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第3話

 良いニュースと悪いニュースがあったが、それを意気揚々と伝えるべき相手がいないので、SJは日記をつける事にした。  幸いネット環境はあったので、どうにか暇で舌を噛むという事はなさそうだった。というのが良いニュースだ。  その他の施設は驚く程遠く、食材を買いに行くにも農場のトラックに乗らなければならず、国際免許がないSJがどこかのショップに行こうと思った際には一時間歩くか、それとも車を運転できる人間に頼みこまなければならない、というのがこの生活を始めた上での一番の悪いニュースだった。  同居人のハリーとは、微妙な空気のまま共同生活が続いている。  どうやら、それ程嫌われてはいないらしい。しかし、歓迎されているわけでもないのは事実で、挨拶くらいは交わすものの、気安く夕食を共にするような関係にはなれそうもない。  一日の大半を、ネットを見ながらぼんやり過ごした。  暇で死ぬ危機からはどうにかまだ逃げているが、腹が減って死ぬ危機は時折訪れる。  SJは料理が苦手だ。  できないわけではない。ただし、経験がない。NYでの生活は毎日、休憩時間などあってないようなものだった。自然と食事は、仕事をしながら片手間で済ませられるような、栄養ブロックやサプリメントに偏った。  家に帰っても仕事は山ほどある。料理をしている時間がもったいない、という理由から、ほとんど毎日テイクアウトのデリかシリアルで生きていた。その為、献立を考えるという習慣がない。  ストックホルムの真ん中だったなら、歩いて数分のところに出来たてのサンドイッチを売っている店もあっただろう。  だが残念ながら、ここは田舎の農場のど真ん中だ。  ネット通販で携帯食料を買い込もうか、と思案してみたが、どうやらオリアン農場の入り口までしか配達できないらしい。この農場は、基本的にオリアンとイングリットと限られた農夫達、そしてハリー以外は立ち入ることができない場所だという説明を受けていた。  農場の入り口からこの家まで荷物を運ぶことを頼むくらいならば、一緒に買い出しに行った方がましだ。  もし歩いていくことが可能なら、いい運動にもなるかもしれない。  ひきこもっていては、そのうちふらりと死にかねない。とにかく一日一回は外に出て大自然と戯れろ、というのはメールのやりとりをしているマイキーから毎日お見舞いされる小言だった。  カロリーブロックとビタミン剤が切れたタイミングで、十分程迷い二十分程イメージトレーニングをしたSJは、意を決してハリーに声をかけた。  今度買い出しに行くときは、一緒について行ってもいいだろうか。  この一言を口にする為に、とんでもない勇気と精神力を使う。誰に対しても仕事ならば臆すことなどないのに。厭われようが暴言を吐かれようが、いくらでも喜んでインタビューできる。それなのに、仕事以外でどんな風に人間と付き合っていたか、SJは思い出せない。  自分はハリーに歓迎されないだろう、ということは来る前から薄々察していた。  そもそも、ハリーをハリウッドの映画界から追放したのは、マスコミのひどい報道だ。スウェーデンに来る前に一通りのことを調べたSJは、同業者の異常ともいえるハロルド・ビースレイ叩きに思わず眉を寄せたものだ。  スキャンダルなど誰にでもある。それが真実か嘘かはともかく、真摯に対応し、そして根気強く粘れば世間はいつのまにか忘れ、次のニュースに移っていく。  若い女優を妊娠させたというハリーのスキャンダルは、業界ではよくあるものだった。対応もまた、基本的には問題なかった。しかし後から後から、沸いて出るように彼の醜聞が報道され、バッシングはヒートアップした。  弁解しようにも、ハリーはゲイだ。経歴を追う中でなんとなく察していたことだが、先日本人の口からハッキリと告げられた事実だ。  当時付き合っていた恋人がもしカミングアウトできない人間だったならば、真実を告白して身の潔白を叫ぶこともできなかっただろう。マスコミの追及は、容赦なく現在の恋人にも及ぶ。  そのうちに彼の姿はスクリーンから消えた。  身体が売り物である職業だ。いくら演技がうまくても、人気に直結するような醜聞があれば評価は下がる。  仕方のないことではあったが、改めて騒動を振り返るとマスコミを憎む気持ちは十分に理解できた。  ハリーのスキャンダル騒動があった時、SJ自身はまだ大々的なニュースを報道できる立場にいなかった。地域の子供の誕生日を祝うような、酷くローカルな企画を必死でこなしていた時代だ。NICYがNYでお馴染みの放送局までのし上がるのは、彼がアメリカを去ってからのことだった。  直接は関係ない、とはいえ、なんの偏見もなく迎え入れろとは言えない。ハリーにとってSJは、人生を台無しにした業界の男だ。  その上SJは、自分はあまり他人に好かれるキャラクターではない、という自覚がある。  静かな自然を好む孤独な男にしてみれば、SJはうるさいアブのような存在だろう。叩きつぶされないだけ、マシだと思うしかない。  ただ、この田舎の生活で頼れるのは彼しかいない、というのもまた事実だ。  もう最初から印象が悪いのであれば、これ以上悪くなることはない、と思うしかない。  そう思っていれば、声をかける勇気もでる。  三十分の思案とイメージトレーニングの効果があったのか、それともそのくらいは元々譲歩してくれるつもりがあったのか、SJの決死の願いを聞いたハリーは、これからストアに行くからと笑いもせずに告げた。 「インジに頼まれていた荷物を取りに行くついでだ。ちょっと力を借りるかもしれないが、それでもよければ助手席は空いている」 「僕の非力な腕でよければいくらでも差し出すよ。……ありがとう、助かる」  これで二時間町をさ迷わずに済む。スウェーデン語の勉強はまだ始めておらず、挨拶の言葉くらいしか覚えていない。道に迷ってそのまま帰れなくなる事はなさそうだ。  飢えも暫くはどうにかなりそうだと胸を撫で下ろすSJは、ハリーが怪訝そうな顔でこちらを見ていることには気が付いていたが、見なかった振りをした。  おおかた『こいつは礼を言う口があったのか』とでも思われてるのだろう。仕事以外のSJと喋る事がある者は、既知の友人以外は皆大概同じ反応をする。  なんて失礼なんだ! とは思わない。いつもの自分の煩い言葉を聞いていれば、聞く耳があることすら疑われる事も頷ける。  なるべく静かにしよう、と思った訳ではないが、揺れる車内ではお互いに無言になるしかなかった。  ハリーは喋る気などないだろうし、そんな相手に話かける勇気も根性もNYに置いてきた。これからの人生がどうなるのか、希望を見出す事も難しいSJは、なけなしの気力をそんな小さな事に使いたくない。  とにかく何か適当に買い込んで、暫くは部屋に引きこもり食べて寝て映画でも見て、どうにか頭が働くまで回復しなければ。多分、疲れているしまだパニックしているだけだ。腹に何か入れて三日も寝ればどうにかしようという気力がわき出て、頭も動き始める筈だ。今は、へこんでいて何も考えられない。何もしたくない。こういう時は何もするべきではない。  そんな風に自分を甘やかす言葉を唱え、片っ端からシリアルをカートに放り込むSJを止めたのは、シリアルの在庫量を心配する店員ではなく隣に居たハリーだった。 「……待て。それは、キミの食糧か?」 「そうだけど。え。……何か、問題あった? 賞味期限の見方間違ってる? これ来年まで食べられるやつだよね?」 「賞味期限は来年までだがそうじゃない。料理はしない人?」  訝しげな男を見上げ、SJはうーんと眉を寄せてみせた。 「できなくはないんだろうなって思っているけど経験がほとんどないから無理はしたくない人。いやたぶん、できなくはないんだろうけど。ゆくゆくは、しようと思っているけど。今僕ちょっとへこんでて正直映画見るか寝る以外は何もしたくないんだよ」 「……気持ちは、わからなくもない、が。栄養失調で倒れられても、うちの農場は救急車が来るまで一時間かかるんだ。うちから死人が出るのは困る」  そう言いながら、ハリーはSJがカゴに入れたシリアルを黙々と棚に戻して行く。慌てたのはSJで、彼の腕に縋りつきその行為を阻止しようと必死になってしまった。 「ちょっとちょっとハニー、ちょっといい? 確かに栄養のあるものを食べた方がいいのはわかるよわかる。わかるけど、それを作るメイドがいるわけじゃないんだから、つまり僕がどうにかするしかないわけでしょ? 僕は今心が折れてるって言ってたの聞いてた? 簡単にわかりやすく簡潔に言うと、キッチンに立ちたくない」 「聞いていたし理解している。食費は出せ。俺が食うものと一緒に作る。特別うまくもないし、大概スープと肉炒めだが、シリアルよりはマシだとは思う」 「…………」 「……不満か?」  黙り込んだSJに対し、ハリーは囁くように視線を送ってくる。どう対応したらいいのか迷ったのは二秒程で、結局SJは神妙な顔で本心を口にすることにした。 「いや……不満って言うか。あー。急に、歩み寄られるとびっくりしちゃうっていうか」 「――ここに来るまでの車の中で反省した。キミ個人は別に俺の人生の仇じゃないし、この数日同じ家で寝起きしていて特別煩いとも感じない。もっと、こう、……アウトプットばかりの男だと思っていた」 「インプットしなきゃ、言葉の海も枯渇するよ。喋る事がなければ僕だって黙る。アウトプットする情報も無ければ、ジャックするスピーカーだって無い。今の僕はスピーカー・ジャックじゃなくて、ただの無趣味で人生どうしていいかわかんなくて外国で打ちひしがれているスタンリー・ジャックマン」  話かけられて、少々調子に乗ってしまったかもしれない。  せっかく『そんなに煩くもない』と評価してもらったのに、つい言葉が連なってしまって、慌てて口を閉じた。  窺った斜め上の男の表情はわかりにくい。特別笑みを湛えているわけでもないし、怒っている様子もない。呆れているのか、どうでもいいのか、SJには判断ができない。  すう、と吸って、ふう、と吐く。  ため息にも似たその呼吸の後に少々表情を崩されたから、これ以上嫌われたわけではないと判断してSJも表情を緩めた。 「でも、ご飯の話はほんと、めちゃくちゃありがたい。できるとは思うとか大見栄張ったけど、料理なんてほとんどしたことないんだよね。鍋に油を敷いて熱する時間があるならスクープとアイディアを追いかけてネットサーフィンをしていたい人生しか知らないから」 「それも、わからないわけじゃないさ。俺も台本が全ての人生だった」  それが過去形になっていることにうまく言及できず、黙って肩をすくめるだけのSJにハリーが眉を下げたことにも気がついたが、何も言えなかった。  この人の凪いだような海はもう波立つ事はなくて、きっと、ずっと雨が降っているんだろう。  そんな詩的な事を考えたが、メモを取る前に玉ねぎの大袋を持たされ、なんだかどうでもよくなった。  まずは食べる事。  そして寝る事。  暫くは映画を見る事。  そうしたら、現状を理解して考えてどうにかする事。  今はそれだけで手いっぱいで、目下悩みだった同居人との心の壁がほんの少し薄くなったことは、今日の日記に書くべき一大ニュースだった。  自然の中の生活も悪くはないんじゃないか。  農場のど真ん中の仮の住居に帰って来た時には、現金なものでそんな風に思い直していた。  ここには仕事はないが、パパラッチも居ない。煩い同業者も居ない。酒を飲める店がなくてもSJはそこまで酒を嗜まないし、優秀な同居人のお陰でデリがない問題も解決できそうだ。  鬱々とした恨みごとで埋まりそうだった日記に、晴れて前向きな文章が登場するのは今日ではないか、と、思いながら扉を開け、電灯のスイッチを入れた時に、今日の一大ニュースの順位が変わった。 「…………ハリー。電気、つかないんだけど」 「ああ。……これは、あれだ。……停電だな。電気の配線がおんぼろなんだ。接触が悪いと半日くらいはこのままだ」 「うっそ」 「諦めろ。週に一回はあるぞ」  冬じゃなくて良かったな、と後ろから聞こえてきた声に返す言葉は山ほどあったが、放送コードにも芽生えかけた友情にも引っ掛かりそうだったので、大人しくSJはたった一言、『やっぱり最悪じゃないか!』とだけ嘆いた。

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