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盛り塩の家 09
【九】坂木春日
完徹なんてするもんじゃない、って後悔するのはいつも朝日を拝んでからだ。
普段はそんな馬鹿な事はしない。もう若くないっていうのは本当で、二十五歳過ぎたら後は人間老いるだけだ。これはマジだ。マジで今まで通りの無茶はできなくなる。
仕事帰りがどんなに遅くなっても夜が明けるまでにはベッドに入る。そこから少なくとも六時間は寝る。これができない日の体調は最悪だ。
この日の俺もつまりは最悪だったのだけれど、理由は一晩無理矢理置き続けていたから、だけではない。
あの恐怖の盛り塩の家で朝を迎え、すりガラスの向こうの顔も窓を押さえる指もすべてが夢のように消えている事を確認した俺は、とにかくさっさと帰ろうとくろゆりさんを急かした。
本来なら不動産屋の迎えが来る午前九時まで俺たちはそこで待つべきだった。が、勿論あんな恐怖体験した場所で時間を潰したくはない。
渋るくろゆりさんのケツを蹴りどうにか軽く掃除をさせて、とりあえず駅近くの漫画喫茶でシャワーだけ浴びた。いっそさっさと帰って風呂入って寝たかったがしかし、くろゆりさんがこれから鈴蘭ねえさんと落ち合うとか言うからさ。そんなん俺も行くに決まっている。でも絶対に身体は洗いたかった。漫画喫茶ってすごい。漫画も読めて風呂にも入れるとかほんとすごい。現代の訳の分からないサービスに大感謝しかない。
「……眠そうだね椿ちゃん……」
朝一の閑散としたファミレスの奥の席でぼんやり珈琲を飲んでいたねえさんこそ、疲れたすっぴん顔を晒していた。
そういえばねえさんは薄化粧で出勤する。普通のすっぴんは初めて見た気がして、軽く結わえた髪が似合うアンニュイな男っぷりに若干驚いた。
化粧をしていると細くて美人なオカマなのに、それをはぎ取っても地味な顔のイケメンだなんてずるいと思う。俺なんてどっちにしてもただのヤンキーなのにさ。
「蘭ねえさんもー眠そうっすねー……」
「略して呼ぶのやめてってば……スケボーの音が聞こえちゃう……」
「見た目は子供、頭脳は大人、その名はー」
「ふ……ちょ、声真似ちょっとうまいから、やめて笑っちゃった……いま疲れてて笑いの沸点すごく低くなってるしテンションおかしいから、ほんとやめて椿ちゃん……あ、すいませんくろゆりさん、あの、この度は……苅安さんをご紹介してくださって、本当に。ありがとうございます……」
疲れた顔で頭を下げる鈴蘭ねえさんの向かいの席で、いつも通りのパーフェクトなイケメン顔のくろゆりさんはいいえと軽やかにほほ笑む。
すごい。このミントガムのCMの俳優みたいな男は本当にすごい。そりゃ俺から見ればちょっと今日疲れてんのかなって感じが出ていなくもないが、パッと見まさか一晩かけて俺のアレをそれしてああしてとにかく死ぬほど善がらせて最終的には割とガチ泣きさせた後だとは思えない。くそ。でも今回は俺が正式にねだったせいなので何も言えないし、若干納得いかない気持ちを抑え込みつつ、とりあえず珈琲を頼んだ。
「苅安さんは、もう帰られましたか?」
同じく珈琲とサンドイッチを頼んだくろゆりさんは、いつものサングラスを外してからねえさんに問いかける。
「あ、はい。つい先ほどまでは、一緒に居たんですが……くろゆりさんがもうすぐ着くと言ったら、慌ててお会計してしまって」
「まあ、そうでしょうね。電話越しでも嫌だと言われますから、生身の僕なんて彼にとっては本当に辛いでしょうし。結局苅安さんはお仕事をされましたか?」
「あ……いや、いいえ……その、私がどうも、一人で待つ勇気がなくて……結局、くろゆりさんに相談してから、もし必要ならば苅安さんが一人で今夜にでも『移動させる』と言っていました」
「成程、妥当な判断だと思います。昨日あったことを、詳しくお話してくださいますか?」
くろゆりさんに促され、鈴蘭ねえさんは苅安という男と体験した事をぽつぽつと話してくれた。
盛り塩のある家。米と塩と骨の盛り塩。深夜に現れた女が、何故か今日に限ってこちらを見ていた――。
たぶん、その場にいたら俺は叫んで逃げていたんじゃないかと思う。淡々と話す鈴蘭ねえさんは、ただ事実だけを羅列している。要約するとその程度? と言われてしまいそうな話だ。でも体験すれば叫びそうな恐怖だという事を、俺はなんとなく想像できてしまう。
「あの……くろゆりさん、も、盛り塩のある家に、昨日は行かれていたんですよね?」
「はい。苅安さんから聞きましたか?」
「あ、はい。三丁目の方だと伺いましたが、まさか、そこの盛り塩も、骨と米が?」
「そう思います。僕は実際に口の中に入れたわけではないので断言できませんが、塩だけにしては白く細かく固まりすぎていました。恐らく塩と何かの混合物でしょう。結局アレが、一体何をするためのものなのかはわかりませんが……僕は先週、同じような盛り塩と二階の女の幽霊の話を、知り合いの作家業の方から伺っています」
それは杜環さんが実話怪談の執筆過程で聞いた、なんとも気味の悪い話だ。
こちらの話も、鷹乃鴉駅から徒歩圏内の一軒家が舞台となる。引っ越し初日に扉を開けるとずらりと廊下に盛り塩が置いてある。そして、二階に女が出る。文字にして羅列すると、やはり少々味気なく感じてしまう。
ぼんやりと働かない頭で情報を聞き流しつつ、そんな感想を適当に口にする。熱い珈琲を一口含んだくろゆりさんは、定番に近いですからねと言った。
「定番って? 怪談の?」
「まあ、そうですね。僕は趣味と実益を兼ねて、実話怪談本や怪談家のDVDを拝見したりしますが、定番といえば肝試しに行った話か引っ越し先の話です。そして女の幽霊というものも、やはり定番中の定番ですよね。昨今たまに話題に上りますが、どうして幽霊はいつも白いワンピースなのか、と言われる程ですから」
「あー……確かに……なんで白いワンピースなのかな……あんまおっさんの幽霊の話って、話題に出ないかも」
「著名な方の怪談では変わり種も多いですがね。正直なところ、白いワンピースで髪の長い女の幽霊が出てきた時点で創作を疑います。ありきたりだから、というよりも、自分で書くならばそうすると思うからですね。僕はショートカットのおばさんや髪の少ないおじさんの幽霊を怖く表現する技術があるかわかりません。長く垂れた髪の毛の女の幽霊ならば、ある程度何も考えずとも受け取る方は怖がってくれると思います」
「え、じゃあ、杜環さんの取材した盛り塩の家の話は、結局創作だった、ってこと? でも鈴蘭ねえさんの隣の家も、昨日俺たちが泊った家も、女が……」
「出ましたね。確かに出ました。杜環さんに伺った話も、もしかしたら本当にあった話なのかもしれません。元来女は『恨むもの』とされている、と僕は感じます。人は蔑ろにしたものに対し、後ろめたさを感じます。恨まれているに違いない、祟るに違いない、と思う。今は男女の区別や差別に関して果敢に議論が交わされる時代ですが、元来この国は男尊女卑の思考が根強いですよね。蔑ろにされる対象である女性は、恨むもの、と位置づけされていたのかもしれません。これはあくまで、僕の感覚と勝手な考察ですがね」
「でもさ、まあ幽霊に女が多いってのはそういう背景があったりすんのかもしんないけど、そう離れていない同じ区域に、同じような盛り塩がある家があって、女の幽霊が出る、ってのは、これはどういう事なわけ」
「わかりません」
「……デスヨネ」
なんかそう言われると思っていた。つか、ぶっちゃけくろゆりさんが心霊現象に対して言うセリフ第一位は『わかりません』だ。心霊現象に関しては大概、かもしれないとかそういう考え方もあるとか、めちゃくちゃふわっふわしている。
くろゆりさんには、世間一般が期待する霊感はない。どこに何が居て、どう訴えていて、何をしたら円満解決になるかなどわからない、らしい。この人ができる事は、依頼人と幽霊の縁を切り、幽霊をその場から消す努力をすることだけだ。
「盛り塩の家が、ほぼ同じ区域に三軒存在する事に関しても、正直なところ僕は推測しかできません。盛り塩を使ったおまじないのような呪いが流行っているのか、単に偶然なのか。同じ人物があの塩を置いたのか、それとも、人間など関わっていないのか。結局わかりませんね。解決してくれ、という依頼でもなかったので、僕は特別この件に関して調べるつもりもありません」
俺はなんとなくわかっていたし、別にもう関わらなければいいだけだからふーんって感じだったけど、実際に隣の物件が盛り塩の家である鈴蘭ねえさんはマジで困るだろう。
と思って様子を窺うものの、当の本人は微妙に穏やかな顔で珈琲を飲んでいた。
「ねえさん、あのー……くろゆりさんの御札、わりと効くみたいだし、入口に貼っておけば多少は……」
「ああ、いや、いいの椿ちゃん。なんか、昨日本当に怖くて、逆に吹っ切れたっていうか……気に入っていた物件ですけど、やっぱり引っ越した方がいいかなと思ってきました」
「苅安さんに除霊チャレンジしていただかなくてもいいんですか? 引っ越すよりは、そちらの方がお安いかと思いますが。彼の除霊料はかなり良心的ですよ」
「はい。別に、苅安さんの能力を疑っている訳ではないんですが、お二人のお話や、似たような物件がもう二軒も存在しているかもしれない、というお話を聞いていたら、いっそ住む街を変えようかと。悪い思い出がないので気に入っていただけで、特別、ここじゃないと生きていけない、という理由もありませんから」
見ないふりをして無視をして、嫌ならこちらが離れるしかないのかもしれませんね、とねえさんは静かに目を細めた。
結局この後本当に鈴蘭ねえさんは引っ越してしまうのだが、勿論引っ越したからと言って店を辞める訳もなく、特に何事もなく普通に同僚としての日々を送っている。女が付いてきたとか、別の怪異にあったとか、そんな話は聞かない。それでも時々俺が店の角の席に何かを見てしまったり、いる筈のない人間に声をかけられたりして固まっていると、そっと察したかのようにフォローしてくれる。心霊現象にもうこりごりで、俺とくろゆりさんとはもう付き合いたくない、という訳でもないようだ。
「まぁ、誰にも被害がなく朝を迎えられて良かったです。とりあえず僕はこれから不動産会社に鍵を返す際に、差し当たって命の危険はないができることならば他の物件にした方がトラブルは少ない旨をお知らせしたいと思います」
「え。何そのふんわりした言い方。絶対やめとけって止めろよ」
「そうは言っても実際僕と春日くんは無傷ですから。あの盛り塩の効能は僕にはわかりません。まあ、少々調べてみますが、結論は変わりませんよ。何にしても場所を公開してイベントをやる事故物件など、他には中々ないでしょう。相当借り手が付かないということですからね」
……言われてみれば、確かにそうだ。事故物件という事実は、あまり公にされない場合もある筈だ。それは単純に価格が下がってしまうからで、わざわざここは事故物件ですよ、と宣伝してしまうことはあまり得策とは思えない。
事故物件ということを公開し、イベント会場にするしかない程、その家は借り手がいないのだろうか。
そう考えると更に恐怖が増す。もう一刻も早く帰ってもう一回風呂に入って寝たかった。
なんだかふらふらとした状態のねえさんと分かれ、俺とくろゆりさんはとりあえず先ほど鍵を閉めてきたばかりの例の盛り塩の家にもう一度向かった。九時に迎えに来る予定の不動産会社のおねーちゃんに、素知らぬ顔で鍵を返す為だ。できればもう一度床が汚れていないか確認したかったが、日が昇ったとはいえあの家にはもう二度と入りたくはない。
先に帰っていても良いと言われたものの、一人で帰ったところで待っているのは相変わらずのホラーハウスだ。だったら多少快適なくろゆりさんのベッドの上でだらだら寝ていたい。絶対にその方がいい。
さっさと鍵返してあの家と縁を切って寝直そう。若干急ぎ足で歩き出した俺はしかし、尻ポケットがなんだかすかすかしている事にすぐに気が付く。
「あ。……ファミレスにケータイ忘れた。取ってくる。先行ってて」
「……別に、構いませんが……キミは基本的にはしっかりしているのにどうして時々うっかり忘れものをするんでしょうね」
「うっかりさんなんだよ。ギャップ萌えなんだよ。もう不動産屋のねーちゃん来ちゃうじゃん、最悪駅集合にしよ。とりあえずケータイ回収したら連絡するから」
微妙に哀れむような表情のくろゆりさんの顔がなんかむかついたが、忘れ物が多いのは確かに俺の欠点だ。そこは真摯に受け止めたい。
くるりと踵を返した俺は、さっさと駅裏のファミレスに向かって歩き出した。
平日の朝から活動することなんて稀で、出勤途中のサラリーマンやら学生やらの怪訝な視線が若干痛い。心霊現象に見守られつつ夜通し卑猥な行為に勤しんでいた、という負い目もある。めちゃくちゃ爽やかな朝なのが本当にしんどい。
人混みというほど乱雑とはしていないベッドタウンの駅を抜けたところで、俺はふと視界の端になんだか黒いものが映った事に気が付いた。
一瞬人じゃない何かか、と身構えたが、ちらりと伺えばそれは普通に人間だ。駅の連絡通路の壁際で、ひっそりと立つ、背の高い男だ。
なんでその人の事が気になったのか、自分でもよくわからなかった。でも確かに、背の高い、黒いフードを被ったその男の前を通り過ぎる時、あの家でずっと漂っていた線香の匂いがふわりと鼻先を掠めた。
慌てて俺は目を逸らして前を見る。
もう関わらない。縁を育てない。そう決意したから。
好奇心を抑え込み、速足でファミレスの階段を駆け上がった。
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