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第6話

 その日は珍しく、轟と海燕が揃って事務所に籠っていた。  ほとんどの客は振込での返済となるが、音沙汰の無い人間のところには赴いて交渉しなければならない。しかし事務所に留守番がいなければ、新規の顧客を逃す可能性もある。  そのためどちらか片方が集金に、片方が事務所での留守番と分担することが多く、海燕が一人で集金をこなす事が出来るようになってからはほぼ個人作業が続いていた。  今日も本来ならば轟は出かける予定だった。懇意にしている印刷会社が資金繰りの相談に乗ってほしいというので、話し合う約束だった。  しかし昼過ぎ、千春の作ったレタスチャーハンと中華サラダを平らげた後、事務所に掛って来た電話を取った轟は、渋い顔をより歪ませ、出かける予定を取りやめた。  轟が事務所に居るというのなら、海燕は外回りに行きたい用事がある。  そう申し出たところ、何故か『お前も今日はここに居ろ』と言われてしまった。口ぶりからして、あまり良い用件ではないようだった。  粛々と仕事をこなし、夕方に千春を仕事に送り出し、先に用件を聞いておいた方がいいのかと口を開くタイミングを見計らっていたところで、事務所の扉が開いた。  大概の人間が恐る恐るノックをしてから開けるツバメキャッシングの扉だが、この日は違った。  急に開いた扉に若干驚き、海燕は反射的に振り返り、うっかり喉の奥から出そうになった悲鳴のようなものを呑み込むことになった。 「……どうも、お邪魔させていただきます」  扉を開いて入って来たのは、男が三人。  それはひいき目に見ても堅気とは思えない人間だった。  海燕も轟も、なかなかに怪しく一般的には引かれる風貌だということは知っている。実際に横暴な取り立てや詐欺行為はしないものの、許可を出さずに営業している所謂闇金に分類される仕事をしている。まっとうな職業とは言えないし、まっとうな外見だとも思わない。  けれど今来店した男たちは、纏う空気のようなものが明らかに一般人とは違った。  どう見てもヤクザだ。しかも街中で難癖をつけているようなチンピラではない。  スキンヘッドのいかにも強面な男。髭を蓄えた剣呑な視線の男。そして、髪の毛をきっちりとなでつけたシルバーフレームの眼鏡の男。  流れるように扉を閉め、何も言われずとも来客用ソファーに座った眼鏡の男は、落ち着いた声でお時間をいただき申し訳ありません、と言った。 「本日連絡させていただきました。正和会吾妻組、城内と申します」  ついで城内は扉前に立つ髭の男を金田、ソファーの後ろに立つスキンヘッドの男を後藤と紹介した。  海燕はその業界に詳しく無い。  ツバメキャッシングが居を構えるこの場所は、確か吾妻組のシマだと聞いたことはある。比較的近い場所にあるMISS・LIPSも吾妻組にみかじめ料を払っているという話を聞いたことがあった。  どれだけ禁止されようと、風習は残る。資金繰りを助けたことで馴染みになった件のキャバクラの店長は、吾妻組は金さえ払えば非常に頼りになるのでありがたい、と、感謝すらしていた記憶がある。  確かに、この街に住んで長い海燕だが、抗争などという話は聞かない。暴力沙汰も比較的少ないように思う。それは吾妻組がきっちりと街を仕切っているからだと思われた。  何も知らされていなかった海燕は、優雅に足を組む城内と、硬い表情でこれはどうもとソファーに移動する轟を二度見し、とりあえずお茶を入れようと判断した。  千春が居ればその役目は彼のものだったろう。しかし今千春が居なくて本当に良かった、と思う。  チンピラには慣れているつもりだった海燕も、そしてあの轟までもが緊張している。  世の中には、そこに居るだけで威圧感がある人間がいる。城内という男は、まさにその一人だった。  それでもきっちりと名刺交換をしている轟を尊敬の視線で眺めつつ、海燕はなんとなくお茶を出し、席を外そうかというわけにもいかないので轟の横に座った。 「さっそくですがお話が……というより私達がツバメキャッシングさんにお話を伺いたい、というのが来訪の目的です」 「……話、というと」 「実はここ半年程の話なのですが。うちのシマにモグリの金貸しがいる、という情報が入ってきまして。それがどうも、壱条会の人間だという話が耳に入りました。残念ながらまだ断定はできていないもので、私達も調査中です」 「はあ、成程。それで、ウチに」  この話を聞き、やっと海燕にもこの男達がしがない金貸し事務所を訪問した理由に思い当たることができた。  要するに吾妻組が取り仕切っている土地で、壱条会という別組織が何か悪さをしているらしい。好き勝手にされていては組の面子に関わる話なのかもしれない。現代のヤクザがどの程度の縄張り意識と組織愛をもっているのかは分からないが、下手をすれば抗争に発展するような話なのかもしれない。  さらに海燕は、このモグリの金貸しという人間に若干の心当たりがあった。  それは同じ情報を共有している轟も同じであり、吾妻組のシマで営業をしている立場の轟は、素直にここ数日の海燕と轟の行動を打ち明けた。 「実は、私達の方でもそのような、不審な金貸しが居るという噂を耳にしまして、社員と共に調べていたところです。うちのお客様の知り合いが、どうも、そのモグリから金を借りているんじゃないか、という疑いがありまして」 「成程、もう既知でありましたか。そちらのお客様のお名前は、教えていただくわけにはいかないでしょうね」 「……一応、顧客情報というものがありますので」 「いえ、無理を言うつもりはありません。ご存じなら話は早い。ご迷惑にならなければで結構ですが、そのモグリについて今後何かわかる事があれば、ぜひご協力ください。壱条会が絡んでいた場合、ただの暴利金融という話では済まなくなります。そういった場合、おそらくツバメキャッシングさんも我々にご相談いただいた方が何かと便利だとは思いますので」  全くその通りでぐうの音も出ない。  きっちりと理屈を通してくる城内に圧倒され、海燕は笑顔のまま固まり息をするタイミングさえ掴めない。  脅されたわけではない。言っていることは当然の事であったし、特別ツバメキャッシングが損をする話でもない。  要するに、知っていることは全部言えと言われただけだ。モグリの金貸しなどという面倒くさい商売敵は、ヤクザが始末してくれるのならばありがたいことこの上ない。  現状確かに轟の言ったように、そういう話があるらしい、という推測の領域から出ていなかった。金を借りていると思われる件の人物の口が堅い。借金をしていることは確定だとは思うのだが、海燕は警戒されているらしくあまり話をすることもできなかった。  名刺と畏縮した空気だけを残して、城内とその連れは帰っていた。  扉を閉めて、ビル前に止めてあった黒い車が発進するのを見届けるまで、海燕は生きた心地がしなかった。ヤクザというものは、映画で見るよりも数倍怖い、ということが身にしみた。  緊張で喉が渇き、自分が淹れた茶を飲もうと思ったところ、すでにその湯のみの中身は轟に飲み干された後だった。 「っあ!? シャッチョーそれボクのお茶……っ」 「……おめーつえーな……俺はもうだめだ立てねえわ。久しぶりにガチな人間拝んだわ……」 「え、ボクだって足がっくがくですよあと顔だけならシャチョーの方が怖いから安心してくださいよっていうかあんな堂々と対峙してた割にビビってたんですか!? ポーカーフェイス強すぎでしょ!?」  どうやら轟も相当緊張していたらしい。  二杯分のお茶を飲み干した轟はがっくりとソファーの上でうなだれながら、長い溜息を吐いた。 「いやビビるだろうよ……城内さんっつったら、吾妻組の舎弟頭だぞ。そもそも吾妻組がでっけーんだよ。正和会を実質牛耳ってんのは吾妻組か髙松組かって話だ。俺も風俗経営してるわけでもねーしそういうのと関わりない会社貫いてるし、あんま詳しくもねーけどなぁ。それでもここで会社立ちあげて営業してりゃあ、耳に入ってくる」 「はぁ。ボクもまぁ、そんな感じの噂知識しかありませんけどねぇ。ウチが何かしたとかウチに何かするってぇ話じゃないんでしょ?」 「そうだけどよ。あー……どうすんだ、マジで猛が関わってたらよ。アイツまだトキワ金融で下っ端やってんだろ。トキワ金融っつったら壱条会の傘下だろ……」  あまり聞きたくない名前が轟の口から飛び出し、海燕はそっと眉を寄せる。  それでも笑顔を崩さないのはささやかなプライドだ。 「わぁ。奇麗に辻褄が合いそうで最悪ですねぇ! まあ、そんときゃそんときでアホした猛さんが悪いわけで素直に引き渡しますよ。あのトンデモ害悪を始末してくださるなんて事になったらありがたいじゃないですかーボクの身の安全も一生保障、……いや半分くらいは保障されるってもんです」 「……なんも言えねーなぁ。ぶっちゃけ俺もそう思うが。……まあ、なんかあったら俺に言え。もう俺とお前がどうにかする話じゃねーのかもしんねーけどな。あとなんもなくても俺に言え」 「なんもなくてもってなんですかそれ」 「お前は頭かてーしアホだし自虐馬鹿だから勝手にため込んで勝手に人生棒に振りそうでこええっつったんだ。俺じゃなくてもいいから、まあ、言いたい時があったらなんか言え。チーとも最近よく喋ってるみてーだしな」 「ええ、まあ、……お陰さまで?」  唐突に出た千春の名前に、どうしてか微妙に動揺してしまい笑顔がぎこちなくなってしまう。  しかし城内との対話で力を使い果たしたらしい轟は、海燕の微妙な変化には気が付かず、まあ仲良くしろよとおざなりに声をかけた。  仲良くしている、筈だ。  実際海燕は最初に会った時よりも数段、心を開いている自覚はある。嫌いじゃない、から昇格して、結構好き、という言えるくらいにはなっているだろう。  ただ、どうも最近それを超えてしまいそうで微妙な恐怖を感じていた。  あれだけ海燕を警戒していたというのに、ここ最近は全く壁を感じない。朝は時々起こしてくれるし、海燕の部屋も地味に掃除してくれているらしく、比較的人間の部屋の様になってきた。キッチンなどはすっかり奇麗だ。自室のコンロでお湯を沸かしたのは何年振りかわからない。  千春は、流されるままに生きていると思っていた。ぼんやりとして、頭の悪い人間なのではないかという先入観があった。  今もたまに湯を沸かしっぱなしで慌てていたり、洗濯を干したまま放置したりと、地味なうっかりを発動していることはある。けれどもそれは笑って流せるレベルであり、特別苛立つようなものでもない。  千春は流されるままに生きているのかもしれないが、その流れが速くても付いていくことができる人間だった。頭が悪いということもない。会話はそれなりに楽しいし、面倒な事が多いキャバクラ店の仕事も問題なくこなしているようだった。  周りの人間に合わせてしまうタイプなのかもしれない。  もしくは、誰も千春の事を見てくれなかったのかもしれない。褒めて伸びるタイプのようで、卯の花をはじめ、おいしいと思ったものには惜しげもない賛美を送り続けていたら、自主的に料理の練習をするようになった。  めきめきと上達していく料理の腕に、不満もない。  千春自身に不満はないが時々ふと目があう瞬間、ふわりと笑うのだけどうにかしてほしかった。  タイプじゃない。好みじゃない。もっと自立した大人か遊び盛りの若者の方が好きだ。それなのに千春の控え目な笑顔を見ると、熱が上がるような錯覚に陥る。  その度に曖昧に視線を外しながら、恋は落ちるものって言ったのはどの小説家だったかなどと、白々しいことを考えた。  落とされるのは怖い。  自分から進んで落ちるのは、もっと怖い。 「まぁとりあえず俺ぁ帰るわ……。無駄な精神力をつかっちまった……お前も上がっていいから今日はもう何も考えずにメシ食って寝ろ。諸々の調査とか、これからどうするかとか、明日決めっから。寝ろ」  ぐったりした轟はそう言い残すと、さっさと事務所を出てしまった。  心中かき乱された海燕は、轟とは別の要因で疲れた気分になっていた。確かに疲労した時は思考もうまくまとまらない。  昨日千春が作ってくれた肉豆腐が冷蔵庫にあった筈だ。温めて食べて少し横になったら、もう少し日常が戻ってくるかもしれない。  海燕は大人しく事務所に鍵をかけて、四階の自室に戻った。  捨てようと思ったまま蓄積されていたごみはすっかり奇麗になって、靴も整頓されている。奇麗になって改めて、そういえばダイニングキッチンだったなぁと思いだした。事務所の上を無理やり住居に改造してあるため、間取りが不思議で、一人暮らしには少し広い。  一人でテーブルに座るのもどうかと思ったので、広いキッチンには大きめのソファーが鎮座していた。これの存在も、最近はすっかり忘れていた。洗濯ものや季節の服で覆われていたからだ。 「……案外広いんだよな、そういや」  一人になると、流石に笑顔も敬語も引っ込む。  笑っている事は海燕にとっての防具だった。最早癖になってきている為、今はどんな意図で自分が笑っているのかよくわからなくなる時もある。  けれど流石に一人きりの自室でにこにこするほど狂ってはいない。  精神的におかしいのかなぁ、と、悩んだ時もあったが、心療内科の扉をノックするより仕事に没頭する方を選んだ。  スーツの上着を脱いで、ハンガーにかけ、目の前のソファーにどかりと腰を沈める。そのまま横たわって天井を見た。  肌寒い時期になってきた。このまま冬になるのかと思うと、憂鬱になる。秋なんていう季節は一瞬で通り過ぎる。暑いのも好きじゃないが、寒いのも苦手だ。  寒いな、たまには湯船にでもつかろうかな、と思ったところまでは覚えていた。天井を見つめていた目はいつの間にかうとうとと瞼に覆われ、どろりとした眠りに落ちていた。  海燕が目を覚ましたのは、部屋のチャイムの音と、その後に続いたけたたましいノック音のせいだった。 「……っ、え、……え?」  ソファーで転寝をしていた、と気が付いた後に、もう一度チャイムが押される。余ほど急いでいるのか、何度か連打され流石に不気味に思いつつもドアに近づくと、聞き覚えのある声が海燕の名前を呼んだ。 「海燕、海燕居るの居ないのどっちなの居るんなら開けろ馬鹿重いんだっつの寒いんだっつの!」  それは間違いなくリリカの声で、さらにドアスコープから確認した姿も確かにリリカのものだった。ただしその華奢な肩の上には、確かに重そうなモノがのしかかっていた。  慌てて鍵を開け、扉を開くとリリカは安堵のため息をつき、そしてぐったりとしている千春を支えながらタスケテちょうだいと苦笑した。  わけもわからないまま、千春の身体を受け止める。見慣れないパーカーを着ている千春の髪の毛から、強い酒の匂いがした。 「え、ちょっと、リリカ嬢これどうし……え? 春さんどうしちゃったの!?」 「あーダイジョウブちょっと酔っちゃったみたいで、っつってもこれすんごい大事なとこなんだけど、春ちゃんがお酒進んで飲んだとかそういう話じゃないからね? 春ちゃんは一切悪くないの。まあ何が悪いって話でもないんだけど、でも春ちゃんだけは完全に被害者だから、海燕は何も言わずにとりあえず介抱したげてマジでお願いほんとお願い」 「いや、それは良いんですけど、……リリカさんは大丈夫なんですかこれ」 「タクシー拾ったし、非番だったから平気へいき。背負ってきたわけじゃないし。一応意識あるみたいだしさ。そんなわけであたし帰るけど春ちゃん明日無理そうだったら連絡してね! 無理だったら休んじゃっていいから! 文句言わせないから、ね?」  海燕に対するものより数倍優しい声をだしたリリカに、腕の中の千春は何度か頷き返したようだった。 「じゃ、あたし帰るけど、とりあえず水飲ませて寝かせとけばいいと思うよ。けっこうがっつり吐いた後だから、もう吐くもん無いと思うし。ていうか居た方がいいなら居てもいいけど」 「いや流石に酔っぱらいの介抱くらい出来ますししますし大丈夫ですよ、ええと、なんかよくわかんないんですが後で説明してくださいよほんと……春さん大丈夫? とりあえずソファーまで行きましょうか」 「じゃあね春ちゃん、欲しいもんあったら海燕に言うんだよ!」  中々無責任な事を言い捨て、リリカは扉を閉めてしまったが。確かに恋人でもない男をここまで運んできただけでも、十分な働きだと思う。それだけリリカがお人よしなのか、それとも千春が好かれる人間であるということなのか。  どちらにしてもとりあえず今は、ふらふらな状態の千春をソファーに運ぶ事が先決だった。  千春は細く見えるが、やはり男だ。  四十キロ、五十キロの女の子とは違う。週末に暇つぶしでジムに通っていて良かったと心底思う。  どうにかソファーに横たえて、水はストローとかさした方がいいんだろうかそんなものうちにあるのか、と、ぐるぐると台所用品を思い返していると、急にシャツの裾を引っ張られた。  気持ち悪いのか吐くのかどうしたと慌ててしゃがみ込み、どうしましたかと訊く。すると千春から弱々しい声が返って来た。 「……さむい……」 「え。ああ、そうですねそりゃそうだ。ええと、自分の部屋の布団、まで行けませんねそりゃ無理かー、あー……あー、毛布、そうだ毛布ですね、ちょっと待っ、ふぁっ!?」  立ちあがろうとした時に、急に千春の腕が首に巻きついてきた。思わず海燕からとんでもない声が出てしまう。  その上ぎゅうと抱きしめられて、熱が一気に上がった。 「はる、さん、あの、ええと、これはいったい、なにが、」 「はいえん、あったかー……」 「いえボクも先ほどまではこちらで転寝をしていまして身体は冷え切っていたんですけれども今この瞬間に沸騰しそうになってるわけでええとつまりどうしてこうなった……春さん、酔っぱらうとわけわかんなくなるタイプです……?」 「ていうか、あんま、のまない……あたまいたいし、さむいし、さいあくだよなにこれ……おれもういっしょうさけなんかのまない……」 「ええ、まあ、そうしていただけるとボクもこの先安心ですね全力でその決意には賛同いたします、が、離していただけません、か、これ」 「……やだ?」 「やだ、と、いうことは、ないのですけれども」  なんといっていいのかわからない。  正直なところ悪い気分ではない。むしろ抱きつかれてドキドキしているわけだし、千春自体が嫌だとかそんなことは勿論無い。  無いが、しかし、困っているのも事実だった。  千春はゲイだ。海燕もゲイだ。お互いに恋愛対象になりえる。  勿論恋愛出来る性別だからといって、即付き合ったり恋になったりセックスしたりするわけではない。好みというものもあるし、恋愛にはタイミングや様々な事情も絡まる。  タイミングでいえば最悪だと思う。千春は酔っているし、海燕は寝起きで思考能力が鈍っている。その上借金とりとその対象という間柄だ。千春はほぼ拉致に近い状態で海燕の家に転がり込んでいるし、海燕は海燕で、ヤクザが絡んだ頭の痛い仕事に翻弄されている。  お互いに恋愛している場合ではないし、恋愛するタイミングでもない。  千春がどう思っているのかはわからないが、海燕に関しては本当にそんなことをしている場合いでもないし、そんな対象にするべき人間ではない、と判断していた。  それなのに、動悸が止まらない。頬は熱くなるし、甘い酒の匂いにくらくらする。抱きしめ返したくてたまらなくて、我慢している状況がアホみたいに思えてきた。  ぎゅう、と抱きしめ返すように、温かい身体をソファーに押し倒す。首筋に頬を当てるとくすぐったいのか温かいのか、抱きつく手に力が籠った。それがどうにも、かわいくてたまらない。  まずい。落ちる。  そうは思っても止められないのが恋だった。

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