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第7話

「元ハリウッドスターに毎日楽しく口説かれてるよ」  変わりないか、といつも通り声をかけてくれたPC画面向こうのマイキーに、冗談でもなく素直に現状を告げた所、真面目な同僚は乗ってくれる事もなく至極真面目に『何してんだ馬鹿か』と罵ってくれた。  久方ぶりの遠慮のない言葉に、SJは思う存分にやけた。  今日はゲストハウスに一人きりで、ハリーは朝から出掛けている。  ハリーは他人のプライベートに聞き耳を立てたりする人物ではないが、SJはひそひそ話が苦手で煩い自覚がある。友人とネット通話をするならばできるだけ彼が外出している日にしようと決めていた。  子供の頃には電話が小型化しただけでもすごいと思ったのに、今はリアルタイムで動画通話ができる。  その内本当に車も浮くかもしれないなぁなどと至極どうでもいい事を考えつつ、SJはハリーが淹れてくれた珈琲を飲んだ。 『どういうことだSJ! 避難先で新しいスキャンダルに巻き込まれるだなんてお前はどMかただの馬鹿か!』 「馬鹿なのは否定しないけどマゾでもないし別に付きあってないし、僕の身体は見事チェリーのままだ、イエス! 唇だって貞淑に守ってるよ。おとぎ話のお姫様みたいに純情潔白」 『……友人として言わせてもらえば相手が男だろうが女だろうが、恋人を作って人生寄り添って生きてくのは良いことだと思うよSJ。でも、相手が悪いだろ。いまサリヴァンは神経質になっている。かわいがっていた姪が結婚するんだそうだ。そっちにかかりきりになって、きみのことも我がNICYのこともうっかり忘れてくれるかもしれない』 「ワォ、すてきな報告だね。彼の痴呆が進行する確率は何パーセント?」 『ゼロじゃない。SJはとりあえずできるだけ静かにハリーとは距離を置いて引きこもって生きろ』 「無理だよマイキー。だって僕が引きこもってても彼がちょっかいかけてくるもん。ジョークじゃなくて、わりと本気で口説かれてるんだよ僕。ていうかサリヴァンはそんなにハニーのこと嫌いなの? あのクソジジイはイケメンとゲイが嫌いなのかなぁ」  パソコンの画面に映った男に向かって首をかしげると、マイキーはいつもそうしているように深いため息をついた。 『……調べてはみたが、ハロルド・ビースレイとライアン・サリヴァンに特別な関係性はない。イーグル・レーベルが出資した映画にハリーが出ていたくらいだ。その場で目をつけれたと考えるしかない。サリヴァンはそれまでも何人も俳優やミュージシャンをつぶしている。理由はこれといって見当たらないから、本気でただ気に入らなかったんだろう』 「どの時代からタイムスリップしてきたおっさんなんだよライアン・サリヴァン! 時代どころか星まで違いそう。ここまでくると宇宙人だね。それも相当馬鹿。いつか本気で暗殺されそう……だけど、そんなもの確率の問題だしこのまま一生人生横暴に楽しく全うしちゃう可能性だってあるんだよなーと思ったらほんと腸が煮えくり返って歯ぎしりで夜も眠れないよ」  軽口に紛れ込ませたが、夜眠れないのは本当だった。  いろいろなことを考えてしまい、目をつぶっても眠くない。そのままじっとりと夜は更け、記憶がなくなるのは決まって夜が明ける朝方のことだった。  午後にはオリアンが来てチェスと語学勉強の時間が始まるので、なんとか昼夜逆転は免れているが、朝きちんと起きるせいで寝不足がひどい。  フルに仕事をしているときは数時間寝るだけでも動けていたのに、今はふとした瞬間に気絶するように眠くなったし、身体も相当だるかった。  クマも目に見えて濃くなってきているようで、毎朝ハリーに『もう少し寝ていたら?』と心配される有様だ。  どうせ横になったところで瞼の裏がちかちかして寝れない。精神科医に相談する気もないので、いつか本格的に寝不足になったら倒れるように眠れる筈だとタカを括って過ごしていた。  不眠の理由はそのものズバリ、人生の不安からくるものだろう。  これはもう今はSJの力ではどうしようもなくて、不眠に関してはひたすらに時が解決してくれるのを待つしかない。  人生は割とどん底だ。  毎日、やることがあるのは、SJにとって有り難いことではあった。  そこまで考えてハリーがスウェーデン語の勉強を提案してきたのかはわからない。それでも、現状何か目標がある、ということはSJにとって救いである。  チェスの腕はどうがんばってもオリアンには及ばず、五回勝負して一回勝てれば奇跡、くらいの勝敗率だったが、スウェーデン語は随分と覚えてきた。今ではオリアンとの会話に英語が混じることはない。  これでスウェーデンでの取材も難なくこなせるよマイキー! と笑ったSJに、マイキーはまたいつもの溜息をついた。 『……まあ、思っていたより廃人状態じゃないみたいだし、無理してる感じもないから安心したよ。その点だけはハリーに感謝だな。きっと色々気を遣ってくれてるんだろう、あの俳優さんは』 「うーん、それは、そうかなって思う。思ってたよりも大人だよ。ていうか、流石大人って感じだ。よくよく考えれば僕よりも六歳も年上だし、そりゃ人生経験も違うよなぁずるいなぁって感じ。何言ってもわりとさくさく対応してくるから喋るのが楽しくてよくない。あと彼は惚れた相手にはめちゃくちゃに甘い」 『あの顔で、甘い言葉を囁かれたら仕事が恋人のSJもくらりとしちゃうのか?』 「まあ、ちょっと、きゅんとしちゃうときはあるよねー。だってマイキー『初恋』観た? なにあの若々しいハリーかっこよすぎて辛い! あんな素敵な声であんな素敵な口説き文句言われたら正直僕は空気に流されて唇くらいは許しちゃいそうだよ。イケメンって怖いねぇ」 『……なあ、正直どうなんだ。お前は彼の事好きなの?』 「わーお、青春の恋愛相談感あるね甘酸っぱい!」 『真面目な話だよ。お前が彼の事を好きなら、俺は、あー……応援するよ。なんてったってあのスピーカー・ジャックが初めて恋をした男ってことになる。どんな恋人も平均一週間で破たんしたSJに、彼はもう一カ月付き合ってるんだ。可能性はなくはないんじゃないか?』 「あー……ね、どうかなぁ……かっこいい、とは思うし、優しい、とは思うし。喋ってて楽しいけど。でも、そんなの友人だってそうでしょ、マイキー。僕はきみと喋ってると楽しいしきみの事をすごく優しいと思うよ。それと同じなんじゃないかなぁと思うからまだわかんない、ってのが本音」  どこからが恋なのかわからない。  SJは多分、恋をした事がない。過去の恋人達はいつも向こうから告白してきた女の子達ばかりで、SJから好きになった人間は、大概は友人ばかりだった。  恋と友情は何が違うのか、SJにはわからない。ご飯を食べて笑い合うのに、恋愛感情が必要だとは思えない。  恋って何かね、と呟くとマイキーは頭を抱える。 『そこからかよスピーカー・ジャック。これは、あー……ハリーにがんばれと伝えたくなるな』 「大真面目に言ってるんだけどね僕はね。だって仕事をしている時が一番楽しいんだ。それを理解してくれて一緒にがんばってくれるのは同僚で、たまに楽しくお喋りしてご飯を食べてくれるなら友人だっていいじゃない。結婚して子供を作って、っていう関係が最終目標ならまあわからなくもないけど、僕とハリーにはそういうゴールもないわけだし、そうすると、恋愛感情って何さって話になるでしょ」 『お前はほんっと見た目よりも真面目すぎるんだよ。もっと感覚に正直になれ。そうだな、ええと……あー、キスしたい、と思ったら多分恋だ』 「大雑把。ねえそれすごく大雑把じゃない? マイキー寝起きで頭働いてないんじゃない?」 『昨日寝てないが俺はお前よりは確実に健康だし元気だよ。とりあえず、また連絡するから。……何も考えずに自然と戯れろSJ。毎日食って寝るのが今のお前の仕事だよ』 「みんな僕に甘すぎない? こっちの名産をしっかり把握して土産を両腕に抱えて帰れるように頑張るよ。じゃあねマイキー、愛してる」  投げキッスを受けたマイキーが苦笑いを返したことを確認して、SJは通話を切った。  ふう、と息を吐き、温くなった珈琲を飲みほして、椅子の上で膝を抱える。  キスをしたかったらそれは恋だ、なんて乱暴な事を言われたが、思い返してみると自分から誰かにキスをしたいと思った事がない事実に気が付き、SJは苦笑いで溜息をついた。  ハリーは格好良い。少し生真面目すぎる面もあるので気難しいと取られるかもしれないが、基本的には他人に譲れる忍耐力を持っている。  特別女性に性的な魅力を感じないSJとしては、相手が男性だろうと大差ないのではないか。とは思うが、だからと言ってお手軽になびくのもどうかと思った。  じらしているわけではない。  むず痒い言葉の応酬はあれど、面と向かって告白された事はない。  なんとなく、ちょっかいをかけて遊んでいるだけかもしれない。どこまで本気かわからない相手に、自分からどっぷりとハマるわけにはいかない。  ハリーはこのままこの農場で暮らして行くのだろうし、SJは例えNICYの社員から引きずり降ろされたとしても、NYで生活するつもりでいた。  どうせ道が別れるのだから、本気になりたくない。恋なんていつも遠くにあるものだと思っていたSJは、自分が本気で恋をしたらどうなるのか、見当もつかなかった。  なんにしても彼が言葉を濁して遊んでくれているうちは、SJもそれに付き合う振りをして誤魔化して応じていくつもりだ。  告白されたら、それはその時考えよう。ほんの少し見つめられただけでキスを許してしまいそうになった事を思い出し、流されて婚姻届にサインをしないように気をつけようと思った。  時計の針を確認しようとしたところで、キッチンから物音がする事に気が付いた。  ハリーが帰って来るには早い。夕方まで戻らないと言っていた筈だ。オリアンは今日用事があると聞いていたので、残る心当たりは一人しかいない。  恐る恐る開けたドアの向こうにいたのは、やはり、ブロンドに眼鏡の少女だった。  イングリット・バルテルスは扉から顔を覗かせるSJに気が付くと、にこりともせずに視線を外した。 「鍵は開いていたし、ノックしても出てこなかった」  腕組みをして堂々と言い訳を述べる少女に、SJはデスヨネと流暢なスウェーデン語で言葉を返した。 「いやぁ、ごめんね、ちょっと同僚とおしゃべりしてたんだ」 「同僚? 恋人じゃなくて?」 「え。なんで」 「最後にloveってきこえたから」 「あー……あー、いや、あれは挨拶で、またねっていう感じの意味合いで。そら僕は同僚も友達も愛してるけど恋愛とは違うニュアンスだし、そもそも彼には奥さんがいるし、そして僕はゲイじゃないし、勘違いするような相手には迂闊に愛だなんて言葉使わないよ」 「たとえば、ハリーとか?」  冷たい響きの言葉は、寝不足の精神状態にはあまりよくない。  SJはフェミニストではない。男だろうが面倒くさい人間はいるし、女だろうが格好良くて尊敬できる人間もいる。特別女性だから心を広く持とう、という考え方はできない。ただ、年齢は考慮すべきだと思っていた。  年下の少女の苛立ちはわからないでもない。  彼女がハリーに懸想していることなんて、誰に聞かなくたって一目瞭然だ。陶酔していると言ってもいい。  嫉妬心を持て余し、結果それはSJに向かってくることになったようだ。恋愛感情に疎いSJにもそのくらいの推理はできる。ただし、共感できるかと言ったら全くできない。  どうして感情だけで言葉を吐きだしてしまうのだろう。  どうして考えないのだろう。想像しないのだろう。頭を使わないのだろう。  それは目の前の彼女だけではなく、小さな失言で職を失いそうになっている過去の自分への憤りも含まれていた。ちくりとした苛立ちは、その内に腹の奥に溜まる。 「言わないよ、ハリーには。本気にしたらどうするのさ」 「じゃあ嫌いって伝えたら?」 「……あのね。僕は彼に言い寄ってるわけじゃない。ただ一緒に住んでいるだけだ。彼は僕に告白してきたわけでもないし、僕は弄んでいる訳じゃない。きみがこの状況を気に入らないっていうのなら、ハリーの方に文句言ってやってよ! ねえ、きみは、確かに素直で裏表がないけど、おべっかを使う人間がみんな馬鹿だと思って無い? どんなふうに生きたっていいけどさ、自分以外はみんな馬鹿だと思っているなら一番馬鹿なのはきみだよ」  大人げない、と頭の端で考えることはできても、それが口まで届かない。  いつもならしゃべりながら考え、言葉をコントロールできるのに、じりじりとした頭痛がそれを阻んだ。  体調不良を言い訳に、彼女と口論するなんて馬鹿げている。こんなのはただの八つ当たりだ。  押し黙るイングリットの顔を三十秒眺めたSJは、やっとそのことに気がつき、慌てて立ち上がった。  謝る言葉を頭の中でスウェーデン語に変換しているうちに、イングリットはふいときびすを返してハリーのアトリエに向かった。 「……脚立。必要になったから取りに来ただけ。オリアンの家にある奴は、先週壊れて使いものにならないから」 「…………脚立……あのとんでもない荷物の中にそんなものあった?」 「一か月前はあった」 「………………まだあるかな、同じところに」  これは意外な事だったが、ハリーは掃除類がまるっきり駄目らしい。 ゴミに埋もれて生活することはないようだが、ガレージを改造して使っているアトリエはそうと知らなければ物置としか思えず、その上何故か荷物は日々増えているように見える。  実際は必要な物を引っ張りだし、その都度また手前に積んでいるのだろう。  そういえば食器も絶妙な角度で積み重なっていた。片づけが破滅的に苦手な男が管理している物置の中の何処から脚立を引っ張りだすのか。  想像しただけでげんなりする。  アトリエのドアを開き、その場の光景に一瞬固まるイングリットの横に立ち、手伝うよと声をかけてみたが反応は無かった。  結構だと言われなかったので、勝手に手を貸すことにした。先ほど言いすぎた事を謝るタイミングを窺いつつ、まずは手前のよくわからないパネルのようなものをどかす。  大きなキャンパスのようなそれは、そのまま大きなキャンパスだった。やたらと巨大な布張りの板は真っ白ではなく、幾何学的な模様の絵が描かれている。  見覚えがあったのか、独り言のようにイングリットが言葉を零す。 「……オリアンの家にあった絵だ。そういえば貰ったけどいらないから捨てるとか言ってたような気がする、けど、ハリーが貰ってどうするんだ……」 「それ同感。確かに、味のある絵だけど……教会とかに寄付したらいいんじゃないの?」 「だめでしょ。これ曼陀羅じゃん。仏教の絵を国教会に飾ったらわけわかんないし」 「あー。言われてみればアジアンテイスト……きみ、よくそんなこと知ってるねぇ」 「……世界史は好きだった」  勉強が嫌いな性質ではないようだ。  それならば尚更、コミュニケーション能力の低さが不思議でならない。知識を詰め込める頭があるのなら、他人の言葉を聞いて考える知恵もありそうなのに。  周りの大人が少々甘過ぎるのではないか、とは思ったが、これは本人に直接言うべきではないと今回は言葉を飲み込む事が出来た。  今日は駄目だ。  SJは寝不足で久しぶりに体調が優れなかったし、ハリーが居ないせいでイングリットの気も立っている。彼女とゆっくり落ちついて話せる機会があれば、ぜひその時に色々と聞きたい事と話したい事がある。そんな機会があればの話だが、とりあえずは感情も言葉も呑み込んで、ひたすらに脚立を探す事に熱中した。 「脚立、何色だったらわかる?」 「…………黄色、だったか、赤だったか」 「ワォ、警戒色。それってあそこから見えているアレ?」  目に止まった黄色い鉄製の何かを指さすと、イングリットは『あれだ!』と声を上げた。一瞬笑顔が浮かびあがったが、SJに見られている事に気が付くとすぐに真顔に戻ってしまう。 「ひっぱりだそう」 「え。いやいや。無理じゃないの。それより上の物をちょっとずつどかしたほうが、」 「その上の物をどかす為に必要な脚立がいまその中に紛れてるの! いいから、そっち押さえてて」 「いやいやこれ駄目だって絶対だめだって、なんかぐらぐらするもん!」 「Shut up(黙って)!」 「Inte kaftan(黙らない)!」  なんとか抑えようとするSJと、力づくで引っ張りだそうとするイングリットの、どちらが悪かったのかわからない。 「……あ。あ、ちょ、イングリット、これヤバいやばいやばい崩れる!」  ぐらり、と嫌な角度で傾きだしたガラクタはその内に押さえきれなくなり、逃げるタイミングさえ失った二人はそのまま襲い来る瓦礫から身体を守る為に身をすくめることしかできなかった。

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