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第5話
「…………ひとでなし……」
ぐったりとシャンプー台に凭れかかりながら、肩で息をする壱の声は掠れて痛々しい。
しかし唯川は、今日も変わらぬ笑顔で聞き流した。
「人聞き悪いですよー壱さん、はいこれタオル。おれなんか超優しいでーすよー。これもそれもあれもぜーんぶ、壱さんの為を思って! の行為じゃないですか、もう、優しくて涙出ちゃいますよね?」
「気持ち悪くて前……涙……滲んで、見えない、です……もうやだ帰りたい…………」
「え。まだ来て三十分も経ってないですよ」
最初は一々申し訳無い気分になっていたが、こちらがどんなに優しくしても謝っても結局壱は吐くし、お互いの申し訳無い感はぬぐえない。その事実に気が付いてからは、唯川は触れることに躊躇しなくなったし、必要以上に謝ることをやめた。
可哀想だなとは思う。しかし、唯川が同情したところで壱の具合が良くなるわけではない。
それならばいっそ軽く笑顔で受け流していこうと決めたのは来店二週間目の事で、それからの唯川のスタイリング練習は、壱にとっては拷問となった。
「もうちょい頑張りましょうよ。はい、仁奈ちゃんの笑顔を思い出す!」
「……それ、万能の魔法みたいに言いますけどね……仁奈のため、っての、あるけど流石に吐きすぎて気持ち悪……もうちょっと、穏便にどうにかならないんですか、ちょ、こっち来ないでくださ……っ」
「わーひどい、人を病原菌みたいにー。髪の毛食ってるの、気になるんですー。はい壱さん、ちょっとこっち向いて。このくらいは平気でしょ?」
「…………平気っていうか……もう、吐くものないですし……」
汗でべったりと張りついた上に唾液と涙でぬれて貼りついた髪を、タオル越しにさっと避けてやる。びくりと身体を震わせてはいたが、本当にもう吐く元気はないらしい。
シャワー台の中に設置したビニール袋入りのバケツを抱え、ぐったりと息をする壱の姿にも、嫌な言い方だが慣れてしまった。
多少の罪悪感と申し訳無さと同情は消えないがしかし、可哀想と思う気持ちで壱が救えるならとっくに彼は解放されている。ここはひとつ、友人以下であろう自分が全力で協力するべきだ、と、唯川は決心していた。
一度気持ちを決めてしまうと、唯川は容赦がない。
壱が吐こうが喚こうが、華麗にスルーし髪を梳き、鋏を入れる。毎回途中で壱がギブアップする為、まだほとんど髪型は変わらないままだが、それでも背後に唯川が立つことには慣れたらしい。
元来毒舌なのか本当に心から唯川の事が嫌いなのか、日に日に壱の暴言は増えて行くが、そんなもの痛くもかゆくもなかった。
ただ、先週はあまりにも辛すぎたらしく、涙目でもうやだと訴えられ、少しどきりとしてしまった。
あれは反則だ。ついうっかり、しょうがないですねと攻撃の手を緩めてしまった。何が自分の琴線に触れたのかまったくわからないが、とにかく反則だと思った。
自分はゲイだったのだろうか。
そう言えば、付き合ってくださいと言われたので何度か女性と付き合ったが、それは性行為に対する興味だったり、彼女と言うものへの人並みの憧れだったり、要するに本人を好きになって出来た恋人ではない。
結局すぐに別れてしまうので、最近は全ての告白をお断りしていたが。男性と付き合っていれば、もっとうまく、人間自体を好きになれたのだろうか。
やっと息が整ったらしい壱に、ミネラルウォーターを差し出しつつ、唯川はそんなことを考えていた。
「でも壱さん進歩してますよ。だってほら、前は櫛入れただけでもうだめ死ぬみたいな顔してたじゃないですか。それが今はハサミの段階まで行ったんですよすごい! まあでも最終的には頭皮マッサージ余裕になってもらわないとおれ的には困るんですけどねっ」
「さらっととんでもないこと言いますよね……俺、結構唯川さん怖いです……」
「まったまたー。ぐったりしながら暴言ガンガン浴びせてくる壱さんの方が怖いですってばー」
「……それは、あの、すいません……」
顔を顰め、申し訳なさそうに俯く壱の髪が揺れ、まだ湿っている肌にまた貼りつく。
それをさらりとタオル越しに直してやりながら、唯川は殊更明るい声を出した。
「いや別にまったく傷ついてないんで平気なんですけどね? 誰だって具合悪い時とか、ほら風邪ひいてしんどいときとか、そういう時、自分優先になっちゃうじゃないですか。だからまー、壱さんの暴言はぜんっぜんおれの心に響かないんで、問題ないです! ただぐったりしてる壱さんを見るとついつい弄っちゃいたくなるんで、言葉遊びの材料にはさせていただきますねー」
「……なんか、その非人道的な態度、むしろ申し訳無いって気分にならなすぎて、ありがたいかもしれないって思って来てて、俺洗脳されてんのかなー……って、悩むんですけど」
「え、やだ、人聞きが悪い。相性がイイってことでしょ?」
違うと思います、という壱の言葉は無視して、唯川は少量散らばった床の髪の毛を片づける為にモップを手にした。
恐らく今日はもう、髪に触らせてもらえないだろう。調子に乗って少し触りすぎたかもしれないなぁと一応反省のようなものはしたが、また来週からの特訓の手を緩める気は更々無い。
軽く梳いた後の散らばった髪の毛をモップで集め、箒とちりとりでダストボックスに放り込む。テキパキと掃除を始める唯川は、壱にじっとみられていることに気が付き、くるりと振り向いてにっこりと笑った。
「どうかしました? あ、元気になってきて手持無沙汰とかですかね? やっぱり特訓再開します?」
「いやそれは、結構です……。あー……唯川さんって、切った後の髪にはきょうみないのかなーと、思って」
「あー。そうですねぇ、髪の毛はやっぱり人の頭に付いてる生きてる状態が好きですねー、でも壱さんのモノに関しては本物あんまり触らせてもらえないんで、正直落ちてる髪の毛も貴重かなみたいな気分になってきてるんですけど流石にそこまで変質的じゃないんで一歩引くのやめてくださーい。そのまま下がったら落ちちゃう落ちちゃう、ね?」
シャンプーチェアに乗り上げていた壱は、若干唯川と距離を取る様に後ずさる。その反応がなかなかおもしろく、唯川は自然とふははと笑った。
壱の、真面目だが容赦のないごく一般的な反応が、唯川には面白い。
「……どこまで冗談かわからないから怖いんですよ」
「えー。でも別に髪の毛なら良くないですか? 例えばほら、壱さんのお風呂に入ってる姿を想像して抜いてますっていう男より、髪の毛がズリネタですっていう方が気持ち悪くないんじゃないですかね。いやおれは純愛系なんで性的興奮はしないタイプですけど。……壱さん、落ちちゃうってば」
「胃と一緒に、頭も、痛くなってきました……なんか、唯川さんと喋ってると、すごく体力使う……」
「まあひどい。それ褒められてないでしょ?」
げっそりとため息をつく様に笑いつつ、カットクロスを畳んで仕舞う。
別に、壱にどれだけ嫌われようと大したダメージはないと公言している唯川だったが、どうでもいい会話をしている時間は案外楽しいものだった。
やっと気分も落ちついたらしい壱に、最後にお茶でも振るまってから今日は解散にしよう。と、室内を奇麗に片付け、キッチンスペースに向かおうとした時。
丁度唯川が通り抜ける際、静かな店内に携帯のバイブ音が響いた。
「う、わ……っ!?」
それは壱のポケットに入っていた携帯だったらしい。
その振動と音に一番驚いたのは壱らしく、びくりと身体を揺らし、シャンプーチェアの上でバランスを崩す。元よりぎりぎりに座っていて、落ちそうな位置に居た。だから言わんこっちゃない、と思う間もなく、ぐらりと落ちる身体をとっさに支えた。
「い……っちさ、ちょっと、あぶな……!」
「…………………ッ」
落ちそうになる身体を後ろからどうにか支えようとしたため、思いきり抱きしめるような形になってしまう。初日に助けた時は、壱も自分で立っていたし手を添えるだけで良かったが、椅子の上から落ちそうな成人男子を引っ張り上げる腕力は流石にない。
唯川の反射神経のおかげか、壱はどうにか地面に落ちることはなかった。
頭をぶったりしなくてよかった。そう、思ったがしかし、腕の中の身体がどうにも、やたらと重い。
「…………やっべー」
やってしまった、と思った。
ぐったりと失神してしまった壱の青ざめた顔を覗きこみ、普段はあまり吐かない溜め息をひとつ、その顔の上でゆっくりと吐いた。
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