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第1話

 ぼうっとしてたら春が過ぎた。  その後来たのは台風だった。 「どうもぉー。こんにちはーハジメマシテ? ああ、はじめましてですねぇー、ツバメキャッシングと申しますー」  狭い1Kアパートの玄関の先に立った男は、ひどくにこやかに小首をかしげつつ自己紹介をした。  対する千春は、扉を開けた格好のまま、片足だけ玄関先のコンクリートを踏んだ状態で固まるしかなかった。  新聞の勧誘か宗教かと思ったが違ったらしい。そもそも新聞も宗教も特に歓迎はしていなかったが、ここのところ家から出る事も稀で判断力が鈍っていた。少し人恋しい気持ちがあったのかもしれないし、逆にいらついていたのかもしれない。  来訪者が誰であれ、近所のおばさんじみた人間なら多少の話相手になるだろうし、高圧的な若者なら八つ当たりができる。玄関を開けるまではそんな事を考えていたような気がする。  しかし目の前の男は新聞の勧誘でも宗教のお誘いでも、近所の誰でもないらしい。  ツバメキャッシング、というものに全く心当たりのない千春は、端整な眉をひそめつつも『ついにワンクリック詐欺は訪問形式にまで発展したのか』などと、ぼんやりとしたボケをひとり心中で展開していた。  昔から顔に似合わずぼんやりしていると言われる。特に動作が遅いというわけではない。おそらくぼんやりではなく、うっかりが多いのだ、と、二十七年生きてやっと自分で気が付いたくらいには、深川千春はぼんやりした男だった。 「まぁまぁ、とりあえず名乗らせていただきますねーワタクシコウイウモノでゴザイマス」  そんなぼんやりした千春のぼんやりした顔の前に差し出された名刺は、パステルグリーンの爽やかな色の紙に、ツバメのマークが印字してあるものだった。 「海道、陣、さん」 「はいどうも、改めましてツバメキャッシング経理営業庶務雑用担当の海道と申します。まあワタシの名前は置いときまして、ちょっとお時間よろしいですかねーよろしいですよね?」  大男という印象でもないが、それなりに身長のある千春よりも数センチ高い。ネクタイは締めず、ストライプの開襟シャツの上にスーツを羽織っていた。まるでヤクザだと思ってしまうのは、海道という男の顔が妙に剣呑に見えるからだろう。  にこにこと笑顔を崩さないが、目が笑っていない。  やっとじわりと恐怖心が湧いてきたが、今更扉を閉めて居留守を使うわけにもいかない。何より男はしっかり玄関内に侵入してきてしまっている。  一人暮らしを始める時に、健在だった母親にやたらと心配された事を今更ながら思い出した。  家の扉はチェーンをつけて開ける事。チャイムが鳴ったら返事をする前にまず誰が来たのか確認すること。戸締りは三回確認すること。  オンナノコじゃないんだからと苦笑したことを覚えているが、今は母の言いつけを習慣付けなかったことを後悔するしかなかった。  仕方なく、千春は現実に向き合う。  にこにこと怖い笑顔を浮かべる男から貰った名刺をもう一度眺め、そのロゴにも会社にもこの男の名前にも心当たりがない事を再確認しながら、首を傾げて寝起きの頭を捻った。 「…………キャッシング……、あー……金融? 融資?」 「あっはは無職のニートさん個人に融資のお誘い営業するほど我が社はアホンダラでも奇想天外でもないですよー残念! 金融っていうのは大正解。その様子だとホントに何も知らない感じですねぇうははマジですか本気ですか逆にすごい」 「え。え? ええと、おにーさん、金融屋さんで……おれ別に借金とかしてない、筈ですけど」 「うーん残念なお知らせですが実は先月末の時点で身に覚えのない借金が深川様の貧相な肩にどーんとのっかっちゃってるんですがとりあえず諸々のご説明したいんでちょっとお邪魔して宜しい感じです? 中々にショッキングなお話なのでご近所さんの目も考慮しまして、あ、別に乱暴とかいたしませんので。痛めつけてお金払ってくれるのはお金を持ってる人だけですからねぇ。むしろ五体満足じゃないとこの先のお話ができませんし」  不穏な単語がありすぎて、眩暈がした。  うっかりしているとは思うし、多少ぼんやりしているとは思うが、千春は頭が悪いわけではない。それなりに思考することはできる。  暫く無言で自分の人間関係と行動を思い返した後、額に手を当ててしゃがみこんだ。 「あー……あ~……加藤サン、かな……」 「はい、正解でございます。上がっても?」 「……どうぞ。奇麗でもないですけど」 「いやー二十七歳独身男性一人暮らしでいつ何時でもすっきりピカピカって方が恐ろしいですよー。おじゃましまーす」  目は笑っていない癖に、やたらと陽気に言葉を連ねる男だった。  少しだけ声のトーンに独特ななまりのようなものを感じる。もしかしたら日本人ではないのかもしれない、と考えて、余計に千春の眩暈は増した。  千春が会社を辞めたのは、加藤という女性が発端だった。  たいして大きな会社でもなかったが、特別ブラックというわけでもなかった。残業はあるがきちんと超過時間分の給料は支払われたし、一人暮らしをして尚且つ貯金ができるくらいの賃金は貰っていた。新卒で採用されてからこつこつと働いてきた。苦手な上司も後輩もいるにはいたが、表向きいじめ等もなく、恙無く労働できる環境だった。  件の加藤は派遣社員として去年の秋口に千春のフロアに配置された。  笑った顔がかわいいと同期の間では人気だったが、千春は彼女に興味はなかった。そもそも女性全般を恋愛対象としていない。友人にすらカミングアウトしていないこの性的指向は、勿論会社でも徹底的に秘密にしていた。  そんな千春が、何故か加藤のターゲットになってしまった。興味を示さなかったのが悪かったのか、ただ単に好みのタイプだったのかは今となってはわからない。  わからないがとにかく壮絶な恋愛トラブルに巻き込まれた上、これ以上この会社で働くことはできない、と千春自身が判断して辞表を書く事態にまで発展してしまった。  夏前までは普通に仲の良い同僚だったのに。  そもそも彼女とよく会うようになったきっかけは、今付き合っている彼氏に暴力を振るわれていて困っているという相談を受けたからだ。それも率先して訊いたわけではない。たまたま残業していた日に、腕から覗く傷が見えた。  化膿している傷跡を放っておくわけにもいかず、軽い手当をしている間に加藤は滔々と不憫な人生を語りだしたのだ。  彼と別れて新しいアパートに逃げたいが、お金が無い。借金しようにも、派遣で働き始めた自分はまだ社会的信用がないからお金も借りられない。  本来ならばここで『じゃあ自分の家においで』という流れになり、付き合い始めるきっかけになるのかもしれないが、そういうわけにもいかない千春は保証人くらいなら、と、書類にサインをした。――ような、記憶がある。  その後に起こった退社騒動のせいで、すっかり記憶の彼方に追いやっていた。 「じわじわと思いだしていただいているようでワタクシ的にも大変ありがたいですねー。いやぁまさか本当にお忘れなのかと思って冷や冷やしましたよーもう。まあ、実際連帯保証人でもないですし、目の前できちんと働いていた女性がまさか自己破産申請して免責が通っちゃうなんて考えもしませんよねぇわかりますわかります」 「じこはさん……めんせき……」 「あれですかね、深川様お顔に似合わずちょっと頭がアレなお方? それとも寝起きとかです?」 「…………寝起きじゃなくてもパーンってなりますよ……」  海道には日常的なことかもしれないが、千春にとってはまさに寝耳に水だ。  ぺらぺらと陽気に喋る金融会社の男の説明によると、加藤希未は五月に多額債務による自己破産申請を提出、裁判所に認められ先月末に免責許可が下りたとのことだった。  これで加藤自身の財産は差し押さえられたが彼女に対する債務はほぼ帳消しになる。しかし保証人の千春の支払い義務は、加藤が自己破産しようが消えることはない。  この説明を多少乱雑な自室の真ん中で受けた千春は、さすがに額に手を当てた。  人生何が起こるかわからない。ドラマのような出来事も、映画のような出来事も起こりうる。  それは、三年前に母が難病で他界した際に実感したことだったが、まさかいきなり身に覚えのない借金を背負わされるとは思ってもみなかった。  しかも千春は職を失ったばかりである。新しい就職先の目星も付いていない。失業保険はどうやら出るようだったが、自己都合の退社扱いになっていたのでまだ受け取りすらできていなかった。  自分の貯金でどうにか払えないものか。  実際に彼女が借りると言っていた金額は、家具代と敷金礼金を合わせて三十万円と聞いていた。書類の金額欄をチェックした記憶はないが、その程度なら払えないこともない。  おいくらですかね、と声を絞り出した千春に対し、テーブルの向かいにきちんと正座したにこにこ顔の男は、奇麗に通る声で絶望的な台詞を返してきた。 「利息含めてまあ大まかに五百五十万ですかねぇ」 「ごひゃ……!?」 「ちなみにうち古き良きトイチなんですけど元が二百ちょいなんで、まあこうなりますよって話ですね。はす向かいのサンクレジットさんはトゴなんで、もしあちらでお借入れなさっていたら今頃大変なことになってますねぇ。いやー加藤様のご契約分がうちで良かったですねー」 「……闇金かよ…………」  思わず呟くと、あらら失礼な、とおどけた声が返ってくる。 「当ツバメキャッシングは無理な取りたてもいたしませんし至極まっとうにお金をお貸ししていますよ登録出してないんでヤミキンって言われちゃうとまあその通りですけれど。至極マジなお話ですけれど現実として理解してますかね? なんかあんまり動揺してらっしゃならないみたいですけれども」 「めいいっぱい動揺してます……あんま顔に出ないタイプなんです…………」 「あら本当に。なら良かった。その素敵なお洒落ゆるふわヘアーと同じく頭の中身もふわふわしてたらどうしようかと」  喧嘩を売られているのだろうか、と思ったが実際にホイホイと保証人のサインをして、身に覚えのない借金を背負ってしまった阿呆は千春自身だ。馬鹿にされても仕方がない。世界を呪う前に自分の馬鹿さ加減と加藤を呪うしかない。  貯金を充てたとしても何百万単位で借金は残る。  親に借りようにも、要介護となってしまった実家の父親には財産などない。むしろこれから金が必要なくらいだ。  一刻も早く就職先を見つけて返済計画を立てないと、利息は膨らむ一方だろう。それは理解できるのだが、とにかくパニックと絶望と自己嫌悪で頭が働かない。  見た目はヤクザの下っ端のような男だが、海道は確かに暴力に訴えるタイプではないらしい。若干言葉の端々にちくちくとしたとげのようなものを感じるが、それでも千春の中の闇金のイメージからすれば天使の様だった。  いつまでも机の上で絶望していても仕方がない。  そう頭を切り替えるまでに五分ほど使ってしまったが、前向きにどうにかしようと思えただけでも褒めてほしい気分だった。  それなのに、返済計画を立てるのは就職してからで良いですかと切り出した千春に向かい、にこにこと笑ったままの海道某は首を傾げながら首を振った。 「いやそれがですねぇ、うちもちょっといろいろ事情がありまして出来ればサクサクと完済していただくか、それとも労働でお返ししていただくかの二択を迫らせていただきたく――」 「……労働?」 「はい。労働ですねぇ。身体で返せっていうんですかね? ちょうど良い事に深川様は只今絶賛ニート生活でしょう。これはもうワタクシ共の提供するお仕事についていただいてワタクシ共監視のもとさっくりとお金を返していただいて、その後に再就職するもよし、ご実家に帰って介護生活を送るもよし、という人生設計かつ返済計画を提案させていただきます」  つまり、強制的に労働させられるという話だろうか。  一瞬タコ部屋という単語が脳裏をかすめたが、真っ青になる千春にはお構いなしに海道は部屋をぐるりと見回し、キッチンを眺めるように首を伸ばした。 「深川様は自炊なさる感じですかねー。一応包丁まな板調理器具一式は見えますが」 「え。あー……まあ、自分で食べるモノくらいは」 「大変よろしい。問題ないです。掃除はまあ、多少不器用でも時間があればできるものですしねぇー料理が一番ネックだったんですよう。基本的に現代男子はコンビニを冷蔵庫と勘違いしがちですからねーまあボクもそうなんですけど。ようし、それじゃあ春さんには本日から新しいご職業についていただきます」 「はるさん……っえ!? 今日から!?」 「ええ、今日から。もうボク、コンビニのお弁当には飽き飽きなんです」 「……ちょっと何言ってんのかわっかんないんですけど。え。海道、さん? おれ、一体何になるの?」 「何ってそりゃ我が事務所の家政婦です」  あと海道って苗字大変嫌いなのでこれからは『ハイエン』って呼んでくださいね、と、にっこりとほほ笑まれた。  これが、ハイエンと名乗るどう見ても怪しい金融業者と出会った日の出来事だった。

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