8 / 21
第8話
「太股と足首は打ち身、手首は捻挫だってさ」
古びた町医者宅から出てきたSJは、ハリーが想像していたよりもけろっとしていたし、松葉杖をついているわけでも、ギブスをつけているわけでもなかった。
右腕からはテーピングとサポーターが見えるが、そのくらいで済んで良かったとハリーは息を吐く。
アトリエの荷物が崩れ、イングリットとSJが下敷きになったと連絡が入ったのは日が暮れる前のことだ。
買い出しの用事で遠出していたハリーは、おんぼろトラックが出せるだけ限界のスピードで帰ってきた。
一つ一つは大したことのない大きさの怪我でも、打ち所が悪ければ何がおこるかわからない。
基本的に自分しか使わない場所だから、と、適当に片づけていた事を悔いた。
幸いイングリットに怪我はなかったようだ。
ハリーがオリアンの屋敷に駆けつけた時には沈んだ顔のイングリットの姿しかなく、SJは医者のところにかつぎ込まれたと聞かされ、また血の気が引くこととなった。
「……大事にならなくて良かったな、と、俺が言うのもあれだな……すまない、適当に片づける癖はどうにかしたい」
「いや別に、それはいいんだけどさ。片づけ能力っていうか、ため込むのをどうにかしたらいいんじゃないのかなって僕は思うよだって絵とか鍋とか果ては壊れたミシンまで積んであるんだもの。きみって物が捨てられないタイプなんだねぇ。あ、ちょ、痛い早いもっとゆっくり歩いて」
「杖か何か借りられなかったのか?」
「右腕右足やられちゃってるから無理。ゆっくりなら歩けるからお姫様だっこは結構だよハニー」
「男一人を抱える腕力があるか怪しいから、キミを運ぶならおんぶになるけどな。打ったのが尻じゃなくてよかった。帰るまでが苦痛のひとときになるところだ」
診療所前に止めた農場のトラックを見たSJは、大げさに顔をしかめてみせた。
「わお。尻も打ち身になりそうなすてきな車」
「そう言うな。こいつはおんぼろだしバカみたいに揺れるが大事な農場の仲間だ。アトラクションだと思えば割合楽しい」
「無料でテーマパーク体験ができるのは楽しいけど、怪我したままジェットコースターに乗る客はいないよ。なるべくゆっくり運転してね、そしたら愛してあげられるかも」
飄々といつものように軽口を投げかけるSJに、ハリーは本格的に安堵の笑いを漏らした。
「……思ってたより元気だな。インジは珍しく引きこもっていたのに」
「あー。彼女のお話なら今日はちょっと勘弁してハニー」
「怒っている?」
「まさか。僕の怪我は自業自得。それとは別案件。今彼女がへこんでいるって聞いたらざまあみろって思っちゃうし、逆に元気だって言われてもなんなのあの小娘憎らしい、って思っちゃう。どっちも僕の腹の中がぐるぐるするしあんまりいい気分じゃない」
よいしょ、と片足だけで器用に助手席に乗り込み、SJはシートベルトをしっかりと締める。
エンジンをかけ、なるべくゆっくりと車を発進させながら、ハリーはSJに問いかけた。
「どうした。喧嘩でもしたか?」
「喧嘩はしてないけど喧嘩をびしばし売られまくったって感じかなぁ。危うく買いそうになっちゃって自分の心の狭さを大いに実感した」
「原因は?」
「ハロルド姫を巡って女と男の激しいバトル」
「……惜しいな。その場に居たら最高の演技を見せてやったのに」
「『私の為に争うのはやめて!』」
「シナを作って小指をたててやる」
SJが軽い調子で話すので、あえてハリーもジョークを飛ばした。
低速で走る車はそれでもかなり上下に揺れる。農場に入ってからは砂利道も多く、途中からは二人とも口を噤んだ。
それは奇妙な沈黙で、ハリーがどう声を掛けようかと言葉を選んでいるうちに、トラックはゲストハウスの前に止まってしまった。
SJの足の具合は、思っていたより悪くないらしい。
よたよたと右足を引きずってはいたが、支えがいる程でもないようで、ぎこちない足取りで歩きロビーのソファーに腰を降ろす。
ただし、もう今日は歩きたくない、と天井を仰ぐのは大げさな表現ではないだろう。
「今日だけじゃなくて当分歩きたくないよまったくもう、痛い! 歩くだけで痛いとかとんだどM仕様になっちゃった気分。健康を害すとさ、普段の自分の五体満足な状態がほんと恋しくなるし普通に食べて寝て動けるって素晴らしいことだよなって実感するよね。あー……健康が恋しい」
「捻っただけだし打撲もそこまで酷いものじゃないから、まあ一週間程度で痛みは治まるって話だったな」
「一週間! 一週間も僕に動くなって言うんだよびっくりだ、ただでさえ毎日チェスして映画観る以外にやることもない日常だっていうのに! 退屈すぎて舌を噛みそう」
「それは困るな。……キミが死なない為に、ゲームでもするか?」
何も食べたくないというSJにはココアを淹れ、ハリーは自分用にジャガイモのパンケーキを二切れ程温めてテーブルに置いた。
難しいルールを理解する気がなかったのでチェスは不得意だが、リバーシ程度ならハリーにもできる。
トランプもこの間引き出しの中から見つけた。ポーカーやブラックジャックは、よく撮影合間の暇つぶしにやったゲームだ。
ぬるめのココアをずるずると啜ったSJは、質問ゲームをしようと提案した。
「リバーシの独自ルールの奴か?」
「あれはさ、数えるのが一々面倒だよね。それに僕今頭も身体も使いたくないから、リバーシはパス。トランプをお互いに捲って、数が強い方が質問する側って事にしよう。一番強いのはAね。簡単で素晴らしい上に問答無用で他人のプライバシーを侵害できちゃう恐怖の暇つぶしだ。ええと、備考と注意はなんだっけ?」
「何を質問されてもへそを曲げない。答えがなんだろうと拗ねない。あとは、質問の意図を追及しない」
「オーケー、完璧。捻挫した夜の暇つぶしには最高。延々と続いても困るから勝負は五回ね」
ハリーはトランプを机の上に伏せ、即席のクエッションゲームは始まった。ゲームと言っても、トランプをめくるだけだ。必要なのは一瞬の運だけで、頭も何も使わない。しかし、お互いに少々へこんでいる夜の話題作りには、この程度の軽さが丁度良かった。
最初の手札はハリーが5、SJが3だ。
質問者になったハリーは、暫く顎を撫でてから『スウェーデン語は慣れた?』と訊いた。思案したSJは頬に手を当てて天井を見上げる。彼が何かを考えているときの癖だ、ということを、ハリーはもう知っている。
「慣れた、かなぁ。なかなか難しくてお勉強のやりがいがあるね。絶対に習得してやるって躍起になっちゃう。文法はそうでもないけどアクセントが突拍子もなくてハイレベル。もちろん中国語に比べたら優しいけどね。でもオリアンじいさんに褒められるとわりと嬉しいから頑張っちゃう。僕ってばほんとチョロいよ。……次もきみの勝ちだ。これちゃんとシャッフルした?」
「不満があるならシャッフルしなおしてもいいよ」
手札のクイーンをひらひらと振りながら、ハリーはほんの少し表情を崩した。
「質問は、そうだな……『この国には慣れた?』かな」
「うーんそれも難しい質問。なんてったって僕はあんまり街には行かないし、本当にこの家の周辺でしか生きてないからスウェーデンの暮らしも文化もそんなに触れてないんだよね。僕のスウェーデン知識って正直『ミレニアム』くらいなものだったから」
「ラーソンは偉大な作家だし、俺は本国版の映画が好きだ。書斎の棚にスウェーデン語版の原書がある」
「知ってるよ。犯罪小説をがっつり読む程僕のスウェーデン語は堪能じゃないから、いつかの楽しみに取っとくの。ちょっと、ほんとなんなのこのトランプはハニーの事が好きすぎじゃない? 僕の手札が悪過ぎだ!」
「運だよ。そういう時もある。『この農場には慣れた?』」
2の数字が印字してあるカードを放り投げたSJは、天井を仰ぐように大げさに手を開いた。
「すごく難しい質問! うーん、毎日チェスと映画を見るだけの生活には慣れたけど、オリアンじいさんはまだちょっとよくわかんないし、農場の人達も顔と名前が一致しない。イングリット・バルテルスは僕の事が嫌いって全身と口で表現してくるから持て余してる。よしジャックだ! きみの手札は――」
「クイーン。残念」
「……これもしかしていかさま勝負? 全部きみが勝つように仕組まれてる?」
「正々堂々と運で勝負してるさ。俺からキミへ次の質問だ。『同居人には慣れた?』」
「…………それも難しい質問」
にやりと笑ったSJは、眉を落として肩をすくめてみせる。
「人としては慣れたかなぁ。慣れたっていうか、あーなんだこの人はちょっと怖い顔してるだけで別に怒っちゃいないし表情筋が微妙に固いんだなぁって納得してからは日々すごく普通だよ。その表情筋、いっそ固いままの方が僕的には有り難かったくらい。……ほらそうやってすぐ甘ったるく笑うのどうにかしてよ困るのは僕なの。はいはい最後の札ね」
自分に対するSJの評価は思っていた以上に上々で、ついにやけてしまう。だらしない頬の筋肉を隠すように手で覆い、捲ったカードを机の上に置いた。
「セブン」
「イエス、キング! 僕の勝ち! ほら最後の最後で持ってく力はスター並みじゃないっ?」
「四敗一勝だけどな」
「ラストの勝敗は別の重きがあるんだよ」
勝手な事ばかり言うものだから、より一層ハリーの顔はだらしなくなった。
べらべらと喋り続けている方がSJらしい。少し黙ると心配になってしまう。彼は、皆が思っている以上に繊細だ。
些細な事に傷つき、小さな事にも配慮できる。
そんな彼だからこそイングリットの態度に心を痛め、彼女に対する苛立ちを消化しきれずにへこんでいるのだろう。
イングリットは子供だ。
成人はしているものの、彼女の精神はまだ幼い。それで良しとしている甘い大人ばかりに囲まれていた。我儘を許していたわけではないが、少々の気性の荒さは彼女の性格だとして、皆笑って流していた。
SJはそれをしなかったのだろう。
彼はとても正しくて真面目だ。だからこそ、少女の理不尽な嫌悪に対して、笑って流すことも無視することもしなかったのだと想像できる。ただでさえ現在の自分の状況で悩んでいるだろうに、酷く申し訳ないとハリーは心を痛めた。本来、イングリットの過ちを正すのは身近にいるハリーやオリアンがやるべきことだ、という負い目もある。
ハリー自身、もっと言葉がうまければ。もっと、他人を思いやりながら行動できれば。そうは思っても、中々うまいようにいかない。
せめてSJが過ごしやすくなるように、尽力したいとは思うが、彼はハリーに特別な事を求めていない様に思えた。
必要としてくれれば、出来うる限りの事はしたい。
それは義務でも何でもない、ハリーのささやかな恋慕の表れだ。
好きだと言える程知らない。愛してるなどと囁けば多分嘘になる。それでもハリーは、SJという青年の事を愛おしいと思っていた。
だからこそ、彼の質問を聞いた時に胸の高鳴りを感じた。
「それじゃあ僕からハニーに最後のゲームの勝者の質問ね。……『僕が今からするお願いを、きみはきいてくれる?』」
ハリーは一瞬だけ目を開き、その後に息を吐くように苦笑した。
「ずるい質問だな。質問じゃなくて命令に近い」
「質問だよ。嫌だって答えることもできる」
「まさか。俺の答えは『イエス』だよ」
さして考えることもせずに即答したハリーに対し、質問という形の要求をしてきた当のSJは慌てているように見えた。
「ちょっとハニー判断早くない? 内容聞いてから判断したっていいんだよ。なんていうか、あー……すごい自分勝手で、とんでもなくきみに対して失礼なお願いなんだ」
勿論、明日一日喋りかけないで、と言われたら辛い。しかしSJがそれを望むのならば、ハリーはどんなことでも大概こなせる、と判断したからYESと答えた。
「なんだって大丈夫だ、と今のところは思っているが、キミがそうまで言うなら、まずはお願いというやつを聞いた方がいいのかもな」
「そうだよ、言うだけはタダだし聞くだけもタダさ。勿論きみにはきみの意思も意見もあるだろうから、ええと、とりあえずイエスかノーか十分悩んでいいよ。あとこれすごく大切な事なんだけど、答えがノーでも僕ときみの生活は何ひとつ変わらない」
「イエス、だとお互いの生活が変わるようなお願いなのか?」
「ちょっと変わるかも」
SJはキングのトランプをもて遊びながら、机の板目を数える様に伏せられる。
白熱灯の明かりの下でまつ毛の影が揺れた。
「僕の腕が治るまで、僕の恋人になって」
ちらりとも笑わずに静かに言い切ったSJの思いもよらない言葉は、ハリーの思考能力をひと時奪うには十分だった。
ともだちにシェアしよう!