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もの食う人々 02
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篠田百合子は、蒟蒻の煮物が好きだ。
昔から煮物やおからなど、田舎料理が好きだった。百合子、という名前が同世代の女子の中では比較的古臭く苦手で、なるべく田舎くさいものから離れるように生きてきたがしかし、蒟蒻の煮物とはどうしても縁が切れなかった。
東京に出て、キャバクラで稼ぐようになり、リリカという源氏名で呼ばれるようになってからも、好きな食べ物は蒟蒻の煮物だった。
「実家のおばーちゃんがさぁ、蒟蒻を一から作んのよ。知ってる? コンニャクイモって奴を摩り下ろして煮たり捏ねたりして作んのよ蒟蒻ってさぁ。その工程がわりとグロいし、なんかすんごいにおいするんだけど、でもできた蒟蒻がふわっふわでおいしーの。売ってる蒟蒻ってツルン、プルン、って感じでしょ? でもねぇ、おばーちゃんの蒟蒻はなんていうかなぁ、もさっとしてて、ぼろぼろしてて、それがまた味がしみこんでおいしーの」
あれは食べないとわかんないよなぁ、としみじみ呟くリリカの頭の中には、蒟蒻を咀嚼した時のじゅわり、とした触感が浮かんでいるが、きっとこの話を聞いている海燕には全く伝わっていないのだろう。
そういうものだ。自分が経験したことは、結局自分しかわからない。
客の話に、わかるわ~と相槌を打ちながらも、リリカはいつも一歩引いたところから、わかるわけないんだけどね、とため息をついていた。
わかるわけがない。所詮他人だ。同じものを食べなければ、その味は共有できない。同じ経験をしなければ、その感動は共有できない。
それでも想像することはできるから、結局コミュニケーションなんてものは想像力なんだろうな、と思っていた。
この持論を展開すると、少し不器用な箸の持ち方をした海燕は、わからないでもないですけどねぇ、などと偉そうに口を開く。
「想像力で補ってばかりじゃ疲れません? だってそれ、自分が理解できないところを自分が想像して相手に合わせるわけでしょ、うわぁボク駄目それ絶対だめ、やればできるでしょうけど絶対やりたくないですねぇ~」
リリカの作り置いた蓮根の煮物をほいほいと口に入れる海燕に、思わずぐっと眉を寄せてしまった。昔から、この男に対しては容赦というものを忘れてしまう。
馴染みの金貸しの青年がリリカの一人住まいをノックしたのは、昼を少し過ぎた時間だった。久しぶりに午前中に起きて洗濯機を回し、さてそろそろ昼食かなぁと思っていたところだった。
いつも通り、誰に対しても同じ笑顔を向ける海燕は、ずっしりと重そうなタッパを差し出し『昨日カレー作りすぎましてお裾分けです』と首を傾げた。
さらり、と揺れる髪の毛がイケメン風でイラついた。本当に昔から見た目だけはそれなりだ。中身はとんでもない男だと知っていなければ、そして彼が同性愛者だと知らなければ、同僚の何人かは報われぬ恋に落ちていたかもしれない。
出勤前の嬢にカレーとかなめてんのか、とリリカは大いに切れた後、差し出されたタッパを冷蔵庫につっこみ、暇なら飯につきあいなさいと友人でも恋人でもない男を自宅に引きずり込んだ。部屋着であったし髪の毛はただ束ねただけだったし、もちろんすっぴんで眼鏡だったが、海燕相手に化粧をして身なりを整えるような気遣いはもったいない。顔を洗うくらいで十分だ。
「あたしだって日常生活でそこまで気ぃ使って生きたくないっつのこんちくしょう。仕事だから仕方ないんだっつの。アンタだって接客でしょうよ。前から思ってたけど、なんでアンタって想像できる頭はあるのに譲れないわけ? あったまカッチンコッチンなんじゃないのー」
「おっしゃるとおりですねーボクの頭は基本的には石ですからねうはは!」
「うるさいっつの。笑うなっつの。ご近所迷惑だっつのどうすんの篠田さんの彼氏随分若いわね中国人? なんて噂たったらどうすんの」
「いやぁそのときはご期待に応えてチャイナ服でデートしないといけませんねぇ、ボクあれ着たことないですけどね。似合っちゃったらイヤだから」
似合うだろうな、とは思ったが、リリカはなにも言わずに厚揚げを咀嚼することに集中するふりをした。
この軽薄ぶっている年下男の人生は、随分と波瀾万丈だということを知っている。不幸な方がえらい、というわけではない。それでもわざわざ傷口に指をつっこむ事は控えるべきだ、とリリカは考えていた。
しばらくの無言の後、海燕はぼそりと呟く。
「……想像できるから、譲れないんでしょうねぇ」
ボクは優しくないもので、と、自嘲気味な言葉がこぼれた。
「それ、他人との譲り合いがうまく行かない言い訳?」
「言い訳ですよぅ。ボクはね、たぶん想像力はある方なんです。でもねー、理不尽な事がすごくイヤで、ボクは間違った事言ってないのになんで譲らなきゃいけないのかなぁなんでかなぁって思っちゃう。まーこれが対人スキル底辺な理由ですよねわかりますわかりますー。心が狭いんですよねー。一般的な方々の心の広さが琵琶湖くらいだとしたら、ボクなんてお茶碗くらいですよ」
「せめて猪苗代湖くらいがんばんなさいよ……」
「いやぁ、控えめに言ってもお鍋が限界です。心の狭さならわりと負けません。ボクは他人にもボクと同等の譲り合い精神を求めてしまいますので、ボクと同じくらいの想像力と忍耐力を発揮してくださる方じゃないと安心して喋れないコミュ障なんですよー」
わからなくもない、とリリカは思う。海燕は自嘲するが、別にそれは心が狭いわけではなく、ただ真面目すぎるだけなのではないか。そう口を開こうとしたが、結局他人の事はわからない、という持論に基づき反論はしなかった。
その代わりに、漬物を抓んでいた箸で海燕を指す。
「それってつまりあたし達には心許してるってこと?」
「………………………」
「……やだ、ちょっと、なに赤くなってんのまじかよ。そんなキャラだったっけ海燕ってさ。え、なに? やだかわいいんだけど? ちょ、こっち向きなさいよ顔みせろ顔ー!」
「いやーですーよー! ちょ、やめ、だからリリカ嬢はイヤなんでーすーよー!」
「いやぁ今までくそみたいな弟分だと思ってきたけど、今日はじめてかわいい弟的な感情が芽生えたよあたし」
「結構ですよ。その生暖かい感情はどうぞ排水溝かトイレあたりに流してください。ボクはシャチョーのぶっきらぼうな愛情と春さんのあふれんばかりの愛で手いっぱいです」
「うはは、アンタってほんと口ばっかり!」
リリカの言わんとしていることが分かったらしく、海燕はうるさいですよと苦笑いを零しながらお茶を啜った。
口ではだらだらと愛だのなんだの零す癖に、海燕はそれを信じていない。他人の経験と感情がわからないのと同じだ。経験していないものはわからない。愛されていない者は、愛が何かもわからない。
それでもやっと、人並に照れたり拗ねたりするようになったのだ。そう思えば、不思議な感慨が襲った。
別に、泣くほど嬉しいわけではないけれど。まあ、祝福してやらないこともない。
茶碗の中の米をすべてきれいに平らげて、ごちそうさまでした、と手を合わせる海燕に、リリカも一緒に手を合わせる。
「あーなんか、こう、海燕の精神的成長を記念してお祝いしたくなってきたわ。アンタ誕生日いつだっけ?」
「六月ですよ。ちなみにそれリリカ嬢に訊かれるの十回目くらいなんでいい加減紙かそれとも消えない脳みそのどっかにきっちりメモっておいてくださいよう……別にぼかぁ、リリカさんに誕生日プレゼントもらいたいわけでもないですし、祝っていただきたいわけでもないですけれどね、毎度同じことを答える労力酷く無駄だなぁって思うわけですちょっと聞いてますか!」
「なんだ終わってんじゃん早く言ってよー。誕生会したの? どうなの? 春ちゃんに祝ってもらったの? どうなの?」
「……のーこめんと」
「うっそやだ、照れちゃう海燕ほんとツボった……なんて素敵なおもちゃなんだろう……」
「ボクは今後しばらくこちらのお部屋とMISS・LIPSには近づかないと心に固く決めましたよ。お昼ご飯どうも御馳走様でした、相変わらずリリカさんの煮物は割烹レベルですねぇ流石春さんが絶賛なさる味です。自家製蒟蒻もぜひ味わいたいものですが、ご実家とは疎遠なんでしたっけ」
首をかしげる海燕に、リリカは特別な感慨もなくそうだよ、とだけ答えた。
親族が作った借金に追われて飛び出した。祖母はまだ健在だろうが、今も昔の家に住んでいるのかわからない。自分が保証人にされていた分は、がむしゃらに働いてなんとか返したし、今も一人で生きている。
蒟蒻の煮物が食べたいな、と思う度に、でももう一生食べられないんだろうなぁ、と思う。蒟蒻芋をどうにか手に入れて、自分で作ってみたらいいのではないかと思わないこともないのだけれど。
一人で芋をすりおろして、ぐつぐつと煮るのはむなしくないだろうか。食器を片付けながらそんなことを口にするリリカに、海燕はあっけらかんと声を投げかけた。
「みんなでやったらいいじゃないですかー。キャバのお店の人たちでもいいですし。人生初の蒟蒻作り、うちの事務所一同もお手伝いしたっていいですよなんだか楽しそうですしねぇ」
「……闇金会社とキャバ嬢でこんにゃく作り?」
「ふははは、いやーまとめるとなかなかえぐい字面感ありますねーおもしろいので有りかと思います。シャチョーに相談しときますよどうせわが社は日曜定休で全員もれなく暇人です。大した趣味もない大人三人ですからね。いいじゃないですかこんにゃく作り。正月に餅つきするテンションでこんにゃく作ったっていいんじゃないですかね?」
「あたしは正月に闇金会社と餅つきなんかしたことないけどね。……まあ、アンタが楽しそうって言うなら、付き合ってやらんこともない」
「まーまー傲慢な姉ですねぇ」
「うるさい弟に言われたかないわ」
うはは、とお互いに笑って、海燕は靴を履き、リリカはいつものスポンジにいつもの洗剤を垂らした。
「あ。そういえば」
玄関の扉を開けたところで、海燕が振り返る。
「なに。用があるならさっさと言えし」
「せっかちは寿命も縮めますよー今朝うちのシャチョーにリリカ嬢のところにカレーを持って馳せ参じると伝えたところ伝言を頼まれたことを今思い出しました、いやぁ帰る前でよかったぎりぎりセーフでした。『もずく余ってるからほしいなら取りに来い』だそうです。こんなの自分で電話したらいいのにって思いますよね、まったくボクも同意見ですよ」
「……ていうかアンタがカレーと一緒に持ってきたらよかったんじゃないの」
「っあ」
なるほどボクもシャチョーも馬鹿ですね、と、海燕は笑い、伝えましたからねと言ってひらひらと手を振った。そして最後に、台風はいらない言葉を残していく。
「リリカさん、ボクねぇ、別に義理の叔母が二歳年上でも構いませんけど、なんていうかこうー、形にならなくても存在するものって、わりとあるんじゃないかなぁって、最近は思ってるんですよね。……義理の叔母が二歳年上でも全然かまいませんけどね?」
「…………早く春ちゃんのとこに帰れ台風」
「あはは。報復ですよー照れる人って確かにかわいいですねぇ」
じゃあまた、と言い残し、海燕は扉を閉めた。熱風を残したように、暑い。ほんの些細な言葉に翻弄されている自分が、どうにも悔しく、叫びだしたいような気持になる。
そんなんじゃない、と何度か自分に言い聞かせる度に、でも好きなんだと誰かが叫ぶ。そんなんじゃない。結婚したいなんて思ってない。じゃあなんだと言われたら、わからなくてもどかしい。
「……形にならなくても存在するもんってなんだよ馬鹿にもわかるように言って」
ひとりでぽつりとつぶやく声は誰にも拾われずにただ消えていく。人の気配を残した部屋は物悲しいが、いつも通りで落ち着いた。
蒟蒻の煮物が食べたい、と思う。そう思うときはいつも少し寂しい時で、もう一生食べられないあの味に思いを馳せて、侘しい気分に浸りたい時だった。
化粧をしよう。眼鏡を外してコンタクトを入れよう。もう少しましな服を選んで、そうしたら髪の毛を少し整えて靴を履く。早めに買い物を済ませてから出勤したら、今日は少し派手なドレスを選ぼう、と思った。
蒟蒻の煮物が食べたい、と思いながら。
「あー……あこがれ、なんて、知らなかったのになぁ」
寂しい女の独り言は、ぼんやりとした空気に交じってすうっと消えた。
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