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第6話

 目が覚めたら最後の記憶から三時間は経っていた。  口が渇いて喉が痛い。身体が重く、頭もぼんやりと痛い。全身が鉛になったかのようだ。金属のように指先が冷たい。  身に覚えのある感覚に、ああ、倒れたのか、と理解する。  最近はあまりなかったが、そういえば初めて満員電車に乗った時も、結局駅の休憩室で似たような目覚め方をした。あのときは危うく救急車を呼ばれかけたが、すぐに覚醒したのでどうにかそのまま、穏便に済ませることができた。  その場で吐くのも辛いが、失神してから起きあがるまでも辛い。  絶望的な気分でのそりと顔を動かすと、向かいに座っている誰かが、あ、と声を上げた。 「壱さん、起きた……! あーもう、心配したっていうか大丈夫ですか、まじでもうちょっとしたら救急車かと思いながら寝顔観察するのも飽きました……! あ、ていうか急に起きない方がいいんじゃないですかね、どうですかね。つうかおれのことわかります?」  まくし立てる男が、口調の割に真剣な顔をしていて少し、誰だったかと思考を巡らす。ぼんやりした意識の中で、ああそうか、笑っていないから、ちょっとわからなかったのだ、と気がついた。 「……唯川さん」 「正解。そんでどうなったかとか覚えてますかね」 「髪の毛を……サロンに来て、吐いて、それで……倒れたんですかね、これ」  記憶をたどろうとするが、うまく思い出せない。  ゆっくりと身体を起こし、結局首を傾げる壱に対し、唯川は軽い声で頷いた。 「はぁ、もう、それは盛大に失神されました。椅子から落ちそうになったんで、おれが思いっきりぎゅって支えちゃったのが原因ですすいません。一応すぐに木ノ瀬さんに連絡してみたんですけど、よく見たら壱さん失神した後そのまま寝ちゃってたみたいで、とりあえず呼吸とかそういうの平気そうだったから、救急車呼ばなくていいから起きるまで待ってあげてって言われまして。そんなわけでおはようございます。夜中だけど」 「え、うそ、今……え。十二……、は!?」  ほんの少しだけ、気絶したものだと思っていた。  まさか倒れてそのまま三時間も経過しているとは思わず、腕時計を何度も見てしまう。しかし何度見なおしたところで時計の針は戻る事など無い。  また唯川に迷惑をかけてしまった。そう反省する傍ら、ハッと気が付きもう一つのシャンプーチェアーの上で膝を抱えて座る唯川を見る。 「唯川さん、電車は、」 「うっふふー終電見事に逃しましたねー。でもまあ、一応この店バックに休憩室あるんで、路頭に迷うとかないんで。ダイジョウブ、ダイジョウブー。最悪シャンプーチェアで寝ます。壱さんは徒歩圏内とお聞きしてたんでまあ平気かなって判断しちゃったんですけど、タクシー呼びます?」 「いや、歩いて帰ります、けど……あの、」  さらりと笑う唯川は本当に気にして居ないのだろうが、壱の方はそうはいかない。  ここ最近は極端に人との接触を避けていた為に、今日の様に倒れたりすることもなかった。久しぶりに思いきり失神し、そのまま数時間も寝て過ごしたというのは、近年稀に見る失態だ。ただひたすらに申し訳なく、どう謝ったらいいのかすらわからない。  もう急ぐこともないからゆっくり起きて良いと笑う唯川に対し、壱は何度か迷った末、深呼吸をして決心をした。 「うち、来ますか?」 「は?」 「……いや、昔、妹が置いて行った蒲団一式がまだ、残ってて。……この椅子よりは、寝れるんじゃないかと思いますし。俺の所為だし。……唯川さんが気まずいとかなければ」 「おれは平気ですけど壱さん平気なんです?」 「別に潔癖症とかそういうわけじゃないんで、平気です。明日は会社休みだから、朝叩き起こすってことも、ないんで。唯川さんの時間に合わせますし。……無理強いはしませんけど」  ちらりと伺った唯川の顔が、あまりにも驚愕していて、壱の声は尻すぼみになる。  流石に友人でも無いのに、家に泊れというのはおかしかっただろうか。しかし唯川が家に帰れなくなったのは、紛れもなく壱の所為だ。  せめて風呂と寝床くらいは提供できる。人が苦手というのは如何ともしがたい事だったが、唯川にはもう最初から迷惑をかけっぱなしなので、これ以上何を知られても問題はない。  髪に触る時以外、彼は壱に絶対に触らない。  喋る時は一定の距離を保っていたし、近づく時は両手をあげて壱の不安感を消してくれる。そういう意味で、壱は唯川の誠意を信用していた。  髪が好きだというよくわからない男で、その上口から生まれてきたかのようにぺらぺらと軽薄な言葉ばかりを胡散臭い笑顔で連ねる。  髪を切る『特訓』は非情としか言えない。壱が嫌だと言っても、笑顔でさらっと流してしまう。  一見頭の悪そうなイケメンと言った風情なのに、その実唯川は非常に真面目で誠実な人間だ、ということに、壱は気が付いていた。 「……おれね、冗談とか通じないタイプってよく言われるんですよー。もらえるもんは、全力でもらっちゃうタイプだし。だから壱さんがそういう優しい事言うと、結構本気で乗っかっちゃいますよ? 謙遜は日本人の美徳だろうけどおれは正直おふとんで寝たいです」 「俺、あんま冗談得意じゃないです。あとお世辞とか、美辞麗句とか、一応言っといた方がいいのかなっていう空気とか、そういうのもよくわかんないし、口に出すまでに一回悩むタイプなんで、口から出ちゃってることは、普通に、そのまま受け取ってもらっていいですから」 「いえす。煩くしないように頑張る」 「……いや風呂入って寝てください」  ぐっと拳を握る唯川が少しだけおかしくて、知らずに入っていた肩の力が抜けた。  普段しない事をすると、緊張する。そういえば自分の部屋に家族以外の他人を招くのは、初めてだ。大してきれい好きでもないので、あまり整理整頓された部屋でもないが、蒲団を敷くスペースくらいはあるだろう。  風呂に関しては一回掃除だけしたい。そのくらいの時間は待ってもらっても良いような気がする。  もうすぐに動ける、と言う壱に、じゃあさっさと行きましょうと唯川が施錠を始める。  先に上着を着て外に出ると、思っていた以上に寒い風がふいた。五月も半ばを過ぎたというのに、まだ夜は肌寒い。  流石に辺りは暗く、街灯の光がぽつぽつと道を照らしているだけだ。人通りもない。この中を一人で歩くのは、男と言えど少し躊躇してしまうかもしれない。  連れがいて良かったと思う事にして、店の鍵を締めた唯川と連れだって歩き始めた。 「うへー、なんか今日風あってさっむいっすねー。壱さんち、こっからどのくらい? 途中にコンビニあったらちょっと寄りたいなーなんて」 「二十分、くらいかな。途中には無いけど、過ぎたとこにあります。あ……うち、結構何もないんで必要なものあったらあのー、コンビニでどうにか買ってもらっていいですか。タオルと蒲団と水は提供できるんですけど」 「いやいやそれだけあれば居候的には充分ですわー。壱さんはなんか食わなくていいの? さっき全部吐いちゃったでしょ」 「……食欲ないんで、大丈夫です」 「あはは。そりゃそうかー。なんか、いつもごめんね?」  隣を歩く唯川が、小首を傾げた気配がする。  その声が思ったよりも甘く聞こえ、思わず歩みを緩めてしまった。 「あれ? 壱さん?」 「……なんか、唯川さん……言葉が、丸いっていうか」 「うえ? あー。はいはい、ええ、うん。だってお店ではお客様と店員ですものそれはもうきっちりラインを守りますとも。妙にタメ口な美容師とかいるでしょ? あれ、すんごく苦手でねーおれはお前の友達かよってなるタイプだったから、こればっかりは譲れなくてねー。でもなんか、今はいっかなーって思っちゃって。ちょっと、言葉崩れてるかも、あはは、こういうのおれ結構珍しいから、浮かれちゃってるのかもしれない」 「浮かれるって、唯川さんが?」 「そうそう。あのですねーおれ結構トモダチとか少ない方なんです。だから、人さまのお部屋にお泊りって、実はあんまり経験ないのよ」 「…………何処までが冗談?」 「全部本当なのに壱さんってばひーどいー」  だっておれニンゲンにキョウミないから、と少々自虐的に笑われ、ああそういえばこの男はそんな特殊な性格をしていたな、と思い出した。  奇抜な格好が似合う、アクの強いイケメンなのに、友達が居ないだなんて壱の様な事を言う。外面は最高に良いのだから、いくらでも友人など出来そうなのに。  素直にそれを告げると、唯川は珍しく苦笑した。 「そうなんですよねー結構頑張って笑顔保って、テンション保って、楽しいおれで居る時って、みんなちやほやしてくれるんだけど。でもそれって結局おれの一生懸命作った鎧部分であって、それ脱いでも一緒に居てくれる人っていうのがね。まあ、居るんだろうけど、探すの面倒でねー」  歩きながら流れる様に言葉を連ねる唯川の声は、いつも通りの軽薄さで、けれどその表情は自嘲のような珍しい顔をしている。  普段人の目を見ることができない壱も、この時ばかりは珍しさに我を忘れ、唯川を見ていた。 「おれね、高卒デビューっていうか。高校まですんごいネガティブ全開でちょう暗かったのよ。THE、根暗! って感じの。いやまぁ、今も根暗は根暗なんだけど、それが洋服とか外面とか派手な髪型とか、そういう鎧で一生懸命メイクアップしてるわけです。二十五歳になって思えば、何もこんなにガッチガチにキャラ作んなくても良かったのになぁあははって感じなんだけど、当時は必死だったんだろうねー。コンプレックスのカタマリくんは、もう、どうにかして明るいおにーさんになりたかったっていうかー」 「……別に、唯川さんが黒髪で喪服着てても、普通にイケメンじゃないですか。整形してるわけじゃないんだし」 「あ、それちょっと嬉しい。でもおれ、真顔だと怖いって結構言われちゃう。それは今も。能面みたいって言われた時が地味にショックでねー……まあ、そういうの言うやつってさ、案外言った方は覚えてないんだろうけど。だからとりあえずめいいっぱい派手にしてお洒落してそんで笑ってなきゃって思ったのが始まりで、それ以来おれは鎧まみれの人生です。マル。さらに髪の毛フェチも相まってもうなんか、人間とか面倒だなーっていうところまで行きそうです。……だからヒトのお家に伺うの、ヒサシブリ」  一気に言いきった唯川はやっと最後にてれたような笑顔を見せ、うっかり壱は直視してしまい、すぐに顔を逸らす。  にっこりと笑う、いつもの軽薄な満面の笑みも、唯川には似合っていると思う。けれど不意に見せた困ったような笑みは、二つ上の男前な美容師を弱々しい少年の様に思わせた。 「ていうかそんな身の上話訊いちゃいねーよって話ですよねーすいませんついうっかり。浮かれちゃった気分を落ち着かせようと思ってネガティブ思考引っ張り出してきたら、口から出てた。ごめん」 「イヤ俺は別に……いつも、唯川さんには迷惑ばっかりかけてるし。こっちはもう、なんか、外見から中身まで全部ネガティブだから」 「あはは、いや壱さん結構前向きだよー。確かに人生消去法って感じだけどさ、その体質でよく頑張ってると思うし、なんかきちんと向き合ってるじゃん。ネガティブってのは、否定しないけど。ええと、真面目なネガティブ?」 「なんですかそれ。褒めてます?」 「褒めてる褒めてる。ちょう褒めてる。おれ、壱さんには嫌われてるかもしれないけど、結構壱さんの髪の毛じゃない部分も好きよ」  柔らかい声が隣で笑う。  それに何と答えたらいいのかわからず、よくわからないまま言葉を流してしまった。  ありがとうございますと言うのもおかしい気がしたし、俺も好きですと言える程唯川の事を知らない。ただ、この数分で笑顔がトレードマークの男の印象は、随分ともろくなった。 『――ぜひとも煩い以外の感想を探してみてほしいな。きっと、面白いと思うから』  そう言った木ノ瀬の声が不意に思い出される。  そっと伺った隣の男は、黙々と歩きながらも少し楽しそうだ。ふと目が合うと、どうしたの? と首を傾げられる。その時に、アーモンド形の目が、すうと細められるのが壱は嫌いではなかった。  二人きりの店以外の唯川は思った以上に煩くは無い。  話しかければ喋るが、ぎゃあぎゃあと喚く程でもない。心地よいテンポで会話が続くのが不思議で、まるで既知の友人のような錯覚に陥った。  ニンゲンに興味がなくて髪が好きで、友人はいないという唯川は、やはり変だと思う。  けれど今まで得体のしれなかった煩いだけの変人は、少しだけ、壱の中で人間臭さを纏った、気がした。

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