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おしぼのさま 14
十四章 坂木春日
何度を下回ったら、人間は凍死するんだろう。
ぼんやりと痛む頭で考え、やっと自由になった手首を摩り、感覚のない両手に思わず笑った。
笑えない状況すぎて笑える。外とはいえ雨風は凌げる洞窟の中だ。何が起こるかわからないとはいえ、死ぬ事はないんじゃないかと思っていたが、儀式の準備だと言われ爺さんたちに渡されたのは白くて薄い着物だった。
馬鹿か。こんな薄い布一枚でこんなとこに居たら風邪どころの話じゃない。それこそ命の危険がある筈だ。
なんて事は勿論言った所で意味はない。俺は、儀式に臨む事を承知した。道すがら、儀一は憑女祈願の簡単な説明をした。
なんでもそれは昔から葦切家に伝わる、呪法だという話だ。犬神作りのようなもんだろうか。じゃあ俺も飢えさせられて土に埋められて頭切られたりすんのかなぁと想像したが、正直あり得そうで嫌過ぎた。
憑女祈願は、早々行われる物では無い。百年単位で、葦切の当主がひそかに行っていたような文献はあるらしいが、どうもはっきりしない。ただ、その何回か行った憑女祈願で出来た憑女のうち、あまりにも強く独り歩きしてしまったモノが、『おしぼのさま』だという話だった。
使役し、操る事が出来る筈の憑女だが、おしぼのさまだけはそれができなかった。結果、憑女が追いかける生餌は、迂闊に外に出る事が出来なくなったという話だ。
憑女は生餌を探して徘徊する。
「災いを招きたい家に生餌を泊まらせる。そうすると、憑女は生餌に寄せられてその家に憑く。生餌自体が、憑女を招く釣り針じゃ。だから生餌と憑女は、まとめて作らにゃならん。恋仲の男女であればそれは好ましいとされた」
聞いてもいないのにそんな説明をされて、それってつまり俺が憑女にされてくろゆりさんが生餌にされるってことなんじゃねーの、と気がつき、最高に嫌な気分になった。嫌過ぎて頭の痛さが増す。なんとか神様の生贄になれ、とか言われた方がまだマシだ。
人を呪って死んで化け物になって一生恋人を探して徘徊しろ、なんて頭がおかしいだろう。人間の考える事じゃない。最高に狂ってる。
俺の生死は断定されないけれど、くろゆりさんの命は保証されているっていうのも納得だ。くろゆりさんには、生きていて貰わないと困るのだろう。
「生餌が死んだら、どうすんの」
黙っていても寒いだけなので、着替えの途中に疑問をぶつけたが、生餌の血が受け継がれていれば、憑女はそれを求めるので問題ないと言われた。
「子孫、居なかったらそこで終わりじゃね?」
「子をつくらせればいい。女ならば適当な男に犯させ身ごもらせればいい。男でも同様だ。子を成させる方法などいくらでもある」
なんかもう、やべえなってことしかわからなかったからもう何も言わなかった。やばい。どう考えてもやばい。こういう考え方がやばいって方向にならないこの爺さんたち全員本当にやばいんだろうなぁと思った。
葦切鴻偲氏は、きっとこういう考え方では無かったんだろう。自分の代で、憑女との関係を断とうとした。だから彼は、自分が死んだ後は家を捨てろと遺言を残した。
まあ、最初から結婚しなきゃいいじゃんって話だけど。それは、女と男のあれそれがあったのかもしれない。鈴子さん美人だしなぁ。
俺だって現状、一人で逃げればいいじゃんと思わなくもない。でも、のこのこと祠まで来て、絶対死ぬほど寒い着物に着替えて、うっすらと死ぬかもしれない疑惑のある儀式に臨もうとしている。くろゆりさんを助けるために、だ。これはもう、なんというか、認めたくないがそういうことだ。
いやしかし、さっさと終わらせて迎えに来るから生きてろ、なんて息まいといてなんだけど、この流れだとわりと本気で俺が殺されそうだ。まずい。やばい。流石に、これはよろしくない。
途中で隙をみて逃げだして、くろゆりさんを助けて――ということは可能だろうか。この吹きっ晒しの祠前に、あの爺さん達は待機しているのだろうか。爺さん全員を振り切って山を降りる体力は、俺にあるのか。
そしてなんとか一人で葦切家の蔵まで辿りついたとしても、鍵がない。蔵は開くのか。くろゆりさんを助けることは可能なのか。助けたとしても、その後は?
爺さん達に先導されて歩きつつ、様々な疑問をシュミレーションしつつ、これ詰んだんじゃないかなと思い始めた頃、祠の奥に辿りついた。
相変わらず、ごうごうと、風の音が響く。煩い。怖い。酷く怖い。
その上凍えるように寒い。マッチが擦られ、蝋燭に火が付けられる。
祭壇のような作りの木の棚の上には二本の蝋燭が据えられ、真ん中にはいかにも禍々しいといった雰囲気の桐箱が供えられていた。
この中から河童のミイラとか出てきても驚かない感じだ。
中に何が入っているのかは訊かなかったし、説明もされなかった。その下には酒が供えられ、一番下に置かれた真新しい箱の中に、切り取った俺の髪の毛を入れられた。
指示され、祭壇らしきものの前に正座させられる。ゴザみたいなものが敷いてあったが、直接土の上に敷かれていた為断熱効果などほとんどない。
爺さん二人に挟まれ、祝詞というか呪文らしきものを数分間聞いた。その間俺は歯が鳴るような寒さに耐え、遠のきそうになる意識を繋ぎとめる事に全神経を注いでいた。
寒い。肌が痛い。勝手に身体が小刻みに震える。せめて上着が欲しいと言っても、どうせ、聞き入れては貰えないだろう。
蝋燭のぼんやりした明りの中でも見える真っ白い息に絶望し、本当に死ぬかもしれない恐怖を感じた。
祝詞が終わってから、左足に縄を巻き付けられ、石袋のような重りを繋がれた。片足だけを不自由にするのが、昔からの習わしらしい。その意味はよくわからない。昔は、逃げられないように足を切っていたのかもしれない。その名残と考えるのが自然だ。重り程度で済んでいるのだから喜ぶべきだと思う。
「……後は、憑くのを待つだけじゃ」
そしてその後、ぽつんと取り残された。
言いつけられたのは、動かない事と、一晩ここで過ごすようにということだけだった。
馬鹿言うなこんな薄い着物一枚で一晩とか殺す気か、と思った後に、いや殺す気なんだろうなと奥歯を噛んだ。
理不尽に怒り散らしている場合じゃない。体力と精神力が勿体無い。そんなくだらない事に頭使ってる暇があったら、考えるべきだ。
どうやって、生きて帰るか。
どうやって、くろゆりさんを助けるか。
儀一は葦切家の蔵の鍵を持っていた。もしかして葦切の人間もこの儀式に協力しているのか? いやそれは無いだろう。鈴子さんは本当に何も知らない様子だった。ツネばあちゃんが俺達を謀るつもりなら、食い物に何か混ぜたり夜襲えばいい。
儀一は家を出たとはいえ、親戚ではある。忍び込まずとも、家に上がる機会はある筈だ。過去に住んでいた時に、すでに蔵の鍵を手に入れていたのかもしれない。夏は鍵をかけることは稀だとは言っていたが、憑女祈願の大事な資料が入っている場所だ。
鈴子さんとツネばあちゃんは無事なのか。
あの二人が協力してくれれば、もしかして俺達は脱出できるかもしれない。葦切家に車は無いし、俺も免許は持っていなかったが、どこか人目につかない所に籠城することも可能ではないか。
……だめだ、寒くて歯が震える。
ガチガチと煩いのは歯の音だ。すごい、本当に寒いと人間の歯は漫画みたいにガチガチと鳴るらしい。笑ってる場合では無いのに笑いが漏れる。
手足の感覚なんてこの祠に入った時からもうない。ジンジンと痛むような気がするのは頭だ。身体は寒くて寒くて仕方が無いのに、頭の中はぼうっとしている。
正座したまま蝋燭を見つめていたが、耐えられずに身体を抱くように自分の腕を掴んで屈みこむ。自分の身体なのに冷たすぎて死人のようだ。
今、何時だろう。一晩というのは、朝の何時までのことだろう。
それまで、俺が生き残る可能性というのはあるのだろうか。やはり、隙を見て抜け出すしかないのか――。
ひとまずここで蹲っていても凍死へ近づいていくだけだ。せめて入口に人がいるのか居ないのか、それだけでも調べてみるべきだ、と、意を決した時。
ずるり、と。
…………衣擦れのような音が聞こえた。
俺の、真後ろだった。
「……………――っ……」
心臓がどくんと鳴り、一瞬止まったような気さえした。頭の後ろに、気配を感じる。屈みこんだ、俺の上に、何かが屈みこんでいるような。
わりと、恐怖体験には慣れた気でいた。怖くないとは言わないが、卒倒する程じゃない、とか思っていた。でも心霊スポットに行くときは、いつも、くろゆりさんが隣に居た。
あの人は霊感が無いとか、除霊は経験則だとか、情報源はネットだとか、そんな怪しい事ばかり言うけれどいつも判断を間違えない。それにいつも、手を握ってくれる。だから俺は、震えつつも、悪態をつきつつも、正気を保っていられる。
そのくろゆりさんは蔵の中だ。今は、俺一人だ。
背中に、何かざわりとしたものが当たった。布かと思ったが違うこれは――髪の毛だ。
長い髪の毛をだらりと垂らし、上から覗きこんでいる女。振り返る勇気はないから、全て想像にすぎない。けれど、多分、この妄想は正解だと思う。
髪の毛が、段々とカサを増す。屈みこんで来ているんだ。
それに気がついた瞬間、意識が遠のきそうになった。ここで卒倒したら、確実に凍死する。なんとか意識を繋ぎとめる為に、止めていた息を再開する。
すう、とゆっくりと吸った空気は、妙な匂いだった。腐った水のような、泥のような。くろゆりさんの元に深夜訪れる、例の黒い師匠が出てくる時も異臭がするが、それとは別の嫌な匂いだ。
二度ほどゆっくりと息を吸って吐く。そうすると、若干だが冷静になることができた。冷静になったところで、恐怖は変わらないけれど、パニックで死ぬよりはマシだ。
真後ろに居る何かは、動かず、ゆっくりと俺を覗きこむように屈んでいるらしい。
時折風音に混じり、ひゅーひゅーと、掠れるような音が聞こえ始めた。
……何かを、喋ってるんだ。
喉から零れる掠れた息の音だ。俺の上に屈みこんだ何かは、掠れる音にならないような声で、何かを、喋っている。
やがて、ソレは音になって聞こえる程に俺に近づいた。もう、のしかかられていると言ってもいい程の距離だ。俺の耳のすぐ後ろから、その声は聞こえた。
「……エ…………ア…ヤ、エェェェエエエェエ……」
絞り出すようなひび割れた声を聞いた瞬間、また俺の意識は遠のき、そして蝋燭の灯が消えた。
あたりは、暗闇に閉ざされた。
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