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第2話

「安藤さーん。診察室の方にどうぞー」  名を呼ばれ、いつものように少々固い待合室のソファーから腰を上げた。  ここで待つ時は、何をしてもそわそわしてしまう。文庫本の内容も頭に入らないし、携帯は手が震えて落としそうになる。仕方が無いので、壁にかかっている絵を眺めて時間を潰した。  明暗が分かれたカフェの絵は、ゴッホの作品だ。ひまわりと自画像以外の作品を初めて見たが、壱はこの絵が比較的好きだった。油絵の不思議な筆模様を眺めていると、待ち時間はどうにか潰れる。  名前を呼ばれることにも、診察室に入ることにも、いい加減慣れてもいい頃合いなのに、一向に緊張は解かれなかった。  診察室のソファーに座り、テーブル向こうの医師と対面して初めて、壱はゆっくりと息を吐く。  木ノ瀬メンタルクリニックの待合室は一般的な個人医院然としているのに、診察室はゆったりした清潔なホテルのような作りだった。 「やぁ安藤くん、久しぶり。外は雨が降ってるみたいだけど、来る時は平気だった?」 「……まだ、降って無かったです。傘は持ってきたので」 「ならよかった。天気予報は晴れって言ってたのに、案外当たらないものだよねぇ。ああ、どうぞ楽にして。いつもと同じ軽い問診だから、そう、緊張しないでいいよ」  そうは言われても、毎回、壱の身体はソファーの上で固まってしまう。  木ノ瀬メンタルクリニックの主である木ノ瀬信次郎医師は、とても柔和で若い、優しい男だ。三十歳そこそこといった風貌に、柔らかい物腰がとても印象深い。コンビフレームのスクウェア型眼鏡が、優しい四角い顔に非常によく似合っていた。  壱は他の精神科医を知らないので比べようもないが、木ノ瀬に担当医師になってもらえて感謝している。  馴れ馴れしすぎることも無く、一定の距離を保ち、尚且つゆっくりと話を聞いてくれる。時々顔を合わせるご近所さんのような距離間は、壱にとってとてもありがたい。  木ノ瀬のお陰で、生活も少しは楽になった部分もある。根本的なところは解決できていないが、日常生活で困ることは少しずつ無くなってきていた。木ノ瀬のアドバイスは柔らかく優しい。その上的確なので、壱はある程度の信頼をもってその言葉に従った。  だが、今回の事は別である。  結果的に最悪の事態になったのは部外者が居たこととアクシデントが原因で、木ノ瀬に罪は無い。恐らく誰も悪くない。だが、それでも壱の気分は重いし、木ノ瀬に対する態度も固くなってしまう。こんな自分は嫌だと思いつつもどうしようもない。  その微妙な空気を感じ取ってか、壱を見ていた木ノ瀬がふわりと表情を変え、苦笑いを浮かべた。 「……先週の事は聞いてるよ。ごめんね、そのー……スタッフの彼にも、きっちり事情説明したし、確かにもっと気をつけるべきだった。安藤くんには非常に申し訳ないことをしました」 「いえ……あの、転んだ俺が悪いんです。あの男の人も、危ないからって支えてくれただけなんです。分かってるんです。……わかってるんですけど、結局、駄目だったじゃんって思っちゃって」  子供の頃から通っていた床屋の主が急逝し、壱が安心して頭を任せられる場所が無くなったのは年末の事だ。  髪の毛を切るだけならまだ、ぎりぎり自分でできないことも無い。そう思っていた時に、結婚が決まっていた妹から挙式の日取りが届いた。  仁奈の式に、大切な日に、無様な格好を晒せない。身だしなみもそうだが、何があるかわらかない式の最中に、アクシデントがあったとしても吐くなど言語道断だ。  これは、いつか自然に治るかもしれないなどと言っている場合ではない。そう決意し、木ノ瀬メンタルクリニックの門を叩いた壱だったが、先週の土曜に木ノ瀬の紹介で行った美容室で盛大に吐いてしまい、涙まじりに謝罪しながら結局何もできずに帰ってきてしまった。 「そりゃ今回は掴まれてびっくりして吐いちゃったって感じですけど。でも、世の中なんか、ほとんど『予期せぬ事態』の連続じゃないかな、って、思うし。……きちんと準備してもらって、これだし。もう俺、一生引きこもって生きた方がいいんじゃないかな、くらいは思っちゃって」 「うーん。久しぶりに他人に触ってやらかしちゃったものね。まあ、そうなるか」  まあ、しにたいとか言う程まで落ちてないからまだマシだと軽く笑い、木ノ瀬は珈琲を勧めてきた。 「ゆっくり治していくか、一気にどうにかしちゃうしかないと思っているんだけど。一気に、は、安藤くんにはしんどいね。でも、秋までにどうにかせめて他人に触って反射で吐く癖は直しておきたいんでしょう?」 「……はい。秋までには。絶対に。……何も考えず、ただ、仁奈を祝福してあげたい」 「うん。とてもいい事だと思うし、いい決意だと思う。ただ、あんまり根を詰めすぎても辛いだけだと思うんだよね。安藤くんは真面目だから。まあまだ梅雨前だし。夏まではちょっと様子見ながらやって行こうよ。大丈夫、だってこの二カ月で安藤くんはコンビニで買い物ができる様になったんだよ。お釣りを渡して貰う時のささやかな触れ合いに耐えられるようになった。これはアメ横の人ごみで買いものも夢じゃない、と、僕は結構本気で思っているんだ。……頑張らなくていいから、落ち着いて生きていこう。はい、深呼吸」  木ノ瀬はよく深呼吸を勧める。  息を吸って吐くだけなのに、ゆっくりと満たされていく空気を吐く瞬間、混乱していた世界が少しだけ静かになるような錯覚に陥る。ぐるぐると渦巻いていた思考が、徐々に整列される。それは気のせいかもしれないが、今壱が自分でできる唯一と言っていい精神安定方法だった。  二回、ゆっくりと息を吐くと、珈琲に手を付ける余裕も出てくる。  少し薄めの珈琲はブラックで飲みたかったが、胃が荒れているからとミルクを垂らされた。確かに、久しぶりに吐いてからどうも食欲も無く、胃も痛い。精神的なものが全て胃腸に行くのも、昔からの壱の特徴だ。  人に触れられると、気持ち悪くて仕方がなくなるようになった。  これは、いつの頃からだったか。恐らく思春期の中学時代からだった、と思う。この病が発症した原因は、壱自身なんとなく心当たりがあったが、今更その原因をどうにかしたところで病は治るとは思っていない。人間の触感恐怖症は、勝手に独り歩きを始めている。  『気持ち悪い』という感情が、吐き気に直結するようになったのは高校を卒業してからだ。大学には進学せず、事務系の専門学校をどうにか卒業し大手とは言い難いがそれなりに経営実績がある会社の事務へ採用となった。  友人を作ることも無く、ひたすら勉強に熱中した。おかげ様で、取れる資格は全て取った。成績が優秀すぎて新入生勧誘のパンフレットにも載る程だったが、それも全て他人と関わりたくないという自己防衛の結果だった。  吐くのは嫌だ。辛い。気持ち悪い。  それに加えて、他人を『気持ち悪い』と思ってしまう自分も嫌だった。  これを言うと、木ノ瀬はいつも柔らかく笑ってくれる。触れられるものならば、頭を撫でられていたのではないかと思う。今年二十三歳になる壱だが、木ノ瀬にとっては子供のようなものなのかもしれない。 「安藤くんのその真面目なところね、僕はとても好きなんだ。だから、担当医師としては、もっといい加減になっちゃいなさいって言わなきゃいけないんだけど、真面目にゆっくり治して行けたらいいのになって思っちゃうんだよね。うーん……とりあえず、友人を作ってみるという選択肢はどう? 身近な人間から病にアプローチっていうのは、結構効果あると思うんだ」 「……友人、ですか」 「そう。趣味が共通する友人とか。まあ、何も共通してなくても別にいいんだけどね。テンションが合うとか、話してて楽しいとか、そういうだけの繋がりだって沢山あるし。安藤くん、ゴッホは好きだよね?」 「好き、というか、あんまり知らないですけど。待合室の絵は良いなって思います」 「それはよかった。今度都心の美術館で印象派画家の展覧会があるんだよ。割引チケットあるけど、持っていくかい?」  どうやら待合室の絵は木ノ瀬の趣味らしく、書斎のデスクのような診察机の上から、無造作に数枚のチケットを取りだした。  少し考えて、壱は慎重に口を開く。好意に対してどういう断り方をしたらいいのか、と、一瞬思いを巡らしたが、そういえば木ノ瀬には何も隠すことはないと思いだして素直に言葉を並べた。 「美術館自体は、多分平気ですけど、そこに行くのが多分、無理なので……」 「あ、そうか。電車駄目だったね、うっかりしていた。じゃあ友人の第一条件はマイカー持ちだね。そういえば、唯川くん……キミにうっかり触っちゃった美容師の彼ね、この前ちょっと用事があってここに来たんだけど。安藤くんと同じ様にゴッホの絵に見入っていたよ。もしかして展覧会、興味あるんじゃない?」 「…………いや、アノ人はちょっと。美術、興味あっても、あんまり」 「どうして? 彼ね、なかなか面白い人間だよ」 「でも煩いし。騒がしい気がするし。へらへらしてて、苦手なタイプです」 「あはは。安藤くんは、最初に比べて随分素直になったね。いいことだねー。確かに唯川くんは煩いなぁ。煩いけど、僕は好きだよ。だからもし彼にまた会ったら、ぜひとも煩い以外の感想を探してみてほしいな。きっと、面白いと思うから」  友達の第一歩は興味だよ、と微笑まれ、壱は自分の隣に唯川が並んでいるところを想像する。  背は向こうの方が高い。壱も低いわけでは無かったが、腕が長い唯川のバランスは絶妙で、隣に並ぶとモデルとマネージャーの様になってしまいそうだ。  そもそも特記する程の特徴もない地味な自分と、お洒落が更にお洒落を纏っているような唯川を並べるのは、想像するのも少し難しい。  そういう芸風の芸人コンビにしか見えないのではないか。  そこまで考えて、結果やはり自分と壱が友人になることはあり得ないしあっても面白いだけなのであまり積極的に絡みたくない、という最初の印象に戻った。 「できればあんまり会いたくないです」 「うーん、でも、結局あのサロンに行くと彼は居るしね。歳も近いし、良い刺激になると思うんだけど。まあ、先入観抜いて、ちょっと人間観察しながら接してみたらいいよ」 「先入観……」  チャラい、派手、煩い、怖い。これ以外の何を、唯川の中から発見できるのだろう。  先週の土曜は久しぶりに盛大に吐いたせいで頭も朦朧としていて、とにかく一回帰るだけで精いっぱいだった。何度か謝られた気がするが、そんなものに応える余裕もなく、ひたすらに呼吸を整える事に専念していた。  悪い事をした、とは、思うが。  だからと言って仲良くしようとは一切思えない。  向こうも恐らく、自分に対して似たような印象を抱いていることだと思う。  友人を選ぶにしてももう少し話が通じそうな人間がいい。そもそも、人混みが恐ろしくて普段から徒歩圏内以外の外出を一切しない自分が、どこで友人を作ったらいいのかなんて全くわからないが。 「雨、強くなって来ちゃったね」  不意に耳に入った雨音に、木ノ瀬も気がついたらしい。  春はまだ終わっていない筈なのに、もう雨の季節が来てしまったのだろうか。雨自体は嫌いではないが、基本的に徒歩移動の壱は、傘を持って歩く労力が追加されるのがイヤだった。  雨音は奇麗だ。しかし、雨が降る日の空気はじっとりと重く、息苦しくなる。  憂欝な気分が更に滅入り、深呼吸ではなく、ため息をついた。

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