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はじめのはなし 01
ごめんね、と零す電話向こうの声はちっとも悪いと思っていない風で、このくそメタボがどつくぞと、とても口に出せないような罵詈雑言をどうにかぐっと飲み込んだ。
『どうしても外せない仕事が入っちゃってさ~。今度、お店の方に同僚連れてくから許してよ~つばきちゃんー』
「いやあの、許すとか許さないとかじゃなくてマジ……ええっと、西野さんのご紹介なのに、あたし一人とか不安じゃないですかぁ」
『大丈夫大丈夫、すごく信頼できる人だって聞いてるから! 占いも超当たるんだってさー』
「うらない…………」
それとこれとは関係ねーだろハゲ他人事だからって適当なこと言ってんじゃねーぞハゲ、なんて勿論言えない。そんな事をしたらただでさえ少ない俺の客がガツンと減ってしまう。
ハゲでメタボで仕事ができなそうな西野さんは、妻子を愛しつつオカマパブに楽しく通ってくれる、安全で素敵な上客だった。その上交友関係も広い。
仕事が早いのかはさておき、憎めない人間だということはわかっている。たぶん、西野さんは『いい人』スキルだけ世の中を渡っているツワモノだ。
そのいい人が、俺の目のクマに気がついたことからこの話は始まった。
始まりなんて言い方をすれば、それは多分このアパートに引っ越してきた時からなんだけど、とにかく今俺が冷や汗だらだら流しつつ西野さんに電話してるこの現状の始まりは、間違いなく俺のクマだ。
どうしたの不眠症?
そうなんですぅ~最近ちょっと寝苦しくてー……。
悩みでもあるのかな~つばきちゃんって真面目だから。
やだうれしい(笑) でも悩みって言うか、ちょっとオカルト? かも?
え、そういう話なの?
西野さんって、幽霊とか信じます?
うーん見た事は無いけど、そういうものもあるんじゃないかなって思ってるよ。
そっかぁ……うーんあたしも霊感なんてなかった筈なんですけど、ちょっと今のアパートがヘンな感じでー。
じゃあ、僕の知り合いのそういうのに詳しい人を紹介しようか?
……なんていうすごく軽いノリで、あれよあれよと俺は霊能者? 拝み屋? みたいな人を紹介された。
勿論友達の友達みたいな人間をいきなり招き入れることに抵抗はあった。大概そういうやつは他人事だからって適当なことばかりする。それは恋愛相談だって、職場の相談だってそうだ。第三者はいつだって適当だ。
だから結構渋ってたんだけど、その霊媒師だか霊能者だかは本業の方で、きちんとお金を取ってくれるというので、とりあえず若干安心した。
商売として生計を立てているなら下手なことはしないだろう。一番面倒なのは『ちょっと霊感があるだけの善意の第三者』だと思う。そうちうのは善意でも詐欺根性込みでも、絶対に後々揉める。自信がある。世の中そんな話ばかりだ。
それに加え、相談や家を見るだけならお金は取らない、その後対処が必要ならその分だけ要相談、との前情報をいただき、たまにはやるじゃねーの西野ってメタボに関心していたのに。
『珍しくさぁー新人ちゃんが接待でやらかしちゃって。どうしても抜けられないんだ、ごめんよー。何かあったら、電話してくれてもいいから』
そんな風に言われてしまえば無理も言えない。
嘘をつけるメタボじゃない。きっと今のメタボの発言はガチだろう。後輩の尻ぬぐいに汗水たらすメタボの事はもう忘れるしかない。久しぶりに自分から他人に電話したというのに、助け舟は掴めなかった。
はぁ、と、知らず溜息が出る。
通話を切った携帯を眺めていると、耳の後ろから不意に吐息のような声がした。
「――……溜息は寿命を縮めるそうですよ」
「うひぃ!?」
びっくりした。忘れてた。一瞬本当に忘れてた。忘れてたからものすごい声が出た。
ついでに今日は西野さん用にきちんと化粧をして女の格好をしていたことも忘れていて、思わず飛びのいてからポニーテール状のつけ毛がべしっと頭を打って、予想外の刺激にまたヘンな声が出そうになった。
オカマパブ勤務も長いが、別に女装趣味とかではない。
普段家に居る時勿論俺は『椿ちゃん』ではなく、ごく普通の坂木春日二十五歳だ。身長も低くは無いし、声も高くは無い。
店での化粧ばっちりな椿ちゃんしか知らないお客さんに、いきなりオフの男子姿を見せるわけにもいかないだろうと思い、どうにか普段着の中から女子が着ててもおかしくは無いようなものを選んだって言うのに。
まだそわそわする耳元をさすりながら、クソがと内心毒づく。化粧をした俺がそわそわと扉を開けたそこには、西野メタボの姿はなく、黒づくめのイケメンが立っていただけだった。
そして冒頭の電話に戻る。
何これ誰これイケメンセールスマンのわけないよなていうか俺今めっちゃ美人なオカマ状態なんですけど何の罠、とパニくってるうちに、黒いイケメンは薄いサングラスの向こうでにこりと頬笑み、『ドウモコンニチハクロユリトモウシマス』と酷く気持ちのいい声で呪文のように挨拶をかましてきた。
黒いシャツに黒いスラックスに黒い手袋に薄い色のサングラス。どうやらこの男は名前をくろゆりというらしい。
なんだこれラノベかよアホか。ドラマでもこんなキャラが出てきた瞬間に笑いながら手を叩く自信がある。
少しでも顔のバランスが崩れて居たら変人だ。
それなのに、完璧すぎる美形で、笑うところなんて一つもない。
「名刺を切らしていて申し訳ない。それで、僕がこちらの部屋に上がる許可はいただけるのでしょうか」
俺も見事な女装だったしこの男も見事な変人美形だった為、とりあえず玄関の中に引きこんでその場で立たせたままだった。
やたらとキモチイイ声で嫌だ。耳がぞくぞくする。思わず反射的に『イイヨ』と言ってしまいそうだったけれど、いや良くないだろと思って言葉を飲んだ。
「……西野さんの言ってた通りの人だけど。くろゆりさん? は、そのー霊能力者っていうかお祓いする人で正解っすか?」
「うーん、どうでしょう」
「は?」
「お祓いは、ものによりけり似たようなことはできますが。霊能者かといわれると微妙ですし、お祓いする人かと言われたらもっと微妙ですね。でも、僕はきっと坂木さんのお役に立てますよ」
にっこりわらったイケメンは、そう言って勝手に靴を脱いで部屋に上がった。
「あ、ちょっと!」
「………………」
すれ違う時に、ふわりと香るのは香水というより、花の匂いっぽい。くらりとする程いい匂いだ。
全体的に、この男は麻薬っぽい。声も匂いも見た目も完璧で、にっこりとほほ笑むだけで大概の人を落とせそうだ。黒づくめをやめるだけで、アイドルか俳優の様になる気がする。
黒まみれのイケメンは奥の部屋にずかずかと入って行くと、丁度真ん中に突っ立ってぐるりと部屋を見回した後に天井を見上げた。
そのまま、じっと見つめる。
俺はといえばそこに近づく勇気もなく、廊下の壁に寄り掛かってイケメンの動向を見守った。
「……なんか見えます?」
五分ほど待ったけれど、イケメンは一向に動こうとしない。霊と対話でもしてんだろうか、なんてそれこそ心霊特番のような事を考えていたら、イケメンがくるりとこちらを向いた。
「いえ、見えません。僕はどうも、目や耳から感じ取るタイプではないようで」
「あ、そうなんすか……なんか、そういうの、いろいろあるんすね……」
「どうでしょうね。僕は同業者というものをあまり信じていないのでよくわからないんですが。とりあえず上かな、ということはわかります」
「見えないのに?」
「はい、とても、肌がぴりぴりします。これは一種の霊感というか第六感なんでしょうかね。ところで坂木さんにはどのようにお見えで?」
俺は、西野さんには部屋がちょっと変な感じがして寝つきが悪い、とだけ説明していた。
実際はもう少し具体的なあれそれがあったけれど、いきなりそんな事を言っても引かれるか逆に食いつかれて面倒くさいことになるかのどちらかだと思ったから、あえて言わなかった。
どのように見えるか。
正直に言おうか考えたのは一瞬で、口に出すことを躊躇ったのも一瞬だ。
あまりにも奇麗に笑う黒づくめの男が、非現実的すぎて、現実味がなかったからかもしれない。
「あんたの上に天井からぶら下がった足が見える」
案の定、黒い男は驚かない。
「なるほど。何人分ですか?」
「わからない。沢山。でも片足だけだ」
「どちらの足?」
「ぜんぶひだりあし」
「今も?」
「いまも」
ずっと、最初に越してきた日から、オブジェの様にその足はあった。
最初の日は一本だった。
天井に足が生えてきたのは、引っ越してきたその日だ。
元々自分で選んだアパートではなかった。親の紹介で、大家と親しいからと案内され、特別な不便さも感じなかったので素直に入居を決めた。妙に家賃が安いのは、親しい間柄故のおまけだと思っていた。
暫くは天井の足が気になって眠れなかったが、それは特別何をするわけでもなく、ただそこにじっと垂れ下がるだけだった。
引っ越して早々に出ていくこともできない。今も昔も俺はとにかく金がなくて、新しいアパートに移る余裕もなかった。
昔から時折ヘンなものを見ることはあった。
西野さんには霊感はないと説明したし、実際自分にそんなたいそうなもんが備わっているとは思わない。でも、なんとなくおかしいなーと思うような事は多くて、それは無視していれば大概そっと消えて行った。
生活の中で、天井の足のことは気にならなくなっていった。実害がないものに、俺は慣れるという選択肢を取った。
実際何もなかった。最初の一年、足は一本だけで、次に足が増えたのは次の年だったと思う。季節は忘れた。ただ、何事もなかったかのように、最初からそこに存在していたように、もう一本の左足は天井からぬっと生えていた。
これが両足だったら、もうちょっと俺も怖がっていたかもしれない。
次は手が生えて、行く行くは全身が出てくるんじゃないか、なんて思っていたかもしれない。
けれど、次の年も増えるのは足だけで、気が付けば五本ほど俺の部屋の天井は足が生えていた。
上の202号室の住人は、何回か変わっていた。やたらと入れ替えが激しい部屋だな、くらいの感想は抱いていた。あの足の上半身が202号室にいるのなら、まあ、そらそうかいやだもんな、くらいにしか思っていなかった。
その数本の足が、異常に増えたのが、去年の春先の事だ。
「大学生だか院生だか、若いおにーちゃんが越してきた。その春先くらいから夏に掛けて、急にぶわーって足が増えたんだよ。夜中にどたばた煩いし。苦情入れようかなって思って二階まで行っても、いくら呼び鈴押しても出ないし、電気ついてないし、すっかり人なんか住んでないみたいだった」
「でも、音がする」
「うん。あー、これ、ちょっと、洒落になんないのかなー? と思い始めて。そう思うと結構不気味になるもんで、よく今までこの足の下で眠れてたよなーとか」
「仰る通りですね。想像するとかなり面白い図です。ああでも、それでは、上は上でおそらく、溶かそうとしてるんでしょうね」
「溶かす?」
日常生活で聞き慣れないというか、こういうオカルト関係でもあまり聞かない単語だと思った。
眉を寄せた俺の疑問形の言葉に、黒いイケメンは『そうですね』と笑う。
「僕は、溶かすと表現しています。まあ、他の方が言うところの『除霊する』『成仏させる』という事なのでしょうが、僕はそれでモノ自体が何処に行くのか知らないので、まあ、そこにあるものが無くなるという意味で溶かすと表現しますね」
「溶かす……」
「はい。上の部屋はどうやら、別の方によって溶かされ始めているようです。それで、溶かしきれない部分が、下に、押し出されてきている、といった感じというか」
「感じ、とか、え、ちょっと、なんか怪しいけど大丈夫なんすか」
「知りませんし分かりません。僕は幽霊を見るわけでもないですし、対話できるわけでもないですからね」
「え? じゃあ、くろゆりさんって、何者なんすか」
「呪い屋です」
危うく口から『漫画かよ』という突っ込みが出そうになった。
不自然に言葉を飲みこんだお陰さまで、おかしな間が開いてしまう。いやそんなことよりも何だよその呪い屋って。ばかなの。アホなの。いや今天井でゆらゆらしている大量の左足の方がきっと頭おかしい現状なんだけど、そんなことよりも目の前のイケメンの方が異常だと思ってしまう。
イケメンはさらりと笑う。
ゆらゆら揺れる、足の下で蕩けるように笑顔を作る。
「と言っても呪うだけが仕事ではありません。呪いを解くお手伝いも致します。加えて場にかかった呪いを解く過程で除霊のような作業もいたしますので、大きく括って除霊屋と言ってしまってもいいようなきがしますがね」
ああ、上の部屋、呪われてますねぇ、と。
やたらとキモチイイ声でイケメンは言った。俺はと言えば、くらくらする頭で必死に何が怖いのか、考ええていた。天井の足が怖いのか、その上の呪われているらしい部屋が怖いのか、それとも、目の前で甘い笑顔を浮かべる自称呪い屋が怖いのか。
これが、呪われた部屋の下の階に住む職業オカマである俺と、黒づくめでグラサンでイケメンなのに性格がぶっ飛んでる(ことをこの後に知ることになる)くろゆりさんとのファーストコンタクトだった。
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