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覗く目と合う

 いたるところから覗いている顔があるのだ、という。 「……なにそれこっわ……」  シンプルすぎる怪談に、思わず俺の口からもシンプルすぎる感想が零れ出た。  自称呪い屋のなんちゃって助手扱いも慣れたもので、もう心スポで女が立ってるくらいじゃビビらないもんね……などと豪語したいところだ。  しかしながら悲しいかな、俺は相変わらず幽霊なんてものに慣れることはなく、日々心臓を疲弊させながら過ごしている。  幽霊には、様々なタイプがいる。  追いかけてくるやつ、話しかけてくるやつ、物を動かすやつ、健康被害を押し付けてくるやつ――その中でも『覗くやつ』は、個人的に結構嫌な部類だと思う。  例えば締め損ねたドアの隙間から。  例えばうっすらと空いたカーテンの狭間から。  例えば車と塀の、棚と壁の、冷蔵庫とシンクの、その数センチの隙間から。  ぬう、っと顔を覗かせて凝視している誰かを想像してみてほしい。  どう考えても絶対に怖い、文句なしに王道すぎる不気味怪奇現象だ。  思わず想像し、そして今回の『現場』である民宿の客間の真ん中で身震いすると、荷物の中から酒瓶を出していたイケメンが小首を傾げた。 「春日くんは以前、自宅に来訪する系統が一番怖いと仰っていましたが――隙間にも恐怖を感じるタイプでしたか?」 「隙間に恐怖を感じないタイプの人間とかいんのかよ……いや別に俺だってさぁ、単なる隙間ならどうとも思わねえですよ。そっから覗いてる幽霊なんて大体の人間は嫌だろ……」 「そうでしょうか。事故物件などに率先して入居するような方などは、『実害がないなら気にしない』と仰りますよ」 「そういうのは普通じゃない人だろうがよー。くろゆりさんみたいな感情死んでるやつの感覚は知らねえのよ」 「……まあ、確かに僕は、幽霊を怖いと認識はしていませんね」  今更そんなわかりきった感情を再確認したらしく、顎に手を当てて『ふむ』とか言っているがどうでもいいからさっさと札とか酒とか準備を終わらせてほしいと思う。こええから。そんでさっさと俺の手を握れと思う。こええから。  今日も今日とていつものように、スラリしたしたいで立ちのイケメンは二度見待ったなしの全身真っ黒お洋服を召している。  幽霊には慣れんけど、くろゆりさんの真っ黒衣装には流石に慣れた。なんなら黒くないときの方が、違和感がある程だ。  黒いシャツに、黒いスラックス。勿論靴下も黒く、今は壁際にかけてあるコートも真っ黒だ。  まあ幸いな事に今はド真冬なので、若干黒づくめでもすれ違うくらいなら見逃してもらえるだろう。と言いたいところだが、この怪しい霊能者もとい、自称『呪い屋』はその黒づくめ衣装を剥ぎ取ったら俳優かモデルもびっくりレベルのイケメンなので、着替えたところで俺のようにモブよろしく世間から無視される確率は低かった。  むしろイケメンだからその黒づくめが許されているのかもしれない。だってその服、俺が着たら昔のホストか映画のヤクザのコスプレか? って感じになっちまうだろう。  黒い手袋を外したくろゆりさんは、荷物の整理を終えたらしく、さて、と息を吐く。  もう見飽きたイケメンフェイスだというのに、古びた民宿の畳の部屋のど真ん中で息を吐くだけでもサマになる。なんかこう、絶妙に腹が立つ。 「本日この建物内には、僕ときみしかおりません。宿泊客はもとより、従業員の方も誰一人館内にはおりません。普段生活していらっしゃる亭主も一晩、外泊をしていただく算段です。……あの、春日くん、先ほどから表情が険しいように見えますが、もうすでになにかを見つけてしまったのでしょうか」 「まだなんも見てねーよ霊感ビンビンに調教されし俺でもそんないきなり『います……ッ』みてえなこと言わねーよアンタの顔がイケメンすぎて腹立たしくなってきんだよ」 「それはまた、斬新な不満ですね……僕の顔などいい加減見飽きたでしょうに」 「やめろイケメン、なんかそういういつもずっと一緒にいるくせに♡ 感出してくんのやめろ」 「ああ、ですがそういえば、ここ一週間は珍しく別々に過ごしていましたね」  そう、そうなのだ。  普段はなんだかんだ言いつつも節約と実益を兼ねて、くろゆりさんの事務所に半同棲を決め込んでいる俺なのだが、なんとくろゆりさんの御尊顔を拝むのは一週間ぶりだった。  先週末、泊まり込みの短期バイトに誘われて三日間家を空けた。そして週の半ばからは、くろゆりさんが仕事で遠出していたのだ。  ……なんか無性に腹立たしく感じるのはそのせいか……? 「きみの顔が見れずに夜も眠れなかった――などという見え透いた嘘を吐くつもりは毛頭ありませんが、僕はきみが息災で安心しましたよ。これが『きみに会えて嬉しい』という感情なのかは、生憎判断つきませんがね。そういう感情を持ち合わせたことがないもので」 「自認人外ちらつかせてくんのもやめろ……俺ァ別にアンタの初めての男になりてーわけじゃねーんだよーーーー」 「そうはいっても、僕にはどうにもできません。きみを手放すという選択肢はもとより放棄していますし、これ以上僕の情緒が成長するとも思えません」 「十分成長しちまってんだろ……なんか最近すんげーぐいぐい来るじゃんセッの最中に……」 「……そうでしたか? 例えば?」 「言えるわけねーだろばーか! 無駄話してねえでさっさと仕事! しろ!」 「失礼しました。一週間ぶりのきみが、随分とかわいらしいもので」  くろゆりさんはめったに笑わないし、この時も別に声を上げて笑ったりはしなかった。  ただ、いつもはピクリとも動かない無表情をほんのすこしだけ崩して、顔全体から冷たさをスッと抜く。表情を和らげるって、きっとこういう感じだ。ってわかっちまうから余計に俺の背中とうなじは痒くなる。  足の甲からつま先にかけて、妙な感じでむずむずする。座りが悪いって感覚なんだろう。  今のくろゆりさんは仕事中で、こいつの仕事ってのは大概幽霊をどうにかしてくれっていう所謂『除霊』の仕事で、つまりここは心霊現象待ったなしスポットの真っ只中だというのに、二人っきりでもじもじウフフと言葉で乳繰り合ってる場合じゃないのだ。 「しかし仕事と言っても、本日は様子見のようなものですよ」 「様子見?」 「はい。先ほど軽く説明したように、今回の依頼はこの民宿『あさひ屋』の亭主とその奥方からでした。奥の客間に、『覗く女』が出るらしいのでどうにかしてほしい、というお話ですね」 「……らしい? っつーことは、その旦那さんと奥さんって人達は実際に体験したわけじゃねえの? 心霊体験者は客?」 「宿泊客の中でも部屋変えを申し出る人はいるそうですが――主な体験者、というのならば、それは亭主ご夫婦の娘さんでしょうね」  現在二十代前半の一人娘は、フリーターをしながら民宿を手伝っているという。  普通の家というにはデカすぎる。  かといって、旅館というには民家すぎる。  そんな中途半端な佇まいの『あさひ屋』は、旦那さんの父親が始めた民宿らしい。  若干田舎というか山が近い立地の為、釣り客が時折利用するらしい。観光地などとは無縁の場所なので、他に宿泊客の当てがあるのかは不明だ。  惰性でギリギリ、なんとか営業している古い民宿。  そんなイメージのあさひ屋で、不気味な現象が起こり始めたのは半年前の事だという。  女が出る。  勿論、それは生きている女性じゃない。 「半年前、一人娘である女性はこの部屋の掃除をしていたそうです。その日は両親が買い出しに出かけており、彼女一人だった。ふ、と視線を感じたと言います。そしてテーブルを拭いていた彼女は視線を上げ、半開きになった引き戸から半身を出してこちらを覗いている女と目が合った――そういうお話を聞いています」  六畳二間の客室はすり硝子の引き戸で区切られていた。古い家ではわりとよくある、木の格子のガラス戸だ。  そこから身体を斜めに傾け、ぬうっと顔を覗かせている女を想像する。  そんなもの、見た瞬間に血の気が引くに違いない。  女はにたにたと、気味の悪い笑みを浮かべていたという。それ以来娘さんは風呂や台所など至るところでそいつを見るようになり、挙句他の客からも『視線を感じて気持ち悪い』『夜中に誰かに覗かれた』などと苦情が届くようになった。  客商売でこれはまずい。そう判断し、夫婦は黒澤鑑定事務所に相談する運びとなった、というわけである。 「実際に娘さんご本人とお会いしましたが、本当に怖い時、人は声が出ないんですね、と苦笑していらっしゃいましたよ」 「あー……わっかるー……なんかこう、ひっ、うん! みてえになんのよなー……」 「僕には経験ありませんが、たしかに春日くんは時折そのような悲鳴を飲み込みますね」 「いや、こう、声がでねえっつーか、実際に金縛りみてえに出せないってわけじゃなくって、なんかこう……理解不能すぎて怖すぎると笑っちゃうみたいな感じあるじゃん……?」 「わかりません。僕は怖いと思わないもので」 「くっそ……イケメン皮被り人外野郎め……いつかテメーの情緒めっちゃくちゃにしてやりてえよ……」 「どうでしょうね、きみならばできるかもしれませんが、今のところ僕はきみが息絶える瞬間を目にする以外で情緒が揺らぐ想像ができませんね」 「いやそれはマジでやめろ、へんなフラグ立てんな。やだ。マジで、やだ。俺はまだ生きたい」 「僕もきみには生きていていただかないと困りますので、そのような未来は全力で阻止する次第です。ですので、最近は仕事にお付き合いいただく頻度も減らした方がいいのか、と思ってきました。実は本日もきみに声をかけるべきか迷ったのですが――」 「え、なんで?」 「……あまり、予後の良い仕事ではありませんから」  そんなことは百も承知だ。  ていうか俺をこの業界に引っ張ってきて勝手にずぶずぶ埋めたのはくろゆりさんだ。  俺はどうやら若干霊感があるらしく、そして本業のくろゆりさんは驚く程霊感がない。おそらく初期は仕事上の道具くらいの認識で連れまわされていたんだろう。今や勝手に助手とか相棒くらいの立ち位置だという嫌な自覚はあったので、素直に『なんで?』と首を傾げる。 「あんた、俺がいた方が仕事早く終わるんじゃねえの? それにほら、いざとなったときに諦めにくくなるとか言ってたじゃん」 「はぁ、そうですね……僕的にはきみが居てくれるととても助かります。きみは目が良い。僕にはぼんやりとしか見えない何かも、非常にはっきりと、そして的確に感知してくださいます。諦めにくくなるという感覚も、まだ、持ち合わせておりますよ。……きみがいるから、僕は、己の軽い命を投げ出すタイミングを失ったままでいられる」 「重い重いマジで重い怖い普通に自力で現世に命繋いでくれよ……」 「繋ぐ価値を見出せませんので、なかなか難しい要求です。僕はきみが手に持った風船です。その手に握られているから、留まっているだけです。ただ、最近は『もう少し時間が欲しい』と思うようになりました」 「時間?」 「はい。時間です。きみと、ただ隣で過ごす時間です。そしてその時間を確保するためには己の命は勿論、きみの未来も確約しなくてはいけません。……僕はきみが隣にいてくれると、僕の命を繋げ止めやすい。しかし僕の隣は、きみにとっては安全とは言い難い。とても難しい問題だな、と……春日くん、どうかしましたか?」  どうもこうもない。  いや除霊仕事中におまえなんつーこと言い出すんだとしか思えない。本人はマジでただ素直に心の吐露をしているだけなのだろうが、あんまりにも重すぎる愛の告白すぎてドン引きだった。  普通さ、恋愛ってのは好きとか愛してるとか、そういう言葉が先に来るもんだ。  いきなりソコすっ飛ばして『命』を主語にするの、本当に怖すぎるからやめてほしい。  俺はこの方、この男に正々堂々口説かれた記憶がない。  かわいらしいだのキスしたいだのそういう睦言はまあ、その、あれだ、言われんこともない。くろゆりさんは脳直結口タイプで、思ったことは比較的そのまま言葉で垂れ流す人だ。  そういう睦言は単に感情であって、付き合ってくださいとか、きみの作ったみそ汁が飲みたいとか、そういうお付き合いの要求じゃない。思うにこの人、別に俺と付き合いたいわけじゃないんだろうなぁと思うし。  恋人なんていうビジョンがそもそもない。  あるのは、『生きている』か『死んでいる』かの二択の状態だけだ。  だってこの人は、それしか知らないから。  知らないものは、語れない。想像できない。前提から排除されるから。  …………その辺まで考察して、さすがに気持ち悪くなってきた。なにこいつ、きもちわる! の方ではなく、具合が悪くなる悪寒の方だ。  なんで俺、こんなヤツの極限恋愛いざこざに巻き込まれてんだろうな……ていうかなんでそんな話をこんな場所で聞かなきゃいけなんだろうな……。  一週間ぶりの逢瀬♡ なんて雰囲気は微塵もない。  いや、くろゆりさんは今日絶妙に嬉しそうだし、俺も正直なんとなくそわそわしていた。ここが幽霊目撃現場じゃなければ、もうちょい普通にいちゃついていたかもしれないくらいだ。  ……俺たちの関係に一番不必要なのって、もしかして『心霊現象』じゃね……?  確かにこの仕事は安全とは言い難い。俺も何度も巻き込まれ、軽く死を覚悟した瞬間もあった。シンプルな話、くろゆりさんが『呪い屋』を廃業したらいいのだけれど――ふと、夜中にこの人の寝室に満ちる腐った泥のような臭いを思い出し、『そう簡単な話でもねーのかな』と息を吐く。  くろゆりさんは、たぶん、良くない運命みたいなもんを背負っている。  そんで俺はいい加減その運命みたいな何かを一緒に担ぐ覚悟決めた方が良いんだろうな、と思い始めていた。  たぶんこの人の生活から、『呪い屋』は切り離せない。ならやはり、俺がそっちに踏み込むしかない。  だって俺も、この人を死なせるつもりは毛頭ない。 「……もっとこう……初々しい感じでキャッキャうふふしたかったよ俺はさぁー………なんでデッドオアアライブなんだよマジで……」 「そういう仕事をしておりますので。元来、僕が生き延びていること自体が厄のようなものですから」 「聞きたくない聞きたくない、くろゆりさんの重そうな過去小出しにすんな、聞きたくない。やめろ、俺を巻き込むな。いや違う、あー……巻き込んでも、いい、けど、今じゃない……!」 「……お話してもいいんですか? 僕のこと」 「え、あ、まあ、別に、もういいよ。え? つか一応自重してたん?」 「はぁ、まあ……おそらく話してしまえば確実に縁を繋いでしまいますからね。と言ってもきみはもうすでに師匠ともそれなりの縁を繋いでしまっていますし、僕に近すぎますから、今更嫌だと言われても無理だろうなとは思っています」 「事後承諾すぎんだろ……やめろよ俺の意志無視で一蓮托生ルートに突っ込むの……」 「申し訳ありません、ですが僕は――――」  ふ、と、くろゆりさんの動きが止まった。  だらだらと会話を繰り広げていた俺たちは、六畳の和室の真ん中で低いテーブルを挟んで向かい合って座っていた。テーブルの上にはくろゆりさんが広げた荷物――日本酒、札、皿と塩、そしてノートと携帯なんかが綺麗に並べてある。  その日本酒の瓶が、いつのまにか倒れていた。  俺もくろゆりさんも、勿論触っていない。倒れた音も聞いていないし、倒れた瞬間も目にしていない。目の前で、気がついたらそれは横倒しになっていた。 「え、何――」 「珍しい」  何が、と言う前に、背中に鳥肌が立つ。うなじから這い上がるそれは頭のてっぺんまで一気に駆け上がり、指先の血液がザっと引いていく。  倒れた瓶の中の酒が、おかしい。こんなに変な――褐色だっただろうか?  くろゆりさんに確認しようとして、目の前のイケメンがこちらを見ていない事に気が付いた。  今はちっとも緩んでいない緊張した面持ちの顔は、対面の俺ではなく、引き戸の方に向いている。  確かに、ぴっちりと閉めた筈だった。  隙間から覗いて来る幽霊なんて怖いじゃん絶対嫌だね、なんて軽口交じりにしっかりと、俺が、閉めた筈。――それなのに。  三十センチ程開いた引き戸の隙間から、紙の長い誰かがぬうっと、顔をだしていた。 「………っ、………!」  思わずぐっと悲鳴を飲み込む。わああ! と叫んで、たぶん誰も怒らないし、叫ぶべきタイミングだった。それでも身体は硬直し、声は出ない。唾液が干上がり、一気に喉の奥がねばつく。 「ぅ……え…………っ、く、ろゆりさん、と、戸、戸んとこ……っ」 「見えていますよ。本当に、とても珍しい事ですが……僕にもはっきりと見えます」 「わ……………」  笑って、なくない……?  掠れる声でそれだけ口から吐きだす。  視線はずっと離せない。その、人間のようなものは長い髪をだらしなく垂らし、その合間からじっとこちらを伺っているようだった。  亭主夫婦の娘さんの目撃談では、にたにたと笑っていたというが……目の前の覗くなにかは、表情のようなものを一切浮かべていない。  ヒトの肌とは思えない木のような色の肌。泥にまみれた藁のような髪の毛。やたらと長い首。落ちくぼんだ目のような部分は真っ黒で、眼球は見当たらない。それなのに、『目が合っている』と何故かわかる。  口は奇妙な半開きで、何かを言いかけてそのまま止まったような状態だった。  笑っているのも相当嫌だが――到底人間とは思えないその無表情も最悪だ。 「………………あれ、何……?」  固まったまま、なんとか声を捻りだす。くろゆりさんの隣に居りゃ良かったと後悔する。この位置取りだと机が邪魔で抱き着くどころか手を握ることも難しい。 「何かどうか、と問われましても、僕にはわかりかねますね。先祖の霊だ、などと気持ちよく指摘できれば楽なのですが」 「先祖じゃねえだろ、どう見ても……!」 「それも断定できませんよ。あちらの方々は、こちらの常識や『普通』など考慮してくれませんからね。何か訴えたい事があって顔を出しているのか、僕達が想像できない感情をお持ちなのか、それ以前に意識や意図があるのかすらわかりません。会話が成り立たないわけですからね」 「そりゃ、そう、なんだけど、でも、じゃあ、アレ、どうすんだよ……」 「とりあえず様子見でしょうか……どうも、こちらに入ってくる様子はありませんから」 「え。……こ、これ、このまま!?」 「一応塩は盛りましょう。本日はこの場所で心霊現象が本当に起こるかどうかの様子見の予定でしたので、まずは目的を達成しました。が、情報は多ければ多い方が良いですからね。できれば朝まで粘りたい」 「む、むりむりむり、だって、そっちの窓からも見てんじゃん……?」 「窓? ……ああ、あの黒い靄はきみには顔に見えるわけですね。どのような顔をしていますか?」 「か、顔……同じ……? いや、ちょっと目が離れてる、かも……」 「別の個体でしょうか」 「わっかんな……ちょ、くろゆりさん、むりむりむりなんかテレビの横からも出てきてる……! 出てきてる! 無理!」  あまりにも恐怖が高まりすぎて、やっと俺は飛び跳ねるように身体を動かしくろゆりさんに抱き着くことに成功した。無理。無理だ。本当に無理、だってさ、こいつら。 「……こいつら、女、じゃねえだろ……髪の長い、男だよ……」  俺がそう言った瞬間、無表情だった覗く顔が一瞬で不気味な笑顔に変わった。 「…………………むり…………くろゆりさん、まじむり、泣きそう、泣く、むり、ちゅーして」 「キスをするのは構いませんが、大丈夫ですか? 具合が悪いようならきみだけでも外に出て――」 「やだやだ無理一人は無理だっつってんだろ! お前巻き込んだんだから最後までエスコートしてぎゅっとして終わったらちゃんと怖くなくなるまでいちゃつけクソ野郎! ちゅーして風呂入ってえっちしろ!」 「願っても無いご要望ですが……本当に大丈夫ですか?」  大丈夫……ではないが、吐き気とか頭痛とか耳鳴りはない。  だいたい心霊スポットで怪奇現象に襲われる時は声が脳みそに響いたり、すげー耳鳴りがしたり、体調ががくんと悪くなったりするものだ。でも、そういうものが何もない。  ただそいつはそこにぬっと音もなく現れて、こちらをじっと覗き込んで、そして笑う。  いや実害がない、とはいえ、どう考えて不気味すぎる。くろゆりさんの長い指を自分の指に無理やり絡ませて、首筋に鼻をうずめて思いっきり息を吸いこむ。  見知った男のにおいがする。こんなヤツの体臭で安心感を得るなんて厭すぎる、が、背に腹は代えられない。 「……きみの為にも一度ここから出た方が良いのでしょうが……出口はあの扉の向こうなんですよね。さて、どうしたものか」 「もういいよ……籠城するよ……それが一番安心じゃねえのって思ってきたよ……」 「きみが良いなら、僕は構いませんが、厠はあの扉の奥ですよ?」 「……………我慢する……」 「健康によろしくありませんよ。そうだ、催した際はこの瓶の中に……」 「い、っやだよ! 何プレイだよそれ!?」 「そのまま漏らしてくださいとお願いするよりはまともだと思ったのですが……今後は除霊道具一式に、携帯トイレも入れておきましょう」 「……アレ、いつまで覗いてんの……?」 「さあ、わかりません。娘さんのお話では目を離した瞬間、消えていた、と言っていましたが。……消えませんね。押入れの襖もいつのまにか開いていますね、出ているのは手でしょうか? ご家族の誰も、幽霊を連れて帰ってきたような記憶はないそうですし、どなたが宿泊した方が置いて行ってしまったのでしょうかね。まあ、どれほど考察したところで、その理由がわかることはありませんし、とりあえず……春日くん、大丈夫ですか?」 「……大丈夫、じゃない、ちゅーして……」 「お札、飲みますか?」 「いらない。キスの方が良い。はやくしろ。なんか押入れから足も出てんだけどこれ本当に大丈夫なんだろうな……?」 「わかりません。まあ、きみが体調に不調がきたすようならば、すぐにでもこの場を脱出します。……とありえずキスをしましょうか?」 「うん」  もう口から暴言吐き出す気力もない。  大人しくかわいい彼女ぶってくろゆりさんに縋りついて、抱き込まれつつでろっでろのキスをした。  一週間ぶりのキスだ。  ……なんかそういうの、もっとこう、ちゃんといちゃつきながらしたいんだけど、いや一週間ぶりだね♡ とか言いながらちゅーするような間柄じゃないんだよなと思うと、なんか、あー……いや考えるのやめよう。今はマジで、それどころじゃないわけだし。  妙に冷たいくろゆりさんの舌を追いかけながら、頭の後ろに突き刺さる視線を徹底的に無視する。  アレが何で、どうして部屋の中を覗くのか、俺には一切わからない。  けれどあの気味の悪い無表情と、無理やり顔のパーツを引っ張り上げたような笑顔は、しばらく俺の脳裏から離れないだろうと思った。 終

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