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第3話

 全面ガラス張りのサロンルーシェは、外の明るさをめいっぱい取り込む構造だ。  週初めの雨は幻だったのか、と思うくらいにいい天気で、その晴れ渡った夕暮れの空を見上げながら、唯川は珍しくため息をついた。 「……ゆげちゃんどうしたの。気持ち悪いからいつもみたいに気持ち悪い笑顔貼りつかせてなさいよ。お客さんいないから許すけどあんた真顔怖いんだから」  夜の予約に備えてつかの間の休憩を取っていた由梨音から、思わずといったふうな声がかかる。  楽天家と言う程能天気でもない唯川だが、流石に空を見上げてため息をつくのは深刻だ。特に職場では、何があっても笑顔をあまり絶やさない。  唯川のため息の原因に心当たりはあった由梨音だが、あえて茶化すと、一応そのテンションに乗った返答が返ってきた。冗談を言う元気くらいはまだ、ある。 「チーフはぁー、そうやってすぐにおれの弱った心をぐっさぐさ刺していくからぁー、嫌いじゃないですー」 「ゆげちゃんなんで見た目どSなのに内面どMなのかしらね。気持ち悪いわよね?」 「うわあひどい。ぐっさぐさ。ぐっさぐさ刺さる。ひどい。どうせおれは気持ち悪いし配慮ができないしヒトの話聞かない駄目な大人でーすよー」 「……安藤さんのこと気に病みすぎでしょう。本人も悪かったって謝ってくれたし、あれはもう病気の域なんだから、割りきりなさいな」 「だって。すんげー吐いてたんですよ見たでしょ……何アレしんどい。可哀想。あとおれがしんどい。人生二十五年、人に触って吐かれたの流石に初めてです。わかってたとしても、結構うわーってなりますよあれ」  モップ片手にぐったりと空を見上げる唯川の主張に対し、確かにその通りだと由梨音も苦笑した。  由梨音の夫の木ノ瀬クリニックの紹介で、安藤壱という青年がサロンの扉を叩いたのは先週の土曜の夜の事だ。  少し伸びすぎた髪以外は、ごく普通の青年だった。長髪と言う程ではないし、若者が熱を上げるお洒落系ロックバンドに居そうな細い体格と地味ではあるがそれなりに奇麗な顔をしていた。草食系代表、と言った風情で、決して悪くは無い。これは後の由梨音の感想であって、唯川はもう吐く姿と奇麗な黒髪しか印象にない。  足を縺れさせた青年を支えようと腕を掴んだら、吐かれた。  具合が悪かったのかと背中を摩ろうとしたら、由梨音に止められ、とりあえず帰りなさいと言われた。自分が悪いような気がして、とりあえず何度か謝罪の言葉はかけたが、それが届いていたかは分からないし、そもそもあの時は何に対して謝ったらいいのか、自分でもよくわかっていなかった。  翌日、由梨音に軽く事情を説明され、更に木ノ瀬クリニックにも顔を出し説明を受けた。  他人の個人情報だったが、由梨音の大雑把な説明は非常にわかりにくかったし、とにかく申し訳無いという気持ちと、何かわからないけどそんなにおれって気持ち悪いんだろうかという被害妄想じみた気持ちが混ざってパニックに近い状態になっていた。  勝手に慌てて勝手にへこんでいる唯川に、木ノ瀬は苦笑してから事情を説明してくれた。ただし、ひとつ条件を出された。  彼の事情を聞くからには関係者になってもらう。治療を手伝ってもらう。  その条件は、唯川としては何の問題もない。壱さえ嫌でなければ、またあの奇麗な黒髪を拝見でき、尚且つ触っていいとあらばそれはありがたい。大変うれしい。  できれば友人になってもらえると嬉しいとも言われたが、それに対しては曖昧な返事しかできなかった。煮え切らない唯川に対し、木ノ瀬はしつこく優しく理由を訊くのでつい、『髪の毛は好きだけどその中の本体と言うか人間にあまり興味がわかなくてヒトの顔もあまり覚えられない』と打ち明けたところ、来週から通院を勧められてしまった。  精神的疾患だ、という決めつけではなく、たまに話聞きたいからちょっと通いなさい、というスタンスだったので唯川もあまりへこむ事なくその助言を受け入れたが。 「メンタルクリニック仲間として友人になれたりしますかねぇ」 「……どうかしらね。行きすぎた髪の毛フェチと、日常生活が怪しいくらいの人間恐怖症って、仲良くなれる気がする?」 「しないですねー。さっぱりしないです。むしろ喧嘩売ってんのかって思われそういやだーこわいーでも髪の毛さわりたいー」  うだうだと低い声を連ねる唯川に、ついに由梨音は面倒になったのか、追い出す様に背中を押してくる。  今日は唯川は早番だったので、他のスタッフと共に夕方までの勤務となる。時間的にはもう帰ってもいい頃合いだった。 「じゃあ次の予約お伺い立てなさいよ。一応来週またお待ちしてますとは言ったけど、向こうへろへろできっちりした了解得てないのよ。ついでにそんなにへこんでるなら本人に会って謝ってきたら?」 「え。なにその荒療治。ていうかお家突撃指令?」 「流石に住所悪用したらアレだけど、会社の外でうっかり会っちゃった体で行けばなんとか誤魔化せるんじゃないの。基本徒歩移動だから、会社も家もこの辺だよ彼」 「あー成程。電車なんか乗ったら大変ですもんねー。いや、いきなりおれがこの辺でわあ壱さんこんにちは! っていうのすんごい怪しいですけど、まあいいや。どうせ好かれてはないだろうし、これ以上マイナスないっすもんね! 行ってきますわ!」  気分を切り替え、よしと気合いを入れると、ぼんやりとした由梨音の呟きが耳に入る。 「……ゆげちゃんって面白いよね。ネガティブなんだかポジティブなんだか、わっかんない」 「超絶前向きなネガティビアンですよ。うっかり印象最悪を上塗りしてサロン予約パァにしたらサーセンって今のうちに謝っときます」 「それはいいけど、絶対に、触らない様に」 「はい。絶対に。触りません、大丈夫。流石におれも学習する」  にっこりと笑顔を取り戻した唯川は、さっそく黄緑色のパーカーを羽織ってななめがけのショルダーバックを手に取った。今日のテーマは蛍光色で、目にも痛々しいとサロンスタッフに呆れられたが、お客さんの反応は上々だった。  壱の会社の就業時間には間に合うだろうか。  一般的な社会人に友人が居ない唯川は、企業サラリーマンの活動時間帯がいまいちわかっていない。世の中不景気で残業も当たり前、という会社もあるらしい。まあ、会えなかったら会えなかったで、そうしたら店から電話をしよう。帰り路で会えたらラッキーくらいの気持ちで居れば、空振りでも気にならない。 「……もうちょっと、髪の毛シャギーいれてー……さらっと流すみたいにすると、あの人、スーツもっと似合うんだけどなー」  でも多分、そこまで鋏を入れるまでに、まだまだ時間がかかりそうだ。  何よりそれを自分にやらせてくれるかもわからない。誠心誠意、思っていることをきちんとぶちまけて髪の毛を触らせてもらえるように頑張ろう、と。この時の唯川は、本人的には酷く真剣に誠実に、そんな珍妙な事を考えていた。  夕方の人波を縫って、駅とは反対の方向に歩く。  そういえばこの辺はあんまり歩かない。ちょっとしたオフィス街で、食事処もあまりないし、コンビニかビルかどちらかくらいしか存在しない。唯川のサロンがある通りは比較的飲食店や衣料品店が多く、その周辺で買い物や食事を済ませてしまうことが多かった。  人波は皆暗い色の服を纏い、早足に過ぎ去り、通り過ぎ様に半分くらいの確率で振りかえる。服装が少し奇抜だということもあるが、唯川自身がどうにも目立つ。  男達の戸惑うような視線と、女性達の不躾な視線を浴びながら、そう言えば壱は自分の事を見なかったな、と思い返した。  視線を合わせるのが苦手な部類の人間なのだろう。まっすぐと目を見てしまうタイプの唯川とは、やはり別の人間だ。  仲良くなれる気はやはりしない。それでも自分のしてしまった行為に対してはきちんと謝りたい。それに、仲良くなれなくても別に良い。きちんと謝って、理解してもらえて、尚且つ髪の毛を触らせてもらえる状態になれば唯川はそれで満足だった。  手もとの腕時計は六時半を指している。  これはもしかして少々遅いのではないか。六時に仕事が終わったとしたら、もう壱は家に着いている頃合いかもしれない。  多少早歩きになりながら、目当ての会社の前できょろきょろとし始めた時、目当ての黒髪の青年が早足にエントランスから出てくるのを見つけた。  運命的なタイミングに、勝手に唯川のテンションが上がる。これは偶然を装っても、嘘ではないかもしれない。そう思いながら先を歩く壱に追いつこうとするが、これが中々距離がつまらない。  早い。歩くのがとにかく早い。  その上壱は携帯端末で誰かと通話中らしく、声をかけるのも躊躇われる。  半分小走りになりながらどうにか距離を詰め、やっと壱が信号で止まり携帯をしまったときに、やっと唯川は声をかけることに成功した。 「いっち、さん!」 「…………っ、……え?」  ぜえはあと息を乱しながら自分の後ろに立つ唯川を見て、壱は目を見開いた。 「歩くの、早すぎ、っすわ……あー……しんどい。お仕事お疲れ様、です。おれのこと覚えてます?」 「……あー、っと……唯川、さん?」 「そう! サロンルーシェの唯川聖ですえへへ覚えててもらえてよかったです! ていうかそういえば自己紹介すらして無いですね、あ。名刺忘れてきた。今度渡します。そんでですね、壱さん今ちょっと時間あります?」  まくしたてる様に笑顔と言葉を振りまく唯川に対し、壱は感情をうまく出せないのかそれともただ呆気に取られているだけなのか、面白い程の無表情で首を傾げた。  ああ、確かに地味だけど悪くない。この顔はこの髪に合っているし好きな部類だ、と唯川は初めて確認する。 「時間、ですか?」 「そう、時間です。別に場所はどこでもいいんですけど、あのですね、おれほらきちんとこの前の事謝れなかったんで、とりあえず本日は壱さんに謝りに来ました。だからちょっとだけおれに謝るだけの時間くれませんか?」 「…………は?」  今度こそ口を開けて固まった壱の顔は、まさにきょとん、という擬音が付きそうな程で、唯川はうっかりナチュラルに笑ってしまった。随分と可愛い顔をする人だ。二個下という話だったけれど、十代の少年のような反応をする。  決して触らない様に。一定の距離をしっかり守りながら。ついでに警戒されても困るので両手を顔の位置に上げながら。ね? とほほ笑む唯川の前で、やっと我に返ったらしい壱は、ゆっくりと、深呼吸をしたようだった。

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