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第10話
「すっかり懐いたもんだな」
後ろからかかった静かな声に、ハリーは振り向きもせずに苦笑を漏らした。
「何が、何に懐いたって?」
「お前さんが、小煩い小僧に、だろう。映画の中の打ちひしがれた主人公ぶった雰囲気は何処に行ったんだハリー。そんなんじゃ安いドラマの浮かれた間男だな」
的確な揶揄だと、思わずハリーは笑い、窓際のソファーに腰を下ろしたオリアンに向かって首をすくめてみせた。
「……浮かれていることは否定しないよ。浮かれている俺に不満があるなら気をつける」
「いや別にそれはかわまん。辛気臭い面で湖を眺めているよりはマシだ。口先小僧も随分と溜息が減ったじゃないか。お前さんは当初の文句が嘘の様だし、小僧の方は逆に文句が増えたな。まぁ、誰が誰と乳繰り合おうが、私の農場の仕事とチェスの相手さえさぼらなきゃなんでもいいぞ」
オリアンの厳つい顔には笑顔の一つも浮かんでいないが、それでもハリーは彼がとても穏やかな気分で言葉を紡いでいる事を感じとった。
手元には大手メーカーのパソコンと説明書がある。途中までは自力でどうにかしようとしたらしいオリアンが、これはどうにもならないと判断してハリーを呼び付けたのは昼過ぎの事だった。なんでもこなす博識でバイタリティ溢れるオリアンも、現代文明の最新機器には弱いらしい。
PC関連はハリーもそこまで得意ではないが、説明書がスウェーデン語だったのでSJに任せるわけにもいかない。
久しぶりのチェスの相手がいない午後を、今頃は映画でも見ながら謳歌していることだろう。あと数作で、ハリーの出演している映画を全て見終えるとはしゃいでいた。その少年のような顔を思い出すだけで、ハリーはにやけてしまいそうになるので大概だと思う。
懐いた、などと言われたが、それはオリアンにも言える事だ。
彼はすっかりSJとのチェスのひと時が気に入った様子で、暇があれば夜でもハリーのゲストハウスを訪れる。老人の夜歩きはやめろとイングリットと口を揃えても全く悪びれない。
足腰がしっかりしている頭の良い老人はこれだから困る。
オリアンの事を特別嫌ってはいないSJは、彼の夜の訪問にも笑顔で応じていたが、正直ハリーの方が困る。
SJが予期せぬアクシデントで怪我をし、そして彼の予期せぬ要望で急きょ恋人という名目に収まってから三日経つ。
恋人と言っても、それこそ遊びの延長線のようなものだ、ということはお互い理解していた。
それでも元々SJを好ましく思っていたハリーは、自分を律しつつも名目上の恋人を甘やかさずにはいられない。
SJは誰かに甘やかされたいだけだ。わかっている。好奇心と心細さと、そしてタイミングが合っただけだ。けれど彼の熱い頬に手をかける瞬間の愛おしさは言葉にしがたい程であったし、その唇を甘噛する時のSJの腰の震えは、何度経験しても慣れる気がしない程可愛らしい。
SJはキスをすると怒る。
恋人なのだからいいだろうと言いくるめるように迫ると、自分から言い出した負い目があるのかしぶしぶ唇を開き、艶めかしい舌をちらりと見せる。普段はきちんと目を見てはきはきと喋るスピーカーの様な男が、視線を逸らし大いに照れながら唇を許す瞬間、ハリーは理性を忘れるのだ。
ハリーのキスに一々腰を砕いている様も、長いキスの後にまた怒ったように照れて言葉を羅列する様も、最高に愛おしい。
完全に落ちた。
好きになった、などという生易しい表現ではない。そこに居れば手を伸ばしてしまうし、出来る事なら片時も離したくはない。一挙一動全てが愛おしいこんな恋は久しぶりだ。
ハリーは昼間相変わらず農場を手伝ったりアトリエに籠ったりを繰り返しているし、昼間はSJもオリアンとチェスをしている。二人が恋人らしいスキンシップをするのはもっぱら陽が暮れてからだったので、夜中にオリアンに訪ねられるとハリーはあまり都合が良くない。
ティーンエイジャーのように朝から晩までずっといちゃついていたい、というわけではない、と、良識ある部分のハリーは主張するが、SJを前にするとそんな理性はすっかり溶ける。
手を伸ばして細い腰を抱き寄せると、自然と甘い声で口説いてしまうし、自室のベッドに引きずり込んでしまう。
セックスはしていない。するべきではない、という自制はどうにかまだ働いている。
けれど、恋人という名目を許されたのだから気持ち悪いとは思われていない筈だ、という言い訳を繰り返し、時折悪戯のように身体に触れてしまう。
キスでも涙目で怒るSJは、ほんの少し内股を摩っただけで真っ赤になって、ハリーの首筋に歯を立てて抗議した。
そんな痛みまでも愛おしい。耳元でスタンと名前を呟きながら肌を摩るとその内に震えながら甘い息を荒げ、可愛くない暴言を官能的に裏返った声で吐きはじめる。
嫌われては困る、と思いつつも悪戯をしてしまうのはこの快感と戦う理性の人の、甘い暴言を聞きたいからだ、というような事を怒られながら素直に口にしたところ、SJは真っ赤になってひたすら『馬鹿か』と繰り返していた。
浮かれている。そんな事は十分に承知している。
期間限定の恋人でも、もしSJが悪くないと思ってくれていたらハリーは、恋人の座を他の誰かに譲らずとも良い筈だ。
だが例え本物の恋人になったとしても、いつかSJはNYに帰る事になる。
何もかも置いて逃げてきた国だ。
オリアンもイングリットも、そんな自分を静かに迎えてくれた。今更やっぱり帰ります、と腰を上げる気にはなれない。
結局自分は意気地なしだ。
きちんと物事を考え自分の状況を理解しているSJの方が確実に人として尊敬できる。
彼の怪我が治ったら、仕切り直しのタイミングでもう一度、ハリーは人生を見直そうと考えはじめていた。
きちんと告白する。その時に、この先何も考えていないが一緒にここで居候しないか、などとは言える訳もない。そんな告白を、SJが飲むとも思えない。
正式にオリアンの農場の社員になるにしても、他の仕事を探すにしても、芸術家を目指すにしても。今のハリーにとって生ぬるく甘過ぎる状況を投げだす事は必要だ。
やっと、何かをするべきだと踏ん切りをつける事が出来たのは、SJのおかげだ。今までは本当にただの悲劇の主人公だった。情けない事に、自分の人生に打ちひしがれることで精一杯だった。
話すことは大切だと学んだ。
SJは『言葉は武器だ』と言った。なるほど、彼の言葉は確かにとても聡明で、そしてそれは鋭いナイフにも、甘い菓子にもなりえるものだ。
言わずとも伝わるなどというおこがましい事は思っていなかったが、アウトプットが非常に大切なものだという事をハリーは再認識した。
SJの言葉は決して心ないものではないし、自分の欲求を満たすだけの自己満足でもない。煩い人間というものは、ただひたすらに自分の話をしているものだが、SJはむしろ自らの事情を話す事は少なかった。
言葉を羅列し、会話をするのが楽しいのだろう。
その楽しさを、ハリーは久しぶりに思い出していたし、彼もハリーと喋っていて楽しいと思ってくれていたら良い。
そんな風にぼんやりと思うくらいには惚れている事をまた自覚し、背後に座る老人の呆れたような視線を素直に受け止めた。
「……認めるよ。死ぬほど浮かれている。こんな短期間でこうも世界が変わるなんて、それこそベタな恋愛小説の様だよ。俺は多分滝にでも打たれて精神を落ちつかせた方がいい」
初期設定の為のソフトを動かしながら、ハリーは今日何度目かわからない苦笑いを漏らした。
SJが来てからというもの、ハリーはよく笑うし、苦笑を零すことも多くなった。
そしてそれは、偏屈オリアンと陰口をたたかれる事もあるオリアンも同じだった。
「修行僧か。日本か中国にでも行って出家するかハリー。いやまて、出家はインドか? 世界のことはようわからんがな、まぁ、たまにはこの国を出るのも面白いかもしれんな」
「……スウェーデンを? 出る? オリアンが? ……この町からも出たがらないのに?」
「興味なんぞなかったんだ。世界がどう動こうが、世界に何があろうが、私はこの農場と町の人間が居ればそれでいいと思っていたもんだが……あの喋ってばかりの男の機関銃のような話を聞いているとな、不思議な事に欲求が湧いてくる。知らない世界が魅力的に思えるもんだ。あの若造、あんななりでも流石の経験者だ。中国、ロシア、モンゴル、アマゾンでヒルにやられた話は腹をかかえて笑った。世界は広いだなんて当たり前の事は知っていたが、その場の空気を体感したいなどと思ったのは人生六十年そうそうないことだ」
「……早々に手をつけておいてよかったよ。このままじゃオリアンの世界旅行の専門通訳に、スタンを持って行かれそうだ」
「中国なら案内は任せろと言ってたぞ? 私がこの国を離れて旅行に行く際には、農場はイングリットとおまえさんに頼まなきゃならんな。……イングリットも、これを機にいい加減落ちついたらいいもんだが」
これを機に、とは、ハリーとSJの関係の事だろう。
SJの意向で、二人の期間限定の遊びの事は誰にも話していないし、話すつもりもない。だが、聡いオリアンは早々に気が付いていたし、実際にハリーはSJに心を奪われかけていたので、驚く事もなくすんなりと流してくれた。
イングリットもハリーの心境には気が付いていることだろう。
だから彼女はSJに対してとてもきつい当たり方をする。普段イングリットが強めの言葉を零しても笑って流す仲間達しか居ないが、SJは彼女の言葉を真っ向から受け止めて真っ向から返したのだろう。SJが怪我をした日から、イングリットは目に見えて口数が減った。
ハリーが関わればまたこじれるということがわかっていたので、SJの『まあとりあえずはなんとか大丈夫だと思うから無理ムリやばいどうにもなんないって思ったらタスケテハニー! ってヒーローを呼ぶよ』という言葉を信じて、放置することにしていた。
イングリットは悪い人間ではない。
ただ少しまっすぐ過ぎて不器用なだけだ。その不器用さを器用に戒められる大人が、居なかっただけだ。
「子供は世界がうまく見えていないからな。昔はそりゃ誰だって馬鹿だ。だから大概の大人は子供に甘い。馬鹿だって知ってるからだ。自分も馬鹿だったからだ。あと五年もすれば世界の中の自分の立ち位置が見えてくる。そういうものだ、と勝手に思っていたし、行きすぎた時は言葉をかけていたつもりだが。アイツはどうも、おまえさんが関わるとムキになりすぎるな」
「……まったくその通りで何も返す言葉がない」
「責めちゃいない。どうしようもないことだなんて事は誰もが知っている。おまえさんはゲイだとあの子に告白してきちんと説明している。それでもおまえさんを慕い続けて、結局おまえさんが他の誰かに心を奪われる瞬間に立ち会ってしまったのは、あの子のせいだろう。後は、諌めなかった私のせいだな」
イングリットの世界は狭い、と、オリアンは呟く。
最後のエンターキーを叩いたハリーは、窓の外を眺めるオリアンの隣の机に説明書を投げた。
「終わったよ。これでネットも繋がってる筈だ。……誰の責任でもない、なんて格好良い事を言えたらいいが、俺にはわからないよオリアン。もっと俺が大人だったら、と思わずにはいられない」
「私もだ。よぼよぼのじいさんになっても、自分が大人になったなどと思った事はない。歳を取るばかり、知識が増えるばかりのただの人間だな。夕飯はどうする。たまにはこっちで食べるか」
「いや、探し物があるんだ。俺の昔の荷物の中から、数本のホームビデオとロムをみつけなきゃならない。それが終わったら今度はそれを届けなきゃいけない」
「虻男にか?」
「……Gabflyって自己紹介されたのか? まあ、間違ってはないな。そう、虻に俺の昔の映像をねだられたんだ。自主制作映画に初出演した秘蔵の作品から友人の結婚式のホームビデオまで、ハロルド・ビースレイのお宝画像だな。確か、どっかに保管しておいてくれと頼んだ記憶がある、というか、うちに無かったから多分こっちだ」
「おまえさんは割合完璧なのに、どうして掃除と整頓ができないんだろうな」
「他が完璧なら申し分ないだろう。男の趣味も完璧だと胸を張って言えるぞ」
「まあ、そうだな。今回の人選は、確かに悪くはないだろうな」
多分隣の物置部屋だ、と案内され、ハリーは暫く一人で思い出の品々と格闘することになった。
全てを忘れたくてアメリカから逃げてきたが、家も売り払ったのでその身一つというわけにもいかなかった。友人はことごとく結婚していて、自分の荷物を預かってくれとも言い難い。仕方なく、捨てられない未練がましい思い出の品々を抱えて、ハリーはオリアンの家に転がり込んだ。
遠い伝手であるオリアンは、ハリーを快く、とは思えないような無表情で静かに迎え入れてくれた。そして使っていないゲストハウスを丸々ひとつ与えてくれた。
そこに保管してもよかったのだが、心の弱い自分は思い出をひとまず遠ざけたかった。そんな弱い男の要望にも、オリアンは小言ひとつ零さず応じてくれた。
何年振りにこの箱を開けるのだろうか。
単純に懐かしいものから、今となっては辛い思い出ばかりよみがえるものまで様々だ。写真を撮るのが好きな恋人が多く、箱の中身の大半はアルバムやホームビデオだった。
恋人と二人きりの思い出は思い切って捨てた。しかし、数少ない友人との思い出も混じれば、ゴミだと割り切れるものでもない。
今はただの会社員をしている高校時代の友人が撮った自主制作映画が、ハリーの初出演作品だった。どんな内容かも忘れてしまった。ただ、ベランダから飛び降りるシーンが酷く印象的だった事は覚えている。
その話をしたところ、SJが興味を持った。
ぜひともきみの初演の作品が見たい、と迫られるとハリーも悪い気分はしない。探しておくよ、だなんて余裕ぶって言いながら、結局すぐにオリアンの家で箱を開けている。
自分の感情の上がりっぷりには、ハリー自身も笑ってしまいそうだった。
思い出を反芻しながら目的のロムを見つけた時には、窓の外が暗くなり始めていた。
めぼしい物とアルバム類をついでに箱に投げ入れ、車に積み込みオリアンに声を掛けようと一旦玄関まで引き返す。
明日は農場の休日扱いの日だ。トラックは返さなくてもいいのだろうが一応確認しようと思ったのだが、キーを弄びながら引き返したハリーを待っていたオリアンは、酷く険しい表情をしていた。
嫌な予感がした。
オリアンは笑う事は稀だが、怒る事も稀だ。
偏屈オリアンなどとあだ名されているのは住民の愛情表現で、彼が険しい顔をするのは農場の生き物にトラブルがあったときか、それとも、町の誰かがトラブルに巻き込まれた時だった。
スウェーデンはあまり治安が良いとは言い難い。
特に女性への暴行や強姦事件は多く、社会問題として折々に取り沙汰されていた。警察は宛てにならないといつも腰を上げるのは地主でもあるオリアンで、町の女性達も彼を頼る。
また何か事件か、とハリーが身構えると、オリアンは厳しい顔のまま手に持った携帯電話を切った。
「……スタンリーから、私とお前さんに電話があった。まず最初に『大丈夫だし、大丈夫と言っているから取り乱すな』と言われた。イングリットが町で暴行されかかったらしい」
思わず、鍵を取り落としそうになった。
何を言われたか一瞬理解できず、息が止まる。
「怪我は大したことないが、一応私の知り合いの病院に一泊するということだ。そこにはカウンセラーも居る。スタンリーは直接イングリットから呼び出されて、入院に必要な物を届けたそうだ。医者にも代わってもらって話を聞いたが、身体は本当にかすり傷と捻挫程度だというから、かけつけて命の無事を祈るようなものではないのは本当だろう。あとは私とおまえさんにスタンリーから伝言だ」
イングリットの身体は平気。とりあえず僕も夜に帰る。でもきみには会いたくないらしい。察してハニー。
その伝言を聞いたハリーは、耐えきれずに拳を震わせ悲痛な顔のオリアンを抱きしめた。
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