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第9話
たぶん、心細くなったのだ。と、SJは分析した。
スウェーデンの生活に慣れた、と答えたのは嘘ではない。しかし、慣れたからこそ、ぽっかりと胸のどこかに空いた穴が主張しだした。
言葉、環境、食事、同居人。
そのすべての問題がなんとなく片づき、目前の悩みがなくなった時に襲ったのは根本的な人生への不安だ。
こんな感情をマイキーに一言でもこぼそうものなら、一生笑いのネタにされてしまう。あのSJが孤独に耐えかねホームシックだなんて! と彼はきっと笑ってくれるが、その笑顔を見ているだけで泣ける気がしたので、しばらくは連絡を取りたくなかった。
漠然とした不安感。その上身体を負傷して、思うように動けない。
昼間には年下の女の子から理不尽な感情をこれでもかと浴びせられた。こちらも大人げなく反論してしまったが、だからと言ってすっきりするようなものでもない。
イングリット・バルテルスのことがちらりと頭によぎる度、SJは鉛のような感情を抱える羽目になった。
彼女がハリーに執着する、その感情がわからない。
頭ではきっとそれは恋とか愛とかいうものだ、と理解しているつもりでも、それを知らないSJは納得ができない。
イングリットはなぜハリーを愛しているのか。
ハリーはなぜ自分に好意を寄せてくれているのか。
自分は一体、彼らのことをどう思っているのか。
診療所帰りの車の中で考えてみたが、答えはでなかったし、よりいっそう凪いだ海のような憂鬱が広がるだけだった。
「……だから、手っとり早く恋人に?」
ベッドの上で居心地悪く横たわるSJの髪を弄びながら、ハリーはひどく甘い声で囁く。
隣り合って横になっているため、声が近く彼がしゃべる度に音が振動になって伝わる。
そういえば、誰かとこんなに近づくことも久しい。ほんの少しだけ付き合った事がある女性たちとは、セックスはしなくても同じベッドで横になったことくらいはある。……気がするが、覚えていない。
「うーん、なんか、色々わっかんなくなってきちゃって、だからハニーにはすごく失礼だよなぁって思ったんだけど、許してくれるかなみたいな、なんていうかこう、甘え? みたいな? 一回きみの恋人になってみたら、世界がすとんと納得できそうな予感がした、なんていうのは言い訳でさ、たぶん僕はただのホームシックをきみで紛らわしているだけの最低の男。あとイングリットに対する優越感を抱きたかっただけかも。どっちにしても最低だけど」
「別に、かまわないけどな。きっかけなんてなんでもいいだろ。俺は、心おきなく自分のベッドにキミを誘い込めて、こんなにありがたいお願いはないくらいだ」
「……ねえ、他の人にもそんなにくそみたいに甘いの?」
「どうだろうな。覚えてないよ」
誤魔化すように笑い、額にキスを落としてくる。
そのくすぐったさから逃げるように後退ったSJは、数時間前の自分の要求を早くも後悔していた。
ハリーはとても甘い人だろう、という予想はしていた。
匂わせる程度に口説かれている状況でもそれを察していたし、きっと優しいと思ったからSJは甘える決断をした。それでもまさか、いきなりベッドに引きずり込まれて甘ったるく頭を撫でられるとは思っていなかった。
世の中の恋人は皆こんな事をさらりとこなしているのだろうか。
自分はかつての恋人だった女性達に、軽いキスくらいしかしていない。こんな濃密な甘い空気を求められていたのだとしたら、SJが仕事の虜でなかったとしても、彼女達を満足させることは出来なかったと思う。
気まずさを隠さずにじりじりと後退るSJにも、ハリーは嫌な顔一つしない。
むしろ、そんな態度も可愛いと言わんばかりに笑った。どろりとした甘い頬笑みではなく、思わず漏れてしまうような少年のような笑顔は、SJを少しだけどきりとさせる。
六つも上だと思っていたが、たかが六つ、なのかもしれない。SJは二十六年生きてきたが、大人になったなんて一度も思った事はない。ハリーの少年のような笑い方は、彼の大人ではない部分を垣間見たようで新鮮で、好ましく思えた。
そうは思っても、自分からハグを求める程急にべたべたできない。自分から恋人になってと言った癖に、往生際が悪い。気恥しさで視線をさ迷わせてしまう。
何か甘ったるくない話題はないものかと、ぐるぐると部屋を見回したSJが見つけたのは、ベッド横の地球儀のようなものだった。
これは何? と指を指したSJに、ハリーは柔らかく目を細めて説明してくれる。
「ああ。それは、ほら。……こうしたら、簡易プラネタリウムになるんだ」
丸いハリボテのようなものは薄いプラスチック素材で、台座のスイッチをハリーが押すと、中のランプが点灯して球体がゆっくりと回りだす。
オルゴールのような穏やかさで回転するランプの光は、球体に彫られた模様を壁に投影した。
淡いオレンジの光が星座の形になって壁を滑る。
身体を起こしぼうっとそれを眺めていたSJは、ハリーの視線に気が付き大人しく再度身体を横たえた。
「わお。ロマンチックな旧式マシンを持ってるじゃない。これもオリアンじいさんのお古?」
「いや、私物だ。子供の頃に自分で買った最古のおもちゃだな。天体と鳥と虫が好きな少年だった」
「ハロルド少年の将来の夢は宇宙飛行士だったのかな」
「頭のいい学校に行く金がなくて諦めたけどね。けれど、金が無かったから俺は働かなくちゃならなかったし、だからモデルのスカウトにも悩まずに乗ったしどんな仕事もこなした。スタンリー少年の夢は、ずっとテレビのディレクター?」
「そう、ブラウン管の中に入りたかった。喋るのが楽しくて楽しくて楽しくて、ついでに目立つのも好きだった。頭の中に湧いてくる言葉を口から出すのが大好き。演説もアナウンスも大好きさ。政治家になったら? なんて学生時代は言われたけど、僕は政治よりもサブカルチャーを愛していたからね!」
今はSJの仕事も、ハリーの仕事も奪われてしまった。
お互いにそのことを思ってか、暫く無言になった。
そうか、僕は、と声が出たのは無意識だった。
「そうか、僕は……スピーカー・ジャックじゃなくなっちゃうのかな」
学生時代からずっとSJのあだ名はスピーカー・ジャックだった。いつかはその機関銃のように煩い言葉で放送電波をジャックしてやれと、友人のみならず学校中の人間に笑われた。
やっと立てたステージだった。
毎日が楽しくて楽しくて楽しくて、言葉が枯渇することなんてなかった。
それが無くなる。高く積み上がった夢が、崩れ落ちる。
あえて考えないようにしていた事だった。一度マイナスに傾いた精神は、どん底まで一気に落ちる。仕事以外で感情が高ぶることはめったにないのに、今は泣きそうな自分が不思議だ。
「僕のスピーカーは僕の武器だ。言葉が無くなったら、僕は無くなる」
額に置かれたハリーの手の温度に、涙腺は更に緩む。
「優しくされると泣いちゃうよハニー。心が弱ってるからきみの事を利用して寄りかかっちゃいそうになる」
「利用じゃない。頼るって言うんだよダーリン。大人だってたまには夜中に天井を眺めて弱音を吐いてもいいだろう。俺は、キミが吐く弱音を聞いて慰めたい。多分キミは一人でなんでもかんでもやりすぎだな。……周りの人間だって、キミがお願いしたら利用されてるなんて思わないさ。頼られて嬉しい、と思う筈だ」
柔らかく甘い声が肌を震わせ、SJの目頭からはついに堪え切れない涙がこぼれた。
「……きみの優しさで目が熱くなってきたよ。あー……泣くのなんて何年ぶりだろうね。あ、うそ、一週間前に泣いた、ハロルド・ビースレイが助演男優賞を取った映画で。きみの演技は本当にずるいよ……あんなの泣いちゃう。だから今僕が泣いちゃってるのも仕方ないことだよねー……」
「スタンに優しいのは演技じゃないよ」
「ちょっと急に名前で呼ぶのやめてどきっとして涙とまっちゃったでしょ……ていうかハニー、いつの間に僕の事そんなに好きになっちゃったの? 今だけ恋人だから?」
「演技じゃないって言ってるだろう。最初から好みだった」
「うっそ、聞いてない!」
「言ってない」
ふふ、と零れるように笑う顔をまともに見てしまい、SJは本当に涙をひっこめ赤面する羽目になった。
薄暗いランプの明かりの中でも、SJの頬の熱さはバレてしまっているはずだ。ハリーの暖かな左手は、SJの火照った頬を撫で上げる。
「スタンって呼ばれるのは嫌い? スピーカー・ジャックの方がよければ俺はキミを……そうだな。スピーキーとでも呼ぶけれど」
「どっちも痒いよスタンでいいよ! ああもう、何急に、って思ったけどそうだったね僕達今恋人同士でそして彼氏の部屋のベッドの上で愛を語り合ってるんだったね! そりゃ名前で呼ぶリップサービスも有、……ちょ、ハニーハニーハニー近いっ!」
「キスはだめ?」
「……訊き方がずるいよもう……! ばか! このスケコマシ! 駄目じゃないけど、駄目じゃないけどだってそんないやいやそんな、え、でもいいの、僕は別に良いけどだってきみ、そんな、僕の唇なんて別にほら、ねえ、素敵な味がするわけでもないし!」
「味は、まあ……ココアかな。俺は多分ジャガイモとマスタードの味がする。駄目なら無理強いはしないよ、俺はスタンに嫌われたくない」
「……もぉー名前、ほんと卑怯……」
いいよ、と言う代わりにSJは目を伏せてハリーのシャツを握りしめた。
耳に煩いのは自分の鼓動か、それともハリーのものかわからない。キスは初めてではないのは本当だ。そして、ハリーとするキスが初めてなのも、本当だ。
SJの緊張を解くように、ハリーは鼻先でからかうように笑い、頬を指ではじく。
「……眉に、力が入りすぎだ。苦い薬を飲んだみたいな顔になってる」
「甘いキスを待ってる顔だよ……もー早くしてよー心臓が馬鹿になる」
「かわいいのに」
「一々口説かなくていいってば!」
思わず目を開けて抗議した瞬間、目前のハリーの顔が近付き、唇が重なった。
思いの外柔らかい唇は、甘噛みするようにSJの唇を食む。どうしていいかわからず、半開きの唇のままハリーのシャツをつかんでいると、濡れた舌が滑らかに侵入してきた。唾液が絡む音が官能的で怖い。時折混ざる吐息とリップ音はわざとなのかもしれない。
「………っ、……は……」
何度か角度を変えて唇を食まれ、ハリーの口づけに溺れたSJはもう何も考えることなど出来ず、自分の荒い息と快楽を感じることくらいしかできなかった。
息継ぎさえ惜しい。甘く転がすように与えられるキスに、夢中になって追いかけていると、ふと唇を離したハリーが声になる手前の様な密やかな息で言葉を紡いだ。
「満天、というわけじゃないが。……ロマンチックな星空の下だから、許してくれるかなダーリン」
唇にかかる息と共に囁かれた言葉の甘さに、思考能力も溶かされたSJは曖昧に足を絡めた。
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