSJは自嘲する。命を投げ出したかもしれない未来からしたら甘いものだ。自分に好意がない相手など腐るほど居る。一々傷ついていたら、人生が勿体ない。  無言で運転席に乗る男に続き、助手席のドアを開ける。ギシリ、といやな音と共に開いたドアは錆びていて、車内は古い鉄と土のにおいがした。 「美形かどうかは、知らないが」  急にハリーが口にした言葉が、自分へ向けられていたものだとわからずSJは反応が遅れてしまう。前を見据えたままの男は助手席をちらりと見ることもない。 「うん? え、何?」 「気難しいのは本当だ」  そう言った男に、とっさに謝る言葉が出て来ず、珍しくSJは壊れたように押し黙った。

ともだちにシェアしよう!