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もの食う人々 04

     4  海燕はカレーが好きだ、ということを実は周りの人間は知らないらしい。 「……いや。いやいや初耳だって。辛いの好きなのは知ってたけど。そんなの初耳だってば。聞いてない。おれ聞いてないよほんとに」  カレー皿に突っ込んだスプーンを持ち上げつつ言葉を連ねる千春に対し、海燕はあははと笑って水を飲む。  ひりひりとした舌が急に冷やされる感触は心地よい。熱いものと冷たいものが好きなので、きっと自分はサドではなく潜在的なマゾなのだろうなぁ、などとどうでもいいことを考えた。 「そういえばボク言いませんねぇ、だってカレーってお子様の食べ物って感じしません? カレーが好きって割と十代のころは気にせず口にしてましたけど、なんていうかぁこの年になって好きな食べ物はカレーって言うの、そこそこの勇気なんですよねぇわかりますかねこの気持ち。オムライスが好きとかハンバーグが好き、っていうのと同列なんですよカレーって。いや別にオムライスもハンバーグもとてもおいしいと思いますけれど、ねぇわかりますか春さんカレー好きって言いにくいでしょう?」 「あー……まあ、確かに……好きかどうかって聞かれたら普通に好きだって答えるけど、好物はっていう質問にカレーって答えにくい、のは、なんとなくわかるけど……言ってくれたらもうちょっと頻繁に作るのに」 「えー別にいいですよう。ていうか春さんわりと頻繁にカレー作ってくださるじゃないですかーだから別にいいかなって思って」 「……レパートリー少なくてごめんほんと……」 「いやいやいやいや、ボクとシャチョーなんてみそ汁も満足に作れないので春さんが謝るようなことは一切ないです本当に」  夏の日の夕食だった。  昨日唐突にカレーが食べたい、と言った海燕のリクエストに素直に応えてくれた千春は、鍋いっぱいのカレーを作った。三日間くらいなら同じものでも飽きない、男所帯故の豪快な調理風景だ。結局作りすぎた為に、今日の昼間にリリカの家にお裾分けに行くことになったのだが。  二日目のカレーを頬張りつつ、だらだらとどうでもいい会話をする。誰かと何かを食べながらしゃべることが、海燕は好きだった。 「前から思ってたけど、味噌汁ってお湯沸かして、具を入れて、出汁と味噌を入れるだけだよね……? どうやったら失敗すんの」  千春の至極もっともな指摘に、海燕は首をかしげて笑う。 「ねー。ボクも不思議なんですけどねー。ボクの失敗は大概具の選択ミスなんですけど、シャチョー作の味噌汁はですねぇ、見た目はそれなりなんですよ。それなのにどうにも不味い。ぼかぁおいしいもの好きですけど、まぁ当時は口に入れられるものならなんでもありがたい、みたいなわりとすれすれな思考回路してたんで、文句言わずにひたすらシャチョーの微妙な味のご飯を毎日ツメコんでおりましたねぇ」 「その中で唯一おいしかったのがカレーだった、とか?」 「いやカレーも微妙なお味でした。確かに最初にシャチョーに振舞われた料理はカレーと味噌汁でしたけれども。なんかこう、しゃばしゃばしてたし。分量通り作るのになんでだって、しきりに首を傾げてたのを覚えています」  当時の海燕にとっては、そんな些細な会話すら初めての体験だった。轟が誰に話しかけているのかわからずに、おそるおそる周りを見回した事も覚えている。  過去の記憶は薄れていく。いつまでも新鮮なまま覚えている事ができたら、楽しいかもしれないがやはり疲れてしまうだろう。時間は思い出を風化させる。  それでも、あの日の味噌汁とカレーの味は忘れないだろうと思う。 「夏の日でしたねぇ。僕はええとー、中学二年でしたかね。三年だか忘れましたが十代前半のクソガキだったと思います。喋らないクソガキです。何か口にするだけで殴られる生活でしたし、黙っててもまあ殴られるんですが、だったら無駄な労力使わない方がいいじゃないですか。完全に疑心暗鬼で人生の価値なんてないと病みきってましたからねー、学校でもほとんど喋った記憶がありません。いやぁ今思うとほんと先生方には申し訳ないクソガキでした」  轟に対しても、海燕は一切口をきこうとしなかった。  口を開かない上に他人の話を聞こうともしなかったので、自分が実家を出て轟と生活することになったという事実も、一週間ほどしてやっと理解した程だった。  そういえば家の中が騒がしかった記憶がある。日常的な罵倒と暴力に慣れきっていておかしなことだと思わなかったが、家を出る直前の庄治はひどく荒れ、壁や障子に新しい穴がぼこぼことできた。大人がたくさん殴られていたような気がする。その中に轟の姿もあったような気がしたが、薄い膜を貼ったような世界で生きていたあの頃の海燕の記憶は曖昧だ。  庄治は自己破産をしたのだ、と聞いたのは高校生活にすっかり慣れた頃で、すでに轟の仕事を手伝っていた海燕は、なるほどそれでと納得した。 「それでも子供一人かっ攫うわけですから、正攻法じゃなかったんじゃないですかねー。ていうか正攻法が通じる相手じゃなかったんで、もう殺すか訴えて司法で戦うか逃げるか、って感じだったんじゃないかと推測いたしますよ」 「轟さんは、逃げた?」 「シャチョーのお口から聞いたわけじゃないんですけど、まぁ、たぶんそうなんじゃないですかね。クソガキだったボクの手を引いてね」  それは最善の選択だった。  殺す訳にはいかない。轟が刑務所に入ってしまえば、海燕は頼る人間がいない。裁判を起こしたところで、司法や行政に素直に従う男ではない。轟にできたのは、海燕を抱えて逃げる事だけだったのだろう。  夏の日だった。  ほとんどその身一つで車に乗せられ、気がつけば随分と都会に来ていた。当時から随分とくたびれていた階段を上り、蒸し暑い部屋にたどり着いた時には、轟も海燕も汗だくだった。  すべての窓を開けた轟は、風通しが悪くて最悪だが、住めば都って唱えりゃそれなりだ、と言った。  なにをしていいかわからず、どうしていいかわからず部屋の入口に立ち尽くしていた記憶がある。座れ、と苦笑されて初めて座った。壁際に座らないのは、殴られた時に壁に当たると怪我をするかもしれないからだ。それを知っていた轟は、口を曲げてから昼食の支度を始めた。 「……それがカレーと味噌汁だったわけか」 「いやぁ今思えば別にカレーだけで良かったんじゃないかなぁと思いますけど、なんかこう、シャチョーが出来る限り豪勢にした結果がカレーウィズみそ汁だったんじゃないですかね。いやわかりませんけど。みそ汁飲みたかっただけかもしれませんけど」  結局、どちらも微妙な味だった。しかし海燕は、そんなことはどうでもよかった。  誰かが話しかけてくれる、いつ殴られるかわからない緊張感とは無縁の食卓は、物心ついてから初めての経験で、味など本当にどうでもよかったのだ。 「大したことない話ばっかりだったんですけどねぇ。それこそほんと、暑いなぁとか、そういうおばちゃんの世間話程度ですよ。シャチョーも何喋っていいかわかんなかったんでしょうねぇボクってば小憎らしいことに本当に一言も喋らなかったし。ただ、あんまりにも『食えるか?』って訊いてくるから、五回目に食えるかって訊かれたときに思わず笑っちゃったんですよねぇ。うまいか、じゃないとこが悔しい。食い物として正解か? って五回も訊くんです。もうほとんど食べきってからそんなこと言うもんだから、なんだかおかしくなってきちゃって、ふはって笑って、そしたらタガが外れたんでしょうねーもう後はぼろぼろ泣くだけだったなーって。いやー懐かしい。よくぞあんな面倒な子供、シャチョーに追い出されなかったものですよ」  追い出されなくて良かったし、生きていてよかった。轟の不味いカレーも、千春のレシピ通りに美味いカレーも、のたれ死んでいたら口にすることもできないのだから。  そんな風にだらりと昔を振り返り、ごちそうさまでしたと手を合わせてからふと正面を見やると、千春がスプーンを放り出して泣きそうな顔で目頭を押さえていた。 「…………春さんそんなに感動屋さんでしたっけ? 最近涙腺ゆるくないですか」 「っあーだって……なんか、海燕、ほんとしんどい時代の事さらっと他人事みたいに言うし……そういう風に客観的になっちゃってんのもなんかこう、辛いし、轟社長の不器用さもほんと、胸に来るし……海燕が生きててくれてカレーおいしいって言ってくれてよかったとか思ったら、鼻の奥が痛い……」 「愛情感じますしうれしいことですけどやめてくださいよ、もう、ボク他人の涙に割合弱いんですからぁ」 「海燕のせいなのに理不尽……」  二人で泣き笑いのような声で言い合い、結局最後はカレー味のキスになだれ込んだ。  誰かの事が好きだと思えるのが楽しい。生きていて楽しいと思えるのがうれしい。自分の子供時代は客観的に見ても不幸だとは思うが、だからどうだと今さら振り返って感慨に浸ることはない。昔を振り返り嘆いたところで、未来が明るくなるわけでもない。  カレーが冷める、と腕の中で弱弱しい抵抗をする千春にもう一度キスをして、もう大半食べたじゃないですかと駄々をこねる。えいや、と押し倒すとフローリングに背中を付けた千春は、床は冷たいと笑った。 「今年は事務所のクーラー壊れないといいなぁ……なんか最近、うちの部屋のクーラーも嫌な音してるんだよね」 「そしたらこの部屋に住めばよろし」 「……まだあきらめてないんだ」 「あきらめませんよーう。ボクはね、春さんが首を縦に振るまでずーっとボクと一緒に住みましょうよーってしつこく誘い続けますからね。いっそクーラーなんて壊れてしまえばいいんです。そしたらこの夏の春さんはボクのものです」 「別に、いつだっておれは海燕のものじゃんか」 「精神的な春さんもー肉体的な春さんもーどっちも欲しいんですってばー」  欲張りだねと笑われたので、欲張りですともと笑い返した。カレーをあきらめた千春は、ごろりと仰向けになったまま、海燕の首に手を回す。ほんの少し、汗のにおいがする。不快だとは思わない。海燕は、人間のにおいが好きだった。 「そういえば、マキさんがなんか変な客につかまって、実家巻き込んでもめてるって話聞いた?」  唐突に思い立ったように、千春が問いかけ、海燕は首を傾げた。 「はぁ、そういえば昼間にリリカ嬢にそんなお話を伺いましたが……夕方、怖い方と一緒にいらっしゃるのを見たので、なんとかなるんじゃないですかね」 「怖い方って」 「吾妻組の眼鏡をかけた怖い方」 「……あー……じゃあ、そうだね、平気かな」  吾妻組の若頭は、特別親切でもないが、見た目よりも情に厚いことを知っている。以前諸事情で旅を共にした際に、見送りに来ていたマキをそっと見ていたことは、海燕しか知らない。  みんな幸せになればいいのに、と思う。身勝手にそう思う。  恋や愛ばかりが幸福のすべてではない。例えば既知の人間と、どうでもいい話をしながら食卓を囲むことだって幸福だ。そういう、小さな幸せで構わない。  みんな幸せになればいいのに。口に出すと、海燕を見上げた千春が、きれいに笑っておれもそう思うよと言った。

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