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第11話

 眼鏡を外した少女は、歳よりも幼く頼りなく見えた。  すれ違いに出て行ったカウンセラーらしき中年女性からは、くれぐれも事件の詳細は訊かないように、と念を押された。  そんなことはSJもわかっている。そこまで自分は馬鹿ではないし、デリカシーというものも最低限は持ち合わせている筈だ。  イングリットから電話を受けた時、SJは珍しく昼間からうとうととしていた。  仕事柄仮眠には慣れていたが、きっちり寝てきっちり起きる事が出来るSJは、唐突に眠くなったりまどろんだりすることが少ない。それなのに昼過ぎに机の上で船をこいでしまったのは、少し前なら人生への不安による睡眠不足のせいだ、と結論付けた筈だが、今は確実にハリーのせいだった。  夜になるとハリーは、自分のベッドにSJを引きずり込む。  別に嫌だとは思わないのでSJも抵抗はしないが、キスから始まる甘ったるいスキンシップは慣れないもので、悔しい程に翻弄され結局口からは可愛らしくもない暴言が飛び出す有様だった。  恋人、などと誰が言ったのだと自分でも思う。ハリーはすっかりSJを恋人扱いしてくれていたが、SJの方がどうしていいかわからない。  恋人と甘い時間を過ごした経験がない。ディナーやデートをした記憶はあったが、そのどれもがSJの思い出には残っていない。うっすらとそういう事もあったなぁと振り返る程度の出来事だ。思い出せたとしてもエスコートする方は男であるSJで、ベッドの上で甘く口説かれたのは人生で初めての事だった。  甘く口説かれ悪戯にスキンシップを繰り返され、結局自室に帰してはくれないのでハリーのベッドで寝る事になる。そうするとSJはどうも彼の存在が気になってしまい、うまく眠る事ができない。  それがそのままストレートに睡眠不足に繋がった。悩んで眠れない、という状態よりは、隣に眠る仮の恋人を意識してしまって睡眠がとれない、という現状の方が幾分かマシかもしれないが、しかしあくびは止まらない。  昨日はチェスをしながらうとうととまどろみそうになり、オリアンに呆れたように慮られてしまった。  下世話な話は嫌いだがハリーがもし睡眠妨害をするようならそれとなく注意しておくが、などと言われてしまい思わず眠気覚ましの珈琲を吹き出してしまった。  オリアンから見てもハリーとSJの関係はそんなにわかりやすいものだろうか。これは、イングリットには暫く会わない方が良い、と思った矢先だった。  電話を受けたSJは慌ててタクシーを拾い、スーパーマーケットで言われた物を買い込み、言われたままの住所に向かった。  先日SJが捻挫を見てもらった個人医院だった。自分も怪我をしている事を忘れて急いだ為、イングリットの割合元気そうな顔を見た瞬間緊張が解けて右足が痛みだした程だ。 「…………」  病室と呼ぶには素朴な部屋には、ベッドがひとつとささやかな家具があった。  窓際にはぬいぐるみが座り、見舞客用なのかそれともインテリアなのか、古びた塗装の木の椅子が二つ程壁際に並べられている。その一つを掴んで引きずり、窓の外を眺める少女の横に少々乱雑に腰かけた。  外は暗い。  夏が近いとはいえ、陽が落ちると夜は冷える。 「……別に、詳しく訊いてもいいよ。喋って困る事はないし、気を使われたくない」  窓を閉めたほうがいいんじゃないか、と訊こうとした矢先、イングリットが平坦な声で呟いた。それが先ほど病室の入り口でカウンセラーが口にした内容だと思い当たり、SJは片眉を跳ね上げる。 「………………オバちゃん声デカイなって思ってたんだよまったくもう……」 「可哀想な女の子だって思われたくない。性的な事は何もされてない。あのまま車の中に連れ込まれてたら、そういうのされてたかもしれないけど。可哀想な子なんかじゃなくて、ただの馬鹿な子供だって思ってる。……何もされてない。でも、そういう風に、されそうになったのは気持ち悪い」 「そらそうだろう、なんて、僕が言うのもアレだけど……でも、きみは道を歩いていただけだろう? それはいつものスーパーマーケットへの道で、イレギュラーな事なんか何もしてない。ただ周りにたまたま人通りがなくて、たまたまヤバい奴らが通りかかっただけだ。そんなの、防ぎようがない。可哀想でも馬鹿でもない」 「馬鹿だよ。こんなの全然平気だって言い聞かせて、でも、襲われたなんて、ハリーにもオリアンにも言いたくない」 「……あー……うん。だよなぁ」  わかるよ、などとは言えない。  そうだろうなという想像は出来ても、彼女の気持ちがわかるわけではない。SJに出来るのは暗闇を見つめながら淡々と言葉を零すイングリットの感情を聞くことだけだ。 「オリアンさんなんか、きみのことほんとの娘みたいに可愛がってるのわかるしなー……あのじいさん、すんごい博識で割と冷静なのにさ、きみの話になると途端にただのでれでれしたじいさんになるんだよね。まあそれ言ったら、ハリーも大概きみのこと好きだけど」 「オリアンは、私が子供の頃からずっと知ってるし、家族みたいなものだから。育ての親、ってやつかもしれない。……ハリーは、家族だから」 「…………ん?」  イングリットの言葉に、SJは思わず目を見開く。彼女が何を言ったのか、うまく理解できず反応する言葉を探していると、イングリットの方が先に口を開いた。 「家族だよ。私はハリーの異母兄妹で、血のつながった妹」 「いもうと。……いもうと?」 「だから、ハリーがゲイだとか、そんなのは最初から関係ないんだって、わかってるんだ。私が男でも、女でも、ハリーは兄なんだから。ハリーは家族を愛してくれるけど、恋なんてしてくれないって、ずっと前からわかってるのに」  あまりにも唐突な告白だったが、SJはイングリットの言葉を五秒でなんとか租借して飲み込んだ。  言われてみれば、ハリーはやたらとイングリットに甘い。他人に厳しい男ではないが、特別女性や子供に優しいタイプでもない様に思えたので、なんとなく『既知の仲だから甘いのだろう』と思っていた。家族だと聞けば、そうかとすんなり納得できる。  いくら恋をしたところでハリーは振り向かない。彼から返ってくるのは家族としての優しい愛情だ。イングリットは知っている。イングリットは理解している。  それでも好きなんだろうなぁ、と思うと、どうにもSJの鼻の奥が痛むような気がした。ほんの少し前までは、彼女の恋慕と執着にまったく共感できなかったのに。 「ハリーの母親は、アメリカのホステスか何かで……父は割合どうしようもないごろつきで、私の母はもう顔も覚えていない。気が付いたら私はオリアンの農場で生活してた。多分、母が預けたんだと思う。オリアンは昔から、町の人達が頼んだ事を断らない人だった、筈だから。ハリーに会ったのは彼がまだ高校生くらいの時で。……父の葬式だった、気がする」  初めて会う妹に、背の高いアメリカの青年はぎこちない笑顔で、好きな食べ物を訊いた。  ハニーキャンディ、と答えたイングリットの誕生日には毎年、蜂蜜色のキャンディが送られてくるようになったのだという。 「わぉ。すごい、あしながおじさんじゃないの! それはずるいっていうか、ハリーが悪い」 「そうだよ、ハリーが悪い。……こんなの誰だって自分が特別だと思うじゃないか」 「思うよ。そりゃそうだ。しかもアメリカでコテンパンにやられて家族を頼って帰ってくるなんて、そんな映画みたいなストーリー、期待するなって方が無理だね。きみは、ハリーが帰ってきてくれて、すごく嬉しかった?」  SJのストレートな問いかけにも、眼鏡を外したイングリットは素直に頷く。 「嬉しかったよ。別に、ハリーとどうにもならなくたっていい。一緒に居れば楽しかったし、それで良かったのに。……アンタが来てから最悪だ」 「ワーオ今日も辛辣! あーでも、僕は、僕の事情でへこたれて勝手にこの町に逃げ込んできたけど、そうだよねぇ、ハリーにもハリーの人生があるし、きみにもきみの物語があるんだから。うっかりしがちだけどさ。誰かの人生の中で自分はエキストラなんだってこと、ほんとうっかり忘れちゃうよ。子供の頃は僕もずっと主役みたいな気分だったなぁ……自分と違う人間がいて、そいつの人生では僕の方が言語理解できないモンスターだったりするんだスゴイ! って事に気が付いたのは割合最近のことかもしれない」  誰かの世界に通行人役でも出演出来ていればまだマシだ。  知らない人が、知らない人のまま一生を終えていく世界だ。それが不思議で面白いと思うから、SJは一人でも多くの人間に会いたいと思う。エキストラとして関わりたい。 「みんなの人生で好意的に迎えられるわけじゃないし、たまにアンタなんて嫌いよって言われちゃうんだよねぇ。でもさ、そういうこともあるでしょって思うから、なんとなく納得できちゃうんだ。その場ではイラっとすることもあるけど。僕は僕でしかないし、今さらこの性格も人生も矯正しようなんて思えないし、人間なんて十人十色だしね! みんな違うから人間関係って大変だし面白いよ。みんな一緒だったら最悪だものね。僕が沢山いたらそれこそ煩くて退治されちゃいそう。ハエ叩きでスパーンって!」 「……オリアンがアンタの事をよく虻って呼んでるけど」 「Gabflyは僕の不名誉かつ愛おしいあだ名の一つだよ。直訳は虻だけどね、要約すると、めちゃくちゃ煩い人だなお前はちょっと黙ったらどう? っていう意味。でも僕も出来ればもうちょっとかわいい虫に例えてほしいよ。ハリーはいいよね、蜂ってかわいいしかっこいい。イングリットは、あー……強そう。カマキリかな! 目が大きくて強い!」 「そんなに強いって言われても嬉しくないけど……私の事、嫌いじゃないの?」  イングリットの質問に、SJは一秒だけ悩み、素直に言葉を並べることにした。 「別に。っていうのは嘘。昨日までは苦手だったよ。でも、僕の事をちょっとでも頼ってくれて喋ってくれる年下の女の子を、どうやって嫌いになれっていうのさ。消去法だとしても、いますぐ来てよって言ってくれてうれしいよイングリット」 「…………ハリーの甘いとこが移ってるんじゃないの……」 「うはは、そうかも! きみこそ僕の事嫌いじゃないの?」 「……嫌いだよ。ハリーがでれでれする人間なんてみんな嫌い。嫌いだけど、ハリーはアンタの良い所ばっかり言う。それを聞いてたら、悪い奴だとか嫌いだとか言えなくなるじゃんか。あんな甘ったるい声で他人の名前呼ぶなんて知らなかった。……スタン、だなんてさ。悔しいから、私もスタンって呼んでやるんだ」  少しだけ頬をふくらます少女は、かけつけた時よりは落ちついた様子だった。思わずしばらく見つめてしまい、眉を寄せたイングリットに何だと問われてしまう。 「いやぁ、なんていうか……きみって案外かわいいんだなってことに気が付いてさ」 「…………やっぱりハリーが移ってる」  SJと話すうちに気分が落ち着いてきたのかもしれない。明日にはハリーにもオリアンにも自分から話すから、と言うイングリットの言葉を信じて、SJは病室を後にした。また来るよ、と手を振っても、イングリットは嫌だと言わなかったので上々だ。  すっかり忘れていたが、慌てて無理をしたせいで怪我をした右足がかなり痛い。  引きずるようにどうにか玄関先まで辿りつくと、見慣れたトラックが待ち構えていた。 「……堪え性無いなぁって言いたいところだけど僕の足の為にはグッジョブだよハニー。あーイタタタタ……ちょっと、肩かしてお兄さん、無理したら悪化させたかもしれない」 「無理するな。背負ってやるよ」 「いいよ車まで何メートルだと思ってるの、甘やかすのは家の中だけにして。ほらほら、早くオリアンじーさんのとこに帰ってイングリットは元気だからって言ってあげないと、どうせそわそわしてて何も手につかないんだろうから」  ハリーは大丈夫かとは訊かない。  大丈夫ではないことを知っているからだ。  その代わりにSJを迎えに来てくれた。きっと明日、彼はこのポンコツなトラックでイングリットを迎えに来る事だろう。  イングリットはしっかりしている。今は少し混乱していて、恐怖でどうしていいかわからなくなっているだけだ。  恥ずかしくて怖くて、だから家族に会えない。SJくらいの他人が丁度よかっただけだろう。そうだとしてもやはり、今日の話し相手に選んで貰ったSJは悪い気はしない。 「仲直りしたのか?」  相変わらずアトラクションのように揺れるトラックのエンジンをかけながら、ハリーが問いかける。  応じるSJは右足を庇って足を組んでから、慣れた手つきでシートベルトを締めた。 「んーどうかなぁ。元から喧嘩なんかしてないけどね。喧嘩する以前の問題だったっていうか言語が最早違ったっていうか……あ、英語とスウェーデン語って意味じゃなくてさ、なんていうか人間性的な言語? どっちがえらいとかどっちが良いとかいう話でもなくてね。別の人間なんだろうなぁって思ってたんだよねー。まあ、それなりに別の人間ではあるんだけど」 「共通項目見つかったのか?」 「うーん。見つかったといえば、見つかったような気がして、なんか、それに気が付いたら急に、イングリットに譲れる気分になってきちゃったんだよね。あーそっかそういう気分ならまーまー、うん、そうなるのかもなってさ。まあ要するに共通項目ってハニーの事なんだけど」 「俺?」 「そう。ハロルド・ビースレイに対する恋心」  SJがそう言った途端、トラックが急に揺れた。どうやら、ハリーが動揺してハンドルが揺れたようだ。  まさかこんな些細な軽口でハリーがそこまで動揺すると思わず、シートベルトをつかんだSJは痒いような気持ちで苦笑いを作った。 「……この話は帰ってからにしようかハニー。ちょっとお互いの命がかかってそう」 「そうしてくれ……いや、できれば、明日の夜がいいな。明日はインジの話をきちんと聞きたいから……」 「きみってほんと真面目だよねぇ」  そういうとこが嫌いじゃない、という言葉を今度は呑み込んだ。本当に事故にあっても困るからだ。  なんとも奇妙な沈黙のまま、車は夜の町をがたごとと走り抜けた。

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