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第2話

 堰を切って話す方ではないし、発言するまでに少し考える癖がある。  しかし、嫌いな物を三つあげろ、と言われたら即答できる自信があった。 「マスコミ、香水の濃い女、猫の毛」 「……羊の毛は平気なのに? 猫は駄目なんだ?」 「羊の毛は抜けてソファーに付いたりしない。別に猫が嫌いなわけじゃないが、どうしてあいつらの残骸は家具という家具にべったりと付いて離れないんだろう、といつも思う」 「猫を飼ってた恋人がいたの?」 「……さあ、どうかな」  適当にはぐらかすのは苦手で、きっと過去の恋人が猫好きだったことはばれているのだろうと思う。それでも助手席の少女はハリーが喋りたくない事を煩く追及してこないということを知っていたので、はぐらかしたままアクセルを踏んだ。  サビついた小さなトラックは制限速度がある道もない道も、トラクター並みの低速運転でしか走れない。  車体に『オリアン農場』の走り書きがなければ、流石に注意されていることだろう。オリアンはこのあたりで一番大きい農場の経営者で、さらに地主であったが、住民が彼に敬意を払っているのはいざという時には警察相手だろうが啖呵を切る義理堅い正しさを持った老人であるからだ。  町の女性が暴行を受けた時、真っ先に相談に行くのが警察ではなくオリアン農場だ、というのがこの町の常識のようになっている。この国の治安の悪さを、この二年でいやというほど思い知った。  オリアンの仕事を手伝う事が多いハリーも、すっかり傷の手当てに慣れてしまった。アクションものにはあまり出演しなかった俳優時代よりも、格段に野性的になったものだと思う。 「人の髪の毛とかもだめ? ハリーって潔癖性かな。アトリエは乱雑だけど確かに不潔じゃないし。オリアンじいさんの書斎の方が酷い臭いで困る」  ガタガタと揺れるおんぼろ車の運転にも慣れた。  最初は彼女のようになめらかに言葉を紡ぐ事も難しく、拙いスウェーデン語で何度も舌を噛みそうになったものだ。今は、アトラクションのように揺れるトラックを運転しながらでも雑談に興じる事ができる。 「それは……そうだな。あのカビのにおいはどうにかしたほうがいいんじゃないかな、とは、常々思ってるが……片付けができない俺に言われたくはないだろうな」 「潔癖なのか雑なのかわかんないよね、ハリーは」  だから恋人ができないんだと笑われても、嫌な気分にはならない。  イングリット・バルテルスはこのスウェーデンでの唯一ともいえる友人で、数少ない気が置けない人物だった。少々そばかすが浮いているが、健康的な少女だ。  元々家族とは縁も薄く、友人といえる人間は極端に少ない。イングリットは適度にうるさくハリーの生活にちょっかいを出してくるし、ハリーのアトリエの大家であるオリアンも、なかなかに口うるさい老人だったため、孤独を感じるのは夜が更けた時間だけだ。  悪くない生活だとは思う。芸術家と名乗ってはいても自立していない現状では、貯金で生活している居候というのが一番的確な表現ではあるが、親の金を食いつぶしているわけではない。現役時代にすべて自分で稼いだものだ。それを使って外国の田舎に隠居しようとも、誰も文句は言わないだろう。  朝、鶏の鳴き声で起き、朝食をとり、農場の仕事を少々手伝う。昼間はイングリットが無駄話をしにくることもあるが、大概はアトリエで過ごす。一日何もしないこともあれば、夜が更けるまで石膏を削っていることもある。  粘土も木も一通り試したが、石膏が一番自分に合っていた。といっても、素人の真似事や趣味の域を超える程ではない。粘土では子供レベルだし、木は現代アートのようにしかならなかった。石膏はまだマシ、という状態だっただけだ。  白い色はきれいだと思う。  そうこぼした時にもやはり、イングリットに『潔癖性なのか』と笑われた記憶があった。  車はゆっくりと、そして時折壊れそうな音をまき散らしながらなだらかな道を登る。  巨大でなめらかな丘のようになっている土地が、オリアン農場だった。  その農場内にハリーの住居であるアトリエがある。元々ゲストハウスだったが、オリアンの好意に甘えて間借りしていた。  このゲストハウスの部屋は広い。  ロビーのほかに三つある部屋のうち一つを寝室に、一つを物置に、一つを書斎にしてガレージをアトリエにしていたが、昨日から端の書斎は客間になっていた。  書斎と言っても、一棚分の本と辞書が置いてあるだけだ。  すっかりスウェーデンの言葉に慣れたハリーが、辞書を活用することは少ない。掃除の為に、しばらくぶりに足を踏み入れたほどだった。  使わない部屋を一つ、他人に渡すことは苦ではない。元々はオリアンの持ち家であるし、彼の指示ならばいくらでも従う。  しかし、しばらく滞在するというオリアンの姪の従兄弟の恩師の息子の友人だというアメリカからの客は、ハリーがこの世の中で嫌う三つの項目の一つを完璧に満たしていた。  スタンリー・ジャックマンはマスコミ関係者だ。  彼の活躍は実のところ知らない。SJが深く関わるローカルテレビ局NICYの名前が売れ始めたのはどうやら最近の事で、すでにハリーはNYを離れていた。  それなりに顔も売れているらしいが、スウェーデン暮らしのハリーにしてみれば、見たこともないキャスターだ。  実際NICYがどういう趣向のチャンネルなのかまでは調べていないが、ちらりとネットで目にした番組はジョークとユーモアと濁流のような言葉に溢れていて、二分でハリーは根をあげた。  バラエティが昔から苦手だった。  白々しい笑いを取る司会者たちが、滑稽に見えて好きではない。  映画もコメディは苦手で、サスペンスやシリアスばかりを見ていた。  結局ハリーは二分だけの動画とネット検索した一番上の辞書ページからの情報で、『スピーカー・ジャックの愛称で親しまれるかのテレビ局員はやたらとうるさく喋りまくるマスコミ関係者だ』と結論づけた。  まったく、最悪だ。  最悪な気分のまま、仕方なく昨日は駅まで迎えに行った。  電話口に向かって濁流のような英語をまくし立てる男はひどく目立っていて、二分間の動画そのままのひょろりとした青年だった。  見た目はそう悪くはない。黙っていれば男前だが、表情の動かし方が派手なので少々コミカルで滑稽なイメージがついてしまう。  ふわりと流したブラウンの髪の毛はやわらかく、重いブロンドのハリーとは似ても似つかない。金髪が多いスウェーデンでも、赤みを帯びた柔らかい茶髪は珍しい。ただ、SJが目立っていたのは外見的特徴ではなく、ただ単に彼が度を越して煩かった為だろう。  最悪な気分だったのはどうやら彼も同じだったらしい。  恐ろしく早口な英語は、ハリーですら聞きとれない程だった。それでも、SJがこの海外旅行に良い感情を抱いていないことは、言葉を聞きとらずともわかる。  不機嫌さを隠さないハリーに対し、SJは気味が悪くなるくらい静かだった。  煩く人生を語られても、また、根掘り葉掘り質問されても面倒だと思っていたので、静かならばそれでよかった。事前に見た動画や、駅で見た電話中の彼とは別人のように沈んだ顔で黙る青年はまるで農場から連れ去られる子牛のようで、気安い関係ならば指摘して笑いのネタにしたところだ。  残念ながら、ハリーとSJは友人ではない。  友人になる気もない。子供でもないのだから、最低限の生活は一人で出来る筈だ。苛めるようなネガティブな干渉をする気はない。そんなものはお互い時間の無駄だと思う。ただ、友好的な関係を築く努力をするつもりもなかった。  友人はいらないし、恋人もいらない。  誰かに心を許して生活を共にし、そしてその心離れに泣くのは酷く疲れる事だということを、ハリーは身を持って実感していた。  とにかくオリアンに貸してもらっている部屋を使う権利は、ハリーもSJも同等だ。お互いにただの居候でしかない。しかし、ハリーの生活に干渉してくる権利は彼にはない。  マスコミが何を考えているのかわからないし、またあのサリヴァンが何かを仕掛けて来たのかもしれない。それでも今の自分には暴くべきスキャンダルも何もない。暫く祖国に帰る気もないハリーは、かの国でどんな報道をされようとも今の生活と数人の恩人と友人を守れれば、どうでもよかった。 「……ところで、例の煩いスピーカー男はどうしてる?」  ゆっくりと車は農場に入り、長いドライブから解放されたイングリットは、しなやかな身体を存分に伸ばしながらハリーに問いかける。  着古したオーバーオールが妙に似合う。やぼったい眼鏡もスタイリッシュに見えるのは、彼女がきっちりとした顔つきをしているからだろう。  後ろに積んだ荷物を降ろしつつ、ハリーはさぁ、と澄ました声を返した。 「割合静かだ。スウェーデンに来て、スピーカーが壊れたのかもしれない」 「オリアンじいさんが、なんであんな怪しい男を招いたのかぜんっぜんわかんないよ……あれ、マスコミの人間なんだって? またハリーをつけ狙うパパラッチ? もうそんなの、ここ一年くらいは見てないのに」 「どうかな……案外俺と一緒で、都会に疲れて傷心旅行に来ているのかもしれない」 「あれが? うそでしょ。全然そんな風には見えないけどね」  イングリットのかなり攻撃的な意見にも、ハリーは苦笑いを返すだけに留める。歓迎してはいないが、陰口を叩くほどSJの事を知らない。知る気もないので、この先イングリットが彼の事を悪く言う度に、同じように苦笑を返すのだろうな、と思った。 「ていうか、母屋にも部屋はあるんだし、別にハリーの家じゃなくてよかったんじゃないの」 「年頃の女性が寝起きしている家に、独身男を放り込むわけにもいかないだろう」 「ハリーの家だってどうかと思うよ。……まさか、好み?」 「SJが俺の好みかどうかという話ならノーコメントだが、間違いは確実にないな。俺は日々静かに過ごしたい」  年下は好きじゃない、とついでに付け加え、イングリットの少々踏み込んだ下世話なジョークをかわし、ハリーはおやすみと声をかけて自宅に向けて歩きだした。  車は農場の物なので、ここからは歩きになる。それほど遠いわけではない。アメリカに住んでいた時だって、住居は都会ではなかった。三十分程の距離ならば散歩の範囲内だ。  夕暮れの農場は、何もない。  街灯もなければ、勿論家もない。文字通り光源がないので、ハリーはいつも携帯用のライトを持ち歩いていた。  夏前のスウェーデンは過ごしやすい季節を迎える。重くのしかかるような冬を越えた道も川も、今は豊かに春を満喫し、ハリーのあまり雄弁ではない表情を静かにほころばせた。  外を歩くのは好きだ。静かな夜は素晴らしい。  今年こそは星を見るために望遠鏡を買うべきか――、昔持っていた望遠鏡を持ってきたような記憶はあるが、どこに仕舞ったか忘れてしまった。ガレージの隅に積み重なっている荷物の中に紛れ込んでいるのか、それともオリアンの家の物置に置いてあるのか。  いい加減家の中の物を整理整頓しなくては、と考えながら歩く三十分はあっという間だった。  住み慣れたゲストハウスに灯る明かりを見るのは不思議な気分だ。ハリーしか住んでいないその家は、自分が居ない間は当たり前だが真っ暗だ。しかし、特別その明かりを嬉しいとも思わないし、疎ましいとも思わない。  なんの感情も無く鍵を回し玄関を開けると、丁度目の前のキッチンにいたSJとはち合わせた。  やぁ、と声がかかり、思わずハリーは足を止めた。  久しぶりに帰宅後に挨拶で迎えられた。やはり、嬉しくもなければ疎ましくもない。ただ、なんとなく不思議だった。 「……なに、ええと、きみはアレなの? 挨拶の一言さえも声かけられたらイラっとしちゃう人? それなら僕はひたすら黙ってミュート機能全開で生きることにするけれど」  控えめに眉を寄せたSJの言葉に、ハリーは素直に思ったままの事を告げた。 「いや……最近英語を聞いていないから、一瞬反応が遅れただけだよ。その言葉には、どう返すんだったかな、と思って」 「スウェーデンではどうか知らないけど、僕の育った場所じゃあこうだよ。『Hi! ハニー、今日一日どうだった?』『ヘイ、ダーリン、まったくもって最高さ!』。まあこれはホームドラマの一例だけど。あー、ハニーっていうのは別にきみのあだ名の事じゃなくて、この場合はそのままの意味。ええとそれで……一日は、どうだった?」  珈琲のカップを手に首を傾げるSJは、どうやらハリーに少々遠慮しているらしい。  昨日、いきなり不躾に喧嘩を売った事を根に持っているのかもしれない。その後に部屋の案内をしている時も始終無言で、あの煩い動画の男と同一人物かと首を傾げる程だった。  ぎこちない距離感を探るSJに、溜息をぶつける程子供ではない。  笑わない程度に表情を崩し、悪くない一日だったよと言葉を返し、最後におやすみと添える事はハリーにとっては面倒だができないことではない。これでも実力派などと謳われた俳優だ。  それをしないのは、これからも演技を続けたままこの男と対峙しなければいけないのは、至極面倒だと思ったからだ。 「あまり良い日とは言えないな。羊が一頭病気になったとかで、隔離やらなにやらで暗い雰囲気だ。あとは、俺はキミに慣れる気がしない」 「ワォ。素直で嬉しいね、僕も同感だ」  おどける男の軽口は無視し、ハリーは単刀直入に尋ねる。 「なんでこんな田舎に来た。目的は?」 「ただ単に逃げてきただけだよ。人生に疲れたわけじゃないけど正直詰んでるし頭が真っ白で訳がわからない。パニックってやつかも。大自然の中で頭を冷やしてゆっくり反撃の機会を練ろって言われて気が付いたらスウェーデンさ」 「反撃?」 「そう、憎き宿敵ライアン・サリヴァンへの反撃。そういえばきみもサリヴァンに酷い恨みがあるんでしょ?」 「――恨み、と言えばそうかもしれないが、もう忘れたということにしている。俺は新人女優を妊娠させてなんかいないし、堕胎させてもいない。敬虔なクリスチャンでもなければ、彼女の家族を口汚く罵ってもいない。ライアン・サリヴァンにでっち上げられたスキャンダルは見事全部でたらめだが、それを今さら訴えた所で俺の人生は変わらないしな。新しいスキャンダルのかけらもない田舎生活を送るだけだ。スウェーデンの生活は平和だ。何よりここにはスキャンダルになりうるような相手がいない」 「イングリットだっけ? 彼女は?」 「彼女は友人だ。そして俺はゲイだ。彼女と間違いがあるわけがない」  珍しく饒舌に言葉を並べ、最後にあまり公表していない真実を明かしても、SJは驚いた様子を見せなかった。  二分間の動画ではわからなかったが、有能な男らしい。きちんと調べれば、ハリーが同性愛者である事は気が付くだろう。 「キミの人生がどんなものだったのか、俺は干渉しない。だが、スウェーデンの田舎で鬱々と過ごすよりは、アメリカの便利な世の中の方が似合っているんじゃないか、と思う」 「……あーまあ、そうかなぁとは思うけど。思うし、わからなくもないけど、残念ながら僕は暫くNYに帰るつもりはないよ、僕も二年前のきみと同じ罠にはまってまぁまぁ本国では大変な騒ぎだからねぇ。ちょっと人生まだ捨てたもんじゃないかも、って思えるくらいに回復するまでは、部屋の隅とキッチンと浴室をほんの少し拝借させてもらうよハニー」  ごめんねよろしく、と眉を下げて肩を上げるSJに、ハリーはどんな顔を返したか覚えていない。  憐れんだかもしれない。驚いたかもしれない。いや、恐らく驚いた。  喋るだけの煩い男だと思っていたスピーカー・ジャックは、思っていたよりも人間で、想像していた以上にどうやら打ちひしがれているらしい。だからといって優しく肩を抱く気はないが、なんとなく肩の力が抜けたような気がした。  ただしハニーと呼ぶな、と訂正することは忘れなかった。  おどけた表情で首を傾げたスピーカー男は、ごめんねハニーと泣きそうな顔で笑った。

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