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第3話

 今まで千春は、自分の事をずぼらで、潔癖とは無縁の人間だと思っていた。 「……うわー」  その見解はどうやら誤りだったらしい。そう思い知らされたのは、突然現れた金貸し業者にまるで人攫いのように連れて来られた古いビルの三階、『ツバメキャッシング』という少し剥がれたロゴが印字されたドアの向こう側でのことだった。  部屋に入って手前に、応接用と思われる皮張りのソファーと硝子テーブルがある。見るからにヤクザ映画のセットの様で笑いそうになってしまったが、なんとか耐えた。が、その気配はどうやら傍らの男にはばれていたらしく、わざとらしく肩を竦められた。  この日本人かどうかもわからない男は、やたらと演技がかった動作をする。 「ボクの趣味じゃないですよ? ボクも再三ねぇ、お客様が恐縮なさるからこのソファーせめてもっと爽やかな色にしてテーブルも白とかにしませんかねって進言してるわけですよー。それもシャチョーの『金がない』の一言で一掃されちゃうわけですけどねぇ。まあこのヤクザ風事務所とシャチョーのドスの利いた風貌でビビって逃げるようなまっとうな人間はまっとうに銀行に頭下げてお金借りてくださいって話ですけども。あ、今その顔面凶器のシャッチョさんは集金でお出かけナウなのでビビらずどうぞー」 「……他の、社員さんとかは……」 「あっはは! そんな素敵なものがいらっしゃれば事務所に家政婦なんて雇いませんよー。シャッチョさんとボクのお二人ぼっち営業ですんで、覚えやすくてイイですよねー。あ、そっちボクのデスク。ちょっと春さん露骨に眉を寄せるのやめてもらえます?」 「これ座るとこあるんですか……」 「ないですね~ないから最近はその硝子テーブルでお仕事してますね~」  ハイエンと名乗る男のデスクは、応接ソファーの奥にあったが、千春はそれが仕事机だと気が付かなかった。すっかり物置か何かだと思った。  とにかくそのくらい乱雑で、本やら紙やらファイルやら筆記用具やら、あげく皿なども隙間から見える。一体どうしてこうなったのか、その過程の想像すらできない。  特別奇麗好きというわけでもない千春が絶句していると、目の前でひらひらと手が振られる。 「はいはい春さーん戻ってきてー。このくらいで自失してたらもう大変ですよーこんなもの前座ですからねーボク的にはナマモノ混じって無いんでこれはセーフな方ですんで。あとまぁ春さんにお願いしたいのはお掃除っていうよりもお料理の方なんで、最悪こちらのデスクは見ないふりで結構ですよー。……キッチンはちょっと、見ないふりはアウトかもですけど」 「なんかちょっと、不穏な臭いが、する気が、あの」 「あーやっぱりしますよねぇ。最近慣れちゃってて、お客さんが怪訝な顔する要因が異臭なのかシャチョーの顔面なのかわっかんなくなってきちゃっててー」  けらけら笑いながらハイエンが案内してくれた奥の小部屋は、給湯室を改造したキッチンだった。  しかしハイエンがその部屋の扉を開いた瞬間、千春は思わず扉を閉めた。  ばたん、と存外に音が響きびくっとしたハイエンの手の上からドアノブを握り、渾身の力を込めてドアを封じる。ここは開けて良い部屋ではない、と、一瞬で判断した。 「春さーん、ほらほら手を離してー。現実を見ましょ? 今日からこのお部屋が春さんのお仕事場になるわけですよ?」 「あの、ほんと、早急に就職かバイト決めて絶対に五百万返すんで。逃げたりしないんで。だから帰っていいですか……」 「駄目。返すっていってもねぇ、利息で月五十は行くわけですよ。これなかなかですよ? 今借入も上限ありますからねぇ、年収の三分の一までしか通常は貸し付けてくれない。じゃあ闇金ってなるとうちは良心的な金利な方ってわけです。あとはもう水商売が一攫千金チャンス一番でかいですけどうーん男はどうしても需要がねぇ……」 「……ていうか、おれまだこの仕事の賃金きいてないんですけど、」 「アレ、そうでしたっけ? それは失敬」  ドアノブにかけた手を離さず引く力は抜かないまま、ハイエンはにっこり笑う。  千春もドアノブに手をかけて押し付けるように力をかけたままだった為、やたらと至近距離で笑顔を拝んでしまった。  相変わらずあまり本心から笑っているようには見えないが、先ほど自分のアパートの玄関で見た時よりは若干気さくに見えないこともない。  大陸系の薄めの瞼は一重だ。やたらと肌が奇麗で、ひとつひとつのパーツは薄めだが中々に整っている。普通に夜の街で声をかけられたら少しはどきりとしてしまうかもしれないが、今は異臭を放つキッチンの扉前での攻防中だ。色気も何もあったものではない。  ぎりぎりと力をかけながら、ハイエンはにっこりと首を傾げた。 「ええとですね、まあ詳しくはシャチョーの轟からお話と契約があるかと思いますが、お仕事は簡単な事務所の掃除と簡単な接客と昼食づくりですね。ていうか昼食づくりがメインです。それだけなんで基本的にお支払するという形の給料はお渡ししませんただし月々の利子は帳消しとさせていただきます」 「……それ、好条件過ぎませんか。さっき月五十万の利子が発生するって言ってましたよね。おれ騙されてませんか」 「いやぁボクもそう思いますよ。でもねぇ、自己破産された時点でもう結構諦めムード入っちゃうんですよねボク達。保証人とはいえ春さんは借りた本人ではないわけですし、連保でもないわけですから、シャチョーの温情ですかねぇ。あと春さんの個人的な収入源の話ですが、うちのお知り合いの夜のお店が大変な人手不足だというので、そちらの仕事を斡旋させていただきます。家政婦さんは昼飯さえ出していただければいいのでそれまで寝ていて結構ですし、夜ならお仕事行けるでしょ。どうですこれとっても素晴らしい条件じゃないです?」  確かに、今から仕事を探すことを考えれば好条件すぎる。  好条件すぎて怪しいがしかし、千春を騙して身柄を拘束したところで二束三文にしかならないだろう。親族は寝たきりに近い父親が一人。財産もなければ、大富豪の友人がいるわけでもない。  顔はどうやらイケメンと呼ばれる部類らしいが、千春は自分の顔面に価値があるとも思えない。相当整った顔でなければ、外見で商売をすることはできないだろう。今までひとつの会社でしか働いてこなかった自分に、特別な能力が隠れているとも思えない。  思い返せば本当に何もない人生だ。特別不幸続きだったわけでもないが、誇れるものもない。ぼんやりと生きてきたことを実感する。  千春はぼんやりしているから心配だと眉を寄せた母親と、春ってもんは後先考えないあの浮かれた気分がいいんだよ、と笑ったまだ元気だったころの父親を思い出し、少しだけ鼻の奥が痛くなった。  その隙に力が緩んで、ドアノブにかけていた手をハイエンに掴み取られてしまった。 「ちょ、いたたたたた!」 「春さんが力技で来るからですよー。あんまり手と手触れ合いすぎると恋始まっちゃいますからねー、はいはい開けますよー現実見ていきましょうよどうせ他に選択肢ないんですから」 「うでいた、ちょ、ほんといたい、離し、」 「逃げません? 絶対逃げません? 明日からボクとシャチョーにご飯作ってくれます?」 「作ります作りますから痛い……っ」 「春さん結構痛みに弱い系ですねー拷問とかされたらペンチ見せられた瞬間ゲロっちゃう下っ端みたいですねぇ。口約束も契約になりますからね? ボクねー約束守らない人大嫌いなんです。そういう人向けにもっと痛いこともたくさん知ってますんで、春さんは清廉潔白に生きてくださいねー」  やっと離してくれた手首を擦りながら、千春はげっそりした気分で溜息をついた。  なるようになれと思い、流されながら生きてきた。ただ今まで自分が生きてきた世界は、非常に緩やかな場所だったと思い知らされる。  ハイエンはまるで滝だ。蛇行もせず岸に上がることも許されない。千春はただ激流に飲みこまれたまま、落ちていく以外は何もできない。 「……ハイエン、さんって、あー……どS的な人?」 「どがつくか知りませんがまあそっちでしょうねぇという自覚くらいはありますねー。別に呼び捨てで構わないですよーボクの方が三つほど年下なので。敬語もまぁいりませんが、ボクはこれ癖というかキャラになっちゃってるんで、どうぞ春さんは好きなように話かけてくださって良いです。こちらも好きなようにいつもどーりやらせていただきますんで」  必死に千春を家政婦にしようとしている癖に、どうも千春自体にはあまり興味がないようだ。  必要なのは掃除をしてくれて昼食を作ってくれる人間なのだろう。そんなもの業者に頼めと思うが、流されすぎてこんなことになっている千春には、口答えをする勇気も権利もないように思えた。  急に借金が降ってわいたのは不幸だ。ただ、回避しようと思えば出来た話だ。千春が悪い。  その後に降ってわいたこの怪しい仕事は、果たして不幸なのか幸運なのか、まだ判断はつかない。 「ていうか、明日からって急ですね……ここ、まず掃除しないと使える状況じゃないんじゃ……」  先ほど一瞬だけ見えたキッチン内の惨状を思い返し呟くが、ハイエンは相変わらず軽薄な笑顔を浮かべるだけだった。 「そうですねー部屋の掃除は別に結構ですが、台所はまず使える状態まで掃除していただかないとですよねー。まあ掃除って言っても丸二日かかるわけでもないでしょ。明日までには終わるんじゃないですかね?」 「え。……今からやれってこと? や、ええと、それは別に構わないんですけど、あのー、掃除用品とかって、」 「現代日本って素晴らしいですよねぇ、百円均一というとんでもない文化が定着している。というわけで二本向こうの通りに百均がございます。二千円あれば足ります? あ、ついでにご自分の夕飯の買い物していただいても結構です。こちらはお金出ませんけど春さん貯金まだありますよね?」 「…………終電までに終わるかどうか」 「ここに住めばよろし」 「は?」  今ハイエンはなんと言ったか。一瞬理解できずにおかしな声が出てしまった。泊まる、という表現ではなかった。住むとはどういうことだ。  確かに先ほど家を出る際、貴重品類と身の回りのものを持たせられたが、ハンコや通帳は契約に必要なだけだと思っていたし、着替えなどは家政婦のテストでもあるのだろうかと思っていた。 「布団は、まぁうーんボクが調達しますかね。なんかどっかに来客用的な一式がしまってあったような気がしないでもないです。給湯室ね、まあ先ほどの惨状ではちょっとわからなかったと思うんですがそこそこの広さなのでそちら寝床にしていただいてもいいですし、この上の階がボクの部屋なんでそっちに転がり込んで来ていただいても別に構いませんね。なかなかの惨状ですけれども」 「さんじょう……あー、それ、は、汚い、という意味で……?」 「苦手なんですよねぇ掃除。細かい事務作業とかは好きなんですけどねぇ、なんでかなー」  激流すぎてうまく頭が働かない。  どうしてこうなった、と考えてもどれが要因なのかすらわからない。始まりは加藤との出会いだったかもしれないし、今日アパートの扉を開いてしまったことなのかもしれない。  この頭の痛い現状は滝だと思っていたが、洗濯機かもしれないと思い始めた。  ぐるぐると高速で回る水の中、千春は息すらままならず回転しているだけの衣服なのかもしれない。借金のめどがつくまで、身体が奇麗になるまで洗濯機は止まらない。……ああ、ハイエンは洗濯機だ。  そんなわけのわからない事を考えてしまうのもまた現実逃避で、頭の痛い現実である目の前の男は比較的奇麗な唇をにっこりとつり上げ、お手本のような笑顔を作った。 「まあまあ、とりあえずは買い物がてらメシにでも行きましょうか。今日のボクは半休いただいているので午後からはフリーでして、ご近所さんのご説明とかにお付き合いもできますし、大変心が抵抗してますけどお掃除のお手伝いも、嫌ですけどホントに心から嫌ですけど、できなくもないわけです。ついでに夜のお仕事先にもご挨拶に行きましょう」  そういえば夜は別の店の仕事に行け、と言われたことを思い出した。  この辺りは確かに怪しい店も多い。風俗に行かない千春からしてみれば、まっとうな水商売も無許可の水商売も区別なくアヤシイ店に相当するが、明らかに詐欺とわかるような看板を掲げた店を紹介されたらどうしよう、と、早くも不安が渦巻いた。 「……夜のお店って、水商売?」 「まー分類はそうですね。いやいやダイジョウブですよ裏方ですんで。いくら春さんがイケメンさんでも、ホストクラブでトップを目指せとか言いませんから。ていうか春さん女性相手にマクラとかできないじゃないですか」 「え、」 「だってゲイでしょ?」  さらり、と口にされ、千春は一瞬、息を忘れた。  全身の血液がすう、と引いていくような。体温が下がるような。不穏な衝撃に眩暈のようなものを覚え、けれどどうにかその場に立ったまま息を吸った。 「……………そういうの、興信所とかでわかるものなんですか」  すこし声が震えていたかもしれない。しかしハイエンは、そんな千春の様子は気にならないのか気にしていないのか、軽やかな口調のまま言葉を繋げた。 「いやいやまさか。春さんは隠すのが非常にお上手っていうか、一応現在お付き合いがある方が居ればそういうの込みで報告いただきますけど、今回はカンですかねぇ。同類のカン? あ、別に口説こうとか一晩どうですかといかそういう流れじゃないんで気にしないでくださいー、でもほら曲りなりにも同居人になるかもしれないわけでじゃあこう、身の安全は保障したいでしょ?」  恋とかしないんで安心してください、と笑顔で告げられて、そもそも人生の洗濯機の中で回されているだけで精いっぱいで、恋などまで意識が行かない状態であった千春は、どういう反応をしたら正解なのかまったくわからず『はぁ』と気の抜けた声を出してしまった。  まだ出会って数時間しか経っていない。  千春が考えていたような典型的闇金業者とは少し違う。多少強引ではあるが怒鳴りつけたり暴力を振るったりするわけでもない。問えば説明を返してくれる。最低限の礼儀はわきまえている。  それでも千春はこのハイエンという年下だという青年が、苦手だと思った。  その明確な理由はよくわからない。笑顔が怖いせいかもしれない。ところどころで無神経さをにじませる言動が不快だと感じたからかもしれない。  理由はわからないが、好きかどうかと問われたら苦手だと答えるだろう。  あまり近寄りたくない。  できれば今日いっぱい全力で掃除をして、どうにかキッチンに泊まりたい。ハイエン自らが汚いと自己申告する部屋に足を踏み入れるのも嫌だったし、この男と同じ空間で寝ることがどうにも嫌だった。  流されるばかりの千春にも、好き嫌いはある。  好みかどうかだけで言えば悪くはない男だったが、性格と職業諸々現状を考慮すると頭を下げられても、恋に落ちる事などないと思えた。 「まあ、ドウゾよろしくおねがいしますー。謙遜ナシでリアルに汚い事務所ですけれど、住めば都なんていう素敵な言葉がありますからねぇ」  都になるかどうかは、大半は千春の掃除の腕にかかっているのだけれど。  そう思いつつも無視する勇気も言い返す言葉も見つからず、仕方なくとりあえず百均に行きたい旨を主張した。  住む場所が都でも、周りの人間が引っ掻き回せば状況は洗濯機のままなのではないだろうかと思った。

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