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第5話

 人を嫌うよりは好く方がずっと楽だ。  びくびくしながら顔色を窺いつつ過ごすよりも、気安くジョークを言い合える生活の方が断然良い。  そうは思っていたが、初めての停電を経験した翌朝、熱い珈琲と朝食を前にSJはさすがに戸惑っていた。 「……きみ、ちょっと僕に気を許しすぎじゃない?」  香り高い珈琲は流石に淹れたてではなかったが、パンは焼いたばかりで甘い香りのマーマレードが添えてある。卵とウインナーに、おまけにトマトまで皿に乗っているものだから、SJの眉は更に中心に寄った。 「若干打ち解けたという自覚はあるが、朝食を豪勢にしたわけじゃない。俺と同じメニューだ。素材を焼いたり煮たりしただけで、手が込んだ料理じゃない。だいたい素材そのままだ」 「僕はシリアルに牛乳をぶっかけてかきこむ朝食しか知らないんだよ。あとは取材先のホテルの安い朝食。このゲストハウスはアメリカのホテルより好待遇だ。トマトをスライスしてウインナーと卵を焼く手間だって十分なものじゃないの。……これなに?」 「ヨーグルトにオリアン農場でとれたブラックベリーのジャム」 「……アメリカどころか世界の大半のホテルよりも好待遇かも」  確かにそれぞれは味も素朴で、レストラン並の美食というわけではないが、シリアルに比べればフルコースのような豪華さだ。  同僚から『お願いだからもっと食べて』と懇願されるくらいに食に興味がないSJも、ハリーが用意してくれた朝食はきれいに平らげた。  朝食と言っても、SJがベッドから這い出したのは昼前だ。  ハリーはすでに朝食を終えていて、午前中は農場の手伝いをしていたらしい。ラフなジーンズにシャツを羽織っただけの格好でも、さすが俳優は貫禄がある。まくりあげた袖からのぞく腕はマッチョという程ではなくとも、SJよりは格段に頼りになる男の体格だった。  SJの生活にジムは無縁だ。身体を鍛える暇があるのなら、その分頭を鍛えたい。インプットしなければアウトプットできない。  知識を詰め込むのが昔から大好きで、その結果SJはひょろりと細長いと表現されてしまう体格に落ち着いてしまった。  テンションがあがると何でもできてしまう人間なので、体力に自信はなくとも仕事に支障はなかった。どんな険しい山も、異国の地への過酷な旅も、仕事ならば気力だけでどうにかこなしてしまう。  大概取材に同行するのはマイキーで、彼はSJの偏執的な精神力にいつも若干引いていた。  裏を返せば、仕事が絡まないと何もできない。  その『生きる糧』を取り上げられてしまったSJは、ただのひょろ長い男でしかない。  自分一人では、トマトもスライスできるか怪しいものだ。  ずるずると珈琲を飲みながら、ハリーとの距離感が近づいたのは果たして歓迎すべきことなのだろうかと首を傾げた。  彼はゲイだと告白していた。  それはおそらく事実だろう。  昨日のゲーム中に聞いたが、現在恋人はいないし、意中の人物もいないらしい。  好みは外見的特徴なら口が大きい男。内面的にはおおらかで真摯な男。……SJが好みの範疇かどうかは流石に訊けなかった。  イエス、と答えられたら暗闇の中でどういう顔をしたらいいのかわからなくなりそうだったし、甘ったるい雰囲気になっても困る。  口は大きい方だとは思うが、おおらかで真摯だと胸を張って言える程自分の性格を好意的には捉えていない。  SJはお互いのセクシャリティや関係性に十分に配慮して好奇心を押しとどめた質問を選んだというのに、二人の間にはなぜか朝から妙に甘痒いような雰囲気が漂っている。  SJの配慮は意味のないものだったのかもしれない。 「僕の想像ではねハニー、きみは一見無骨で世間に絶望してて、そんでもって身内には優しいけどよそ者には厳しくて一カ月は意地でも口を利かない、みたいな絵にかいたような硬派なカウボーイ男だったんだけどさ。何でさらりと一週間で落とされちゃってるの。もっとがんばってよ」  きれいに平らげた後のカップと皿を片づけ、少々手狭なキッチンスペースでスポンジに泡を立てる。  壁に凭れて珈琲を飲んでいたハリーは、なんでもないように肩をすくめた。にこりとはしないが、表情が随分と柔らかい。肩の力が抜けているのがSJにまでわかるので、本当に勘弁してほしいと思う。 「一週間も同居していれば性根くらいわかる。キミが世界に優しい事に気が付いただけだ」 「……きみが僕に対してそんなに優しいことには気が付きたくなかったよ。毎日こんなに痒い思いしてたらうっかり落っこちちゃいそうだよ! チェリーボーイで遊ぶのやめてくれる?」 「落ちるまで口説いていいのか?」 「僕はスキャンダルに追われて田舎に逃げてきたんだよ、これ以上のスキャンダルなんてまっぴらさ! 手近で済まそうとすると損するよ。僕なんてキスの時間さえ惜しむようなワーカーホリックだ」 「別に手近でどうにかしようと思う程飢えてはいない」 「あーやだやだ耳に痒いったらない! 暇つぶしなら映画かリバーシにして」 「それよりチェスをしたらいい。……そうだ、昨日のリバーシ勝負の命令権だが、一晩考えたんだが。ちょっとキミにとっては面倒な命令になるかもしれない」  手元の泡をくしゅくしゅともて遊びながら、SJはできるだけ大げさに肩をすくめてみせた。 「もったいぶるのはやめてよハニー。僕は何したらいいの? 下世話なお願いだったらもしかしたら拒否するかもだけど、親睦を深めるためなら多少は我慢するよ。今回は勝ちを譲ったんだ。次は負けないからね本当だ」 「昨日の多少のセクハラは謝るよ。一瞬眉を寄せるキミの顔がなんというか……、いや、ごめん、なんでもないからそんな顔で見るな。あー……よし、俺のスタンリー・ジャックマンへの命令はこうだ。『スウェーデン語を覚えろ』」 「…………は?」  この時ばかりは、素で眉が寄った。  SJは誰かと喋っている時、スタンリー・ジャックマンとして喋らない。皆が期待するスピーカー・ジャックの仮面を被る。そして面白おかしく言葉を繋ぐ事を念頭に口を動かすので、素直に感情を表現することは稀だった。  いつも誰かが見ている。  いつも誰かに見られている。  そう思うのが癖になっていて、スピーカー・ジャックの仮面を取るのは寝室に引きこもる時間くらいだ。  それがうっかり何も考えずに口を開けてしまったのは失態だが、そんな事よりもハリーに言われた言葉の衝撃が強く、SJの仮面などどうでもよく思えた。  珈琲を優雅に啜る彼は、今なんと言った?  それこそもっと下世話な、キスをしろだの言われた方がまだわかる。  どうやら一晩で随分好かれたようだ、という事は空気と会話で重々に理解していたが、ここまで理解に苦しむ要求をされるとは思わず、眉を寄せたまま首を思い切り傾げてしまった。 「顔が怖い。苛めているつもりも無理難題をおしつけているつもりもない。中国語はできるんだろ?」  苦笑を零したハリーに、SJは首を傾げたまま口を曲げてみせた。 「それネットの情報? だって一カ月間どうしても取材で行かなきゃいけなかったから、一日五時間寝る時間を惜しんでどうにか取得したよ。もうちゃんと喋れるかも不安。発音で四種類もあるとかあたまいかれてる。あと、あー……ドイツ語も微妙になんとか。スペインもいけたっけな? ロシア語は勉強しかけて企画がとん挫したから、まだテキスト開いてもいない」 「すごいな。そこまでとは思わなかった。その調子でこの国の言葉も覚えろよ。いつまでキミがこの国に居るかは知らないが、覚えていて損はない。オリアンとも、インジともコミュニケーションが取れるようになる」  インジとは、オリアン農場を手伝っているイングリット・バルテルスの愛称だ。  鮮やかなブロンドに少々やぼったい眼鏡をひっかけているが、はっきりとした顔立ちをしている美人だった。少女といっても、成人はしている歳だろう。  イングリットはお手伝いというよりは、正式な住み込み社員という位置づけのようだった。詳しく知らないのは、彼女が英語を喋らない上にSJに対しての敵意を隠そうともせず、さらにハリーが他人の事情をぺらぺらと喋るタイプではなかった為だ。  恐らくイングリットは、ハリーに恋をしている。  そんなことはSJにもわかる程明確で、ハリーが気付いていないわけがない。  そしてハリーの家に同居することになったSJに酷く対抗心を燃やしている事も、勿論気が付いている筈だった。  聡い癖に、何事も無いように流してしまうのがうまい男で嫌だ、と思う。  きっとイングリットに関しては真摯に対応しているのだろう、ということがわかる分、自分に対して口説くような雰囲気を出してくるこの男前な俳優の態度がまた嫌になった。  それはともかく、イングリットと喋る事などあるのだろうか。  彼女はSJの事を視界に入れるのも嫌そうにしているというのに。 「……あー……あー、でも、命令なら、まあ、……覚えるだけはがんばるけど。他の人とコミュニケーション取るかどうかはわかんないよ? なんたって僕は今傷心だ。いろんなものに打ちひしがれて、正直人間と会話するのも面倒だって思ってる。言葉を覚えても、引きこもって映画ばっかり見てるかも。それでもいい?」 「いいよ、構わない。辞書は部屋にあるやつを使ってもいい。俺のお古だし、今は電子辞書の方が早いかもしれないけどな。俺は昼間アトリエに籠るか、それとも農場を手伝っているかで家に居ない事が多い。アドバイスが必要なら夜なら付き合える。昼間は、チェスでもしながら気長にがんばれ」 「チェス?」 「できないのか?」 「……できるけど」 「だろうな。頭がいい奴は大概チェスが好きだ」  そんな偏見を呟いたハリーは、飲みほした珈琲のカップをSJに渡して玄関のドアを開けた。  車が止まる音がした事には気が付いていた。  けれど玄関の先に立つダーヴィド・オリアン氏の顔を見た時には、流石に予想外すぎて顔をつくる事を忘れた。  彼はチェス盤らしき荷物を抱え、にこりともせずにその場に佇む。その後ろには運転手だろうか、イングリットの姿も見えたが、彼女はSJなど目にも入れたくないというようにそっぽを向いていた。  ドヤ顔で振り返るハリーが憎らしい。思わず睨むと、眉を落として甘く笑う。  その顔があまりにも格好良いので、余計にSJは眉を寄せる羽目になる。 「チェスとスウェーデン語の講師だ。オリアンは、あー……正直でいいぞ。言葉の鞭に飾りがなくていい」 「それスパルタって意味じゃない? 大丈夫? 僕、泣いちゃわない? 明日の夜にはアメリカ行きの飛行機に乗ってたりしない?」 「流石にそれはないだろう。大丈夫、話せばわかる」 「いや話せる言語が違うでしょ!」 「少々の英語なら彼はわかる。壮絶に頭が良い人だ。口も回るがな。さて、俺はインジと作業に出てくる。オリアンさんは夕方まで暇だそうだ。しっかりチェスと言葉を学べ」  じゃあな、と手を振る男の背中に、SJはなんとか気を取り直して声をかけた。 「どっかでメジャーあったら持ってきて。お土産はそれでいいよハニー!」 「……何に使うんだそんなもの」  怪訝そうに眉を顰めたハリーに、SJは『スリーサイズ計るの!』と叫んでやった。  その後のハリーの笑いを堪えるような顔は、正直悪くはなかったが、自分も随分と恥ずかしい気分になったのでもう無駄な反撃は控えようと心に決めた。  さて、残された部屋は、オリアンとSJが作る妙な沈黙で満ちていた。  オリアン氏との交流は最初の挨拶程度だ。背が低く、顔の険しい頑固然とした老人だったが、ハリーが気を許しているのならばきっと悪い人物ではない、ということはわかる。  そんな些細な判断にすでにハリーを引き合いに出している自分にげんなりしながらロビースペースの椅子にどかりと腰を降ろした。  閉まった玄関の戸を見つめていたオリアンは拙い英語で呆れたように呟いた。 「あんな気難しい男のどこがいいんだ」 「そんなの僕がききたいよ!」  チェス盤を前に、SJが叫んだ英語は虚しく部屋に響き渡った。

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