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おしぼのさま 13

   十三章 杜環 「……宿とか、やっぱりなさそうだよねぇ」  助手席の蓼丸さんが広げるのは、一時間前に本屋で買った住宅地図だった。  図書館に行けばそういうものもあるんじゃないかとも思ったが、地理のわからない土地で迷うのは時間の無駄だ。結局かなりの出費となったが、金を渋って人生台無しになっては元も子もないという意見は、僕と蓼丸さんで一致していた。  事前にネットで調べてプリントアウトした地図と、カーナビに従い高速を三時間。途中で休憩は入れたものの、ほぼ走りっぱなしで下道でさらに二時間かかった。  実家が北海道で良かったと思う。レンタルした車はスタッドレスタイヤを履いていたが、雪道の運転はタイヤ一つでどうにかなるものではない。高速は地面が濡れないようにしてあるから良いが、雪国の一般道路は割合酷い状態だ。水を含んだ濡れた雪は、山間に向かうにつれ白い圧雪に変わる。  生まれも育ちも関東だという蓼丸さんは、車が揺れる度に車内の取っ手に掴まって青い顔をしていた。案外、絶叫系の乗り物とか嫌いなのかもしれない。  何時間運転したかわからなくなってきた頃、僕達は目的の集落に辿りついた。  杷羽見村。蓼丸さんが恐らく全ての元凶だと推察し、そして彼の知り合いだという霊能者の方が今滞在している土地だ。  村の端に位置する公民館じみた建物とバス停横に車を止めた時には、すでにあたりは暗くなっていた。  腕時計は午後六時を指していた。 「やっぱり電波ないね。まあ、予想してたしそういう風に言われてたけど。相変わらず連絡はないしつかないし、もう頼りは住宅地図だ」 「葦切鴻偲、というこの家ですよね?」 「そう聞いてる。鴻偲さんはお亡くなりになっているみたいだけど、まあそれは最近のことらしいので、この地図を信じて歩くしかないよね」  今朝、那津忌から送られてきたメモを見た蓼丸さんは、『おしぼのさま』という名前に心当たりがあると発言した。  それは、僕の家の怪異現象に対してお札を用意してくれた例の霊能者の様な人――蓼丸さんは呪い屋と表現していたが、彼が現在抱えている依頼の内容と被っていたという。  どうしてそんな事を知っているのかと問えば、お札や祝詞を貰う代わりに、ネット環境が整っていないだろう田舎の集落に向かう霊能者の手となり情報収集をする役割を仰せつかったのだという。電波状況が悪い杷羽見村で唯一データの送受信が可能な場所があり、多少だが近状のやりとりをしたらしい。そして今朝蓼丸さんは『おしぼのさまというものについて検索をかけてほしい』というメールを受け取っていた。  結果的に蓼丸さんの所にもアレは来ているわけなのだが、元々は僕の個人的な悩みだった。その為に彼が時間を割いて霊能者の助手まがいの事をしていたと思うと、本当に頭が上がらない。 「いやまあ、それはいいんだよ。おもしろい事に頭を突っ込むのは趣味みたいなものだし。呪い屋さんとは別に、彼に同行しているのが僕の友人だしね。ていうか、その友人を介してくろゆりさんと知り合ったんだけど」 「くろゆりさんというのが、黒澤鑑定事務所の方ですね。サイトしか拝見してないですが、思っていたより事務的な感じで、わりときっちりしているなと思った記憶があります」 「うん、そう。あの人仕事はすごくきっちりしてるみたい。ぼんやり眺めている分には結構な性格だけどね。そのくろゆりさんの助手みたいになってる人が、僕の友人の椿くんです。これ源氏名だけど」 「源氏名……ホストの人……?」 「ううん。オカマ。別に彼ニューハーフとかそういうのじゃないけど。職業オカマってカンジかな。その二人が、多分今葦切家に居る、筈なんだけど」  なんか妙に静かだねと、蓼丸さんは周りを見渡して呟いた。  連絡がつかないならば行ってしまえ――。そんな風に決意したのは、日記が郵便受けに入っていたのを発見してから、ものの十分程の事だった。これ以上の怪異は耐えられないと判断した僕と蓼丸さんは、すぐにお互いの仕事を調整し、出来うる限りの装備でこの村に向かった。  例の日記は、僕の鞄の中に入っている。キッチンでぺらぺらとめくったが、どうやら、那津忌の原稿として書き起こしてある部分の後も日記は続いているようだった。僕が那津忌から受け取った原稿は、『ころしてやる』と繰り返す文章で終わっている。そのあと二人がどうなったのか、さっぱりわからない。  アヤエの日記には続きがある……それを読む事は事件の解決に対して有効なアプローチであるとは思ったが、二人とも、日記を開く勇気はなかった。  まだ夕刻と言っていい時間なのに暗い。陽が落ちるのは仕方ないとしても、何故か、家々の明かりすら灯っていなかった。  まるで廃村だ。人は住んでいる筈だし、若干気配もあるのに、気持ち悪い程暗い。家々の戸口には、木の枝とお手玉大の麻の袋が下がっていた。木の実か豆のようなものが入っているようだ。 「物忌み日、ですかね」  僕がなんとなしに口にすると、少し先を歩いていた蓼丸さんが振り返った。 「なに、それ。怖い日?」 「怖いというか、決まりごとがある日というか……僕も、あんまり民俗学に詳しくないのでほとんど那津忌の受け売りなんですけど。穢れを避けて慎むべき日の事らしいです。青物を切ったり、野火を焚いてはいけない日とかで」 「あー……元旦とか、それに近いのかな。本来元旦は、何もするべきではない日だって言うよね」 「戸口に何かを飾るというのも魔除けですよね? 魚の頭を飾ったりとか、刃物を飾ったりとか、そういうものは大概戸口ですし、つまり家の中に何かが入ってくるのを避ける、という概念でしょうから」 「……おしぼのさまが、来るのを避けてるのかな」  奇しくも同じ事を考えていた僕は、急ぎましょうと蓼丸さんを急かした。どこからか、髪の長い女性がぬっ……と顔を出す想像をしてしまった。  家の周りを徘徊するアレを、実際に目にした事はない。ただ、郵便受けから溢れていた長い髪の毛や、日記の内容から考えるに、ソレはやはり女性ではないかと思えた。  髪の長い、着物の女性が、片足を引きずり、ゆっくりと徘徊する。時折何かを探すように、家々の塀を、骨ばった手の甲で叩く――そんな想像は、ただでさえ寒い身体に更に鳥肌を立てる。  想像を振り切るように足を速め、僕達はついに、葦切家の門の前についた。  葦切家も静かだった。真っ暗で、人の気配がしない。玄関には鍵が掛り、呼び鈴を押しても反応はない。  左手に庭のようなスペースがあり、その裏手には離れと、そして蔵のようなものが見える。 「……居ない、ってことはないと思うんだけど。とりあえず椿くんかくろゆりさんに合流さえできればあとはなんでもいいし、勝手にお邪魔して、くろゆりさんたち探しちゃおうか」  その案には僕も賛成だった。せっかくここまで来たのだから、このまま帰るというわけにはいかない。それに、このままのこのこ帰路につけば、例の零時を車の中で迎えてしまいそうだった。硝子張りの車の中で、アレと対峙したくはない。  庭に回り込み、他に入口がないか確かめる。勝手口と思われる扉も、やはりきちんと施錠してあって開かない。母屋はきっちりと雨戸が閉められ、中の様子すら窺えない。  離れらしき建物の奥にある石蔵が目に入り、鍵が開いていたところで意味があるのかわからないが一応確認しよう、と移動したところで、蓼丸さんの小さな悲鳴が聞こえた。 「ヒッ………」  何事か、と振り向き僕も思わず息を飲む。  庭の真ん中に、女が立っていた。こちらに背を向けている。髪の長い女だ。ぼさぼさの長髪が、ひどく汚れているのが、月明かりと雪の反射でぼんやりとわかった。  汚い着物の女だ。元々、白かったのか、そういう色なのか。泥で汚れたようないやな色と質感だった。妙に左側に傾いている。  動けず、どうしていいかわからずに、蓼丸さんの手を掴み固まっていると、女がゆっくりとこちらを振り向くような仕草を見せた。  その瞬間、金縛りが解けたかのように僕は息を吸い込み、蓼丸さんを引っ張って蔵の後ろに隠れた。  見つかっているのかいないのか判断ができない。今にも、ぬうっと、壁の端からあの女が顔を出すのではないかと動悸がする。息を詰め、冷たい石壁に背中をつけてじっとしていると、今度はお経のようなものが耳に入り込んできた。  もう嫌だ、と泣きそうになる。泣いている場合ではないのに。あまりにもパニックになりすぎて、何が現実かわからない。もしかしてこのお経みたいな声は僕の幻聴ではないのかと思い始めた時、隣の蓼丸さんが『あ』と声を上げた。  そして急にあたりを探り始め、頭の上あたりにある観音開き扉が開いていることに気がついた。本来随分と上にある筈だが、蔵の裏手は雪が積もり、足場が上がっていたらしい。 「……くろゆりさん?」  蓼丸さんが窓状のソレに向かって声をかけると、お経のような声がぴたりとやんだ。この声は、怪奇現象ではなく、この蔵の中から実際に聞こえていた声だった。 「くろゆりさん、ですよね? え、なんでそんな中に居るんですか」  蓼丸さんの問いかけに、蔵の中から返って来たのはすこし甘い男性の声だった。ただし、花のような甘い声とは裏腹に、非常に切羽詰まった様子だった。 「蓼丸さん、ですか……! 素晴らしいタイミングだ、どうしてここに、等の質問は後回しにいたしますのでとりあえずその窓からこちらに入ってくることは可能ですか?」 「……格子になってますね。無理かな……ていうか、まさか、閉じ込められてるんです? え、椿くんは一緒なんですよね?」 「生憎と離れ離れで僕は監禁、彼は今山の上の祠で恐らく生死の境です。一刻も早く、助けたい。助けなければいけない。手を貸してください。恐らく蔵の鍵は葦切家の中にある。状況から見て、葦切家の現在の責任者である鈴子夫人と、お手伝いの老人がどこかに監禁されているのではないかと思います。彼女達なら、鍵が何処にあるのか分かる筈……蓼丸さんは、お一人ですか?」 「え、いえ、例の作家の杜環くんと一緒です」 「承知しました。では、杜環さんは僕の方を手伝っていただきたい」 「手伝う?」  思わず、オウム返ししてしまう。一気に説明された状況を冷静に見ると、どうやらくろゆりさんはこの蔵の中に閉じ込められ身動きが取れないでいるようだ。  背伸びをして中を覗いてみたが、角度が悪いのか彼の姿は見えない。恐らく壁のすぐ下にいるのだろう。物音がしないことから、手足も拘束されている可能性がある。  この状況で、僕は何を手伝うと言うのだろう。鍵を探して彼を解放することが先決ではないのか。  僕の疑問符がついた言葉に、蔵の中の呪術師は大変不穏な言葉をさらりと返してきた。 「一刻も早く春日くんを助ける為に、憑女の術式を返す術を行います」 「ツクメ……術式を、かえす?」 「この家の憑きモノは、イタチでも、キツネでも、犬神でもトウビョウでもない。人間の女です。殺された人間の女の怨念が、生餌を探してこの家に取りついている。そして代々の当主はその怨念を利用し、様々な家に災いをふりまき葦切家の益としてきたと考えられる。今も、この家に向かっている憑女の怨念と呪いを、僕が全力で跳ね返します」 「そうすると、どうなる、んですか?」 「おそらく、憑女の怨念が村に溢れます。呪いというものは、必ずどこかに振りかかる。消えて無くなるということは、まず無い。古くから人を呪うには自分に跳ね返る事を念頭におけという言葉がある程です。僕は動けない。運よく鍵を見つけ、ここから出ることが出来たとしても、それから行動しては遅いかもしれない。出来る事をやるべきです。僕にできるのは、呪いを返すことだ」  お手伝い、していただけますね? という真剣な言葉に、僕は、上ずった声で応の返事をするしかなかった。

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