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第11話

 壱の同僚だという女性から電話がかかって来たのは、久しぶりに定時に帰路についた土曜の九時過ぎのことだった。  会社の歓送迎会に顔を出さなくてはいけないから、と、土曜の予約のキャンセルのメールが入ったのは週半ばのことで、それを受けた唯川は残念な様な、ほっとしたような、微妙な気持ちになった。  会えないのは寂しい。壱と、どうでもいい事をだらだだらと喋り、時々笑ってもらえるとその後一週間は幸せに過ごせる。けれど、仕方ないとは言え手を伸ばすとびくつかれ、そして吐かれるのはやはり辛い。  壱にとっては死活問題であるし、本人が一番辛いのに、恋愛感情などというもので勝手に泣きそうになっている自分が情けなくてさらに泣きそうになる。  情けない気持ちと直面せずに済むのは、精神的にも楽だ。残念は残念だが、ずっと思い悩んでいても潰れてしまうだけだ。時々、息抜きをしたらいいよと笑った木ノ瀬の顔を思い出し、たまには壱に会わない土曜があっても、まあ、いいんじゃないかと自分に言い聞かせていた時だった。  帰宅し、着替えるでもなくぼんやりとインスタントラーメンを茹でていた時、携帯が鳴った。  表示された名前は今し方も元気かなーと思いを馳せていた相手の名前で、思わず慌ててラーメンの中に落としてしまいそうになった。電話を庇ったせいで少しお湯が手にかかりとんでもなく熱かったが、そんなことはどうでもいい。  とっさになんの心構えもなく元気に通話に出てしまい、その後聞こえてきた戸惑ったような、その割にきちんとした女性の声に、唯川は息を飲んだ。  まさか恋人か、などという心配はみじんもしていない。  飲み会だという壱の携帯から、他の人間が電話をかけてくる事情など、考えうるかぎりひとつしかない。  予想通り三富と名乗る女性から、壱が酷く体調が悪そうで一人で歩ける状態では無いので、どうにか迎えを手配してもらうことはできないか、と頼まれた。  『誰か呼びますかって訊いたら、唯川さんって言われて、それで、申し訳無いけど、携帯借りて履歴からお電話したんです』という三富の言葉に、うっかり舞い上がってしまうのは仕方がない。  唯川は恋をしている。その相手に一番に頼られるというのは、勿論、湯でかけのラーメンを放置して家を飛び出してしまう程に嬉しいことだ。  すぐいきます、とだけ答えて、店の名前で地図検索をした。  あまり居酒屋には行かない唯川は、店の名前に聞き覚えも無かったが、どうやら壱の会社に比較的近い大衆居酒屋らしい。それならどうにか引きずって帰ることもできる筈だ。  若干のかけ足で駅に駆け込み、電車に飛び乗る。 唯川の職場の最寄り駅で降りてからは、やはり少し走った。  居酒屋で飲み会なんて大丈夫なんですか? と打った唯川のメールに、たぶん大丈夫と返してきた癖に、全然大丈夫じゃないではないか。そう思うと壱の真面目さが少し腹立たしくもなる。  自分ならどうにか理由をつけて放り出してしまうような行事も、壱はきちんと参加する。  でもそれで倒れてたら意味ないじゃんと思いつつも、具合が悪い壱が自分を呼んでくれたことは嬉しい。矛盾のカタマリだ。  目当ての居酒屋の前でうずくまる壱と、おろおろと声を掛けるふくよかな女性をすぐに見つけた。  真っ青な壱は意思の疎通ができるのか怪しい。なんでも、最近は仕事量がとんでもなく、ろくに昼食もとっていなかったらしい、という話を三富に聞いた。そこに酒を流し込めば、それは普通の人間であってもなかなか辛い筈だ。  無理やり立たせた際に、仕方なく腕を掴んだ。声をかけてじっと待っているよりも、さっさとベッドに転がしてやりたいと思った。  家を出る際にビニール袋を掴んできて本当に良かったと思う。  立たせた瞬間やはり吐かれて、相変わらず懲りずにショックを受けたが、そんなことでへこたれている場合ではなかった。  触られたショックで失神したのか、それとも酔い潰れたのかよくわからないが、意識が怪しくなった壱を無理やり背負い、ポケットにつっこんできた万札を三富に預け、飲み代はそっから引いてください、お釣りは壱さんに預けてくれればいいんでと笑い、大股にその場を去った。  倒れてくれて良かった。壱に触らずに家に連れて帰るにはタクシーくらいしか手段はなかったし、今にも吐くといった状態の壱を車に乗せるのも勇気が居る選択だと思っていた。  ぜったいに目を覚ましませんように。ぜったいに、起きませんように。  とにかくそれだけを願っていたのは、背中から伝わる壱の体温に唯川もどうにかなってしまいそうだったからだ。  人間とは恐ろしい。その生物は暖かい。  髪の毛は無機物だった、ということを実感する。あれには温度など無い。触っても、心臓の音が伝わってくることもない。自分の体温と相まって、触れあう場所が熱く感じることも無い。  無心になって歩いているうちに、壱のアパートにたどり着き、一度降ろしてから財布の中を漁った。以前そこから家の鍵を出しているのを見た。キーホルダーも何も付けていない鍵を見つけ出し、扉を開けてからは背負い直すのは難しく、仕方なく抱きかかえてベッドの上まで運んだ。  あまり運動が得意ではない唯川には重労働だったが、壱が軽くて助かったと思う。  木ノ瀬に連絡しようかと迷ったが、壱はどうやら寝てしまっているようで、呼吸もしっかりしていたのでこのまま寝かせておくことにした。  何か異変があれば、救急車を呼ぶ覚悟でひとまず、床に座って息を吐いた。  深呼吸、と言われてから、唯川は深呼吸信者になった。ベッドに額を乗せ、俯き、床の木目を見ながら息を吸う。もう春も終わるのに、冷たい空気が肺を満たす。頭の中まで冷たく、ゆっくりと冴えわたる感覚。少しだけ息を止めてから、柔らかく静かに息を吐くと、じわりと暖かい息が冷たい空気と混じり合い溶ける様に感じた。 「……頑張りすぎなんだよ、壱さん」  そのままベッドの上に頭だけ乗せ、横になる壱を眺めた。  顔色は悪いが、呼吸は安定しているし、苦しそうだということもない。酔った時は一度吐くと楽になるという話を聞くし、先程吐いたのが良かったのだろうか。それとも、ただ単に意識を無くしている間は苦しむ事を忘れているだけなのかもしれない。  一息ついて、やっと自分が夕飯を食いっぱぐれている事に気がついたが、今から戻ってラーメンを救済する気などとうに失せている。水で膨れた麺は、明日帰ってから捨てることになるだろう。  こんな状態の壱を放って、帰るわけにはいかない。勝手に泊らせてもらうことに決めて、仕方がないのでシリアルでも食べようと勝手にキッチンを漁った。自分が買って贈ったものなので、多少少なくなっていても怒られはしないだろう。  明日買って補充すればまあ良いだろうと思い、冷蔵庫の中のヨーグルトを拝借し、シリアルを投入して混ぜて食べた。牛乳が苦手だという壱に、唯川が教えた食べ方だ。  夕飯としてはかなり軽めだが仕方ない。しゃくしゃくと咀嚼している間に、なんどか壱がうめき声をあげ、その度にびくりとして生存確認をした。  体温は高めだが、体調が悪そうには見えない。  拝借した食器を洗うついでに、シンクに置きっぱなしになっていた壱の洗いものも片づけ、暇になるとどうにも落ち着かなくなる。  壱の部屋に来るのは二度目だ。  一度目は大して意識などしていなかったし、久しぶりに他人の家に招かれた事に子供の様な気分で浮かれていた。結果、その日にすとんと恋に落ちたのだが、自覚してから赴く意中の人間の部屋というのは、とても落ちつかない。  思ったより乱雑だな、という感想しか湧かなかったCD類や本棚も、一冊ずつチェックして自分と趣向が被っていないか見てみたい。溜まっている洗濯かごの中の服も、気になる。確実にワイシャツではない色の服がちらりと見えていて、壱の私服は一体どんなものなのだろうとうずうずとしてしまう。そういえば、ワイシャツにネクタイ姿と部屋着しか見たことはない。  誘ったら、日曜日に出かけてくれたりするのだろうか。  唯川の務める美容室は毎週月曜と第一火曜、第三日曜が定休日となる。その他にも申請して都合がつけば有給を取ることもできるが、あまり予定が無い唯川はほぼ、カレンダー通りに生きていた。  日曜日の街に、二人で出かける妄想は楽しい。けれど、とても現実的ではない。  壱自身は目的が一致すれば一緒に出かけてくれるかもしれない。けれど、まず電車に乗れない。バスは座ることができれば移動も可能かもしれないが、博打に近い。  いざ目的地につくことができても、他人に触らずに過ごすというのは途方も無い苦労が必要だと気がついた。  普段の買い物や必要な外出はどうしているのかと訊いたことがある。  必要なものは少し歩いた郊外にあまり繁盛していないディスカウントショップがあるのでそこで揃え、それでも足りなければネットでどうにか手配すると言っていた。  思わず同情してしまう唯川に対し、苦笑を洩らして首を傾げた壱は、それでもまあ、どうにか生きているし、なんとかなっているからと言った。  壱は強い。  明るい性格ではないけれど。それでも、唯川よりも断然、しっかりと生きている。  自分は恋なんてものに踊らされて、今だって抱きしめたくて仕方がないのに。  そう思うとまた涙腺が弱りそうになって、慌ててティッシュを探す。  泣くのはストレス発散になるから、一人の時は泣いても別にいいんじゃないかな。そう笑った木ノ瀬の言葉を思い出して、涙を止めようとすることはやめて、ただそれを柔らかい紙で吸いとった。  もう少ししたら、きっと普通になる。  普通になんとなく好きだな、くらいになる。  今は少し舞い上がっていて、すきだすきだどうしよう、という気持ちに慌てているだけだ。  思いこむとすぐ調子に乗る性格だから、恋をしたことにテンションが上がっていてから回っているだけだ。きっと、そうだ。  そうでなければ、男の壱に勝手に恋をして、寝顔を見ながら泣いているなんて、あたまがおかしいと笑われてしまう。自分でも可笑しいと思う。  いつからこんなに好きだっけ? と、思い返してもわからない。  理由が見当たらなくてまた涙が零れた。  今なら触っても吐かないだろうか。  そう思い、そっと手を伸ばしてみたが、触れることができずに体温をギリギリ感じる場所までしか手は届かない。  あんなに嫌がっても容赦なく触っていた髪にすら、触れるのが怖い。 (きらわれたくない。こわい。なんだこれ。……触るの、すげー、こわい)  恋をしたら、触れなくなった。  ずっと触りたいと思っていたのに、恐怖が勝る。  抱きしめたいのに怖い。怯えられるのが怖い。真っ青な顔になるのが可哀想で辛い。これはすべて唯川の勝手な感情だ。自分のことしか考えられない駄目な自分にまた涙が出る。  ただ、壱が笑ってくれたらそれでいいと思うのに。もういっそ、妹の結婚式なんかどうでもいいから、ただ時々会って、時々一緒に食事をする友人になりたい。毎週の特訓など放りだして、一切触れず、静かに恋が落ちつくまで笑っていたい。  あなたが幸せなら自分は我慢できるなんて言えない。  唯川は幸せになりたい。  けれど勿論そんな我儘をぶつける勇気はなく、壱を待つ土曜日がまた来るのだろう。自分は所詮、壱の体質改善の手伝いをするだけの人間でしか無い。もしかしたら、友人くらいに思ってくれてはいるかもしれないけれど、今の唯川のどろどろとしたホンネを知れば、壱は幻滅することだろう。  常々、自分は性格が悪いと思ってはいたが、ここまでとは思わなかった。感情の高まりというのは人間の本質を暴く。  あまり好きでは無かった自分を、もっと、嫌いになりそうだ。  涙がぼろぼろと零れて止まらない。  女子かよ、と、笑ってみても、止まらない。 「あー……」  しんどい。と、一言つぶやいて、唯川はそのまま冷たい床にごろりと身体を投げ出した。  いっそこのまま体温を奪われて、無機物になって、部屋と同化したい。急に感情が溢れてパニックしている頭は取りとめもなくそして恐ろしい事ばかり考える。木ノ瀬がいなければ、自分はすっかり潰れてしまって、ストーカーのようになっていたかもしれない、とすら思えた。  床になりたいと思う自分と、こんなところで寝たら風邪をひいてしまうと思う自分が同居している。妄想的なのか現実的なのか、わからない。たぶん、壱の事を考えている限り、唯川の脳みそはずっとパニックしっぱなしなのだ。  あなたのせいでぼくはくるう、だなんて、詩的だなぁと笑うことは簡単で、自虐でもしていなければ涙のせいで干からびる、と思った。

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