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第6話

「もっと堅実な人間が好みかと思ってた」  家畜の餌を運び入れながら、イングリットは笑いもせずに嫌味を零した。  彼女が身の回りの数人以外にかたくなに心を閉ざし、尚且つハリーに酷く執心していることは本人も隠そうとしてはいなかったので、周知の事実となっている。  イングリット本人には、決して友情以上の気持ちは持てない旨を事あるごとに伝えている。彼女も理解はしているようだが、まだ納得できない部分があるらしく、ハリーに近づく人間が現れると嫌悪感を露わにした。  今年二十一歳になる筈だ。その頃の自分の精神状態を思い出せば、ハリーは彼女の些か自分勝手な感情の暴走も、窘めつつ見守る事ができる。 「堅実な人間が好みだよ。ついでに言うと、真面目で頭の良い人間が好きだ」 「あの男はそうは見えない。煩いだけじゃないか」 「そんなに喋ってばかりでもない。喚いてるだけでも声がでかいわけでもないし、ジョークを織り交ぜて言葉を投げ返してくるから、頭の体操になる。喋っているだけでパズルゲームに挑戦しているような気分になるよ。インジはSJの英語が聞き取れないだろ?」 「煩くて早口すぎて何言ってるかなんて単語一つもわからないよ」 「だから耳触りだと勘違いするんだな。インジも英語を習ってみたらいいんじゃないか? SJはめきめきとこっちの言葉を覚えているらしい」  さすが中国語をさらりとマスターした男だ。スウェーデンの言葉も、練習を始めてから三日でもう随分とモノにしている様子だった。  あのオリアンが褒めていたのだから、彼の学習能力は相当なものだろう。その上チェスの腕もそれなりらしく、街の人間以外には決して甘い顔をしないオリアンが早くも一目置いていた。  その事も、イングリットの癇に触る要因になっているようだ。  頭が良いだけではない。SJは、人とのコミュニケーションの取り方がうまい。距離の取り方もうまいし、最善の言葉を探す才能に優れている。恐らく半分くらいは無意識にこなしているのだろう。演技であれだけの事ができれば、今頃はテレビ局のスタッフではなく映画俳優をしていた筈だ。  NICYの運営にも、人脈は必要な筈だ。  そういうものを自然と作りあげる魅力の様なものが、SJには備わっていると、ハリーは感じていた。  だから惹きつけられた、というのは言い訳かもしれない。  イングリットが歯に衣着せぬ物言いでずばりと当てこすった様に、ハリーはSJの事を憎からず思いはじめていた。  その態度は人の機微に敏感なSJにはすっかりばれていて、本人から落ちついてよハニーと小言を貰う程だ。自分でも流石に早々に転びすぎだとは思うが、元々好みの範疇だったので仕方が無い。  細い腰が目に毒だ。がっしりしたマッチョよりは、色気のある男が好きで、性的な交渉よりも会話が弾むような関係が好きだ。冷静に考えてみれば、ハリーにとってSJは好物そのものといっていいような人物だった。  二年間、極限まで追い込まれた心を癒す為に人を遠ざけ、農場を手伝いながら引きこもった。  身内と言える人間以外とは接触していなかったツケが、急に襲ってきたような気分だ。人を、やっと信じられるくらいに回復したのかもしれない。  そうは言ってもハリー自身、まだ半信半疑の状態だ。  うまいこと甘い獲物が近場に来ただけで、勝手に身体が舞い上がっているだけかもしれない。もっとよく観察すれば、彼と自分が付き合うような未来は見えない事に気が付くかもしれない――そう思い注意してSJを探る度に、喋る事に夢中になりすぎていてレンジの中に入れた夕飯の存在を忘れたり、辞書を読みながら歩いているせいで椅子につまずいてそのままドアで鼻を潰したり、会えばまるで口論のように言葉を投げかけからかいたがるのに、おはようとおやすみの挨拶は毎日きちんと会話に織り交ぜたり、とにかくそういう様々な行為が全力でハリーを惹きつけ、結局は目が離せない存在となるだけだった。  一度心を許してしまった後に芽生えたものは、ひどくやっかいなものだ。  今のところSJは嫌悪感を表してはいないが、彼はゲイではないし、ハリーはどうあがいても女性的な美人とは言い難い。熊の様な大男ではないが、俳優時代から肩幅はあったし、隠居生活では農場の手伝いで筋力が衰える事もなかった。  どう見ても男の自分に、SJがそう易々と惚れてくれるとは思っていない。  それなのに、毎日挨拶をかわす度に深みにはまっている事を自覚する。  『きみちょっとちょろすぎない?』というのは今朝当のSJに言われた事だ。確かに、敵だと言っても過言ではないと思っていた相手に、こうもころりと態度を変えられたら不審にも思うだろう。  オーバーオールについた土と草を掃いながら、イングリットは吐き捨てるように嫌悪感を露わにする。 「英語なんてまっぴらだよ。あの煩い男の言葉が聞き取れるようになったら余計に我慢ができなそう。私とあいつと、どっちかが舌を噛むまで口論するに決まってる」 「キミが自分から彼に話かければ、そうなるかもな。彼は嫌がる人間を追いかけたりはしないはずだ。仕事ならばそうするだろうが……」 「あのアブみたいな男が臆病で繊細でかわいいって言いたい?」 「……感受性は豊かだな。あと、現実に打ちひしがれている」 「躁鬱なだけなんじゃない? 昨日も昼間、ぼんやりその辺歩いてたけど、今にも川に飛び込みそうだったから勘弁してほしいと思ったよ。こんなところでアメリカ人の死体があがったら農場が大混乱だ。死ぬなら帰ってからにしてって伝えといてよハリー」  なんだかんだと口汚く罵っていても、SJの気落ちした様子をきちんと観察しているイングリットの事がハリーは好きだ。  本当に心ない人物だったら、他人の機微には気が付かないだろう。  本人が聞いているわけではないし、イングリットの暴言は聞きながした振りをして、ハリーは言っとくよと息を吐いた。  重い草のブロックを運び終え、あとは本職の農夫達に家畜小屋を受け渡す。  ハリーが手伝うのはあくまで力仕事メインの単純作業で、動物達や農作物の世話はイングリットや農夫達が行っていた。  仕事を覚える気があるならば教える、とオリアンには言われていたが、まだ決心がつかない。俳優業しか経験がないハリーは、自分の人生がこれからどう動くのか、どうしていきたいのか、まだはっきりと決断することができなかった。  夕暮れの前にハリーは解放され、いつものように農場宿舎前から歩いて帰ろうとしたが、ふと思い立ってイングリットに車を借りた。今日はもう使わないので一晩管理してくれるならキーも預けるとのことで、ハリーはありがたくそれに従った。  オリアンは今日、親類の結婚式で出掛けている。  本人も覚えきれない程の家族がいるご老体だ。それに加えまるで町の重役のような扱いを受けているせいで、冠婚葬祭にはとにかく呼ばれる。  ここのところ毎日オリアンのチェス相手になっていたSJも、今日は一日暇な筈だ。  誰かと何かをしていると、人の気持ちは紛れる。一人になると、途端に感情は暴走する。世界人類が皆そうかは知らないが、少なくともハリーはそうだった。  いつもは三十分かけて歩く道も、おんぼろとはいえトラックなら数分だ。  酷い音のするエンジンを切り、扉を開けようとして鍵が掛っていることに気が付く。SJは用心深い同居人で、自分一人で家を離れる時は必ず鍵をかけた。  まだ日は暮れていないが昼間と言い切れる時間は過ぎた。どこに行ったのか、と裏手に回ると探し人はすぐに見つかった。  ゲストハウスの裏には細い川が通っていて、ほんの少しだが崖のようになっている。そこに腰かけたSJはハリーに気が付くと『おかえり』と表情を作った。 「……考え事か?」  立ちあがろうとしてよろけるので、手を貸してやりながら問いかける。微妙な顔をしたSJは、少し迷ってから笑うのをやめて、溜息をついた。 「ちょっと人生疲れたなーっていうモードに入ってたの。いつもはオリアンじーさんがうるっさいじゃん? あんなスパルタ言語教育と同時にハイパープレイのチェスを一緒にこなすことを要求されたらね、そりゃもう人生憂いでる暇ないもんね。おかしいなぁ、僕は人生のリフレッシュにスウェーデンの田舎に来たのになぁって」 「ライアン・サリヴァンへの復讐方法を考えることはあきらめたのか?」 「それは僕がもうちょっと元気になってからの話。お手軽にサリヴァンに媚び売って復帰できないもんかなぁってちょっとだけ考えてみたけど、輝かない未来しか見えなくて全然ダメ。ハニーの新しいスキャンダルを持って帰ったらもしかしたら華々しくトップニュース報道できちゃうかもだけど、だってきみゲイだし。それに彼氏もいないとか言うし。クリーンすぎて笑えちゃうよ。全く誰なのこんなクリーンな俳優が子供おろさせて慰謝料裁判になって関係者殴って病院側も脅したとかとんでもないシナリオ意気揚々と報道した奴は」 「ライアン・サリヴァン。イーグル・レーベルの取締役。基本的には音楽関係が主体の企業だが、映画界にも影響力は強くてついでにマスメディアにも顔がきく。自分の気に入った人間以外は視界に入れたくないタイプの典型的なワンマン経営者だ。合理性もなにもあったもんじゃない。あの会社が成功しているのはただ単に株の転がし方がうまかったせいだろうな」 「ワォ。きみがそこまで憎々しげにこき下ろすなんて恨みは深いね。まー僕も相当な目にあったし今勝手にどっかで死んでほしい人ランキングぶっちぎり一位はライアン・サリヴァンだけどね」 「同感だ。……少しドライブに行かないか」  気分転換だ、と肩をすくめてみせると、暫くこちらの様子を窺っていたSJは早々に降参した、というように了解と言いつつ両手をあげた。  同じ家に暮らしていても、仲睦まじくソファーでテレビを見るような時間はない。ハリーは大概アトリエに籠っているし、SJは自室でスウェーデン語の勉強をしているかそれとも映画を見ているかだ。  食事の時間が合えば、無言という事も無く当たり障りのない言葉遊びをする。けれど、ゆっくりと喋るような空気でもない。  スタンリー・ジャックマンは酷く心が落ち込んでいる。  それはサリヴァンのせいだとは聞き齧っていたが、具体的に今どういう状態なのかハリーは知らなかった。NICYは現在活動縮小中で、その理由を公式のHPで運営陣の交代としている。  慰めよう、というつもりはなかった。ただ、彼がこの地に来た経緯を知りたいと思っただけだ。  大人しく車に乗り込んだSJは、前も思ったんだけど、と神妙な面持ちで切り出した。 「……この車、ちょっと揺れすぎじゃない……? 大丈夫? 壊れてるんじゃないの? 僕が馬鹿みたいに揺れるのは僕の尻がスウェーデンの車に対応してないだけ?」 「俺の尻も対応してないよ。あんまり喋ってると舌を噛む」 「なんだよ、もう、僕の愚痴を沢山聞いてくれるつもりでかっこよく誘ってくれたんじゃないのっ? ちょっと恋愛映画の主人公みたいにきゅんとしたってのに!」 「できればそのままきゅんとしながら座っててくれ。目的地に着いたら思う存分話を聞いてやるから」 「無理。駄目。尻が割れる!」 「もう割れているだろう」 「きみの! その! なんかちょっと下世話なジョークがわりと好きだよ馬鹿野郎!」  真面目に罵倒されて、思わず声に出して笑ってしまった。  目的の場所には十分程で到着した。川沿いの道をゆっくりと下った先に、その湖はぽつんと存在する。  農場の入り口とは逆方向で、この向こうには手つかずの森が広がっているだけだ。その為ほとんど人が来ることがない。  夏になると町の人間が、少々の金を払ってキャンプをしに来るくらいだった。  スウェーデンの森は深い色をしている。  湖も、きらきらと青いとは言い難い。どんよりとたゆたう水は人を誘うように重く、静かにそこにあった。 「絶景、というわけじゃないが。俺はわりとこの景色が好きだ。それに、人目につかないから何をしても大概許される。ゲストハウスもまあまあ下界から隔離された場所ではあるが、まあ、気分の問題だ」 「ここが、つまり、ハロルド・ビースレイの王様の耳ポイントってこと?」 「ロバの耳だって叫ぶような穴はないし、誰かの秘密を握ってるわけじゃないけどな。誰にも言っていない事は、若干ある。俺の醜聞をマスコミに流す協力をしたのは、俺の恋人だった男の親族だった」 「…………わーお。なにそれ嫌だ、しんどい怖い。それはええと……どっちが先なの? きみがサリヴァンに目をつけられたから、恋人側が巻き込まれたのか、それとも恋人側がサリヴァンを巻き込んだのか」 「わからない。ただ、とんでもなく辛かったよ。辛いという気持ちしか思い出せない。その内その辛さに耐えかねて、自然と俺達は別れた。たったそれだけの事だが、俺は人生ともいえる職業を失ったし、恋人も失う事になった。どちらか一つでもしがみついて離さずにいれば、と今なら思うけどな。悲劇のヒーローぶっていたら何も残らなかった」 「僕も、あー……そうかなぁ。悲劇のヒーローしてたらいつのまにか会社が奪われかかってて、家族同然の同僚達を路頭に迷わせるかそれとも自分から海に飛び込むかの二択迫られてたって感じ。……ちょっとライアン・サリヴァンの業界の評判を番組内で皮肉っただけなのにこのザマとか、ほんとあのご老体は癇癪持ちかなんかじゃないのかねって思うよ。まるっきりハートの女王様だ。『首をお刎ね!』」  甲高い声を作って自分の首に親指を当てるSJに、ハリーは苦笑いを返す。  あのイーグル・レーベルに喧嘩を売るとは流石だと思う。誰もが触れてはいけないもの扱いをしている筈だ。そこに切り込んでこそのマスコミだ、などと青くさい事をいう人間はそうそう居ない。SJにしたところで、そんなつもりはなかったのだろう。  一言、本心が漏れた。  それが、サリヴァンに目をつけられるきっかけになった。 「うーんゲイネタに絡ませたのもいけなかったかなぁって今なら思う。サリヴァンってあれ、多分ホモフォビアだよね? きみが目をつけられたのも、もしかしてゲイだったからなのかもしれないし。……たったそれだけの事で、世間がどうとか影響がどうとか何も考えないで、ただ気に入らないって理由で他人の人生捻りつぶしちゃう馬鹿が存在するなんて、想像はできても実際に実行するなんて思ってもいなかったんだ」  結果、NICYの経営に関わる株主が買収され、サリヴァンのイーグル・レーベルに統合される寸前だ。どうにか持ちこたえているのは、NICYの同僚達があの手この手で対抗しているからだという。  とにかく今はサリヴァンをなだめ、ゴマをすってどうにか誤魔化しているらしい。ハートの女王様には、確かにその古典的な手法は有効だろう。 「キミはゴマをすらなくていいのか?」 「僕は駄目。すってもいいけど向こうが完全にご立腹で僕の顔も声も何も受けつけないみたい。僕の同僚達って最高でほんと正直だから、SJは今邪魔だからとりあえずひっこんで楽しくバカンスでもしてろお願いだって言われちゃったの。……みんな頑張ってる。でも、僕だけが何もできない。何をしたらいいのかわからない。僕が、ほんの少しの失言から蒔いた、ほんとしょうもない種のせいで、自分はまだしも他人の人生もめちゃくちゃだなんて最悪だ」  湖を見つめながら平坦な声を出すSJを、思わず抱きしめそうになったが、どうにか衝動を堪えることに成功した。  彼は慰めてほしいわけではない。ハリーもまた、彼を慰めたいなどとは思っていない。お互いに似たような境遇であるが、それ故に同情されたくない気持ちは一緒だとハリーは感じた。  それでも抱きしめたいのは、泣きだしそうな声が酷く頼りなかったからだ。  何もできない。  そう呟く青年は無力で、喋ることしかできない二十六歳の男だ。  暫く二人で湖を見つめていたが、日が暮れはじめたので帰ろうと促した。ハリーは、気の利いた事をひとつも言えない自分が嫌になった。そして、また自分がこの真面目な青年に心を受け渡してしまった事を自覚した。  帰りの道程では、SJはいつも通りにひたすらに言葉を紡いでいた。  一回全てを話してしまったことで、心のタガが外れたのかもしれない。もしくは陰気な雰囲気が嫌だっただけかもしれないが、結局がたがたと揺れる車の中で喋りまくる男は、唇の端を見事に噛んだ。  だから喋るなと言ったのに、と苦笑を漏らすハリーが車をゲストハウス前に止めた時、SJは涙目で口を押さえていた。 「……いたひ…………もう僕はきみの運転するおんぼろトラックには乗らない……」 「俺のせいじゃない、トラックと道のせいだ。これがスポーツカーだったらベッドの上のような心地よさで運転してやるさ。……ちょっと見せて。舌は噛んでない?」  運転席から身を乗り出し、SJの細い顎に手を添える。  舌は噛んでないようだが、口の中を噛んでしまったらしい。大した出血もないので、大事ではないだろう、と判断したハリーが身体を引く前に、じっとこちらを見つめていたSJがジト目で言葉を零した。 「俳優ってすごいな。ちょっと優しくされると軽率にドキドキしちゃうね」 「……いつでも演技しているわけじゃない」  身体を引こう、と思うのにうまくいかない。  バイオレットの瞳に魅入られたように吸い寄せられ、そのままキスをする寸前で、SJの手がハリーの身体を押しのけた。  はっと気が付くと、なんとも言い難い赤い顔がすぐそこにある。  生娘のような反応が初々しくもおかしく思え、謝る前にハリーは少し意地の悪い気分になった。 「キスは初めてじゃないだろ?」  できるだけ甘い低い声で囁く。それが、ハリーの本気を出した遊びだと気が付いたらしい聡い青年は、口を曲げて眉を跳ね上げ、暫く思案した後に反撃した。 「キスを誰かとするのは初めてじゃないけど、きみとするのは初めてだ」  この反撃の可愛らしさに、ハリーが降参したのは言うまでもない。 「わかった。初めてのキスは満天の星の下でしてやるよダーリン」 「……きみの軽口が嫌いじゃないよハニー」  へにゃり、と笑ったSJの顔はたまらなく愛おしく、早くも誓いを破ってキスをしたい欲望をどうにか押し込めるのは大変だった。

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