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第2話
「このままだと身体が蕎麦になると思うんですよねぇ」
ずるずるととろろ蕎麦を啜りながら、海燕はひとりごとの様にぼんやりと呟いた。
テーブル向かいで月見蕎麦を啜っていた轟は、しれっとした顔でしゃーないだろと言い放つ。
いつも感情の籠らない淡々とした声で喋るこの上司兼社長は、見た目だけならばそこらへんのインテリヤクザにも負けないだろう。
短く刈り込んだ髪の毛は白髪が目立ちグレーにも見えるが、それがまた渋く、メタルフレームの細い眼鏡とよく似合っていた。細身のスーツが厭味に見えない。
険のある視線で睨まれたら、女性などは悲鳴をあげてしまうだろう。
それでも本人に凄んでいるという自覚はなく、不機嫌というわけでもない。ツバメキャッシングの社長である轟金造は、普段から表情を崩さずに月見蕎麦を啜る時でさえも非常に絵になる男だった。
「紺野屋が一番ちけーんだから我慢しろや。おお瀬が火曜定休なのがわりーんだよ」
「おお瀬もラーメン屋じゃないですかーもう麺ばっかりじゃないですかー」
「うるせー小僧だな、お前がインスタント飯に飽きたっつーからわざわざ連れ出してやってんだ、飯くらいうまそうに食え」
「とろろ蕎麦は大変美味ですよ一週間連続食い続けなければっていう枕詞が付きますけどね。あーもうおトメさんのお腰がアレなばっかりに……おトメさんの味の薄い味噌汁が今は恋しいですよぅ……」
「八十のばーさんにきばれって言い続けるわけにもいかねぇからなぁ。味噌汁くらい自分でつくれねーのか海燕」
「できないことはないですけどね、こと料理に関しては大して器用でもないのでお時間かかるんですよ。その上何故かくそ不味い。シャチョーの味噌汁だって壊滅的な味になるじゃぁないですかー。加えてそんなことしてる暇があるなら働けってうちのシャッチョさんがケツを蹴るわけで」
「正論だろうが」
「正論ですけれども。蕎麦に飽きたっていうボクの意見も考慮してほしいわけです」
かれこれもう一週間は昼食に蕎麦が続いている。その前はレトルトのドリアでその前は親子丼の出前だった。このままではいつか弁当チェーン店の唐揚げ弁当の順番が回ってきそうだ。
夕飯と朝食をほぼ出来合いのものですませている海燕にとって、事務所で摂る昼食が唯一のまともな食事だった。
そのまともな食事を日々作り続けていた留子は、古き良きお手伝いさんの様な存在だった。
特に由縁のある人物でも正式な従業員でもなく、ただツバメキャッシングのビルの裏の長屋に住んでいるというだけだった。
それでも事務所を構えてから二十年、休まずに通い続けた留子に轟は感謝していたし、海燕も頭が上がらない。若干味は薄めだった上に、たまによくわからない崩れた煮物のようなものを出してきたりもしたが、留子の料理は決してまずくはなかった。
その留子が腰を痛めてしまったために入院したのは夏前の事で、この二カ月、海燕はどうにか外食とレトルトで生きているような状態だった。
料理が出来ないわけではないが、如何せん時間がかかる。三分クッキングの中には調味料を計る時間や食器を洗う時間は組み込まれていない。その上うまいか不味いかと言われたら、微妙に不味い寄りのモノが出来上がる。
たった二人しか社員がいないツバメキャッシングは案外というか、当たり前だが忙しい。
仕事に追われる轟と海燕としては、外食の際の待ち時間ですら勿体無いと思ってしまう。
「もうアレですよシャチョー、いっそ事務所移転しましょ。もう一本向こうの大通りならもうちょっといろいろ飯屋もあった筈ですよ」
六日目の蕎麦を食べ終えて、確かにうまいのだけれど飽きたという正直な感想のまま手を合わせた海燕は、灰皿を手繰りよせて煙草に火をつけた。
最近あまりにも不健康だと思い始めた海燕は、轟に倣い煙草は食後の一本のみと決めていた。
「あっちはシマがちげーんだよ。それと金もねえ。夜逃げもなく返済の滞りもなく客が菩薩みてーな寛大さで泣言ひとつ洩らさず利息きっちり払ってくれたら、今頃事務所移転どころか社員も五、六人増えてるだろうよ」
「土台無理なお話ですねぇ、ボクは別に泣言連ねられても問題はないですけれどお金を払ってくださらないことにはお客様が泣こうが笑おうが意味ないですからねぇー。ていうか社員は採る度に一カ月コースでやめるじゃないですかー売上関係ないでしょー」
「海燕がうるせーからだろ」
「シャチョーは新人サンに対して寡黙すぎますよー。ボクのせいイクナイ。あとできればお仕事を手伝ってくださる即戦力よりもご飯を提供してくださるサポーターが欲しいわけで」
「あー。それ、男で良かったら調達できるかもしんねーぞ」
「はえ?」
いつもと同じテンションで海燕と同じく煙草に火をつける轟を前に、思わず気の抜けた声が出てしまった。
昔からついついオーバーリアクションになり気味な海燕は、やたらと首を傾げてしまう。おそらく大陸の血が混ざっているせいで、顔付きが日本人とは少し異なる。虐められるような事はなかったが、自衛の為に積極的に道化キャラを演じる事に慣れてしまった。
陰気な外国人よりは、おどけた楽しい外国人の方が好まれ易いだろう。実際は父親しかはっきりしていないため、本当に日本以外の血が混じっているのかはわからない。調べようとは思わないし、どうでもいい。
きちんと就職したいならば別だろうが、叔父である轟の会社で働いている限りは、海燕が日本人だろうが外国人だろうがどうでも良かった。海燕は轟が好きだ。轟の会社も仕事も好きだ。この先転職する気もない。
中学卒業と同時に家を出た海燕を拾ってくれたのは轟だ。その恩もある。
ただ、ここまで海燕を育ててくれた轟に唯一不満があるとすれば、それは絶望的な料理の腕前だった。
自他共に認める器用人間の海燕も、なぜか料理はうまくできない。唯一成功するのは焼売のみで、他のものはオムライス程度でも何故かうまくいかない。これはもう海道家の呪いなのかもしれない。
「男の家政婦ってなんですかそれ新しいゲイビデオ産業にでも手を出すつもりです?」
「AV作んならフツーに女使うわ。何でもかんでもお前と同じ趣味にすんな」
「いやーボクはああいうビデオ系ってあんまり好きじゃないなぁー。台所プレイには興味ありますけど。じゃあまっとうな家政婦サービスついに契約するんです?」
「あいつらうちをヤクザの事務所かなんかと勘違いしてっからダメだ。ブラックリストに載ってんのかしらねーが、門前払いしてきやがる」
「あ、ついに人身売買?」
「……あー。まあ、ちけーかな。加藤なんとかって女いただろ。きいてもいねーのにめそめそ泣き出して人生不幸語ってお前にけちょんけちょんに化けの皮剥がされてた女」
「…………いましたっけ? それ何時ごろのアレですかね」
「春先か?」
「わぁ半年前。あーあーいたかないたかもしれない。ってかボクがこの程度のイメージしか持ってないってことは別に特に問題ない返済してた客なんじゃないです?」
物覚えは悪くない方だ。その海燕が忘れるということは、あまり頻繁に名前が上がらないような、つまりは問題のない客だと推測できる。
「夏の終わりまでは普通に返済してたよ。それが昨日自己破産通って免責出たっつって通知届きやがってな。調べたら保証人の男が今無職だ。ついでにちょっと面倒な事になってるみてーだから、いっそうちの家政婦にしちまおうかと思って」
「……すいませんぜんっぜんわかんないですわシャチョー話端折ってるでしょ? ちょっとボクの食生活に関わるんで真面目にお話してくださいよ」
「帰ってから説明すんよ。すげー面倒くせえから。とりあえずきたねーオッサンとかじゃねーしよぼよぼとかでもねーし、まあチャーハンくらいはできるんじゃねーかって思うし、一回お前会って来いよ」
これ保証人、と渡された写真の中央には、コンビニから出てくると思わしき若い男が写っていた。
あまり精気がないように見えるが、ごく普通の男性だ。
「深川千春、二十七歳。加藤某とは同じ職場だったみたいだが夏の終わりに深川は退社している。現在無職。個人的な借金とかは無いみたいだな。貯金でとりあえず職探してるって感じか」
「アララ、いっけめーん」
「……喰うなよ?」
「くいませんよーホモに尻狙われて怖いからとかいう理由で逃げられたらボクの身体が蕎麦になっちゃう恐怖再来ですからね。あとイケメンはーまあ嫌いじゃないですけどボク的にはもうちょっと抵抗してくれそうな細マッチョの方がこう、むらむらくるというかー征服欲がもやもやしちゃうっていうかー年上っていうのは問題ないんですけーどねぇ」
「警察の世話にだけはなるなよ……」
「なんの心配してるんですかそんなアホなことしませんってば。今はお仕事楽しいので左手がお友達で十分ですよう」
にっこり笑って煙草を灰皿に押しつけつつ、利き手で輪を作って見せれば、轟の口から煙と一緒に溜息が洩れた。
海燕が口にした事は事実だ。
ここ数年恋人と呼べる人間は作ってはいない。セックスフレンドがいないわけではないが、特別性欲が抑えられないと感じる事は無い。恋をしたいとは思わない。というか、そう思える人間にそうそう出会わない。
毎日毎日、借金返済に疲れ切った人間や、裏社会の人間にまぎれて居れば、人間不信気味にもなるというものだ。
とりあえずはその仕事をこなす為に、日々の食事を作ってくれる人間が必要だ。
もう一度写真を眺め、海燕は頬杖をついた。
「このイケメンの得意料理がとろろ蕎麦とかじゃないといいんですけどねぇー」
「まあ、料理出来なくても掃除くらいはできるだろ。お前のデスクとベッド上汚すぎだろ。五十のオヤジに掃除しろよとか言わせんな」
「ええー。仕事はちゃんときっちり出来てるからいいじゃないですかぁ。ボクだめなんですよねー整理整頓できなくはないけど面倒くさくて駄目。料理は面倒以前に出来ないんですけどね、アハハ!」
「うるせーから笑うな。せめてお前が有能な嫁さん見つけられたらまだマシだったのによ……父親は屑みてーな女ったらしなのにな、なんで息子はホモになっちまうのかな……」
業かね、と、呟いて、残った蕎麦茶を飲んだ轟は席を立った。
海燕は母親が誰か知らない。父親は轟の実兄にあたる人物だが、殴られ罵倒された記憶しかない。
初めて轟に会った時には、殴らない事にまず驚いた。父親が連れてくる人間は、おもちゃのように海燕を殴った。そういうものだと思っていた。
女にだらしない最低の親だった。あまり会わない兄が二人存在するが、各々母親は違うと聞いた。
海道の家の人間は、気が狂っている。
その業を、俺もお前も背負っている。
……めったに飲まない酒を飲んだ時に、轟は必ずこの言葉を口にする。
業だとしてもなんだとしても、今自分はとりあえず不自由なく生きている。
胸を張れる職業ではないのかもしれないが、叔父を尊敬しているし、仕事は楽しいと思う。毎日忙しいのは大変良い事だ。
ついでに満たされる食事ができれば言う事は無い。
恋人などよりも、そちらの方が大切だった。
「花より団子ですよねぇ。でもボク団子あんまり好きじゃないナァ、団子だったらきりたんぽ鍋の方がイイなぁ」
「秋田行け」
暖簾をくぐりつつ心にもない言葉を返してくる上司に笑いながら、旅行に行くなら沖縄がいいと適当な言葉を返した。
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