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第5話

「やぁーだ、キッチンスタッフの癖に同伴とか、嬢に喧嘩売ってんの春ちゃーん」  おはようございます、と声をかけて開いた控室のドアの向こうで、早くもメイクを終えた状態のリリカに紫煙と共に迎えられた。 「リリカさんに喧嘩なんか冗談でも売れないでしょ。アノヒトおれの客じゃないんで掻っ攫ってもいいですよ」 「勘弁してよー海燕なんて金払い厳しいの目に見えてるじゃん。ああいうきっちりしっかりした金銭感覚の男は恋愛するには良いけど、お客にしちゃダメねー。ていうかあいつ女に興味ないじゃん。おっぱいに興味無い男に何を武器に戦えっての」 「あー。話術?」 「却下。丸めこまれるの目に見えてるから棄権するわー」  煙草を吸わない千春はその煙を苦笑いで振り払い、フロアの方でマネージャーに挨拶をしているハイエンをちらりと見る。  今日はお前の店に用事があるからハイエンも一緒に連れてってやってくれ、と、轟に言われたのは昼過ぎの事で、やっと覚えた通勤路をハイエンと共に歩いてきた。  昼食に出そうと思った卯の花は、シャチョーには秘密にしましょうこれはボクの、とハイエンに取り上げられてしまい、結局昨日マキに習った茄子の照り焼き丼と高野豆腐の煮物になった。  どちらも調味料をきっちり計るような料理ではないが、それなりにうまいと好評だった。今まで適当にこなしてきた昼食づくりにも、妙な気合いが入ってしまった。  轟はいつも軽い労いの言葉と感想をくれるが、今日は特にハイエンもそれに便乗していたのが驚きだった。  ハイエンも確かに毎日ごちそうさまでしたと言ってはくれるが、必要以上に絶賛したりおだてたりはしない。軽薄に言葉を並べたてる割に、嘘は付きたくないタイプのようだ。  どうやら昨日の夜の卯の花が効いたらしい。  それを思い出して、リリカにそっと近づいた千春は、フロアに聞こえないように囁くように声をひそめた。 「……ていうかリリカさんの作戦大成功だった」 「ほーう。ほらほらやっぱり男は手料理に弱いんだって! おいしいご飯作ってくれて尚且つ一緒に食べてくれる人を嫌いになれるわけないじゃんーやっぱりリリカ嬢の卯の花は最高だってのー」  にやにや笑ったリリカは二本目の煙草に火をつけ、奇麗にルージュが引かれた唇をつり上げる。少しだらしない笑顔だが、これがフロアに出ると途端にただの美人になる。  元々恋愛対象ではないので女性に憧憬はないが、純粋な男にはこの職場は向かないと実感した。現にボーイ達はすっかり女性不信だと嘆いていた。  主にキッチンの手伝いと皿洗いと掃除要員の千春ですら、キャバ嬢の恐ろしさを実感している。  歓楽街の外れにある、MISS・LIPSはよくも悪くも特記することのない、ごく普通のキャバクラだった。  他の店と違うところがあるとすれば、比較的女性陣の仲が良いということかもしれない。  殺伐とした世界を想像して足を踏み入れたが、雇われているキャバ嬢達にイジメもなく、喧嘩もない。優しいかどうかと言えばそんなことはないけれど、少なくとも理不尽な事を要求してくる男性上司などに比べれば、至極まっとうな年下女性の言い分は頷ける事も多い。  まだ働き出して一週間程の千春だが、何故かマネージャーや店長に感心される。  ほとんど年下の彼女達に対して、千春は文句の一つも言わずに接している。どうやらそこを評価されているらしい。  千春にしてみれば、会社勤め時代の仕事もできない割に偉そうな上司や先輩に比べたら、キャバ嬢達はきっちりと仕事をこなしていると思う。偉そうではなく実際に偉いと思っていた。  特に店のムードメーカー的存在のリリカには、憧れさえ覚える。  本人は胸の大きさしか取りえが無いと笑うが、二十六歳という歳の割に笑うと幼く、少女のような雰囲気がある。話し上手で聴き上手な彼女の存在が、この店の女性たちが仲違いしない要因なのではないかと、千春は推測していた。  そのリリカに『海燕と同居してるんだって?』と訊かれたことが、昨日の料理教室のきっかけでもあった。  流されるままに何故か金貸し業者の事務所で働くことになってから、生活が一新した。  特に変わったのは住居で、拉致されるようにハイエンの部屋に転がり込む事になった。確かに千春のアパートからツバメキャッシングまでは距離があるし、MISS・LIPSの閉店時間の後に帰ろうとすると、終電もない。  何千万円ではないにしろ、一朝一夕で返せる額ではない。  このままツバメキャッシングとキャバクラで働いていくのなら、前のアパートを解約してこの辺りに引っ越してくるのが妥当だろうが、とりあえずは一カ月働いてみろと轟には言われていた。  それは構わないがしかし、どうして自分がハイエンと同居状態になっているだろう。  轟もハイエンも、事務所に住みこんでもいいと言ってはいたが、そもそも人間が寝起きすることを想定していない事務所の壁は薄く、布団を敷いたからといって眠れるようなものでもなかった。  仕方なくハイエンが提供してくれた一室をどうにか住める状態にしたが、もうすこし必死に抵抗して逃げていた方が良かったのではないか、と、思っていた。  借金は自分のものではない。サインをした時点で責任を負っているとはいえ、実際に金を使ったわけではないという気持ちはやはり残る。仕事も辞めたばかりのタイミングだった。どうせ水商売をすることになるのなら、都外にでも逃げてしまえばよかったのではないか。  この先結婚して所帯を持つこともないのなら、まっとうな人生をやり直そうと思わないのなら、そういう選択肢もあったはずだ。  そう思う度に、田舎の父親の顔がちらついた。  ……やはり逃げることはできない。  借金は自分のものでなくても返さなければいけない。  それしか選択肢がないのならば、できるだけ快適に日々を過ごしたい。幸い轟は見た目よりも常識的な人間で、怒鳴ったり理不尽な事を言ってくる事はない。上司としてみれば完璧に近い人間だ。  千春の新しい生活の主たる障害は、一日のうち大半を一番近くで過ごす男だった。  ハイエンとの同居はどうだと軽い気持ちで訊いただろうリリカに、千春は思いのほか深刻な顔で『嫌われているような気がする』と答えてしまった。  なんとなく初対面で苦手だと思ってしまったのが、尾を引いているのかもしれない。  特別何かされるわけはない。ハイエンは表向き非常ににこやかだ。けれどどうにも、微妙な壁のようなものを感じる。  その旨を控室のモップをかけながらだらだらと口にすると、煙草を片手に合の手を入れていたリリカは豪快に笑い『そんなのいつもの事だよ』と、ハイエンという人間についてレクチャーしてくれた。  曰く、人間不信で怖くて仕方がない癖に嫌われるのも駄目でへらへら笑ってるお子様、がハイエンだとリリカは笑う。  随分な言い草だと思い、嫌いなのかと問えば、また笑顔でハイエンのことは大好きだと言われた。 「見かけによらずくそ真面目。ぶれないんだよね海燕ってさー。マジで金貸しってより映画の中のカッコイーヤクザさんって感じ。轟サンがさぁ、見た目仁義人情って感じだから、もう相まってツバ金っていうか燕組って感じだよねぇあの二人。でも絶対嘘言わないからあたし好きだな。海燕が褒めてくれる時ってガチだよ。アイツ、頭かったいから、自分が思ってない事は口に出さないタイプだもんさ。その海燕がうまいっつったんだから、春ちゃんのハジメテの卯の花料理は最高に決まってんの。昔から思ってたんだけど、アイツ懐柔するならやっぱり胃袋からだわー屑みたいな食生活してんじゃん海燕。うまいもん好きな癖に」 「あー……わっかる……別に味覚正常なのになんで毎日レトルトの親子丼食べてるんだろうってずっと思ってた……好きなんですかソレって訊いたら、そうでもないとか言うし」  仲良くなりたいと切望している程でもないが、せめて気まずい雰囲気はどうにか払拭できないものか。と、相談した千春にリリカは、男は胃袋で掴めと豪語し始めた。  そこからは本当に大変な料理教室が始まってしまったのだが、今となってはあの騒ぎは必要なものだったと思う。  おいしい、と言われて手を握られた時、思わず正面からハイエンを見返してしまって、どきりとした。負の感情を払しょくした状態で真っ向から見るハイエンは、少しびっくりしてしまうくらい千春の好みだった。  まずい。そういうつもりじゃなかった。とすぐに後悔した。  千春は気まずい空気をどうにかしたかっただけで、別に特別仲良くなりたいと思っていたわけではない。  なんとなく嫌われている気がしてこちらもびくびくしてしまい、それが悪循環になっているような気がしていた。  とりあえず何かきっかけがあれば、と思い、深夜に夜食会を提案したわけだが、あんなにするっと警戒を解かれるとは思わなかったし、あんなに嬉しそうに食事をする人だとは思わなかった。  やはり、お互いが嫌われていると思い込み、距離を取っていたのが原因だったのだろう。それは解消されたがしかし、今度は別の問題が持ち上がりそうだった。 「春ちゃん、海燕の餌付けはまっちゃった?」 「……ていうか、なんかこう、餌食ってる方にはまっちゃいそうで」 「え。まじか。いやそれはそれでいいんじゃないんだ? お互いそういう人たちだしさー無理矢理人生引きずり込むわけでもないし、イイ大人なんだから自由恋愛じゃん」 「リリカさんかっこいい事言ってるけど顔が残念だよ超にやにやしてるんだけど」  呆れ顔で溜息をつく千春に、リリカはしまりのないにやにやした顔を引き締めないまま、嬉しそうにカラカラと笑う。  面白がられていることは承知しているが、ゲイの恋愛話にも引かないリリカはやはり懐が広い、と実感した。 「だってオモシロイじゃん~! イケメンの恋バナだよ!? それが自分とはまったく比べられもしない異性が相手っていうの、もう完全に他人事じゃん最高に楽しいやつじゃんっ」 「あー。まあ、そうか、同性だと嫉妬とかあるのか……女性って大変だなぁ」 「あはは、ほんとそうだわ。オンナノコって大変。それがどんなに興味ない男でも、イケメンの彼女を見るとアタシの方が美人じゃない!? って思っちゃうんだから。でも男だってあんま変わんないよ。恋愛も人間関係もお仕事も結局楽なもんなんかないのさー。てことでみんなに恋バナネタ、チクっていい?」 「駄目に決まってるでしょとんでもないことになるの目に見えてますから止めてマジで。あと別に惚れたわけじゃないから。多分」 「好きかなって思っちゃったらもうアウトだけどね~うっふふ。じゃあ春ちゃんとあたしのー二人だけの秘密って事だね? やだー甘い響き!」 「あらら、ちょっと聞き捨てならない単語が聞こえてきましたねー何がお二人の秘密ですって?」  上着をロッカーに入れてシャツの袖をまくっている時に入口から声をかけられ、びくりと身体を揺らしてしまった。  そういえば当の本人が一緒に来ていた事を忘れていた。  何やらマネージャーと話し込んでいたと思ったが、用事は終わったのかずかずかと控室に入ってくる。更衣室ではないので男性が入ってもいい場所ではあるが、キャバ嬢達はこの部屋にボーイや男性スタッフが入室する事を嫌がった。  千春が寛容に許されているのはゲイであることに加え、女性が好む容姿と人を不快にさせない当たり障りのない性格のせいだと思っているが、ハイエンもまた比較的歓迎されているようだ。  ぽつぽつと出勤してくる女性たちは、ハイエンに気が付くと笑顔で軽口を叩く。そこには常連客に対する親しみのようなものが見えた。  そのハイエンはひょっこりとリリカと千春の間に顔を出すと、お久しぶりですとまずリリカに笑顔を向けた。 「やぁリリカ嬢、本日も化粧髪型そして豊満な肉体、素敵ですねぇ。まあ僕には全く興味のない脂肪にしか見えませんけれどね、ところでお二人で秘密の談合とかずるいと思いますよボクも混ぜてくださいよー」 「あたしもアンタの無駄な男前っぷり拝めて幸せ。客でお金落としてくれるならもーっと幸せ。あと春ちゃんとの秘密会議は定員二名なんだよねざんねーん。外野は指くわえてなさいよ、ねー春ちゃーん?」 「ボク好みのイケメンが接客してくださるならお金を落としまくるのもやぶさかではないですけどねー。ていうか春さんここでもそんな可愛らしいニックネームで呼ばれちゃってるんですか。ちょっと甘くないですか。シャチョーは置いとくとして、あだ名は心の距離を縮めちゃいますよ? ボクは『フカガワサン』を徹底させた方がよろしいかと思いますよー」 「……やっぱり仲悪いんじゃないの?」  自分はいつの間にかさらりとあだ名をつけていた癖に、それを棚に上げた男はにやにや笑うリリカに食ってかかる。  これも二人の仲のよさなのだろうか。経営者でもなんでもないただの借金相談係だ、とハイエンは言っていたが、そんな人間がここまで心を許されているのは、もしかしたら人徳なのかもしれない。 「ちょうなかよしさんだっての。ねー海燕。ていうか遊びに来たわけじゃないんならきちっと仕事しなさいよ」 「してますよ。あとは店長と件の方にお話聞いたら集金しつつ帰りますよボクも暇じゃないもんでねー。あ、春さん本日ボク結構な量の集金こなして遠出しますんで、ちょっと営業時間内に仕事終えて帰れないかもしれないです。鍵かけてもらっていいんでー」  それじゃあ、と軽く手を挙げて首を傾げてにっこりと、軽薄な笑顔を残してハイエンは奥の店長室に消えていった。 「……まじで台風。さすが、海燕だなんて名乗るだけあるよねアイツ」  煙草の煙を深く吐いて、リリカが低く呟く。  その言葉を聞いて、千春は先ほどのハイエンのように首を傾げた。 「台風?」 「あ、春ちゃん知らなかった? つか普通は知らないわ、あたしも轟サンに聞くまで海燕ってなんか中国っぽいあだ名だなー的な感想しかなかったし。あのねー台風ってほら、日本じゃ一号二号だけどさ、あれって世界基準だとお名前で呼んでるらしいのね。海燕は、そのうちの名前のひとつだってさ。要するに台風の名前」 「……知らなかった」  ああ、でも、確かに台風といった感じだ、と思う。  台風の渦を描くような雲を思い出し、洗濯機のようだと感じたことは間違いではなかったのではないかと思った。  ぐるぐるとかき回す暴風は、当初の妙なぎこちなさが無くなったとしても、千春の生活を翻弄しそうだった。

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