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第4話
ランプの淡い明かりは嫌いではない。
常日頃から懐中電灯を携帯してはいたが、それはあくまでも非常用のものだ。配線が怪しい電力供給元のせいで頻繁に電灯が消える度に、ハリーはオイル式のランプに火を灯した。
冬でなくて良かった、と言ったのは本当の事だ。
スウェーデンの冬は極寒とまでいわないが、とにかく暗い。憂鬱な影のような季節に明るい電灯が無いのは、風流でいいなどという一言で済ませる事は出来ない程だ。ただでさえ憂鬱に支配されているらしいSJが、ふらりと湖に飛び込んでも困る。
ランプの揺れる明かりを見つめていたSJは、ささやかなハリーの軽口に唇を尖らせた。
最初の印象の通り、表情の動かし方が大げさだ。コメディアンに友人はいないし縁はないが、その類だとは思う。
だからNY市民に愛されているのだろう。昨日、二分の動画以上の情報を得ようと暫くぶりにパソコンを立ち上げた結果わかったのは、彼と彼のローカルテレビ局は、NY市民に大変親しまれているという事実だった。
ハリーが想像していたマスコミというものとは、少し違うかもしれない。
勿論ニュース番組も番組表には取り込まれていたし、真面目な話題もスキャンダルも扱うだろう。だが、大手放送局よりももっと身近で、もっとローカルで、もっとささやかな笑いと親しみに満ちた番組が大半を占めているようだった。
ドラマとニュースの時間以外の、大半の番組にSJが関わっているというのだから、恐れ入る。
それは確かに、料理などしている場合ではないだろう。
薄暗い明かりの下で動くことには慣れていた。適当な野菜をトマトと一緒に煮込んだスープを啜りながら、SJは『学生時代を思い出すよ』と零した。
「学校が停電?」
「違う違う。悪ガキが集まってた溜まり場が、微妙におんぼろなガレージでさ。僕は教師に目をつけられて逃げ回っていたし、あとは法律違反の喫煙ボーイとか、ひたすら林檎の絵を描いてる変人くんとか。そういうのが集まって、よくランプ一個つけてどうでもいい話してたなぁってさ」
「教師から逃げ回るような不良少年だったのか?」
特別親交を深めようと思ったわけではない。ただ、同じ食事をとるのに、一々別室に行くのが馬鹿らしかった事と、ランプを二つ灯すのが面倒だった事が理由だ。
ダイニングキッチンの机を挟み、まるでクリスマスの夜のような穏やかな明かりの中で交わす知らない男との会話は非日常的で、ハリーは自然と肩の力を抜いた。
SJは確かによく喋る。
よく喋るが、その言葉には他人に対する侮辱や聞いていて辛くなるようなバッシングもない。ただ、言葉が多彩でやたらと長いだけだ。
その事に気が付けば、彼の言葉は特別苦痛なものではなかった。
流石、喋ることを仕事にしている男だ。そして彼が市民から愛されているのも頷ける。
SJの言葉は絶妙に柔らかく、ユニークで、耳に心地よいくらいの華やかさがある。
「不良少年だったわけじゃないんだけどね、目をつけられちゃったんだよねぇ。馬鹿で浅はかなスタンリー少年は大人も世界も潔癖で正しくて優しいものだって信じていて、だからそれに準じない自分勝手な理論ぶちかます高尚な俺様教師のスーパー上から説教に耐えかねちゃって、ありとあらゆる言葉を使って滔々と息継ぎの時間さえ惜しんで反論しちゃったわけです。後にこの事件は『スピーカー・ジャックの魔の五分間』と名付けられて――、ちょっとハニーここオチじゃないから笑うの早いよ?」
「いや……想像できすぎて、なんというか」
「もーそれ皆に言われるよ。僕はこんなちゃらちゃら言葉ばっかり羅列して生きてる駄目な大人っぽいし、実際その通りだなぁうははって思うけど、理不尽な事が嫌いっていう超絶ヒーロー体質なんだから! Sのマークを胸に刺繍して、今すぐ電話ボックスで着替えて空を飛んで悪を倒すこともやぶさかじゃないんだよ」
「クラーク・ケントは記者だしな。配役はぴったりだ。ヒーローものはあまり経験していないが、合成シーンの撮りは大変そうだった」
「今はみーんなSFX! だものねぇ。生身の人間なんてつっ立ってるだけで表情だって勝手に変えられそう。じゃあもうアニメでいいんじゃないの? なんて思ってたんだけど、やっぱり、映画ってすごいよなぁって観ると感動しちゃうから僕は地味なものの方が好き。『サードウォーズ』より『ティーチとリリアン』の方が好き」
馴染み深い映画タイトルがSJの口から飛び出し、思わず訝しげな顔になってしまう。
どちらも、ハリーが出演している作品だった。
「……観たのか?」
「毎日暇だしネットは繋がるし、なんだったらネットしか楽しみがない。僕の人生はマスメディアとバラエティばっかりで、およそ教養と呼ばれるジャンルにはひどく疎いんだよ。まず何を観ようか思案したら、今一番身近な人が本業じゃないの。そしたらやっぱりその人の出演作から手を付けなきゃ。まだ四本しか観てないよ。……実力派ってホントだったんだ、なんてものすごく失礼なこと思っちゃった。最初に会った時、ひどい暴言をきみに聞かれた。ごめん、謝るよ。ハロルド・ビースレイは最高の俳優だ」
素直に謝られてしまうと、ハリーも心を少々明け渡さざるを得なくなった。
『俳優だった』と訂正するのも子供のように思えたので、仕方なく眉をあげて怒ってないよと呟いた。
今日は『トロント・ミステリー』を観ようと思っていたのに、とSJは嘆いた。
六年前程に公開したさしてヒットしなかったサスペンス映画だったが、主演の少女の怪演が絶妙で、個人的に気に入っている映画だった。原案となった小説は、愛読書として今も書斎の本棚に並んでいる。
「PCの充電も切れそうだし、紙の本は置いてきたし、部屋の本棚にたんまり積んである本は未知のスウェーデン語だし、おまけに停電で真っ暗だ。こんなことなら知恵の輪のひとつでもポケットに忍ばせてくるんだった。まさか停電が僕を待ち受けているなんて思いもしなかったよ」
「チェス板ならオリアンさんが持っているし、いつだって相手を捜していたけどな。残念ながらこの家にチェスはないし、俺はチェスのルールをぼんやりとしか理解していない。せいぜいリバーシが精一杯だ」
「……あ、待って待って、リバーシ! そうだ同僚が餞別に携帯用のリバーシをくれた気がする! そんなもの持っていって誰と対戦するのさって思ってたけど、元ハリウッド俳優と暗闇の中で親交を深めるにはいいんじゃないの? ついでに追加ルールでゲームしよう」
「追加ルール?」
リバーシとは、白と黒が背中合わせになった駒を使う陣地取りゲームだ。チェスよりも簡単で、日本の囲碁に色は近いが、それほど複雑ではない。
ランプを持って、自室から携帯用リバーシを取ってきたSJが示した追加ルールは、以下の通りだった。
「ルールその1。最終的な勝ち負けとは別に、一巡毎の持ち駒の総数が多い方が、少ない方に質問をする。ルールその2。質問をされた方は正直に嘘をつかずに答える。その3。最終的に勝った方は敗者になんでも命令できる。備考と注意点、これは真摯な悪意のないゲームであり、何を質問されても怒ってはいけないし、何を答えても拗ねてはいけない」
「……学生がパーティでやりそうなルールだな。もしくはラブコメディで主人公が彼女にしかけるかわいい遊びだ」
「する? しない? おとなしく真っ暗な部屋に帰って布団をかぶる?」
「よし、つき合おう」
「そうこなくっちゃ! じゃあ僕は……白にしようかな。まあ色なんてどっちでもいいんだけどね」
勝負の供に珈琲を淹れ、まずはSJが白い駒を打つ。その後にハリーが置いた駒で何枚かの白駒は黒く裏返った。
最初の質問はハリーになった。
「まずはきみから僕に運命のインタビューだ。……僕に訊きたい事があればだけど」
少々思案して、ハリーはもったいぶらずに質問を口にした。
「どうしてスウェーデンの田舎に来る事に?」
「……ワォ。しょっぱなからパンチきついね。物語の核心じゃない?」
「答えたくなければ別にいい」
「ルールは守るし別に極秘事項じゃない。僕のスリーサイズを言うより簡単だよ。あー……待って、他人に説明したことはないんだ。ええと、つまり、僕は――きみと一緒だ。ライアン・サリヴァンに目をつけられて身に覚えのないえげつなーいスキャンダルを報じられて潔白を証明する前に表舞台から引きずりおろされてついでに会社までのっとられそうになったから『なあSJとりあえず今はほとぼりが冷めるまで奴の前とNYから姿を消して反撃の機会をうかがえよそれも作戦さ』なんていう優しい同僚のアドバイスに乗ったふりをして全部置いて逃げてきた。ここを手配してくれたのはカメラマンのマイキーさ。彼のええと……なんだか遠い親せきだか恩師だかなんだかがダーヴィド・オリアン氏だね。そして僕は一週間前にここに来た、以上」
「……なんだか質問以上の答えを聞いた気がするが、なんとなく、わかったよ。最初の俺の質問とキミの答えは以上だな」
「よし、じゃあ僕が駒を置く番だ」
薄暗いランプの灯の中で、二人の影が緩やかに揺れる。携帯用のリバーシは小さく、注意しないと駒をひっくり返すことも難しい。慎重に駒を打ち、慎重に裏返し、指をさして数える。
次の一巡が終わると、白の駒が黒より一つ多くなった。
質問者はSJだ。
「じゃあ僕からハニーに質問。正直に答えてね。――俳優業は、好き?」
この質問に、ハリーは暫く言葉を飲んだ。
どう答えても、うまく伝わらない気がした。同業以外の人間に、仕事の話をすることは少ない。
イングリットは昔の話を聞きたがらないし、オリアンは相手が誰だろうと過去などにこだわらない。映画宣伝のインタビューに、自分は何と答えていたか。思い出せないわけではないが、思い出したくない。
頬杖をついて回答を待つSJに、ハリーはどんな顔を向けたかわからない。ただ、笑顔ではなかったのは確実だった。
「……うまく言葉にできない。多分、言っても伝わらない」
今言葉にできる一番素直な感情だった。しかし、SJは心底驚いたというように眉を上げてみせる。
「なにそれ遺憾だなぁ。ああ、でも、わかったぞ。ハニー、きみはね、すごく優しいのに臆病って感じだ。優しいから臆病なのかなぁ? ……きみの事完璧に理解できる人じゃなきゃ、きみとは喋っちゃいけないの?」
薄明かりの中で、真摯なSJの瞳と視線がかちあった。
知らない物を知ろうとするのは疲れる。
知らない者と分かち合うのは疲れる。
そんな風に思っている自分に気が付き、暫く彼の淡いバイオレットの瞳を見つめてしまった。
「ああ、いや、それが悪いことだとかは思って無いけど! でも、僕は質問の答えが知りたいんだ。疲れるなら相槌を打ってくれるだけでいい。イエスかノーかで構わないよ。俳優業は好き?」
「……イエス」
「ありがとう。答えてくれてうれしい。じゃあ僕の番」
何食わぬ顔で笑って駒を置くSJを、ハリーはまだ見つめていた。その視線に気が付かない筈はないのに、彼は飄々と笑顔で空気を塗り替える。
煩い男だなんてとんでもない。スピーカー・ジャックの言葉は、ひどく柔らかく、しかしざっくりと胸を刺すようにハリーの琴線に触れた。
リバーシはよほどの頭脳かよほどの愚鈍さがなければ、トントンに勝負が進む。
それからはほとんど交互に質問と回答が続いた。
「今までで一番辛かった仕事の思い出は?」
「うーん、中国の山奥に行ったロケが割合過酷だったかなぁ。なんてったってトイレがない!」
「トイレに扉がない、なんて国もあるしな」
「前の彼氏の職業!」
「……作曲家。それ訊いて楽しいか?」
「それは次の質問?」
「いや、ただの雑談だ」
「じゃあノーコメント。次も僕の質問だね。えーと、じゃあ一番好きな出演映画」
「トロント・ミステリー。今日キミが観る筈だった名作だ」
「なにそれ悔しい! 明日電力が復活したら僕は映画を見るだけの屑になるんだからね!」
「邪魔しないように気をつけるよ。……オーケー、質問者は俺だ。初体験はいつ?」
「ワォ、下世話! そんな奇麗な顔から出てくるとは思えないおやじな質問じゃない? 残念ながら人生二十六年女の子と付き合う時間を全部仕事にぶち込んできたからキスまでしか経験ないよ。ねぇ、それ訊いて楽しい?」
「それは次の質問か?」
「ただの雑談」
「だったらノーコメントだ」
こんな様子で、停電の中のゲームは進んでいった。
残りの駒はもう数える程しかない。
盤上は数巡前から黒に支配されていて、質問者もほとんどがハリーだった。
「最後の一巡だな。じゃあ、そうだな……スリーサイズ」
「わからないよそんなもの計ったことないもの! 気になるなら明日きみが……うそ、いや嘘、うそ、自分で計って報告するよ。これは明日の宿題ね。僕は明日起きてきみが作ってくれた朝食を食べて珈琲を飲む。そして日課のネットニュースを一巡してからスリーサイズを計って、そしてトロント・ミステリーを観るんだ」
「俺は今晩中にキミに要求する命令を考える。……俺の勝ちだ」
最後の一手を終えて、黒で埋め尽くされた駒を前に、SJは唇を曲げて唸った。どうやら、腕に自信はあったらしい。言葉の選び方を思い返してみれば、彼の頭の回転が速いことは窺える。
悔しさを隠さないSJに対し、ハリーは冷えた珈琲を飲みほしながら久しぶりに他人と楽しんだ会話を反芻していた。
他人を知ることは面倒だ。だが、それは刺激でもある。
懐かしい予感がする。誰かが、自分の中に踏み入るような、浸食されるような感覚だ。
その感覚は、あまり歓迎したくない。けれど、落ちてしまえば這い上がることができないものだと知っている。
「ていうか途中から質問が酷くセクハラめいてたんだけど、それは動揺を誘う作戦? きみは自分のセクシャリティをネタにするような人じゃないと思ってたんだけど……いや別に僕に偏見はないけどさ。僕のスリーサイズとか、ハニーの知識として必要?」
「怒ってはいけない、拗ねてはいけない、だろ。追及してはいけない、も次の勝負の時はルールに追加すべきだな」
素知らぬ顔でコーヒーカップを片づけはじめるハリーに、むくれた顔のSJはなおも食い下がった。
ゆらゆら揺れるオイルランプはもうすぐ消えそうだ。夜が、深まる。
キッチンのシンクに向かい合うハリーの背中に、SJはそうかと急に声をかける。
「わかったぞ、ハニー! 『ハロルド・ビースレイはスピーカー・ジャックの事が少々気になっている』。これが真相だ。Is that your final answer?」
してやったり、という顔がどうにも愛おしく思え、ハリーは眉を下げて甘く笑った。
「……スタンリー・ジャックマンの事が大いに気になる、だ。final answer」
オレンジ色のランプの明かりの中で。
ぶわり、と赤くなったSJの顔面の可愛さは、恐らく暫くは忘れられないだろうと、ハリーは内心苦笑した。
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