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屋根裏の王様 1
しんと静まり返った部屋の中でひとり、静かだなぁと苦笑した。
今日は姉ちゃんの引っ越し日だった。
俺が小学生の頃、両親は離婚して、姉ちゃんと二人そろって親父に引き取られた。そして五年前、親父は交通事故で他界した。それからずっと、俺の面倒をみてくれていたのは八歳上の姉ちゃんだった。
親父の葬式の日に、しっかりと握られた手を今でも覚えている。あの時俺はまだ中学生で、ただひたすらに、悲しいことしかわからなかった。
この先どうやって生きて行くかなんて、頭にもなかった。難しい事は全部、姉ちゃんが背負ってくれていたんだと思う。
ずっと幸せになってほしいと思っていたから、彼女の結婚が決まったときは、あまりの嬉しさに一緒になって泣いてしまった。なんで大和が泣くのよ、なんて言いながらも、ぼろぼろと零れる涙は姉ちゃんだって止まらなくて、本当に二人そろって一日中泣いていたと思う。式の日も、今日も、俺と姉ちゃんは泣かなかった。多分、あの日に泣きつくしたんだろう。
姉ちゃんは、ギリギリまで一緒に来ないかと誘ってくれていたけど、俺ももう大学生だ。これ以上彼女に甘えて、せっかく手に入れた幸せを邪魔するようなことはしたくない。そう思って、断った。
周りにも、一人で暮らしている奴なんて沢山いる。一応家事の手伝いだってずっとしてきていたし、とりあえず飯が作れて洗濯ができれば、どうにか生きていけると信じている。不器用な方じゃない、と思う。料理の腕だけなら、多分、姉ちゃんよりも俺の方が上だろう。これを言うと、むくれて俺の分の夕飯を抜かれてしまうんだけれど。
つい先日までの日常を思い出して、心の内だけでこっそりと笑った。
もう料理の味付けで揉めることもないんだなぁと思うと、やっぱりどうしたって、寂しさは消えない。
一人でいると、いつもの見慣れたリビングがやたらと広く感じられて、自然と足が屋根裏部屋へ向いた。
生前親父が書斎代わりに使っていた部屋だ。今は半分物置のようになってしまっているけど、俺は小さい頃から何かあるたびによく籠っていた。姉ちゃんとケンカしたとき、学校で嫌なことがあったとき、一人で考え事をしたいとき。屋根裏部屋の窓から空を見ると、なぜだかいつも心が落ち着いた。
部屋に入ると、南向きに取り付けられた窓から、ほのかな月の光が差し込んでいた。六畳ほどの部屋の壁一面は作り置きの書棚になっていて、様々な図鑑や事典や小難しい本、それから皿やら壺やらよくわからない置物が並んでいる。大学教授だった親父が、フィールドワークの際に蒐集した物だ。
棚の横にはいくつかの段ボール箱があって、中には棚に入りきらなかった本だとか、今は使われなくなった服や雑貨がしまってある。
あれもそのうち整理しなきゃなぁと思いながら、電気を付けずに薄暗がりの中、窓の方へ歩いた。
窓の下の、白いソファに膝立ちになるようにして、外を見た。今日は月がでかい。窓を開けると、心地よい夜風が吹いていた。もう夏も近い。
そのままぼぅっとしていたら、部屋の隅でコトッと小さな音がした気がした。
部屋の中を見回してみたものの、別段変わったところもない。気のせいかと思い始めた頃、また音が鳴った。今度は間違いない、はずだ。
少しばかり不気味に思いつつ、音がしたであろう棚の方へ近寄ってみると、段ボール箱の中から音が聞こえた。恐る恐る箱を開けてみると、古びた紙がバレーボールくらいの大きさに丸まって入っている。両手で持ってみるとずっしりと重たい。
中に何が入っているのか気になって、がさがさとした手触りの紙を何枚もむしるようにはがしていく。ボールの中心には赤いビロードのような手触りの布に包まれた、黄金色の茶器が入っていた。
月の光を受けてキラキラと反射している。あまりにも綺麗で、一瞬、触るのをためらった。
こんなもの、この家にあっただろうか。
不思議に思って、茶器に手が触れた瞬間だった。突然蓋がカタカタと揺れて、ぶわりと白い煙が噴き出した。
「うわっ……」
思わず茶器から手を放して後ずさる。何が起こったのか分からない。慌てすぎて、しりもちをついてしまった。床に投げ出された茶器からあふれ出す煙はさらに勢いを増して、部屋いっぱいに広がっていく。視界が一面真っ白に染まる。
煙をまともに吸い込んでしまい、咳き込んでいると、煙の中から声がした。
「――誰かいるのか?」
低い、男の声だ。
窓から吹き込んだ風で、煙が薄れた。瞬間、思考も呼吸も忘れてしまって、俺はただただ見入っていた。
目の前に現れたのは、長身の美丈夫だった。月明かりの下でも、非常に整った容貌をしていることがわかる。かなりのイケメンだ。年齢はたぶん二十代半ばくらいで、日本人じゃない。髪の毛があり得ないくらいキラキラしている。おそらく金髪なんだろう。なんか全体的に光ってる気がする。
そんなことよりも――。
「な、なん、なん……」
口を開いても、まともな声にならない。誰だとか何でとか、そんな言葉が脳内をぐるぐる駆け回っている。
イケメンがこちらをちらっと見た。目が合って、今度こそ息が止まったと思った。
最高に不機嫌そうに男は言った。
「貴様がこの我を呼び出した輩か? 悦ぶがいい。王たるこの我が、貴様の願いを三つ叶えてやろう」
イケメン外国人が、流暢な日本語を話した。耳を震わせるバリトンは、脳の奥まで揺さぶられる気がする。声までイケメンだ。それなのに、内容が全く理解できない。言っている意味が分からない。
固まった俺に、その男はいらついたように、形のいい眉をひそめた。
「おい、聞いているのか」
一歩進み出されたところで、はっとして叫んだ。
「ちょ、ちょっ、待って! マジこっち来んな!」
俺が叫んだ意味が分からないとでもいうように男は立ち止まり、首をひねる。
訝しむ男は、全裸だった。
何で? 変態? 強盗? 変態の強盗?
腰が抜けてしまったのか力が入らなくて、身体が動かせない。パニックになりながら、それでも男から目が離せない。
月が結構明るいせいでわりと見えちゃってはいるけど、電気をつけていなくて本当によかったと思う。
まるで芸術品のような、バランスの取れた身体だ。細身だけど、筋肉が綺麗についている。ガタイがいいというよりも、引き締まっていると形容する方が合っていると思う。腹筋もしっかりと割れている。
それ以上、下を見るのはよそう。あんまりガン見するのもよくない。そう自分に言い聞かせながら、視線を外そうとするがうまくいかない。どこを見たらいいか分からなくて、うろうろと視線を彷徨わせていると、全裸男は再び問いかけてきた。
「貴様が我を呼び出したのだろう?」
「え?」
反射で出た俺の言葉に、ピクリと眉が動いた。冷ややかな目で見下ろされる。
俺が呼び出した? 何言ってんだコイツ? 俺なんかしたっけ?
この部屋は三階だし、窓から入ってくるのは無理だ。だからといって、足音も何も聞こえなかったから、玄関から入ってきたとも思えない。大体、全裸でここまでどうやって来たんだろう。
頭がさっぱり回らない。
俺があれこれ考えている間にも、男はどうやらどんどん不機嫌になっていくようだった。容貌が整っているだけに、圧迫感がとんでもない。
そのとき、イケメンの後ろで転がっている茶器が視界に入って、間の抜けた声が出た。
「あ」
そういえばさっきいきなり変な煙が噴き出して、そしたら声が聞こえて、気がついたら目の前に――。まさかそんなバカみたいな話ありえない。でも、他に思いつかない。
ありえないと思いつつ、茶器を指さした。笑えてくるくらい、手が震えている。
「……ええっと、あの、……いや、絶対違うと思うんですけど。……もしかして、あの中から出てきた、とか言います?」
言葉にして、やっぱりありえないなと思った。鼻で笑われるだろうと思ったのに、イケメンはあっさりと肯定した。
「無論その通りだが」
真顔だ。
「あー……。つまり、そのー。あなたは、ランプの魔人的な……?」
「魔人ではない。我は王だ」
「……はぁ」
王、ですかそうですか。どうしよう。何を言っているのか全然わからない。俺は夢を見ているのかもしれない。
「それで」
黙り込んだ俺にしびれを切らしたのか、男は再度口を開いた。
「我を呼び出したのは貴様かと聞いている。我が問いに答えよ」
そうなんだろうか。うっかり触っちゃっただけなんだけど。どう答えたらいいのか分からない。
「…………た、ぶん?」
小さく答えた瞬間に、男は目を細めた。不愉快さを隠そうともしていない目つきだ。
怒気を孕んだような、重く低い声で男は言った。
「はっきりせん奴だな。では、問いを変えるぞ。貴様は何者だ? 我の敵か? 答え次第では、その首どうなるかわからんぞ。――さぁ、心して答えるがいい」
「……っ」
怒鳴られたわけでもないのに、身体がこわばって息が詰まった。心臓をぐっと掴まれたような圧迫感があって、冷汗が止まらない。
どうして怒っているのか、なんでこんな展開になっているのか、どう答えたらいいのか、一つもわからない。でも答え方を間違えたら、たぶん、確実にまずいことになる。それだけはわかる。
体格が違い過ぎる。もし殴り合いになったら、勝てる見込みはない。
何か言わないと。
緊張で口の中がカラカラに乾いている。無理やり唾を飲み込んで、なんとか声を絞り出した。
「…………み、……味方、です」
声が上ずった。自分で言っておいて、馬鹿かと思った。「味方」だなんて、他にもっと何かマシな言い方はなかったのか。
「……ふうん。……味方、とな?」
笑いを含んだイケメンの声が聞こえて、いつのまにか床に落ちていた視線をそろりと上げた。
かたちの良い唇が、綺麗な弧を描いている。先ほどまでとは違う、ほんの少し和らいだ表情を見て、ホッとした。でもまだ目は笑っていない。見定められている感じがする。
「まぁいい。では、我が臣下になることを特別に許そう。光栄に思えよ」
「は?」
俺の疑問の声は、イケメンの耳には届かなかったらしい。
「お前、名は何という?」
「……城崎、大和。ですけど」
「お前の願いを三つ叶えてやろう。我が臣下となった者への褒美だ――まぁ、かといって、願い事ならば全て叶えられるというわけではないが。我も万能ではないのでな。それから、願いを口にするときは慎重にな。取り消しはできんぞ」
全くわからないけど、この男の臣下になる代わりに、願いを叶えてもらえるってことなんだろう。それにしても、臣下ってなんなんだろう。
「さぁ、何か願いはないのか?」
願いとか正直どうでもいいから、今すぐに帰ってほしい。そうは思うけど、さっきまでのイケメンの態度を思い出すと、下手なことは言えない気がする。
仕方ない。テキトーになんか叶えてもらって、さっさと帰ってもらおう。うん、そうだ、そうしよう。心の中でひとり頷く。
「……あー、じゃあ、一ついいですか?」
「何だ? 言ってみろ」
さっきからずっと気になっていた。今思いつく願い事なんて、これしかない。とりあえずこのままだと、俺が落ち着かない。
「服を、着てほしいんですけど」
イケメンは、漸く自分が服を着ていないことに気付いたらしかった。
「なかなに着心地がいいではないか。我は気に入ったぞ」
イケメンが今着ているのは、俺の高校時代のジャージだった。記憶を頼りに書棚の横に積んであった段ボール箱を漁って探しだしたものだ。
紺地に白い二本のラインが入っていて、胸元に「城崎」という刺繍がしてある。素直にださいと思う。学校指定のジャージなんてそんなもんだろう。
親父が日本人にしてはかなり背の高い男だったから、俺も背が伸びるんじゃないかと期待して入学時には大きめのサイズの物を買っていた。結局全然伸びなくて、俺は今もギリギリ日本男性の平均身長くらいしかない。
俺が着るとだぼだぼでみっともないくらい布が余るのに、イケメンにはちょうどいいくらいのサイズだ。むしろ、若干小さいかもしれない。Tシャツから腹がチラ見えしているし、下は明らかに丈が足りていなくて、くるぶしが丸見えだ。足が長いというか、腰の位置がおかしい。高すぎる。本当に同じ人間か。
パンツはさすがに俺のを貸すわけにはいかないし、コンビニにダッシュで買いに行った。
いなくなっててくれないかな、なんて思いながら帰ってきたけど、イケメンはソファに足を組み悠然と座って待っていたので、なんかいろいろ諦めた。
イケメンは気に入った様子でTシャツの裾を引っ張っている。王様だとか言うからもっと高級な服を要求されたらどうしようかと思ったけど、なんというかわりと庶民派らしい。
服を着てもらったら、多少落ち着いた。
今更だけどいろいろ気になって来て、質問をしようと思った。願い事って、どんなことなら叶えてもらえるのか。何か条件があったりとか、副作用みたいなことが起こったりはしないのか。昔見たアニメや漫画では、願いを叶えてもらった後自分に悪いことが起こったり、寿命が縮んだりした気がする。
体操服にご満悦のイケメンに、意を決して話しかけることにした。
「……あの。ええっと、ちょっといいですか?」
「なんだ?」
「願い事っていうのは、どんなことなら叶えてもらえるんですか? なんか条件とか、そういうのあったりします? 例えば、そのー。魔法を使った後、なんか反作用みたいなの起こったりとか?」
「……魔法だと? 使えんが」
「は?」
思考が停止する。
「使え、ない……?」
「先ほど言ったであろう。我も万能ではないと。魔法といった類のものは使えん。よって、願いは我が自力でできることに限られるぞ」
魔法は使えない。自力でできること。
「えっと。それは、もしかして……?」
「肉体労働だ」
イケメンはにっこりと笑った。
ないないないない。ありえない。今すぐに追い出したい。
「帰ってください」
イケメンはあっけらかんと言い放った。
「それはできんな。帰り方が解らぬ」
「……は?」
「帰り方を覚えていないのだ」
「覚えていない、って……」
マジで何を言っているのか、理解できない。理解したくない。
「先ほどから思っていたのだがな。我はどうやら、所々記憶が欠落しているようでな」
気が遠くなりそうだ。でも、今この人は「所々」と言った。つまり、覚えていることもあるということだ。そこから記憶を辿れば、案外すぐに思い出すんじゃないだろうか。
「えっと、あ、そうだ、名前! 名前は?」
「覚えていないな。名など、お前の好きに呼ぶがよい」
好きに呼べと言われても、正直どうでもいい。考えるのが面倒だし、自分のこと我我言ってるし、もう我様でいいと思う。いや、そんなことよりも、俺が気にしなくちゃいけないことは、もっと他にある。
「じゃ、じゃあ、他に何か覚えていることはないんですか? 例えば、なんでその中にいたのかとかは?」
イケメンの眉間に若干の皺が寄った。それでも美しい顔は、それ程深刻そうな表情には見えない。思い出せないことに困惑しているというよりは、何故忘れてしまったのかわからないとでもいうような、そんな顔だ。
「……我が覚えているのは、我は王であること、我を呼び出した者の願いを三つ叶えること、それだけだ」
俺は今度こそ絶句した。どこが所々なのか。ほとんど完全に、完璧に、記憶喪失だ。
茫然とする俺に、イケメンは空気をぶち壊す勢いで笑いながら言った。
「ふん。どうやらずいぶんと長い間眠っていたようだな。まぁ、色々と忘れてしまったが、そのうち思い出すであろうよ。それまで、しばし世話になるぞ」
「は!? ちょ、世話って、もしかして、ここに住むんですか? 冗だ」
「お前は我の臣下になったのだから、何の問題もないではないか。臣下は王に忠義を尽くすものと相場は決まっておろう」
「っ、」
かぶせ気味に言われて、否定したいのにうまく言葉が出てこない。違う、そんなつもりじゃなかった。なんで。どうしてこんなことに。
我様はにこにこ笑っている。本当に、記憶がないことなんか関係ないとでもいうような、この状況を楽しんでいるような、そんな笑顔だ。
「今日からここを我が城とするとしよう。難を言うならば、少し狭いか。まぁ、風雨を凌げれば十分であろう。この長椅子もなかなかに座り心地がよいではないか」
気に入った、とでもいうようにソファに深く腰掛ける。だめだ、もう何も言う気になれない。つっこみが追い付かない。
「大儀であったな。我はもう寝るとしよう。お前も休むがよい」
そう言うと、そのままごろんとソファに横になった。
マジかよ。
俺が茫然としている間に、規則正しい寝息が聞こえてきた。嘘だろう。
目を瞑ってみても、ため息をついてみても、月明かりの下ソファで眠る男の姿は、消えてなくならなかった。
もうどうしたらいいかわからなくて、一気に脱力してしまう。しばらく起きそうもないし、仕方なく、とりあえず自分の部屋に戻ることにした。
ものすごく疲れていたけど、眠れるようなテンションじゃなかった。どうしてこんなことになってしまったのか。そんな言葉がぐるぐる頭の中を回って埋め尽くす。
もしかしたら、明日になったら何事もなくて、あの人も消えていて。やっぱりこれは全部おかしな夢でしたって、なってくれないかな、なんて。
淡い期待を抱きながら、ベッドに潜って、必死で目をつぶった。
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