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第12話

 初めて酷い二日酔いを経験し、一日ベッドで過ごした週末が明け、月曜日は重い身体を引きずる様に出社しどうにか仕事をこなすことだけに集中した。  そういえば、いつも飲むことよりも他人との接触を避けることばかりに集中していて、酒を継がれるままに飲んだのは初めてだった。唯川の特訓の成果か、ある程度すれ違うくらいはどうにか意識せずに耐えられるようになっていた為、少し気が緩んでいたのかもしれない。  その上新人の愚痴と、誰とも知らぬ女性社員の唯川への悪評のダブルコンボで、とにかく酒を飲んで少しでも気分を和らげたい、という心理が働いたのかもしれない。  日曜日、絶望的な気分で目覚め、床に転がる唯川を見つけた時は肝が冷えた。  うっすらと記憶にあるのは、立てる? と訊いてくる唯川の声と、二の腕をつかむ熱い体温だ。その熱さを思い出して、吐き気ではなく妙な胸騒ぎを覚えたが、とりあえず一人で百面相をしている場合では無かった。  とにかく壮絶に頭が痛く、体中の血液が悲鳴をあげているような感覚だった。指の先までおかしな気だるさが満ちていて、身体を動かそうとする気力もわかない。  そのうち目を覚ました唯川は、スポーツ飲料水とビスケットとカップみそ汁とおにぎりを買いにコンビニまで走り、そしてそのまま大急ぎで出勤してしまった。どうやら、寝過してしまったらしい。  固くて冷たい床で寝ていれば、それは寝心地も悪かっただろう。  更に出社した壱は、三富に封筒入りの現金を『唯川さんにお釣りだから』と渡され、その時初めて自分の分の会計を唯川が代行してくれた事を知った。  申し訳無さすぎてめまいがしそうになる。一応日曜の夜に謝罪のメールを入れたが、忙しいのか返信はまだなく、自分がどういう経緯で唯川を呼んだのかよくわかっていなかった。  失態と共に唯川にかけた迷惑を、さんと身に教えられ始めて自覚し心から時分自身を罵った。  いくら今一番会う頻度が高い他人とはいえ、友人でもない男性を、頼り過ぎだと思う。  唯川としても直々に電話があれば、それは『友人でもないし関係ないので』というわけにもいかないだろう。  迷惑ばかりかけていて、優しさばかり貰っている。  もう、どうお礼をしていいかわからない。とにかくお金は返さなければならないし、何か本当に贈らなければならない。そうしなければ壱が申し訳無くて、顔も見れない。  とりあえずお金を渡すだけならば、一瞬で済むだろう。予約はしていないが、居なければメールで確認したらいい。そう思い、火曜の仕事上がりにサロンルーシェを覗いた壱は、木ノ瀬の奥方に『いま唯川は風邪でお休みしてるのよ。もしあれだったら、ちょっとお見舞い行ってやって』と予想外の言葉と食糧と住所のメモを貰うことになった。  メールも返って来ない筈である。  というか、もしかして壱の部屋の床で寝たことが原因ではないのか。 そう思うと居ても立ってもいられずに、躊躇することなくタクシーを捕まえた。  新しいわけでもないがそこそこお洒落な外見のアパートの前で車を降り、ドアの前に立って初めて自分が由梨音の差し入れ以外に何も用意していないことに気がついたが、道に迷うくらいなら近所のコンビニの場所を唯川に訊いた方が早い。そう思って震える指でインターフォンを押した。  誰かの家を訪れるのは、何年ぶりだろう。  インターフォンを押してからドアが開くまでの間が、どうしてか苦手だ。例え一人暮らしだとわかっていても、何故かどきどきと不安になる。  暫くして気だるい足音が聞こえ、スコープを覗くような間の後、急にドアが開いた。  出てきた唯川は、熱があるのか目が潤んでいて痛々しい。 「……え。え? 何、えーと……幻覚、じゃ、ない? え? なんで?」 「あー……すいません、そうだ、メール入れたら良かったです、ね。あの、すいません、唯川さんがお風邪だと伺って、由梨音さんに、これ持って行ってって言われて。あ、……お邪魔だったらすぐ帰るんで、とりあえずこれ」 「いやお邪魔なんてことない、ぜんぜんない、ええとどうやってここまで……あーもう、そんなんどうでもいーや、ごめん壱さんとりあえず入っちゃって。ごめんね、立ってるのちょっとふわーってする」  壱を招き入れ、鍵を掛け直した唯川は、見るからに足取りがあやしい。 「いや、あの、俺すぐ帰るんで唯川さん寝ててください。……あ、でも何か必要なものがあるなら買って来ますし、お手伝いできることがあれば、それはしますけど。……ちょっと、ふらっふらしてますよ大丈夫ですか」 「大丈夫、だったけど、びっくりして、うわーなんだこれ。チーフのアホ。ばか。あー……人生ってプラスマイナスゼロになるようにできてるのかもしれないっすね。あ、汚くてさーせん。適当に座っちゃってー」  ふわふわした足取りでふわふわと言葉を紡ぎながら、唯川は倒れる様にベッドに戻る。  ベッドサイドのテーブルにはスポーツ飲料水と時計と薬が乗っていた。きちんと医者には行ったらしい。  とりあえずそれだけでまず安心し、壱はそれほど汚れてはいない部屋のベッドのそばに座った。壱の部屋の方が断然乱雑だ。ただ小物の色が派手なので、不思議と雑多な印象がある部屋だった。  ぐったりとシーツに沈む唯川の状態を見て、衝動で来てしまったが、もしかして大変迷惑だったのではないかと思い始める。具合が悪い時こそ誰かに会うなど面倒くさいだろう。これではただ邪魔なだけだ。  何か自分にできる事は無いのか。そう思うが、看病などほとんどしたことが無い。  妹の仁奈は身体が丈夫な方で、壱が世話を焼くことはほとんど無かった。消化がいい食べ物でも作れればいいが、唯川に食欲があるのかもわからない。  というか、話かけていいのかもわからない。  おろおろと、ただ見守っていると、ベッドに突っ伏したままだった唯川が顔だけこちらに向けた。  顔は赤いが、不快そうではない。 「……夢かなって思ったけど夢じゃないよね? まあ、この際夢でもいいっすわ。なんで壱さんがうちにいんだろ。あー…まあ、いいや、ええと、すいません、せっかく来てもらったのにお茶とか入れる元気なくて、」 「何言ってるんですかそんなものいらないです。俺はただ、オツカイと、お金を返すのと、そのー……いつも、迷惑ばかりかけてるから。俺で役に立つならなんでもするんで、本当に。何か食べました?」 「あー……食欲、無くは無いんだけど。動くのが面倒で、ヨーグルト流し込んだ、かな? あとミカン食べたかなー……」 「……お粥くらいなら多分、作れますけど」 「うどんがたべたい、です。あれ、これ、わがまま……?」 「うどんですねわかりました! ちょっと、買いものしてきます!」 「あ、いや待って待って、冷凍庫に冷凍うどんあったかも。……あとね、出来ればここに居てほしいから、買いものとか、そんなんどうでもいーから。ね?」  焦点の定まっていない瞳で、ふわりと微笑まれ、壱は思わず息を飲んだ。  顔が奇麗な男だというのは知っていた。いつもは派手に笑顔を作っているが、案外集中し出すと真顔になる、ということも知っていた。けれど、こんな風にふにゃりと柔らかく笑う人だっただろうか。  まるで、心を許されているような錯覚に陥るので、とてもよくないと思う。  内心の良くわからない焦りを誤魔化すように、とりあえず冷凍庫の中を確認して冷凍うどんの存在を確かめる。今すぐ作るか訊くと、もう少し眠気が引いたら食べたいと言われ、また壱は手持無沙汰になった。  壱の移動手段は電車ではない為、何時までだろうと唯川が許す限りは滞在していられる。終電を気にしなくていい分、この部屋を出るタイミングもまた、わからない。  とりあえずは唯川にうどんを食べさせたら帰ろう、と決めて、また元の位置に座ろうとしたらベッドの上をぽんぽんとだるそうに叩かれた。  ここに座れという事だろうか。その甘えたような仕草にうっかりどぎまぎしつつも、恐る恐る、ベッドの端に腰を下ろす。  こんなに近くに、他人の体温がある。それでも、どうしてか今は気持ち悪いと思わない。それよりも、唯川の体調が心配だった。 「吐き気とか、頭痛とか無いですか? 熱があるっぽいことしか、わからないんですけど」 「うーん、そうねー、熱はまあ、あるよねー。でもまあ、昨日はすっごい寒くて、動くのもしんどくて、ちょっと笑う余裕も無くてこれはしぬわーって思ってたから、まあ、今日はまだ元気かなぁ。あたまはちょっとだけ痛い、気がする。でもそんなことよりぼんやりする……」 「やっぱり何か食べて、薬飲んだ方がいいんじゃ……」 「でもそれさー、本気でしんどい時の、症状軽減のおくすりなんだってさー。だから、飲まないで治せるなら、できるだけ飲まないで飯食って寝ろって言われたんだわー……さすがに、昨日はしぬって思ったから、飲んだけど。今うちのみせスタッフ産休で少ないし、出れるなら明日どうにか出勤したいし、もう、どうにか、治さないと……」 「だから、うどんを、」 「やだ。壱さんここにいてよ。……おれいまちょう弱ってるから、わがまましか言わないよ。でも帰れとか言えないから勝手に帰ってもいいしそんなの全然怒んないけどおれの言いたいこと言わせてもらえば壱さんにここに居てぼんやりしててほしい。喋んなくてもいいし、あーでも、喋っててもいい。おれ、いちさんのちょっと掠れた声、すげーすき」 「……熱上がって、頭も沸いてますか?」 「あはは。そうかも。だってさー、壱さんがうちにいるんだよなにこれ、人生の御褒美かーって。思うでしょ。酔っぱらってしにそうな壱さんをおぶって介抱した甲斐があったってもんですわー……いやべつに、あれはあれで、わるくはなかったけど。でも床になりたかったからどうだろう、わるかったのかな、せいしんえいせいじょう」 「床……?」  熱のせいで、唯川の話にはいつも以上に主語が無い。  ひたすら喋る割に支離滅裂としているのは、前からだが、今日は特に何を言っているのか壱にはさっぱりわからない。ただ、ここに居てほしい、と彼が願っていることは伝わって来た。  そして本人に話題にされ、そう言えばとやっと自分が唯川に礼を言うべきだったことを思い出した。今言っても、仕方ないのかもしれないが、むしろ我儘になっていると豪語しているこのタイミングこそお礼の品を訊く絶好のチャンスなのではないか。  普段の唯川なら、そんなものいりませんよーと、笑って流してしまいそうだった。 「そう、あのですね、唯川さん。俺、飲み代も立て替えてもらって、一晩介抱してもらって、吐くし、意識無くすし、もう、すごい迷惑かけたじゃないですか。だから、何か欲しいものとかありますか。そういうの選ぶの、苦手で、だから何か埋め合わせになれば……」 「ほしいもの……あー。そう、だなぁ。いちさん。……の、お時間、ください」 「え?」 「でーと。したい。買いもの、つきあってください。へいじつだったら、ひとすくないし、ていうか、おれがどうにかまもるから。でーとしよ」 「……買いものに付き合うくらいしますけど。そんなことでいいんですか。それ、唯川さん、ちゃんと楽しいんですか?」  自分はあまり外出する方ではないから、ウィンドウショッピングもあまりしない。女子はそういうものが好きだ、という偏見があったが、男二人で買いものに行って楽しいものなのだろうか。  気心が知れた相手ならばまだしも、相手は壱なのに。そう思い声を掛けると、半分寝たような状態のろれつも怪しい声が、とろりと耳に返ってきた。 「だって、すきなひとといっしょにでかけんのは、たのしいでしょ?」 「…………は?」  今、唯川は何と言ったのか。  聞き間違えか、と、何度か瞬きをくり返してみたが、朦朧としている唯川はただ、柔らかく笑って壱さんの声やっぱり好きだなと零した。  体温が、どくりと上がる。  急に心臓が煩く鳴りだして、指先が少しだけ震える。 (……ききまちがい、じゃ、ない、……のか?)  どうしたらいいかなんてわからずにただ、すきなひと、という言葉が、耳の中から脳みそにかけて何度もぐわんぐわんと回っていた。

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