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もの食う人々 03

     3  城内閃は、エッグタルトが好きだ。  ヤクザが甘いものなど、というような上司ではない。直属の上司である正和会吾妻組組長である吾妻は、和菓子を好んだ。最も吾妻は和菓子だけではなく、酒も肴も口に入れるもの全般すべてに見境がなかったから、特別甘いものが好物というわけではないのかもしれない。  欲望を満たすのがうまい人だ、と常々思う。そして城内は、欲望を満たそうとすることが下手だという自覚があった。  思い返せば我慢が好きな子供だった。そしてそれは、三十をとうに過ぎ、四十という年を目の前にしても変わらない。 「お前はよー、ほんっと不器用だよなぁ」  と、事ある毎に吾妻は漏らす。まったくその通りだと思うので、城内はささやかな苦笑とともに、おっしゃるとおりですと返すことが常だった。 「欲はある。それを奪い取る力も頭もある。けどなぁ、手をのばさねーんだよなァお前は。このご時世、ヤクザにだって堅実さってやつが求められている、っつーのはわかるが、それにしたってもっとこう、なー……ガツガツいけねーのか」  今日もいつものように事務所の椅子にどっかりと腰を下ろした吾妻は、いつものように思いついた事をすぐ口に出す。手元には、お茶請けのついでに切った羊羹の残りがやまもりになっていた。おしゃれに少しずつ口に運ぶことはしない。  今し方の客が残した珈琲を片づけさせながら、城内もぬるくなった珈琲を飲みつつ、嫌味のない苦笑を浮かべた。 「それなりに我を通している筈ですよ。中途半端な履歴の私が吾妻組の舎弟頭までのし上がれたのは、親父の力添えと、そして私利私欲のたまものですから。これ以上手を伸ばしたら罰があたります」 「あー、そっち方面の人生はよー、お前確かにがっつり行くけどよー、ほら、あれだ。オンナとか。子供とか。私生活だ私生活。ホモかって疑われるくらいストイックじゃねーか」 「……同性愛者ではありません、としか反論できませんね」  確かに、子供がいても良い年だった。ヤクザといっても、今はいきなり撃たれて死ぬような事は少ない筈だ。警察も日本国家も馬鹿ではない。治安というものは、裏社会でもそれなりに保たれている。  結婚し、子供を作る者も多くなった。籍は入れずとも、夜の女に入れ込み子供を産ませる者もいる。風俗店との関わりがどうしても多くなるため、水商売の女性との接触はやはり避けられない。  その課程で身体の関係を持つことも、思いも寄らぬ恋愛に発展することもあるだろう。仁義人情の世界観は薄れたとしても、やはり夜の街には人々の生々しい感情が飛び交う。それに当てられてしまったとしても、おかしな話ではない。  城内は無情というわけではない。それなりに感情も意志もあるので、他人に対する好き嫌いもあるにはある。ただ、それを表に出すことや、感情由来で行動することが苦手だった。  自分の感情を理由に行動することが苦手だ。すべての責任を、自分の感情に負わせるのが苦手だ。要するに肝っ玉が小さいのだ、と自嘲する。  吾妻は感情で動く男で、だからこそ組の人間は彼を尊敬し、吾妻組はここまで成長したのだろう。  好きか嫌いか。吾妻はそれを行動原理にする。  好きか嫌いか。城内はそれを理由にできない。  それはただ単に臆病であることの言い訳かもしれなかった。 「結婚しろとは言わねえけどよ。いねえのかよ、なんかこー……うめーもん食わせてやりてえなっつー女は」 「……うまいもん、ですか」 「そうだよ。愛だ恋だなんつーこそばゆい考え方すっから駄目だ。腹いっぱいこいつに飯食わせてえ、っつー奴が一人でもいりゃあそりゃ惚れてるってことだ」  腹いっぱい、ともう一度呟いて、城内は頭に浮かびそうになる女性の控えめな笑顔を振り払った。しかし、吾妻は目ざとくその機微に気が付き、にやりとだらしなく顔を歪める。 「なんだよ、いるのか! どいつだおい、教えろチクショー俺の知ってる女かっ? ウィングの誰かか! いやあの辺の泡は若すぎるな、俺ァいいけど城内の趣味じゃねーはずだ。スナックのババア達じゃねーだろうな、そういやこの間チンピラが騒ぎ起こした店あったな、あそこか?」 「……全部違いますよ、落ち着いてください。今日は姐さんからの使いがありますので、お先に失礼させていただきます」 「おうおう、逃げんのかよ城内。いいじゃねーか、俺とお前の仲だろ」 「親父には心底感謝していますが、それとこれとは別ですよ。それに私は、結婚する気はありませんから」  それでは、と一礼をする城内に、まだ吾妻は何事か言葉を投げかけていたが、全て聞かぬふりを通した。  他の組であれば、組長に対してこのような態度をとることは絶対にできないだろう。城内が信頼されているから、というよりは、面白い人間が好きだと豪語する吾妻の人柄が許す横暴だった。  冬ならばコートを羽織るところだが、今は真夏だ。八月の日差しは残暑だと思えぬ程暑く、痛い。きっちりと着込んだスーツが汗ばむが、どうも、シャツ一枚になるのが苦手だった。  いつも通り速足で歩き、慣れた道を進む。吾妻の嫁であるみどりから頼まれているのは、出先への手土産を買うことだった。馴染みの小さな菓子屋に顔を出し、頼まれた分のチーズケーキを購入し、領収書をもらい、別会計でエッグタルトを三つ買った。保冷剤はどちらにも入れてもらう。この暑さでは、氷もすぐに溶けてしまいそうだが、ないよりはましだろう。  みどりは城内に土産を頼む時、この店のチーズケーキを頼む。それはこの小さな洋菓子屋にエッグタルトがあることを知っているからだろう。  時折甘いものが食べたくなると、城内はエッグタルトを探して街をさ迷う。ケーキ類やチョコ類はコンビニにもあるが、エッグタルトというものは探すと案外無いもので、結局いつも同じ店に足を運ぶことになった。  店員が変わる度に、どう見ても堅気ではない城内は一歩引かれる。もうその反応にも慣れてしまっているので、今さらどうとも思わない。いっそ軽々しく声をかけられても困るので、震える手で会計されるくらいがちょうどいいと思ってしまう。  こんなことを考えているから、女っ気がないと言われてしまうのだ。  駅前のコーヒーショップに向かい、みどりにケーキの箱を渡し、それではと腰を折る。城内が抱えている小さな別の箱を一瞥したみどりは、満足げにいつも悪いわねと笑った。  いつも通りの一日だった。昼前に出勤し、金の管理をし、組員たちの仕事を管轄する。時には吾妻の参謀のように仕事をアシストし、表の顔として掲げている看板である不動産の仕事もチェックする。舎弟頭、と銘打っているが実質秘書のようなものだと思っている。毎日やることがありすぎて時間が足りない。人生を考えているような余裕もない。  忙しいのがありがたい、などと言うと吾妻からもその妻のみどりからも、おもいきり怒られそうだ。想像してから少しおかしな気分になり、陽が陰り始めたきらびやかな街を後にしようとした時だった。  ふと、目の端の女性が映った。夜の街がにぎやかになるのはこれからだ。暗くなりかけの道は人で溢れ、様々な人間で溢れている。その中で、何故か彼女だと確信した。  彼女は少しうつろな表情で、携帯を握りしめていた。顔色が悪く見えるのは化粧をしていないからかもしれない。この時間に路上にいるということは、店は休みなのだろうか。そんなことまで考えて、自分のおせっかいな思考に笑う。  いつもならば見ないふりをしていた。けれど、今日の城内はエッグタルトを三つ抱えていた。先ほどの、吾妻の言葉が耳に残っていた。  うまいものを食わせたい女。  腹いっぱいともいわずとも、彼女に何かを差し出すことができるのならば、と、想像したことがある。  自分はただのヤクザだ。それ以上でもそれ以下でもない。立派な信念があるわけでもない。何かを成し遂げたわけでもないし、重い過去を乗り越えたわけでもない。普通に生きて、就職し、道を踏み外し、そして今に至る。特記することなどない。つまらない人生だ。そんな男に誰かを幸せにできる余力があるとは思えないし、そんな自分が誰かに手を差し伸べるべきだとは思わない。  自分からもらうものなど、恐ろしいだけに違いない、という自覚はある。あるが、城内が足を止めてため息をつき、家とは別の方向に歩き出したのは、彼女が、マキがしゃがみこんでしまったからだった。  膝を抱き込むようにしゃがんでしまった彼女の前に立った城内は、同じようにしゃがんで声をかけた。 「――平気ですか?」  その声に、びくりとマキの肩が揺れる。ゆっくりと頭が上がり、城内の顔を確認すると、化粧っけのない顔でめいっぱい驚愕した様子だった。  その驚愕の中に、恐怖はなかった。そういうものに、城内は敏感だ。驚いている。けれど、恐れてはいない。それだけで十分だ。 「すみません、急に屈みこまれたのが見えたもので。私が邪魔でしたら立ち去ります。手が必要ならばお貸しします。喋るのが面倒ならば、首を振るだけでいい」 「…………平気ですか、と、訊きました?」 「そうですね。平気ですか、と私はあなたに声をかけました」  ふわり、とマキが苦笑した。笑っているとも、泣いているともとれる不思議な表情だった。ほんの数回しか会ったことはない彼女だが、こんな顔をするものかと驚いた。記憶にある彼女はいつも、白い百合のように凛と背筋を伸ばして微笑んでいた。 「平気じゃないです」  答えはそれだけだったが、城内はそうかと頷くとマキの手を取り丁寧に立ち上がらせ、そのままゆっくりと手を引いた。  マキは戸惑ったようだったが、何も言わなかった。そのまま二人は大通りの裏にぽつんと存在する小さな公園のようなスペースに行きついた。公園というには狭い。しかし、二本の木とベンチがあるので、おそらく公園なのだろう。座る場所さえあれば、あとはどうでもいい。チンピラが声をかけてこようが、酔っ払いがからんでこようが、城内は追い返す自信だけはあった。  ベンチにマキを座らせて、手に持っていた紙の箱を渡す。保冷剤が溶けたせいで、ほんの少し湿っぽく箱が歪んでいるが、中身はまだ無事だろう、と信じることにした。 「申し訳ありません。飲食店は基本的に持ち込み禁止でしょうし、いきなりカラオケボックス等の個室に入るのも、どうかと思いまして。まあ、座る場所があるので良しとしてください。……どこかで、飲み物くらい買ってくればよかったですね」  エスコートには慣れていないもので、と零すと、少しだけマキが笑う。 「……エッグタルト、ですか?」 「エッグタルトです。甘いものが特別得意なわけでもないんですが、香港で無理やり口に入れられたエッグタルトで、私はこの菓子の魅力に気が付きました。もう一生行きたくない土地ですが、まあ、大概の土地にはもう一生行きたくないと思っているので、特別香港が悪いわけではないのでしょう。ただし、この菓子だけは別ですね。……いや、申し訳ない。あなたのお話を、聞くべきでしたね」 「いいんです。……私は今、城内さんとタルトのお話が聞きたい」 「それでは、私が香港に行くことになった経緯からお話しなくては」  そしてその話が終わった後、彼女が道の端で儚く膝を折った、その理由を聞かなくてはいけない。と城内は静かに心に留めた。  エッグタルトを手で持ち、ほろりと齧るマキの小さな口から目を逸らし、まるでその甘さが口に広がるような不思議な感覚を抱いていた。  うまいものを、腹いっぱいとは言わずとも。城内の差し出したささやかな甘味を、ほんの少しでも味わってくれたらいい。そう思い自嘲する。  手を伸ばすのが苦手だ。好き嫌いで行動するのが苦手だ。結婚する気など毛頭ない。愛や恋などは恐ろしい。それなのにどうして自分は彼女の手を取ったのか。  手を握る決意などないくせに、反射的に伸ばしてしまったそれに後悔しつつも、城内はただ静かに言葉を選んだ。  タルトの甘いにおいが、ふわり、と漂い夜の空気に紛れて消えた。

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