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第15話

 言ってしまった、というよりは、やってしまった、という方が正確だと思った。  壱の態度がどうにも柔らかいことにやっと気が付いたのは、喫茶店に入る前程だった。  友人にしては少し近い。  ほんのりと意図的に笑いかけてみると、頬を染めて困った様に視線を逸らす。  そんな反応は唯川を浮かれさせるには充分で、もしかしてこれはほだされてくれるのだろうかとテンションも上がった。  自分が夢うつつで告白紛いの言葉を告げていたことは完全に予想外だったが、今となっては結果オーライだ。折角の外出をあまり好きではない客の女性に邪魔されたのも、結果的には悪くは無かったのかもしれない。  壱のささやかだが攻撃力の高い嫉妬を頂戴して、完全に頭がおかしくなった。  いくら好意的に思ってもらえているとしても、絶対に触らないと宣言したばかりだ。スルーしてください、と言ったばかりなのに、どうして自分はこんなビルの隙間に好きな人を連れ込んで、困らせる様なことをしているのだろう。  ……そう思うと、きりきりと内臓のあたりが痛む、気がする。  壁際に迫られて腕の間で固まる壱は、可愛らしいがとても、可哀想だ。 「壱さんが好きです」  このまま、抱きしめたい。キスとは言わずとも、ぎゅっと腕の中に閉じ込めたい。  ただしそれは、壱が他人の体温で気持ち悪くなる、という症状がなければの話だった。  好きだから触れない。  あんなに触りたいと思っていたのに。  壱が吐くくらいなら、触りたくない。  つい、そんな余計な告白までしてしまった。  相当混乱していたんだと思う。壱の事を考えれば、告白するにしてももう少し違うシチュエーションを選択できた筈だ。けれど、我慢が出来なかった。  つくづく子供でどうしようもない、と思う。  舞い上がって変な興奮で涙がでそうなのに、情けなさが追い打ちをかけた。  それでも、解放してあげるタイミングが見当たらない。  何度か深呼吸をすれば、どうにか気持ちも落ち着くだろうか。普通に家に帰って、夕飯を共に出来るテンションに戻っているだろうか。  どうして今言ってしまったんだろう。本当に自分は馬鹿だ、と、ぐだぐだ悩み始め、申し訳無さから身体を引こうとしたとき、壱にそっと腕を掴まれた。  びっくりして、飛び上がるかと思った。  壱に触ったことは何度もあるが、触られたことは無い。一度も無い。 「い、ちさん、あの……、え? ちょ、だいじょうぶ、なの、それ」 「大丈夫、です、多分。……吐きません、気持ち悪いとも、思いません」 「え。うそ、なおった? 治ってた?」 「いやたぶん、別になおったわけじゃない、と思うんですけど……あの、つまり、なんていうか。……唯川さんは、平気っていうか」 「は?」  焦った様に、つっかえながらも言葉を探す壱が、何を言っているのかよくわからない。  二週間前までは、しっかりきっかり吐いていた。やっぱり自分が触っても、壱は気持ち悪くなるのだ、と、きりきりと痛む胃と鬱で眠れずに精神科の門を叩いたくらいなのに。  そう思って間抜けな顔を晒していると、壱は、決心したように言葉を連ねた。 「吐きません。――…好きだから、吐きません」  思わず、最高に間抜けな声をあげてしまいそうになり、口を噤んだ。  その後じわじわと言葉が脳みそに浸透し、ついに唯川は崩れ落ちる様に額を壱の肩に預けた。  触れる瞬間、少しだけびくりとされたが、逃げられたりはしない。  首筋が暖かい。唯川と同じ様に、熱い。 「……うーわぁー……なに、それ、はつみみ……。どうしよう、あー……予想外で、ショートしそう」 「それは、俺もなんですけど。唯川さん、熱い」 「壱さんだって熱い」  首筋から頭をあげて、見上げる様に壱を伺う。  少しだけ視線を外しているのは、照れているからだろう。 「本当に、だいじょうぶ? きもちわるくない?」 「だいじょうぶ、みたいです。他の人がどうかはちょっと、わかんないんですけど。唯川さんは、なんか、平気みたいで」 「スキってさ、ライクじゃなくてラブだよ? ていうか今日? 今日のデートが成功したってこと?」 「あー……今日っていうか。先週、すきって言われてから。ずっと、唯川さんのこと考えてて。……スキって言われたの、嬉しいなって思って。あとそのー……ミズキさん? のこともあったし。なんか、おんなのこに取られるの、嫌だなって思った」  壱は目を逸らしながらぼそぼそと喋る。  その様が愛おしすぎて、抱きしめたい衝動を抑えるのが大変だった。  ストレートな言葉で綴られるストレートすぎる嫉妬が、耳から頭から感情から全てを揺さぶって体温を上げた。 「うーあー……なにそれ、ほんと、かわいい、うれしい、本気にしちゃうからね、そういうの。もー、壱さんはどんだけおれに好かれているのかっていうのをね、自覚してもらわないと駄目だわ。もう、すごい言うから。やめてって言われても言うからね、かわいいところかすきなところかかっこいいとことか。あ、ていうかこれ両想い、で、合ってた?」 「……合ってる、と、思います」 「じゃあ、恋人になってもらえる?」 「…………俺でよければ。ていうか、その、俺、今のところ唯川さんは平気っぽいんですけど、他の人に触れるのかわかんないし、だから普通に生活できるのかまだわからないし、今まで通り電車も乗れないような生活かもしれないんですけど……俺で、いいんですか」 「壱さんが部屋から一歩も出れないならおれが通えばいい話だよ。壱さんでいいっていうか壱さんがいいです。壱さんが恋人になってくれたら、明日からおれ、お客様に迫られた時に胸張って恋人いますからノーセンキューって言えるんだけど」  どう? と、少しだけ意地悪な訊き方をしてしまうと、壱は眉を寄せて馬鹿と呟く。 「……俺、結構嫉妬深い、かもしれない」  きゅっと腕を握る指に力が入るのがかわいすぎて、また唯川は撃沈した。  かわいい、かわいい、だいすきだ、どうしよう。嬉しすぎてしんでしまうかもしれない。  きっと人生はプラスマイナスゼロだから、明日地球が滅ぶかもしれない。そうだとしても、今の幸せを放棄しようとは思えなかった。  このまま裏路地で失神してしまうかもしれない程幸福だ。  流石にそれはまずいと思ったので、とりあえず身体を離して壱の家に帰ってから、大人しく仕切り直そうと働かない頭でどうにか冷静な判断をしたというのに、当の壱が不思議そうな顔で追い打ちをかけてくる。 「……ええと、」 「うん? どったの、壱さん」 「いや。……キス、するのかなーと思ったから」  見上げる視線でそんなことを言われてしまえば、唯川が我慢できる筈もない。 「…………していいの?」  掠れる声は酷く格好悪かったと思う。けれど、答える壱の赤い顔と声に理性は全て持って行かれ、格好付けている余裕などない。  答えを待たずに、また壁に縫い付け唇を寄せた。  それでもびっくりさせないように、なるべくがっつかないようにゆっくりと手を添えて、静かに合わせるようにキスをした。  夢に見た唇と同じ程柔らかく、それは唯川の官能を刺激する。  何度か優しく啄ばむと、恐る恐ると言った風に、壱の手が唯川の首に回る。熱い体温に少しだけ物怖じしているのか、ゆっくりと這うような感触が、くすぐったい。 「壱さん、手、くすぐったい」  唇を離して、至近距離で笑うと、初めてでどうしていいかわからないと言われてたまらなくなった。  もう一度と唇を寄せる前に、囁くような小さな声で、壱が恥ずかしそうに目を伏せた。 「俺、キスしたこと無くて。だから……舌、とか。どうしていいか、わかんなくて……」  おしえてください、と小さな掠れる声で恥ずかしそうに囁かれて、理性を保っていられる筈も無い。  どうして壱はこんなに簡単に唯川のテンションを上げてしまうのだろう。  それが全て無自覚な言葉だというのが、恐ろしい。しっかりと腰を抱き、引きよせて、くらりと力の入らない壱の身体を支える。 「あのね、アイスキャンディー舐めるみたいに。舌だしてごらん? うん、そう。でね、ゆっくり、舐めるみたいに――……、ん、ふ…………ぁ、うまいうまい。……きもちわるくない?」 「へいき、です、でも、なんか、おかしくなる、かも。……こし、ぬけそう」 「ふふふ、おれもです。どうしよう、二人で動けなくなったら、とんだ恥だね。でも、もうなんでもいいよ。壱さんだいすき。ちょうかわいい。こんなとこでファーストキス奪ってごめんね?」 「……どこでもべつに、いいですよ。ちゃんと唯川さんがもらってくれれば」  そんな風に凭れかかってくる壱は可愛くそして格好良く、唯川は勝手に一人でのぼせあがってぎゅっと抱きしめたくなる気持ちを我慢するのに大変だった。  それでもいい加減日がくれそうだ。流石に、こんなところで愛を囁き合うのもどうかと思う。離れがたかったが身体を離し、とりあえず帰ろうかと笑うと照れたように頬笑みが返ってくる。  がっついた自覚のある唯川は非常に恥ずかしくてたまらなかったが、壱が指を絡めてくれたのでどうでもよくなった。 「どうしよう。……俺、ちょっと流されちゃったかなーって思ってたんですけど、なんか、今キスして思ったんですけど、……思ってたより、唯川さんのこと好きみたい」 「……壱さんすぐそうやってー、おれを舞い上がらせるんだから、ちょっともう、おうちまで口開くの禁止、禁止。道端でまたキスしたくなっちゃうでしょ」  熱い頬を冷やす様に、ぱたぱたと手で煽いでも熱は暫くは消えてくれなくて、でも手は離したくなくてまったくもう付き合いたての高校生かと、内心つっこんでみてから相違ないことに気が付いてまた熱が上がった。  そういえば、きちんと人間に恋をしたのは初めてかもしれない。  コンプレックスだらけだった高校時代は、とにかく自分に自信がなかったし、気になる異性はいたけれど、焦がれる様な思いはしていない。それからはずっと、偽ることに一生懸命で、ついに髪以外にあまり興味を持たなくなった。  紛うこと無き初恋だ。  そして言うまでも無く、キスが初めてだという壱も初めての恋人となるのだろう。  それに思いあたると、足の裏からじわじわと、痒いようなそわそわとするような気配が這い上がってきて、無性に地団太を踏みたくなった。  ビルの隙間から這い出して、人通りが少ない道を歩きながら、地団太を踏む代わりに空を仰いで『あーあー』と声を上げる。  そんな唯川に、指先だけ手をつないだままの壱は、不思議そうに首を傾げた。 「……ショートしちゃいました?」 「んーん。違う。でも、しそうだなって、思って、ちょっと発散。えーとね、あはは。そのー。……おれ、初恋かもって思って」 「………………ショートしそう」 「でしょ? ほら、もう、早く帰ろう。そしたら誰も見てないし、思う存分奇行に走れる。あと、どのくらい触っても平気なのかとか実験もできるわけで」 「え。え……え? ええと。……お手柔らかに、お願いしたいんですけど」 「大丈夫大丈夫、だっておれ、結構本気で壱さんがそこで笑ってるだけでちょうハッピーだもん。えろいことなんかしたら死んじゃうから、大したことできないよー。初恋純情ボーイですからねー」  ふふふと笑うと、壱が微笑む。  ふわりと笑う顔はやはり唯川が好きな柔らかい顔で、思わず見惚れていると『ゆいかわさんかわいい』と真っ向から言われてしまってまたショートしそうになった。  触ってもいいと、言われたけれど。  これでは、自分の方が触ることに躊躇しそうだ。好きすぎて、どうにかなってしまいそうだなんて、本当におかしい。  そんな事を考えながら、また熱い頬を手で煽いだ。  恋とは、どうやら熱いものらしい。  唯川は二十六年生きて、ようやくそれを知ることとなった。

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