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第10話

 自覚は無かったが、唯川の特訓は相当効いているらしい。  それを知ったのは、土曜の夜の飲み会の席だった。  座敷とテーブルの両方を貸し切り、歓送迎会は敢行された。壱はなんとかテーブル席の下座の角を確保するために、半分くらいの気力を消費した。あとはどうにか、黙って話かけられた話題にだけ、適当に頷いていればいい。  最近は唯川を見習って、とにかくぎこちなくでも笑うことを心がけていた。笑えば大概はどうにかなる。その唯川の格言は、そう簡単なものだろうかと聞き流していたが、いざ生活に取り入れてみると案外、円滑に物事が進む。  しかしここ最近は、朝食を取る様に心がけたくらいでは挽回できない程忙しく胃腸も荒れ、ついに今日はゼリー飲料以外何も食べることができなかった。  そこまで時間が無い、というわけではない。ただ、口に入れる気力が無い。食べたいと思わない。数日前に健康的になったと指摘された顔色も、おそらく土気色だろう。怖いので確認はしていない。壱は自分が、『病は気から』の典型的タイプだということを知っている。  いくらテーブル席とはいえ、酒が入ると人間は騒ぎたがる。  半貸し切りの様な空気も手伝って、女性社員が何人か、わざわざ酌をしに回って来た。  以前は他人が近づくだけでもびくついていたし、少し触れあっただけでも真っ青になったが、今日はそれでもなんとか息を飲むくらいに押さえられている。毎週がっつりと触られ、盛大に吐いている効果はあるのかもしれない。  そのうちに目当ての異性がいる人間は席を移動し、上司と酒を酌み交わす者、女子をくどきにかかるもの、男同士、女同士でグループになる者等、ごちゃまぜになる。指揮を執るものが居ない居酒屋の飲み会などこんなものだ。  さっさとお開きになってほしいと思いながらも、酌をされる度にあまり得意ではないビールを飲んだ。酒には弱い方では無いが、空きっ腹に流し込めばそれなりに酔う。  三富や平沢など、同じ部署の人間と居ればそれなりにまだ、精神的にも楽だと思ったが、残念ながら三富や部署の面々は、ほとんどが座敷の方に移動している。  壱の隣には、何故かMacしかできないのに事務に回されてきた新人男子が座り、自分の処遇の不幸といかに自分が営業では役に立てるか、という話を何故か壱に披露していた。  そんなものは友人に言うべき愚痴か、または上司に直訴すべき事柄であって、直接教えている壱には関係ない上にどう考えても腹立たしい。それでも酔っぱらいの戯言だと、なんとか苦笑で流していると、今度は若い女性の声が耳に入った。  その声が耳に引っ掛かったのは、唯川、という名前を持ち出したからだ。  新入社員男子の学生時代の自慢話を右から左に流しながら、壱はまだ入社して間もない女性社員らしき声に耳を傾けた。 「え、あのイケメンでしょー知ってるよーだってこの辺じゃ有名じゃん!」 「うそ、わたし知らない。ルーシェ? ってあのー、広告がすっごいイケメン男で、ちょっと流行ったやつ? スタイリストさん女性ばっかじゃなかったー?」 「居るってばイケメン。身長高くてぇー、にこって笑われると、ああーもう抱いてぇ! ってなるような、癖のあるイケメンでー」 「えー加奈さんって唯川みたいなのが好きなんですか~? やめといたほうがいいですよーあいつ性格悪いですよぉ」  ごく普通の、会社の中で誰がモテるか、というような話題だと思っていた壱は、思わず眉をしかめた。  例えば意中の異性の話であっても、歓送迎会などという場ではするべきではない。その上、知り合いの悪口のようだとわかれば、尚聞きたくない。  壱自身唯川と仲が良いか、と言われれば、悩む。  一度家に泊めた事はある。週に一度会うというのは、仕事以外では一番頻度が高い人間ではある。別に、嫌いではない。最初はただの煩い男だと思っていたが、きちんとこちらの状態を配慮してくれる誠実な人間だと気が付いてからは、特別な悪感情も湧かなくなった。  唯川は真面目だ。  それは、週に一回しか会わない壱も知っている。  確かに見た目は派手だし、会話は軽薄に感じるような適当な愛想で満ち溢れている。それでも、誰かをわざと貶したり、からかったりという嫌な冗談は言わない。  唯川の事が気に入らない、という人間が居ても、それは仕方がないとは思うが、性格が悪いと断言されるのは、どうにも気持ちが悪かった。  何故、彼女がそんなことを言えるのか。  そう考えると、昨日からじわりと重かった胃が、更にぎゅっと縮まるような気がする。  一番簡単な推察は元恋人や元友人、といったものだ。  ちらりと伺った女性はふわふわとしたミニのワンピースで着飾り、ゆるくウェーブさせた髪は流行りの長さでまとめてある。化粧も服装もばっちりと決まっていたが、お世辞にも『美人』と言えるタイプの顔ではなかった。  唯川の隣に並べてみても、違和感しかない。そんな風に想像してから、人を顔で判断するなんて、と、壱は一人反省をする。  女性の顔などどうでもいい。美人でなくとも、三富は優しい女性だし、そもそも外見など自分が言えた義理はない。そう思っているのは確かなのに、唯川の友人かと思った途端、『不釣り合いだ』と思ってしまった。  唯川も、友人を見た目で揃えるような人間ではないと、知っているのに。 (……なんだ、これ)  胃が痛い。もやもやとしたものが、内臓の手前につっかえて、気持ちが悪い。  早く帰りたくて、注がれるままに飲みすぎたかもしれない。つまみを頼むのも面倒だったためにお通しときゅうりしか食べていない。  恐らく酔ったのだろう。  そう思い、お冷を貰おうと店員を呼んだが、水が来るまでの時間が辛い。  その間も、あの高い女の声を拾ってしまう。唯川の悪口など、聞きたくもないのに。 「水城ちゃんって、もしかして唯川さんの元カノ!?」 「えー。いやぁ、カノジョ? って程でもないんですけどぉー、ちょっと、御縁があってー。なんかあいつって、外面イイ割に結構優しくないし。なんだよ今までの全部演技かよ! って感じで、幻滅っていうかー」 「あ~いるよね~そういう男。手に入ったらもう興味ナシ! みたいな。釣った魚くらいちゃんと世話しろよってさー。水城ちゃん災難!」  確かに唯川の接客はほとんど演技の様なものだ、と、本人も苦笑していた。  笑わないと、目が怖いと言われる。黙っていると、更に不気味だと言われる。だから高い声で、出来るだけ楽しく、にっこり笑って喋るんです。そう言っていた。  けれど本来の唯川は、そんなに優しくない男だっただろうか。  唯川はいつも、壱と喋る時は手を横に上げる。壱が不安にびくつく事がないように、彼なりに考えた結果だろう。  何かをする時は必ず断る。  自分の事をネタにして自虐する割に、他人に対しての悪口は言わない。勿論壱も嫌味を言われた事は無い。少し無神経だなと思う言葉も無い事は無かったが、それも特に目くじらを立てる様なものではなく、素直な人間なんだろうなと思うくらいだった。  そこまで考えて、唯川に対する感覚など人それぞれだし、壱がいくら彼は優しいと思っていても、水城という女性とは単に考え方と見方が違うのだからどうしようもないことなのだと気がついた。  唯川と彼女が会話しているところを見たわけでもない。一方的に壱が知っているのは、土曜の夜にたったひとりで壱の体質改善に付き合ってくれる、唯川だけだ。  普段の接客も、友人と一緒にいる姿も、みた事は無い。彼女がいるのかすら知らない。どういう付き合い方をするのかも、知らない。  結局壱は、唯川の事を悪く言われるのが嫌なだけだ。  それに対して、理論的に反論したい。唯川はそんな男ではないと言い返したい。けれど、反論できる材料もない。  だめだ、胃の中のものを全て一気に吐きそうだ。  トイレに行けば吐けるだろうか。  まだ何か喋っている女達の声と、壱の変化に流石に気がついたらしい後輩男子の声がぼんやりと聞こえる。耳の奥に膜が張っているような感覚だ。遠くで、ぐわんぐわんと音がする。  酔っている筈なのに頭がすうっと冷えて行く。  そのまま、背中に冷たい汗が伝う。  大丈夫ですか、の声と一緒に感じたのは他人の体温で、背中を叩かれているとわかった瞬間、耐えきれずに席を立った。 「ごめん、ちょっと、外、夜風に、当たって、きます」  どうにかそれだけ言い、付いてこようとする後輩を押しのける。自発的に他人の肌に触れたのは久しぶりでまた吐き気が増したが、まだ、どうにか耐えられた。  目立たない様に店を出た筈が、自分を呼ぶ声が追いかけてくる。その柔らかい女性の声が三富のものだということはわかったが、入口を出て座り込んだ後は顔を上げられなかった。  まだ吐かない。大丈夫。少し触っただけだ。少し酔っただけだ。体調が良くなかったところに、無理に酒を流しこんだ所為だ。その上胃に悪い話ばかりが耳の奥に入り込んで、少し、精神的にしんどくなっただけだ。  そう説明したくても、おろおろとした声が頭の上から降ってくるだけだ。  誰か呼ぶ? と、言われた気がする。  それに対して、何と答えたかあまり覚えていない。  ひたすらに呼吸を意識して安定させることに集中した。大丈夫、と、何度も何度も言い聞かせる。ぐわんぐわんと世界が回る。コンクリートの上に倒れてしまえれば、楽だろう。冷たい石の道は恐らく気持ち良く自分を迎えてくれる。  そうしなかったのは、今迎え呼んだから、支払いは私が代わりにやっとくから、安藤さんは気にしないでとにかく帰って水飲んで寝ちゃいなさいね、お願いよという、三富の声が聞こえていたからかもしれない。 (……迎え?)  働かない頭で、そんな疑問にやっと首を傾げた時、頭の上から耳慣れた声が降って来た。 「うっわ! 壱さんぜんっぜん大丈夫じゃないじゃん……! ちょ、え、これどうしたらいいっすかね、ああどうも壱さんの一応友人っぽい唯川と申します、壱さん吐きました?」 「どうかな、トイレに行ったのは見てないけど、ここでは我慢したみたい。とりあえず支払いは私がやっちゃうから、タクシー呼んだ方がいいですか? 家わかります?」 「わかりますわかります大丈夫、ええとこっからなら、まー……壱さんが平気なら歩いて行っても大丈夫なんですけど。……壱さん、あのー。もう、一回失神とかしてくれた方が、おれ、運びやすいんだけど、気持ち悪い? 大丈夫、じゃねーなぁもう、もーほんと、可哀想で泣けてくる、ええと、立ってみる? 無理? 壱さんて車酔いしたっけ?」  煩い筈なのに、どうしてか唯川の声は心地よい。  どうしてここに居るのかとか、そんなに話しかけられても何に答えたらいいのかわからないとか、そんなものは全て言葉にはならなくて、ぼんやりと押し寄せてくる吐き気にただ、曖昧に首を振る。  それだけで唯川は了解したらしく、一回支えるから吐くなら吐いてとビニール袋を渡された。  冷えた二の腕を、暖かい男の手が握った。  いつも、頭を容赦なく触ってくる男の体温だ。けれど、決してそれ以外は触らない、唯川の体温だ。  そう思うと、ぞっとする程熱く、そして、上に引っ張られる重力を感じた後、壱はビニール袋の中に盛大に吐いていた。 (――……どうしよう。おれ、いま、きもちいいとおもった)  この人の体温に安心した。  それが、どうにも恐ろしく、パニックに陥った瞬間吐き気を抑えるということを一瞬忘れ、そのまま吐いてしまった。  一瞬、息を飲む唯川の顔が見えた気がした。いつもの笑顔ではない。酷く、辛そうな顔で、泣きそうな表情だった。  違う、これは、唯川さんが気持ち悪くて吐いたんじゃない。  そう言いたくても言葉にならず、そのまま壱は意識も手放してしまった。

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