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第4話

「ちったぁ優しくしてやれよ」  轟からそんな言葉がかかったのは、本日の業務をどうにかすべて終えた夜時のことだった。  珍しく帳簿が合わず、唯一奇麗に整頓してある請求書類の束をひっくり返し、どうにか帳尻合わせができたところだった。  個人経営とはいえ商品は『金』だ。きちんと管理していないと、どこで躓いてしまうかわからない。  そんな作業ですっかり疲弊していた海燕だったが、常日頃の癖でどうにも軽口を返してしまう。これに関しては業ではなくて性だと思う、今更直せない癖だった。 「まーまーひっどーいですねシャッチョーってば。ぼかぁ毎日チョー優しいじゃないですかー何を根拠に鬼畜みたいなそんな言い草ー」  轟の言葉には『誰が』『何に』という表現はなかったが、話題の中心が誰であるかは明白だ。  この事務所には今、轟と海燕の二人しか居ない。最近出来た同居人兼家政婦は、夜の仕事に出かけている。  その家政婦と海燕は、同じ住居に寝泊まりしつつも、妙な距離を保っていた。 「何を根拠にって毎日の生活態度だろうが」 「別に虐めていませんよ? 狙ってもいませんし一週間で早くもお昼のメニューが被り始めた事に関しても全く文句なんかないですし、むしろ味噌汁だけならおトメさんより格段に味があるごく普通の味で感謝してますし」 「……まあ、確かに虐めちゃいねーだろうが。なんかこう、なんかなー……お前、いつもはもうちょっとうまい事笑顔で流すだろうが」 「え。ボク、笑顔で流してません?」  若干驚き、つい真顔になってしまう。  海燕自体は毎日適当ないつものキャラを貫いているつもりだった。流石に轟相手では素になるが、留子がいた時も客と対峙している時も、そして今、千春に対しても同じような笑顔で流しているつもりだ。 「うさんくせー笑顔は確かにいつも通りだけどな、一言多いって感じだな。……チーの何が気に入らねーんだ?」 「いやぁ、別に気に入らないっていう明確な理由もないんですけれども。ていうかシャチョーはやたらと春さんの肩持ちますね、打ち解けるの早くないですかねー」  別に嫉妬でも何でもないのだが、轟が千春の事をチーと呼ぶ度に微妙な気分になる。  下の名前を呼び捨てにするのは馴れ馴れしいし女性の名前っぽいから嫌だとか、そんな面倒な事を言う中年上司に『チーとかどうですかねチャイナっぽくていいじゃないですかー』と提案したのは海燕だった。  さん付けも君付けも微妙だとごねていた轟は、この提案を思いのほか気に入ったらしい。呼ばれる方も悪い気はしないらしく、むしろ初対面で半歩引いていた千春は、あだ名で呼ばれるようになってからは轟に臆することはなくなったように見える。  確実に日本人顔と言い難い自分よりは、千春と轟の方がよっぽど叔父と甥のように見えるのではないかと思う。  こんな商売をしている割に人見知りの気がある轟が数日で打ち解けたのは、嬉しいことであり、ありがたいことだ。  轟相手にびくびくとする新人社員をフォローし続ける、という不毛な仕事を繰り返してきた海燕は、不安がひとつ消えて良かったと安堵している。  それなのに千春が轟に呼ばれて使いを頼まれる度に、どうしてか微妙な気分になる。 「……あー、これまさかオトーサントラレター的な独占欲ですかねー?」 「きもちわりーこと言うなよ。お前のオヤジは死んだものとして構わんけどな、俺はこんなかわいげのねー息子持った覚えはねーよ」 「うーんそうなんですよねーぼかぁシャチョー大好きですけど別に独占欲とかそういうんじゃないアレだと思うんですよねーじゃあなんでしょうねー別に春さん嫌いじゃない筈なんですけどねー」  書類を片づけながら、頭を捻ると上着を羽織った轟が窓の鍵を閉めていた。  海燕は同じ建物に住んでいるが、轟は裏の長屋に住んでいる。事務所の戸締りを確認した後、海燕は上の階に、轟はビルを出て帰路につくのが常であった。 「明確にビビられてるから、なんかむかっとするんじゃねーのか。人間ってあれだろ、自分の事嫌いなやつのこと、なんでか許せねーだろ」 「あー。ねー。あれ、なんででしょうねー。すんごい嫌いな人だって、その人がボクの事嫌いなの、嫌ですよねぇ。こっちそこすんごく嫌ってる筈なのに」  そういうことってありますよねと笑いながら、本当にそういうことなのかもな、と思った。  海燕は誰からどう思われようが気にしない、というのは本当だ。  けれどその『気にしない』というのは自分の気の持ちようであって、嫌われることによって受け取る感情とは別だと思う。  海燕は、好意と悪意を敏感に感じ取ってしまう。  悪意に晒され生きてきて、好意を求めて笑い続けてきた。  万人に好かれる人間になるには自分は少し狡猾過ぎて、自衛の為には優しくばかりしていられない。  嫌われることも多い。わざと嫌われるように仕向ける事もあるし、隠しきれない苛立ちがうっかり言葉に乗ってしまう事もある。まだ若い、と、轟に笑われるのはこういうところかもしれない。  確かに初対面の時は自分の状況もうまくつかめないような千春を目にして、この人の頭の中はスポンジか何かかと疑った。喚いたりしなかったが冷静に対処されたわけでもない。ただ流されるままに返事をして、ぼうっとした頭のまま拉致された、というのが実際の千春の感情ではないかと思う。  あーこの人馬鹿なんだなーと納得したら少し苛立って、言葉の端々がきつくなったような気がしないでもない。  頭の弱い人間は嫌いだ。約束を守らない人間の次に嫌いだと思う。  ただ、嫌いだからと言ってそれを要因に嫌がらせをしたりするのは海燕の好むところではないので、翌日からは心を改め、いつも通りさして興味のない人間としてのらりくらりと扱っているつもりだった。  しかし初対面の印象が悪すぎたのか、それとも別に要因があるのか、妙に避けられてしまっている。  千春を拉致してきた初日、掃除はなんとか日付が変わるまえに終えたものの、布団も掛け布団もなく、ソファーで寝るわけにもいかなかった為に結局海燕の部屋に連れ帰った。  人を招き入れる状態ではないことは百も承知していたが、事務所のキッチンの惨状を目の当たりにし、実際にそれと戦った千春にしてみれば、海燕の部屋など恐れるに足りないものだったらしい。もしくは疲れきっていたのかもしれない。  嫌がる様子もなくベッドで寝入ってしまったので、仕方なく同衾した。  翌日からは轟が運んできてくれた布団を海燕の物置として使っている部屋に敷き、そこが千春の実質的な寝室となった。  同じ屋根の下で寝起きしている上に職場も半分は一緒だというのに、どうも相性が悪いらしい。  会えば挨拶はするし、会話もする。大概は海燕が勝手に喋っているが、特別気まずい事もない。ただ轟から見れば、やはり千春は距離を測りかねているように見える上に、海燕も普段通りとはいえないらしい。 「嫌いなら嫌いでかまわねーけどよ。大人なんだから隠すなら最後までうまい事隠し通せよ」 「いや嫌いじゃないんですよホントに。好きかって言われたらわかんないんですけど」 「じゃあ好きになっちまえ。お前は先入観が強いっつーか、頭かてーんだよ。ゼロか百かって感じだろ。たまにはそのかてー頭を柔らかくして譲れ。そんじゃあ俺は帰るけどな、鍵は確実にかけろよ。あと明日、お前夕方はけていいから、チーと一緒にMISS・LIPSに行って来い」  急に出た店名に、海燕は珍しく目をぱちくりと開いて轟を仰ぎ見た。  MISS・LIPSは現在千春が雇われている店の名前だ。 「え、なんで、……ああ、おっけーです思い出しました。あれですねー新しく入って来たオンナノコがなんかちょっと借金地獄の匂いがするっていうリリカ嬢のタレこみの件ですねー忘れてましたねそんなのありましたね」 「うちは借金悩み相談所じゃねーしただの金貸しだしそこまで気遣ってやる義理もねーけどな、リリがうるっせーからなぁ……」 「シャッチョー、リリカ嬢に頭上がらないですもんねぇ。はいはい了解いたしました、ちょーっと顔出してさくーっと探り入れてまいりますよ」 「おう、頼んだぞ。ついでにチーとも交流深めて来い」  ちょっと折れて人間好きになってみろ、という台詞を最後に残して、轟は事務所を出てしまった。  残された海燕はひとり、そんなこと言われてもと苦笑する。  これでも幼少期に比べたら随分と柔らかくなった方だ。世界丸ごと滅べばいいのにと呪いながら生きていた事を、今も時々思い出す。あの頃は毎日が地獄だったし、多分いつか殴り殺されるものだと信じて疑わなかった。  地獄から救ってくれた轟は神様だ。人間らしい事を教えてくれたのは全て轟だったし、素直に好きだと思う。尊敬しているし崇拝している。  友人のような人間がいないわけでもない。対人の商売をしていれば人と喋る機会は増える。その中で交友関係が広がる場合も多い。  時々恋のようなものもする。結局今まで続いている関係はないが、何も感じない不能な男というわけでもない筈だ。今となっては世界が滅んでもらっては困ると思うし、特別人間が嫌いだという事もない。  人間嫌いでないのならば、やはり千春個人のことが気に入らないのだろうか。たいした接触もない距離感を保って過ごしているというのに、自分はあの比較的問題もなく働いているイケメンのどこが気に障るのだろう。  そんな事を考え始めてしまうとつい、ぐるぐると思考が纏まらなくなる。  ツバメキャッシングの営業時間は十一時から二十時までと一応は決まっているが、轟が帰った後に資料の整理に残ることもあった。急ぎの仕事がなくても、海燕は自主的にひとり残業をする。  ゴミの山のような自室に帰っても落ち着かないというのが主たる理由であるが、何かに集中している時が一番楽だった。  時々、どうしようもない事を考え始めて眠れない夜を迎えそうになると、海燕は電気を絞った事務所で一人、黙々と作業を始める。  社員が二人しか居ないツバメキャッシングの仕事は、探そうと思えば山ほどある。  気が付けば時計の針は進んでいた。海燕が手元の資料から顔を上げたのは、事務所前の階段を駆け上がる音が聞こえたからだ。  トントントンと規則的に上がってくる音は、一度事務所の前を通り過ぎ、その後立ち止まり数段戻ってくる。そしてまた数秒の間が開いた後に、事務所の扉が控え目にノックされた。  あーもうそんな時間かと、首を回しながら腰を上げる。無視しても部屋に居なければバレるだろうし、そこまで顔を会わせたくないと思う理由もなかった。 「やー。おかえりなさい、春さんー。おつかれさまですー」  ドアノブを回して扉を開けると、多少疲れた顔の千春がおずおずと海燕を見返してくる。  相変わらず若干びくつかれているが、あえて気にしないように心掛けて、いつも通りの笑顔を浮かべた。 「……ただいま。残業?」 「ていうか避難ですかねぇ。そろそろベッドの上すら寛げるスペースがなくなって来たもので。このままいくとボクの住居は四階から三階に移動になりそうですよー」 「その前に床抜けるんじゃないの……」 「んー。その説も一理ありですね。なんでボクの部屋ってあんなにモノがいっぱいあるんでしょうね? ていうか春さんお仕事はけるのお早くありません? まだ十時じゃないですかー」 「今日はシフトの確認だけだったんだけど、リリカさんにちょっといろいろ引きとめられて。……あー、夕飯、まだ食べてない?」 「あ。忘れてました。そう言えば空腹です」  まさか一緒にメシでもなどと誘われたりするのだろうか。そう思いつつ千春の出方を窺い首を傾げた海燕の前に、ずい、とエコバックが差し出された。  何か四角いケースの様なものが入っているらしく、ずっしりと重そうに見える。 「……なんですかねこれ。玉手箱?」 「開けてもじいさんにはなんないよ……あー、の、リリカさんの住んでるアパートのお隣の豆腐屋さんの卯の花を貰ってさ。それで、調理方法訊いたら、その場で料理教室始まっちゃって、えらいことになっちゃって」 「あらら、それはご愁傷様でした。あの子たち、悪乗り激しい系なところありますからねぇ。で、その代償として残ったのがおいしい卯の花のお料理?」 「……おいしいかどうかは、わかんないっすけど。作ったのおれだし」 「いやーボクやらシャチョーやらがお料理するよりは数段マシであることは確かでしょう。食べてないこと思い出したら急激に腹が減ってきました。もう面倒なのでここで一緒に食べちゃいましょー」  面倒と言うか、そもそも四階の自室の台所は物置と化している。海燕の部屋も似たようなものなので千春を招き入れて食卓を共にするようなスペースもない。  それを知っている筈の千春は少しだけ苦笑して、薄暗い事務所の中に入って来た。  随分と奇麗な状態になった給湯室から、千春は奇麗な小皿と箸を出してくれる。海燕が書類を片づけているうちに、熱いお茶も淹れてくれたようだ。  久しぶりに酒が飲みたいとも思ったが、今から買いに出るのも面倒だし、何よりおからを肴に飲むものでもないだろうと思い直して、硝子テーブル前のソファーに座って箸を持った。 「あれ。おからだけじゃない?」  バッグから出てきたのは御重ではなくタッパで、しかも三つもある。 「……大変だったんだから。リリカさんだけじゃなくて、マキさんとか絢さんとかー……もう控室総出で料理レッスン始まっちゃって、多分お客さん少なかったから暇だったんだろうけど」 「あいやー春さんすっかりおもちゃ扱いですねぇ。仲よさそうでなによりですけれど。それじゃーその努力の代償、心していただきます」  とりあえずおからの炒り煮を一口頬張り、しっとりとした口どけと甘辛い優しい味に目を見張る。  リリカの持ってくる卯の花がうまいことは知っていたが、これを作ったのが元サラリーマンのぼんやりした男だと思えば、驚きもする。普段の料理も不味くは無いが、リリカ直伝のレシピはやはり一味違うのかもしれない。  もくもくとおからを口に運び、鳥肉の南蛮漬けと茄子の味噌煮にも手をつける。  自分の皿は奇麗なまま、不安そうにこちらを見つめている千春を真正面から見つめ直し、箸を持ったままその手を取った。 「……春さん」 「え、はい。何? あ、なんかゴミとか入ってた……?」 「すごくおいしい。結婚しましょう」 「…………いや、しませんし、これ味付けは女性陣の言うとおりにやっただけだし、ていうか結婚しないから手離して」  あははと笑って思わず握った手を離して箸をもち直して、そういえば、轟以外と食事を共にしたのは何年振りかと考えた。  本当は、涙が出るほどうまいわけでもない。特別おからが好きなわけでもない。  けれどやはりしっとりと口の中でほぐれる卯の花は甘く優しい味がして、どうしてか浮ついた気分になった。

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